且山(かつやま)城の戦い

安芸国の国人領主・毛利元就は、天文20年(1551)に周防国大内氏の重臣・陶晴賢が主君の大内義隆を討つことを黙認したが、その後の晴賢の動向に危機感を抱き、天文23年(1554)3月に晴賢と断交する。それは晴賢が擁立した大内義長を当主とする大内氏と敵対することを意味していた。
その後の毛利氏は天文24年(=弘治元年:1555)10月に晴賢を厳島に討って(厳島の合戦)声望を高め、近隣の領主を麾下に従えて強大化するとともに、大内氏領国を侵食していったのである。

大内氏の重臣・内藤隆世は毛利氏が周防国山口に向けて進撃してくると山口に高嶺(こうのみね)城を築いて備えを固めようとしたが、弘治3年(1557)3月2日(3日とも)に周防国須々万沼城が(須々万沼城の戦い)、8日に富田若山城が落とされ、12日に毛利勢が本営を防府にまで進め、さらには毛利氏に呼応した石見国三本松(別称:津和野)城主・吉見正頼までもが進軍してくると、隆世は未だ完成成らなかった高嶺城を放棄し、主君の義長を奉じて小郡から長門国へと逃れ、下関の且山(勝山)城に籠城したのである。
これを受けて毛利勢の福原貞俊・志道元保・乃美宗勝らが追撃し、さらに元就の指示で赤川元保・桂元親・児玉就忠らの軍勢が差し向けられ、且山城を包囲した。
毛利勢は半月後の3月28日には三の丸と二の丸とを攻略したが、天然の要害に守られた本丸はなかなか落とすことができなかった。そこで福原貞俊は4月2日に本丸に矢文を射ち込み、勝敗は既に決したこと、内藤隆世はやむをえないが大内義長は助命する、といった内容で降伏を勧告した。
これを容れて隆世は義長の助命を請うて本丸で自刃、且山城はついに陥落したのである。
義長は城を出て長府の長福寺(功山寺)に入ったが、翌3日に福原貞俊・阿曽沼広秀が約束を破って長福寺を包囲したため、義長はここに至って覚悟の自刃を遂げた。
この義長の敗死によって、一時は北九州の筑前・豊前から中国地方の長門・周防・石見・安芸・備後までに勢力を浸透させ、西日本の覇者と謳われて栄華を誇った大内氏は滅亡したのである。