刑部(おさかべ)城の戦い

遠江国はもとは斯波氏の守護領国であったが、斯波氏の本拠が尾張国であったために強い支配力を展開することができずにいた。そのため、実質的には在地の国人領主が割拠するという状態と化していたのである。
そこに目をつけたのが隣国・駿河守護の今川氏親で、明応3年(1494)頃より着々と蚕食を進めていたのである。
今川氏は、文亀4年(1504)までには遠江国のほぼ全域を制圧していた。永正3年(1506)からは、さらに兵を進めて三河国にまで侵攻している。
そして氏親は永正5年(1508)7月に、幕府に金銭を献上して遠江の守護職をも兼ねることになった。これによって斯波氏の領国は尾張一国のみとなったのである。

永正7年(1510)末頃より斯波氏も遠江奪還の動きを見せはじめる。遠江に今川氏の力が浸透したとはいえ、未だ斯波氏に属する勢力も残されていた。刑部や井伊谷、三岳城などがそうである。ここを拠点として遠江国に侵攻を開始した。
斯波氏の当主・斯波義達ははじめ花平に陣所を置き、ついで三岳城に移った。
対する今川氏親はこの動きを逸早く捉え、迎撃のために刑部および気賀まで兵を繰り出した。
この両軍は小競り合いを繰り返しながら対峙を続けるが、永正8年(1511)10月17日、斯波義達が気賀へ向けて進軍する動きを見せると戦いは激化した。
10月19日より11月27日まで合戦、攻城戦が繰り広げられるが、明らかな決着はつかなかった。それでも今川方がやや優勢であったという。
永正9年(1512)4月6日にも斯波義達が気賀および下気賀に大規模な攻撃を仕掛けたが、このときも今川勢がよく守り、勝敗は決まらなかった。さらに4月23日、斯波勢は再び下気賀に攻めかかるが、これといった決め手もなく、成果はあがらなかったという。
そして閏4月2日、義達は信濃国の小笠原氏や三河国の土豪らと共に浜名湖南の村櫛に大攻勢を仕掛け、大激戦になったがこの戦いは今川方の勝利にとなり、斯波方は尾張に敗走した。
この勝利により、今川氏は遠江国における地盤を確固たるものにしたといえる。