今川義忠は駿河守護であったが、文明5年(1473)11月に将軍・足利義政より遠江国懸革(掛川)荘の代官職に任じられた。今川氏は遅くとも建武5(=暦応元):延元3年(1338)までに駿河守護職に任じられて以来この職を相伝してきたが、遠江守護職をも兼帯していた時期があった。このときの遠江守護は斯波義廉であったが、駿河・遠江守護の兼帯を熱望する今川氏は、この懸革荘を足掛かりに遠江国への進出を目指すことになる。
今川義忠による本格的な遠江国への進出は文明6年(1474)からで、府中の見付城に拠る狩野氏を8月より攻め、11月に陥落させている(見付城の戦い)。
これをきっかけとして今川氏と斯波氏の抗争は本格化し、一進一退の攻防が続けられていたのである。
文明8年(1476)、斯波氏方で遠江国東部の国人領主の横地四郎兵衛(横地城主)と勝間田修理亮(勝間田城主)が、2年前に今川氏によって攻略された見付城を復旧して拠り、今川氏に敵対する行動を露わにした。これを受けて義忠は遠江国に出陣する。
『今川記』では、「義忠は久野佐渡守・奥山民部少輔・杉森外記・三浦左衛門・岡部五郎兵衛らを率い、5百余騎の軍勢を二手に分け、横地と勝間田の城を包囲して夜も昼も息をつかせず攻め、7日にあたる夜中に両人ともに討死した」とするが、両名の居城である横地・勝間田城ではなく、両名の拠っていた見付城を攻めて討ち取ったものと思われる。そして馬首を転じた義忠は、遠江国の塩買坂であえなく最期を遂げることになるのである。
この塩買坂とは横地氏の横地城に程近いところで、駿河国府中(駿府)から遠江国見付へ至る行軍路からは離れている。横地・勝間田らを討った義忠がこの塩買坂で戦死したのは、おそらくは横地・勝間田氏の本拠地への攻撃を図ったためであろうと目されている。この塩買坂で義忠は不意に横地・勝間田氏の残党から夜襲を受け、崩れそうになる味方の軍勢を叱咤してよく支えたが流れ矢に当たり、その翌朝に死んだという。4月6日のことで、享年41であった。
この義忠の突然の死によって今川家中は混乱し、義忠の遺児・竜王丸(のちの今川氏親)を擁立する派閥と、義忠の従兄弟にあたる小鹿範満を擁立する派閥とに分裂してしまったのである。
なお、『今川記』では義忠討死の場所を「塩見坂」としており、実際に静岡県湖西市に「潮見坂」があって、ここを義忠討死の場所とする説もあるが、『今川記』の誤写によるものと思われる。