明応3年(1494)の扇谷上杉定正の死後、その名跡を相続したのは定正の甥にあたる上杉朝良だったが、明応6年(1497)以降、扇谷上杉氏と対立する山内上杉顕定が武蔵国上戸に陣を構えて圧迫を続けていたため、朝良は徐々に居城・武蔵国河越城に閉じ込められる形になっていった。
永正元年(1504)8月下旬に山内上杉勢が河越城に攻撃を仕掛けたが、その守りが堅いと見ると矛先を転じて武蔵国江戸城を攻めるため、白子に陣を移している。
窮した朝良は、扇谷上杉氏と同盟関係にあった駿河国の今川氏親と伊豆国の北条早雲に支援を求め、9月20日には朝良に応じた北条・今川の軍勢が登戸の枡形山に着陣したのである。
その動きを察知した顕定は、早雲・氏親らを迎え撃つべく河越城の包囲を解いて立川に移動し、古河公方・足利政氏を擁して普済寺に布陣。扇谷上杉勢もまた立川に移動し、対陣を続けた。
そして9月27日、多摩川上流の立河原で大遭遇戦に至ったのである。合戦の帰趨は詳らかではないが、双方とも多くの死傷者を出す激戦の末に扇谷上杉勢が勝利し、山内上杉勢では2千余人が討死したと伝わる。
敗れた顕定は武蔵国鉢形城に退き、扇谷上杉氏の援軍として赴いた北条・今川の軍勢も10月4日に鎌倉に帰陣し、その後に本国に帰還した。