高見原(たかみはら)の合戦

享徳の乱を共に戦いながらも、太田道灌殺害を契機として訣別した山内上杉顕定と扇谷上杉定正は長享2年(1488)2月に相模国実蒔原、6月には武蔵国須賀谷原で戦った(実蒔原の合戦須賀谷原の合戦)。しかし双方とも決定的打撃を与えるには至らず、同年11月15日に武蔵国の高見原において、3度目の戦いを迎えることとなった。

実蒔原・須賀谷原の合戦は山内上杉勢が扇谷上杉勢に対して攻勢をかけたものであるが、今度の合戦はこの両度の合戦に勝利した扇谷上杉勢が侵攻を企図したものである。このときも定正は足利政氏および長尾景春に援軍を請い、総勢は2千余騎。
扇谷上杉勢が来攻したことを知った山内上杉勢は、顕定の実父で越後守護の上杉房定に援軍を求め、顕定の拠る武蔵国鉢形城に程近い比企・大里の郡境の高見原で迎撃態勢を布いた。その兵力は3千余騎とされる。
この合戦は夜戦となったが、こちら(扇谷上杉勢)が風上であること、出張ってきたばかりの山内上杉勢が休息するところを狙って攻撃を仕掛けるべき、といった定正の巧みな用兵によって今回も劣る兵力で山内上杉勢を破り、鉢形城に敗走させたという。

こうして実蒔原・須賀谷原、そして今回の高見原と3度に亘る合戦で顕定を破った定正であったが、大名としての総国力で勝る山内上杉勢を駆逐するまでには至らず、大勢を覆すことはできなかった。