武蔵国河越城主・扇谷上杉朝興と友好関係にあった甲斐国の武田信虎は、朝興が北条氏綱領へ侵攻するのを支援するため、被官で郡内(甲斐国都留郡)の国人領主・小山田(越中守)信有を相模国津久井郡方面に侵攻するよう命じた。
小山田勢は享禄3年(1530)1月7日に郡内の猿橋で武田軍と合流したのちに桂川沿いに相模国へと向かった。この武田軍は、小山田氏と同じように信虎の命を受けて出陣した国人領主らであったが、信有が主将であった。
また、これ以前には扇谷上杉勢も進撃を始め、1月3日に吾名蜆城を、6日に小沢・世田谷の両城を落とし、8日には江戸城の根小屋を焼き払うなどしているが、その後に河越城へ帰還している。
武田軍と合流したのちの信有らの動きは不詳で、扇谷上杉勢と連携した様子も見受けられない。
その3ヶ月後の4月23日、信有らは甲斐・相模国境に近い甲斐国都留郡の八坪坂(矢坪坂)で、迎撃に出陣してきた北条氏綱率いる軍勢と戦い、敗戦を喫した。信有被官の吉田衆に多くの死者が出たという。