上杉謙信による関東出兵の通称。
越後国春日山城主・長尾景虎は、関東地方に勢力を伸ばす相模国小田原城主・北条氏康に圧せられた関東管領・上杉憲政を弘治3年(1557)に庇護した。関東管領とは関東公方を補佐する役職であるが、北条氏はこの関東管領を家職とする上杉氏を追い落とすことで関東公方を掌中に収め、傀儡とした公方の名の下に関東地方を制圧しようと目論んだのである。
北条氏の攻勢に居城を逐われた憲政は長尾景虎を恃み、上杉氏の家督と関東管領職を譲ることで北条氏の野望を阻止しようとしたのである。のち、長尾景虎は上杉謙信と名乗るようになる。
北条氏に抗する関東地方の諸領主や憲政らの要請を容れた謙信は、北条氏を討伐して関東公方の下に関東地方を秩序を回復するため、三国山脈を越えて関東に出兵することとなったのである。
謙信は北条氏との抗争において、はじめは関東公方(下総国古河に御所を構えていたため古河公方と称す)に足利藤氏を擁立したが、氏康は自身の甥にあたる足利義氏を擁立して対抗した。しかし関東から遠隔地の越後国を本拠とする謙信の影響力は次第に薄れていき、北条氏は徐々に関東地方に権勢を浸透させていく。永禄7年(1564)に謙信の擁立する足利藤氏が殺害されて大義名分が消滅したこと、さらには氏康の同盟者である甲斐国の武田信玄が氏康に同調して上杉氏領国に侵攻したことなどから関東地方の経略は芳しくなく、『関東の秩序を回復するための戦い』から『所領を防衛するための戦い』へと規模の縮小を余儀なくされることになる。