室町幕府の役職のひとつで、鎌倉府の総督である関東公方の補佐役。
鎌倉府の設置当初は総督を関東管領、その補佐役を執事と称していたが、時代が下ると総督を関東公方、その補佐役を関東管領と呼ぶようになった(当サイトでは後者の呼称で統一する)。
関東公方は足利基氏の子孫が世襲したのに対し、関東管領は室町幕府の将軍によって選任された。これは幕府に反抗しがちであった関東公方を牽制するための措置であり、いわば関東公方の補佐役であると同時に、幕府から派遣された目付役という立場でもあったといえる。このために関東公方と対立することもしばしばであり、関東地方全域に亘って分裂抗争が引き起こされた永享の乱・享徳の乱はこの両者の対立が火種となったものである。
この関東管領職は上杉一族がほぼ独占しており、とくに応永22年(1415)5月に上杉憲基が就任してからは山内上杉氏と呼ばれる一家が家職とするようになっている。
戦国時代に至っては、関東地方に勃興した北条氏の勢威に圧されて弱体化し、上杉憲政は山内上杉氏の家督と関東管領職を越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)に譲り、関東地方の秩序の回復を要請した。これを受けた謙信は14度にも亘る越山(関東出兵)を果たして北条勢力の抑制に意を注いだが、北条氏の勢力伸張を止めることはできず、その権威も衰退するに至った。