『越後の龍』上杉謙信と『甲斐の虎』武田信玄は、その領国の接点となる信濃国川中島において5度にも亘る合戦または対陣(川中島の合戦)を演じたことで有名である。
そのことからもこの2人は生涯を通しての敵対関係であったことに間違いはないが、永禄11年(1568)に信玄が駿河国に侵攻(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)したのち、駿河国の領主・今川氏と相模国の領主・北条氏が共謀して、甲斐国へ供給する塩を国境で止めるということがあった。これにより、領国に海を持たない武田氏は塩の入手が困難になったのである。
この「塩止め」の要請は当然、武田氏と敵対する上杉氏にも達せられた。だが謙信は信玄に書状を書き「卿(信玄)と争うところは弓箭(弓矢=合戦)にあり、何ぞ米塩にあらんや」と、塩の取引は変わらず続けたという。
また、元亀4年(=天正元年:1573)4月に信玄が没した際、謙信は「さても残念のことなり。名大将を殺したり。英雄人傑とは、信玄をこそいわめ。関東の弓箭柱なくなり惜しきことなり」と嘆き、落涙したという。
「この機に乗じて武田攻略に進出するべき」と進言する家臣もあったが、「他家の不幸に乗じて戦をするのは本意ではなく、大人気ない振る舞いだ」と、この進言を却下するばかりか家臣にも喪に服すように命じたといわれている。
一方の信玄は死に臨んで「謙信と事を構えてはならぬ。謙信は頼むとさえ言えば必ず援助してくれ、断るようなことは決してしない男だ。この信玄は大人気もなく謙信に依託しなかったばかりに一生謙信と戦うことになってしまったが、武田の家を保つには謙信の力にすがるよりあるまい」と後継の勝頼に遺言したといい、事実、謙信没後に勃発した御館の乱において謙信の甥・上杉景勝と武田勝頼の提携体制が実現しており、勝頼の支援もあって景勝はこの内訌を制し、上杉氏の家督を継承するに至った。
謙信と信玄は生涯を通しての宿敵であったが互いに認め合っており、はからずも世代を越えて手を結ぶに至ったのである。この関係は天正10年(1582)の武田氏滅亡の際まで続けられた。