見性院(けんしょういん)山内一豊の妻) 1557〜1617

名を千代・まつ。浅井家臣・若宮友興の娘。賢夫人として著名である。
夫の一豊が織田信長に仕える軽輩だった頃(天正9年(1581)頃か)、安土の城下町において見事な駿馬が売りに出された。織田家中の武士たちのいずれもがその見事さに驚嘆したが、さすがに売値も黄金10枚と高く、買い手がつかなかった。
一豊も無論その馬を欲しいと思った。近々、馬揃え(閲兵式)が予定されており、その見事な馬を手に入れられれば堂々と参加できるのだが、金額を考えるとやはり買えずにいたのである。
そのことを聞いた千代は一豊に黄金10枚を差し出し、その馬を買うように勧めた。
一豊は仰天し、この大金はどうしたのかと千代に尋ねると「これは私が嫁ぐにあたって、父から『尋常のことに使ってはならぬ、そなたやそなたの夫に一大事が起こった時にのみ使う金だ』と渡されたお金です。馬揃えといえば、主君の信長様をはじめ、お歴々の目を引く絶好の機会でございましょう」と答えた。一豊は驚喜し、すぐにその馬を買いに行ったという。
やがて京において馬揃えが盛大に行われたが、一豊の得た馬は人々の注目を集め、信長も感嘆の声を上げたという。
また、一豊が築城の監督を命ぜられ、生計の貧しさゆえにその人夫の夜食も出せないような有り様でいると、千代は密かに髪を切って金に換え、それで米を買って夜食を調え、一豊の面目を大いに立てたという。
これらの逸話の賢夫人ぶりは有名だが、虚構も混在しているともいい、真偽のほどは定かではない。
一豊との間に一女をもうけたが、天正13年(1585)11月の江北地震でその子を失い、代わりに捨て子(のちの湘南和尚)を養育したという。
禅宗に帰依し、関ヶ原の役後に一豊に従って土佐国に移るが、慶長10年(1605)に一豊と死別。落飾して見性院と号し、翌年に京都に戻った。
元和3年(1617)、61歳で死去した。