論文とは?

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作文(さくぶん)論文(ろんぶん)(ちが)

論文(ろんぶん)とは(なに)かを、作文(さくぶん)比較(ひかく)しながら(かんが)えてみよう。

作文(さくぶん)論文(ろんぶん)定義(ていぎ)

作文(さくぶん)論文(ろんぶん)は、それぞれ以下(いか)のように定義(ていぎ)できる。

作文
経験(けいけん)体験(たいけん)(もと)づいて自分(じぶん)意見(いけん)(かんが)えを()いた文章(ぶんしょう)
論文
理論(りろん)(もと)づいた自分独自(じぶんどくじ)主張(しゅちょう)論理的(ろんりてき)()いた文章(ぶんしょう)

作文(さくぶん)とは(なに)

作文(さくぶん)は、(おお)きく感想文(かんそうぶん)意見文(いけんぶん)に分けられる。

感想文(かんそうぶん)は、自分(じぶん)経験(けいけん)体験(たいけん)(たい)する感想(かんそう)経験(けいけん)体験(たいけん)(つう)じて自分(じぶん)(かんが)えたことを、わかりやすくまとめて()いたもののことである。

意見文(いけんぶん)は、自分(じぶん)経験(けいけん)体験(たいけん)をもとに、自分(じぶん)主張(しゅちょう)意見(いけん)論理的(ろんりてき)()いたもののことである。

いずれの場合(ばあい)も、作文(さくぶん)は、経験(けいけん)体験(たいけん)(もと)づいて自分(じぶん)意見(いけん)(かんが)えを()いた文章(ぶんしょう)であるということができる。つまり、作文(さくぶん)は、自分(じぶん)(かんが)えを()()(つた)える方法(ほうほう)のひとつである。

作文(さくぶん)随筆(ずいひつ)日記(にっき)実用文(じつようぶん)との(ちが)

作文(さくぶん)()ているものに随筆(ずいひつ)日記(にっき)実用文(じつようぶん)がある。しかし、いずれも作文(さくぶん)とは(ちが)うところがある。

随筆(ずいひつ)

個人的(こじんてき)印象(いんしょう)(おも)いつき、人生観(じんせいかん)価値観(かちかん)自由(じゆう)形式(けいしき)()いたものを随筆(ずいひつ)という随想(ずいそう)/エッセー/エッセイともいう)

随筆(ずいひつ)は、()()個性(こせい)主観(しゅかん)表現(ひょうげん)するもので、(だれ)かに自分(じぶん)(かんが)えを(つた)えることを目的(もくてき)とするものではない。また、経験(けいけん)体験(たいけん)などの具体的(ぐたいてき)事実(じじつ)(もと)づかなくてもよいという(てん)でも作文(さくぶん)とは(こと)なる。

なお、随筆(ずいひつ)は、小説(しょうせつ)詩歌(しいか)(ちか)いものであり、論理的(ろんりてき)なものはまったく必要(ひつよう)とされない。

日記(にっき)

一日(いちにち)出来事(できごと)記録(きろく)し、日付(ひづけ)ごとに整理(せいり)したものを日記(にっき)という。なお、個人的(こじんてき)記録(きろく)日記(にっき)()ぶのに(たい)し、グループ(ない)共有(きょうゆう)される記録(きろく)日誌(にっし)といわれる。

もちろん、日記(にっき)には、出来事(できごと)だけでなく出来事(できごと)(たい)する感想(かんそう)()かれることもある。また、日記(にっき)虚構(きょこう)(ふく)むことがあるし、随筆(ずいひつ)のように、その時々(ときどき)(おも)いつきや(みずか)らの人生観(じんせいかん)などが()かれることもある。しかし、日記(にっき)目指(めざ)しているのは、あくまでもそれらを日常生活(にちじょう)(ふく)まれる事実(じじつ)一部(いちぶ)として記録(きろく)することなのである。()()えれば、日記(にっき)()かれたことは、すべて()()事実(じじつ)()なしていることだといえる。

つまり、日記(にっき)は、事実(じじつ)記録(きろく)するために()くものであり、自分(じぶん)意見(いけん)(かんが)えを()き、それを(ひと)(つた)えようとする作文(さくぶん)とは(こと)なるものである。

実用文(じつようぶん)

事実(じじつ)意見(いけん)提案(ていあん)特定(とくてい)相手(あいて)(つた)えるために()かれる文章(ぶんしょう)実用文(じつようぶん)という。たとえば、上司(じょうし)提出(ていしゅつ)する企画書(きかくしょ)報告書(ほうこくしょ)顧客(こきゃく)()案内状(あんないじょう)などは実用文(じつようぶん)である。

実用文(じつようぶん)は、事実(じじつ)意見(いけん)(つた)えるために、わかりやすくまとめて()くという(てん)では、作文(さくぶん)(おな)じである。しかし、実用文(じつようぶん)特定(とくてい)相手(あいて)想定(そうてい)して()かれるものである。他方(たほう)作文(さくぶん)はあらかじめ特定(とくてい)相手(あいて)()けて()かれるものではない。

また、実用文(じつようぶん)では、経験(けいけん)体験(たいけん)重視(じゅうし)されることがない。この(てん)でも、経験(けいけん)体験(たいけん)基本(きほん)とする作文(さくぶん)とは(こと)なっている。

論文(ろんぶん)(なに)()くものか

論文(ろんぶん)は、自分独自(じぶんどくじ)主張(しゅちょう)()文章(ぶんしょう)である。また、〔作文とは何か〕で述べたように、作文(さくぶん)は、自分(じぶん)(かんが)えを()()(つた)えるために()文章(ぶんしょう)である。したがって、()()(かんが)えを()き、それを(ひろ)()()(つた)えようとする(てん)では、論文(ろんぶん)作文(さくぶん)(おな)じであるといえる。

しかし、作文(さくぶん)()かれるものと論文(ろんぶん)()かれるものとには(おお)きな(ちが)いがある。作文(さくぶん)()かれるものが()()意見(いけん)(かんが)えという主観的(しゅかんてき)なものであるのに対し、論文(ろんぶん)()かれるものは事実(じじつ)(たい)する()()客観的(きゃっかんてき)判断(はんだん)である

ここで、「事実(じじつ)(たい)する判断(はんだん)」とは、(なに)事実(じじつ)であるか、事実(じじつ)がどのようなものであるかを()めるということである。

また、判断(はんだん)が「客観的(きゃっかんてき)」であるとは、判断(はんだん)厳密(げんみつ)方法(ほうほう)(たとえば、科学的(かがく)実験(じっけん)統計調査(とうけいちょうさ)(もと)づいていること、または、特定(とくてい)理論(りろん)合致(がっち)していることをいう。

このことは、(つぎ)のように()いかえることができる。つまり、作文(さくぶん)基本(きほん)は『わたしは…と(おも)()()主観的(しゅかんてき)判断(はんだん)であるが、論文(ろんぶん)基本(きほん)は『事実(じじつ)は…である客観的(きゃっかんてき)判断(はんだん)なのである。

()文章(ぶんしょう)とは

作家(さっか)井上(いのうえ)ひさしは、()文章(ぶんしょう)について(つぎ)のように()べている。

文章(ぶんしょう)とは(なに)か。これは、簡単(かんたん)です。作文(さくぶん)秘訣(ひけつ)一言(ひとこと)でいえば、自分(じぶん)にしか()けないことを、だれにでもわかる文章(ぶんしょう)()くということだけなんですね。いい文章(ぶんしょう)とは(なに)か、さんざん(かんが)えましたら、結局(けっきょく)自分(じぶん)にしか()けないことを、どんな(ひと)にでも()めるように()く。これに尽きるんですね。だからこそ、()いたものが面白(おもしろ)いというのは、その(ひと)にしか()こってない、その(ひと)しか(かんが)えないこと、その(ひと)しか(おも)いつかないことが、とても()みやすい文章(ぶんしょう)()いてある。だから、それがみんなの(こころ)(うご)かすわけです。(井上ほか2002:32)

つまり、()文章(ぶんしょう)とは、自分(じぶん)にしか()けないことをわかりやすく()いたものだということである。では、自分(じぶん)にしか()けないこととは(なに)だろうか。

作文(さくぶん)では、自分(じぶん)経験(けいけん)体験(たいけん)自分(じぶん)にしか()けないことになる。したがって、()作文(さくぶん)()くには、自分(じぶん)経験(けいけん)体験(たいけん)について(ふか)(かんが)えるところから(はじ)めればよいわけである。

一方(いっぽう)論文(ろんぶん)では自分(じぶん)にしか()けないこと自分(じぶん)(あたら)しく発見(はっけん)しなければならない。また、(あたら)しい発見(はっけん)がないのであれば、その論文(ろんぶん)価値(かち)がないものになってしまうだろう。

論文(ろんぶん)()くときに自分(じぶん)にしか()けないこととは、(ほか)(ひと)(かんが)えとは区別(くべつ)される自分(じぶん)だけの(かんが)えだということになるだろう。()論文(ろんぶん)とは、自分独自(じぶんどくじ)主張(しゅちょう)()いたものでなければならないのである。

論文(ろんぶん)目指(めざ)すもの

では、なぜ論文(ろんぶん)()くのだろうか。つまり、(なに)目指(めざ)して論文(ろんぶん)()くのだろうか。

論文(ろんぶん)目指(めざ)のは、特定(とくてい)問題(もんだい)(こた)えを()すこと》である。そのために、論文(ろんぶん)()かれるのだといってよい。しかし、論文(ろんぶん)では、(たん)(こた)えを()けば()いというわけではない。

【特定の相手=説得[詳しく説明して相手を納得させる]/不特定多数=確証[確実な証拠を示して真実を明らかにする]】

ペレルマン(1980:42)は、(つぎ)のように()べている。

(かぎ)られた(ひと)相手(あいて)とする言論(げんろん)説得(せっとく)目指(めざ)すものであり、普遍的聴衆(ふへんてきちょうしゅう)相手(あいて)とする言論(げんろん)確証(かくしょう)目指(めざ)すものである。

ここで、論文(ろんぶん)は、特定(とくてい)相手(あいて)(つた)えるために()かれるものではないから、普遍的聴衆(ふへんてきちょうしゅう)相手(あいて)とする言論(げんろん)一種(いっしゅ)だといえる。したがって、論文(ろんぶん)は、説得(せっとく)ではなく『確証(かくしょう)』を目指(めざ)すのである。

すでに()べたように、論文(ろんぶん)は、特定(とくてい)問題(もんだい)(こた)えを()すことを目指(めざ)すものである。しかし、論文(ろんぶん)では、(こた)えの(たし)かな証拠(しょうこ)確証(かくしょう))も同時(どうじ)(しめ)さなければならないわけである。(たん)問題(もんだい)(こた)えを()くだけでは不十分(ふじゅうぶん)なのである。

論文(ろんぶん)では、(こた)えを確証(かくしょう)するために、様々(さまざま)証拠(しょうこ)(しめ)されていく。そして、そのなかで、(あたら)しい事実(じじつ)発見(はっけん)されたり、事実(じじつ)(たい)する(あたら)しい解釈(かいしゃく)(あき)らかにされたりするのである。

論文(ろんぶん)基本構成(きほんこうせい)

論文(ろんぶん)は、「秩序(ちつじょ)ある構成(こうせい)」で「論理的(ろんりてき)()かれるべきものである。

まず、論文(ろんぶん)は《特定(とくてい)問題(もんだい)(こた)えを()すこと》を目指(めざ)すものである。そのため、論文(ろんぶん)では、(つぎ)のような構成(こうせい)基本(きほん)となる。

【問題提起(問題を示す)→議論(証拠を示す)→結論(答えを示す)】

また、論文(ろんぶん)は、確証(かくしょう)目指(めざ)ものであるから、(だれ)もが理解(りかい)納得(なっとく)できるように()かれなければならない。その条件(じょうけん)()たすためには、できるだけ論理的(ろんりてき)()必要(ひつよう)がある。

なお、論文(ろんぶん)構成(こうせい)について、さらに(くわ)しいことは、〔小論文の構成の基本〕を参照(さんしょう)せよ。

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