『ファイターズシップ』

ボクシングのゲームの区切り画像

(5)
「どうや、ココに入会するか?」

 彼はボクの表情を窺った。
 確かにボクはボクシングが好きだ。
 やれるならやってみたい――それは言い訳なのだろうか。
 身体に自信がない、だからやれない――そんな言い訳なのか。
 ――――そうか。
 解かった―――。

 勝たなければいけないと思っている価値観。
 勝ちたいが負けても構わないという価値観。
 確かに勝負の世界に身を置けば、勝たなければならない。
 だが、価値のない負けなんてあるのだろうか。
 勝利する事だけが価値なのか―――。

 いや――勝利することが価値なのだ。

 それが、命に関わる運動の全ての価値に、時として成りうるのだと思う。
 この価値観の違いこそが、ボクと彼との決定的な違いなのかも知れない。
 そして命に関わっているからこそ、技術は極限へと洗練されていくのだ。

 グローブを付けてみて、拳を交えて初めて解かった。
 自分を思い通りに動かす事の難しさ。
 それによって相手をコントロールする事の難しさ。
 殴られる事の怖さ。
 殴る事の怖さ。
 殴る瞬間こそ、攻撃の瞬間こそが最も無防備になるのだから、ボクシングのあらゆる技術は本当に理に適っている。
 殴られてはいけない。だから防御する。殴らなければならない。だから攻撃する。当てられてはいけない。だから避ける技術を上げる。当てなければならない。だから当てる技術を上げる。
 最後まで立っていなければいけない。だから精神を上げる。
 身体を上げ、頭を上げ、神経を上げ、心を上げ…………。
 もう、言葉にならない。

「俺はな、穴が空いとんねん」
 ふと、彼は独白し始めた。
「昔っから体格良くてや、みんなビビってまともに話してくれへんかった」
 ジムの天井を見つめる。ただの人工照明が太陽であるかのように感じた。
「で、高校でお前と一緒になってや、お前は俺とぶつかってくれたやろ、ビビりもせずに。それが嬉しかったんや」
 ボクは言葉を返さない。
「それでも、孤独感――ていうんかな、そういうモンは、たとえ結婚しようが子供出来ようが、友達ぎょうさん出来ようが、消えるモンちゃうねん」

 ――――それは、ボクにも理解できた。

「ボクシングやっとる間だけは、何も考えずに済む。強くなる、それだけ考えとったらええ。俺の中の穴に、ちょうどボクシングがはまったんや」
 穴、か。
「やから、試合で負けたら当然悔しいけど、それでも続けられるんや。負けたかてエエと思っとる訳じゃないぞ、勿論。勝ってナンボは勝ってナンボやからな。でも、何遍負けようと辞める気にはならんわ」

 ぎしり、と、サイドロープが鳴った。

「だからお前も、試しでイイから、ちょっと入会してみたらどうや」
 そしたら、お前の穴も塞がるかもしれんぞ、と彼は言後に呟いた。

 ――――彼は己との勝負をしたのだ。

 たった独りでしていた練習は、実は試合だったんだ。
 自分との、独りぼっちの戦い。
 だから強さを感じるんだ、皆が彼を羨望の眼で見つめるんだ。
 だからボクは彼に引け目を感じるんだ、羨望の眼で見つめているんだ。
 ボクは、ボクとの勝負に――勝負を――。

「どうする?」彼は他意なく訊ねた。
 戦う――――。
 ボクは戦わなければならない。
 勝ちでも負けでも価値がある?
 解からない――――――――。
 ―――――――いずれにせよ。
 戦った後にしか価値はないさ。

「な、やろうや」
『出来ん』

 ――――彼は眼を細めた。

『違う、ボク――オレは、オレにはオレのリングがある。そこで戦う。戦い続ける。負けようが続ける。勝とうが続ける――――試合の途中で投げ出すなんて出来るかい! お前はお前のリングで戦えや! オレはオレのリングで戦う! だからお互い――――』
 戦ってる姿を見せ合おうや――――。

 気付けばボクは、立ちすくんだまま、リングの上で泣いていた。


  (〆)


 試合会場はさして大きくなく、小さい部類に入るだろう。
 疎らな客の数が、この試合の注目度を表していた。
 しかし、自分は百万人分の眼でもってこの試合を見つめているのだ。

 ゴングが鳴り、試合が始まった。お互いに最初は牽制しあっている。
 客は大雑把に別けて二種類居た。選手の大動に声を上げる者と、大抵の事では声を上げない者との二種類だ。各々、観方が違うのだろう。或いは、掛けている眼鏡が違う。

 不思議と、ボクシングの試合には愛を感じる時がある。
 ファイターは、本気で殴り合った相手なら敬意を感じ合うのだろうか。
 ――――そんな試合後になりますように――――そう祈った。

 オレはボクサーじゃない、ただの観客だ。だからそんな無責任な事を祈るのだ。本来なら無事に怪我や事故無く勝ちますようにと祈るべきだろうに。そう思って苦笑した。
 インターバルに入って、彼がオレの居場所を見付けたので、笑って手を振った。すると彼は腕を振って見せ、次いで破顔した。どうやら彼が優勢のようだ。

 さぁ、第2ラウンドの鐘が鳴る。



 誰もが持つ。誰でも手に入る。
 試験は何度だって訪れる。
 今すぐにだって、参加出来る。
 朝も夜も黄昏も、いつだってリングはボク達を待っている。
 誰と戦うのだろう。
 それはいつも分かんなくて、準備なんて出来やしなくって。
 それでも戦うんだ。

 逃げはいつか許される。
 だけど、いつまでも思い出せる。

 だから戦う。セコンドが居なくたって。
 観客が居なくとも戦う。戦える。
 いつだってその力をくれるモノが在る。
 ブラウン管? 液晶画面? 活版印刷? ステレオ? グラフ?
 孤独を奪ってくれる誰かさん?
 それはいつも判んなくて、準備なんかもう済んでいて。

 そして戦うんだ。

 ほら、聞こえるだろう。あの日、何年も昔、暖かさに抱かれながら鳴らした、喉から響かせたゴングの音が。

 それは誰だって、もう既に鳴らしていたんだ。
 だから戦う。戦える。休めるし、また、戦える。

 好きなだけ戦っていいんだ。

 自由という言葉が不自由に聞こえたなら。
 不自由という言葉は自由だと聞こえるさ。

 限られたルールの中に自由を見いだし。
 決して逃げはしない。
 狭いリングの中で、自分の居場所をことごとく変えながら。
 戦う。戦える。インターバルは平等にあって、また、戦える。
 そんな姿を、どんな形であってもいい、見せ合って。
 戦う力、戦える力、休める力に変えていく。

 そう――――これがボク達の――――ファイターズ・シップ。


  (終)
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