ヤール=ベンガル戦争

ヤール=ベンガル戦争(英: Jahl=Bengal War)は、2013年2月5日のベンガル人民共和国によるヤール民主共和国への宣戦布告によって始まり、侵攻されたヤール民主共和国を支援する欧州連合並びに大東亜連合の連合軍と、ベンガル人民共和国と支援をするワルシャワ条約機構との戦争である。
本項では便宜上、ヤール民族の発生、ヤール民主共和国ベンガル人民共和国成立の過程も掲載する。

ヤール人とナショナル・アイデンティティ

ヤール人の祖先は、現在のビルマ周辺の発祥とされる。タイ族・ビルマ族の南下、モン人北上などの民族移動で押し出され、肥沃なベンガル地方へと移動していった。
褐色肌で、耳に尖りなどといった外見的特徴から低カーストに置かれ、低カースト者の逃げ口であるイスラムにも入ることができなかった。やがて彼らは、ベンガル人との同化を進めていく。
1905年、イギリスによるベンガル分割令の背景により優遇され、民族のエリート層が育つ。東ベンガルに複数の藩王国設置、ヤール人の集積が進んだ。

第二次世界大戦後の1947年8月14日及び15日にインド・パキスタン分離独立が発生すると、ベンガル地方には東パキスタンが成立した。
その中でヤール人は旧藩王国を基軸に、東パキスタンへ組み込まれた。
しかし、宗教、民族対立から難民と虐殺の発生は分離独立以後も続き、やがて1971年3月26日にバングラデシュ独立戦争を経て、東パキスタンはバングラディシュとして独立する。
長く、ベンガル人国家の一部として同化してきたヤール人であったが、繰り返される独立の過程で自分たちのナショナル・アイデンティティを見出していった。

ヤール人国家とベンガル人国家

バングラディシュではアワミ連盟が政府与党として君臨していたが、1991年に総選挙が実施される。
バングラディシュにおいて民主化、民族自決の気運が高まる1991年に、バングラデシュ民族主義党とヤール民族主義連盟*1が台頭し、連立政権が誕生する。
これにより、バングラディシュはベンガル人とヤール人の2民族体制へと移行していった。
ヤール人は共同体をベンガルに集積していたものの、自身らをヤール人と長年名乗ることはなかった。
しかし、総選挙の前後からヤール人と名乗る人々は急速に増え、ヤール独立への気運が高まって行った。
ヤール民族研究学会によると、ベンガル人と同化していたヤール人だったが、ベンガル人の多くもヤールとの混血が進んでおり、その混血児の多くが自身をヤール人と名乗る事が後を絶えなかったという。

1994年10月13日、ヤール人・ベンガル人の共同宣言がなされ、ヤール人の自立と共同化が確認される。
バングラディシュ地域において混血が進んだヤール人の共同体は諸手を挙げて、独立に向けて歩み始めていた。
これを受けて1995年5月16日、ヤール民主共和国が成立する。

だが、1991年以前からヤール人同化の傾向は、ベンガル人の独立が穢されたとの政治的、民族的な宣伝が兼ねてから存在していた。
バングラディシュ労働党、インド共産党の他、ソビエト共産党や中国共産党の支援を受け、ヤール離反・南ベンガル*2奪還を掲げるベンガル人民共和国が誕生する。

ベンガル人民共和国の成立には、事前にヤール民族主義連盟(ヤール独立党)の勝利を予期しての計画された建国宣言だったと、2008年の第33回ソビエト共産党大会にてカティーリンが党内に向けて情報公開している。
この2国家は同日に成立し、ベンガル人民共和国ヤール民主共和国の独立を否認したことから、対立が誕生と同時に始まったことを意味していた。
しかし、インドのアルナーチャル・プラデーシュ州やアッサム州などの分離によって得たベンガル人民共和国は、独立宣言からヤール=ベンガル戦争が発生するまでの間、インドと紛争状態が続き経済成長の伸び悩みの原因の1つとなった。

開戦までの経緯

1997年に入りヤール民主共和国は第三勢力としての独立を目指すも、北方の共産勢力に対抗する形で欧州連合大日本帝国に接近する。
バブルが破綻し、失われた10年と呼ばれる時期に突入していた大日本帝国だったが、グローバル進出の先駆けにヤール民主共和国が選ばれ、日系企業、東南アジア企業が多く参入。欧州企業も次々に参加し、企業競争はヤールに思わぬ利益をもたらした。

一方、ベンガル人民共和国では、重工業政策と硬直した労働支援政策に伸び悩みが発生していた。
経済の鈍化は2008年まで続き、ヤール民主共和国ベンガル人民共和国の国力比は大きく差がついたと、国際通貨基金(IMF)は評している。
経済や思想統制の政府、ヤールに対してベンガル人民の不満が向けられ、2010年には暴動が相次ぐようになる。

カティーリンの登場と彼女の直接的な介入により、暴動に悩む2010年に突入するとベンガル人民政府は失地回復(イレデンティズム)を加速させるよう指導を受ける。
ベンガル駐留ソ連軍及びベンガル人民軍の軍備を3年内に整備する旨であるカティーリン第297号命令*3が発令されると、短期的だが経済回復の兆しが見られ、ベンガル人民はカティーリン指導を好意的に受け入れた。
カティーリン第297号命令に基づき、3年後の2013年にはベンガル人民動員令が発令。

それに呼応する形でヤールを目前とする国境線に、ワルシャワ条約機構軍は秘密裏に集結を開始した。

ヤール=ベンガル戦争の経過

  • 開戦
    • 2013年2月5日 - ベンガル人民共和国ヤール民主共和国に対し宣戦を布告。民族解放を謳った聖戦として、5日には電撃的な侵攻が開始された。
    • 2月13日 - 東ドイツ派遣軍?がヤール北西部ラジシャヒを攻略。東側の人型電算機グリーゼ・ヒューネが西側において高く評価される。
    • 2月17日 - ヤール民主共和軍総司令官セレス・フォワネが、ヤール軍及び民間に対し南部撤退命令を発令。中部都市セレジアまで後退する。
    • 3月9日  - ベンガル、3月攻勢。

2013-04-21 Eis(新規)

確認済2013-04-22


*1 後の、ヤール独立党。1995年より改名、党首は引き続きアルバール・フォワネ
*2 ベンガル人民共和国から南を見た、旧バングラディシュ地域
*3 ソビエト連邦国防大臣をも兼任するカティーリンの対外国防計画と、対象国への干渉命令。ベンガル人民共和国への指導が主とされた。

Last-modified: 2013-09-02 21:27:08