空飛ぶ胡麻団子
●ディープな歴史マニアのよた話●

1.歴史マニアの叫び
2.ヒロインの法廷
3.懐疑主義者の憂鬱1

4.素人懐疑主義者の疑問1
5.素人懐疑主義者の疑問2
6.素人懐疑主義者の疑問3
7.素人懐疑主義者の疑問4


6.素人懐疑主義者の疑問4at 2023/11/11
 『素人懐疑主義者の疑問2』で透視能力を解析したが「その能力が本物なら犯罪の証拠物件探しや災害現場での
生存者探知等に使え」と結論付けた。実際に犯罪関係からみでは使われている場合があるのだが、占いや予言同様
実用とは程遠い。むしろ実際的な捜査などの結果、ハズレが判明してしまうので、当たってないのに当たった事に
できる予言や占いなどより分が悪い。
 最近はこの手のTV番組は見られなくなったが、一時ブームだった頃は、世間を騒がせた事件が盛んに取り上げ
られた。しかしながらそれらの透視で実際に「見つかった!」という事は、少なくとも自分は聞いたことがない。
 よくあるのは、行方不明者、特に犯罪に巻き込まれたと推察される場合である。殺害された可能性の高い行方
不明者の遺体を超能力で探すというタイプだ。この手の透視は自称・霊能者等が、亡き被害者の声を聴いてとか、
持ち物や現場の遺留品から念を感じて推理し、犯行の状況や見つからない被害者の遺体の場所を語るパターンが
多い。またダウジングのように地図上に振り子のようなものをかざして指し示した場所にあるというのもある。
 某TV番組で「いろいろな事件を解決した」という触れ込みの『高名な超能力捜査官』(本当に公的な捜査官
なのか?)が透視した事柄をもとにして行方不明者(または遺体)を探すというものがあった。『超能力捜査官』は
建物や橋梁等の目印となるパーツを透視して、それらが揃ってある場所が「現場」または「現場」の近くであると
言い、TVクルーがその場所を探すというパターンだ。例えば橋のたもとに古い倉庫があり、橋の向こう側の農地に
巨木があり云々といったパターンである。しかしそんな場所は日本全国いくらでもあるだろう。こんな曖昧な情報
だけでは実際に場所は特定できない。子供の落書きのような大雑把な図ではなく、倉庫であればその形状、そして
周りに他の建物がないか、あるならそれはどんなものか、橋梁ならばどんな色でどんな河川にかかっているのか、
巨木はどんな種類の樹木か、道は舗装道路か、未舗装なのか等々、本当に見えているのなら、もっと詳細な情報を
述べれば場所の特定は可能だろうに。むしろ現場の所番地の表示を「透視」した方がはるかに手っ取り早い筈だ。
 米国での殺人事件について(本物の)捜査関係者が語った話だが、自称・超能力者が「実際に見透した」と未解決
事件の詳細を語ったことがあった。後に被害者の遺体が見つかり、詳細な犯行の状況が明らかになった時、その
「透視内容」が間違っていた事が判明したのだ。実はその内容は当時の関係者が「…の可能性」と思っていた事が
報道され、そのあやふやな根拠をもとに推理した事をあたかもそれをさも自分が透視したと言いふらしたらしい。
 より具体的な例を挙げてみよう。これは日本で起きた強盗放火殺人事件である。某事業所に押し入った犯人が
ガソリンを撒いて火をつけ従業員が死亡した。営業中だったので複数の生存者が犯人の顔を覚えていて、似顔絵が
公開された。被害が大きかった事もあり、かなりマスメディアでも騒がれ某TV番組が外国で活躍している高名な
「超能力者」を招聘し、事件を「透視」させた。その後に「超能力者」が描いた「犯人の顔」の方が、目撃者の
記憶をもとに描かれた「似顔絵」よりも実際に逮捕された犯人に似ていた!と話題になった。と、いうと本当に
犯行の瞬間を透視したのだと思ってしまいそうだが、それはかなり疑問だ。そもそも複数の目撃者の供述をもとに
作成されている犯人の似顔絵が既に公開されているのに新たに「自分が透視した犯人の顔」を公開する必要がある
のか? ここに自称「超能力者」が使ったトリックがある。
 警察が公開した「似顔絵」の犯人は大きな目が特徴だった。そして「超能力者」が描いたのは「目」が小さめに
なっていた。警察が公開した「似顔絵」は「犯行の瞬間に複数の被害者が目撃した」のを聞いて描かれたもので、
この状況では被害者の恐怖心から「目を実際より大きく認識しがち」という傾向がある。更に犯行の瞬間である
から犯人も激高して常体より目を大きく見開いている可能性がある。「犯行時の犯人」の顔が判っているのだから
上記の可能性を鑑みて目を小さく、更にこんな事件を起こすような状況にある人間なら才気煥発な人物とは思え
ないから、しょぼくれた印象を足した。というわけであえておそらく犯人の常態である可能性の高い「別な印象の
似顔絵」を公開したのである。そしてその狙いは当たり「本当に透視した」事に出来ただけなのだ。 
 更に「実際は透視してない」と推測出来る根拠がもう一つある。上記のような理由はあれど実際に「公開された
似顔絵」より更に犯人に似た絵を描いたのは事実である。だがこの「超能力者」は大きなミスをした。犯行時に
ガソリンを入れた容器が現場で発見されなかったのは「現場で燃えてしまった」と言ってしまったのだ。しかし
容器は犯人が逮捕された後、その自供によって犯人自ら捨てた場所で発見されたのである。「目撃情報」よりも
正確な「似顔絵」が描けるにもかかわらず「容器は現場で燃え尽きた」とありもしない事実を『透視』したのだ。
 上記のTV番組の放映の後、犯人の逮捕、証拠品の発見まではいささか時間の経過があった。この悲惨な事件の
事も、超能力者の「透視」も覚えている人は少ないかもしれない。この自称・超能力者は「犯人の顔」を透視した
という結果だけを喧伝し、ビリーバーな人々の心を掴んでいるのだと思う。だが少なくともこの件では「誤透視」
が明らかになったからまだ良い。あいまいな「透視」に騙された人々が、思い込みで行動して捜査を妨害し事実の
解明が遅れる、最悪迷宮入りになる事もあり得るのだ。




5.素人懐疑主義者の疑問3at 2023/06/06
 懐疑主義者の疑問2では「遮蔽物がある為に見えない」モノを見る場合についての「自称・超能力者」について
の疑義を語ったが、今回は「遮蔽物の有無とは無関係に見えない」モノを見る場合の超能力について考察したい。
 この件に関しては、過去についての案件と未来についての案件に大別するが、「占い」の様に両方に属するもの
もある。そして単に『占い師』といっても、個人的な運勢や悩み事の相談、今後に関する行動のアドバイスや心理
カウンセラーめいたもの等、それぞれに得意分野があり、多岐にわたる。手法も占星術や手相、タロットカード
等と種々雑多にあるが、それぞれの道具に違いはあってもその信憑性はかなり疑わしい。実際は透視というよりも
依頼人が自ら提供するデータや、星座、血液型、手相等のイメージから「そうかも知れない」を「その通りに違い
ない」と暗示を利用して錯覚させる技術を使うので、当事者が「当たっている」と思い込めば本当に「透視」した
事とされてしまうのだ。しかしこれについては幾多の心理学者等がそのカラクリをすでに解明しているので、各種
文献を御覧いただきたい。

*自称・予言者
 未来(未だ来たらぬ)に起こる出来事を知り、告知するのが予言である。つまり「未来」に起きる事を透視し告知
するのである。確かに「まだ起きてはてないけどこれから起きる事」を事前に知っていればいろいろ便利である。
しかしこの「透視力」にも重大な疑念がある。本当に「未来で起きている事を見透した」のであれば的中するのは
当然の筈だが、なぜ外れる事があるのか?
 以前、数十人の「占い師」を集めて、いろいろな予言をさせるTV番組があった。その中に「某総理大臣の任期」
を当てさせるというのがあり「×年しか続かない」と言った占い師が大半で「×年以上続く」と予言したのは数人
しかいなかった。実際、当時の世間の予想では「長くは持たない」と思われていたのだから「続かない」可能性の
方が高かったとみられていたが、実際は「×年以上」続いたのだった。また、某元皇太子妃の事故死を予言して
いたという「世界的に有名で著名人の顧客も数多い」という触れ込みの予言者が「某国の独裁者は199×年に
暗殺される」と予言していたが、実際には2000年代に逃亡先で逮捕され、裁判で死刑を宣告され執行された。
 マスメディアでこの手のテーマを扱った番組は多々ある。高名といわれる予言者が、耳目を集める事態が起きて
から「実は以前から予言していた」と言っているが、その供述が真実だったかどうかは追及されない。大災害や
大事故などが本当に予言できるのなら、それらが起きる前に予防や対処ができるよう、はっきりと声を大にして
警告してくれよと思うのだが、それをすると外れたことが明らかになってしまうので、商売に差し支える。だから
いくつかした「予言」のほんの一部、たまたま当たっていたものをピックアップして「本当に当たっていた!」と
言っているだけのようだ。それとも諸般の事情で「未来が変わる」場合もあるとでも言うつもりなのか?それなら
どんな予言も単なる当て推量であり「当たる」のも偶然の結果でしかないだろう。サイコロの出目はイカサマでも
ない限り結果は偶然だが、競馬等のギャンブルはデータ解析等を利用して当たる確率を上げる事ができる。しかし
確率が高いからと言っても必ずしも的中する訳ではない。予言者と競馬の予想屋との違いは、派手な演出という
イメージ戦略くらいだろう。




5.素人懐疑主義者の疑問2at 2023/02/02
 「超常現象」というのは便利な言葉だ。『宇宙人』や『U×O』(×の部分は適宜アルファベットをお入れください)
『幽霊』『お化け』『妖怪』(それぞれに定義があるのでとりあえず別々に分けておく)、『超能力』等々をまとめて収納
できる便利なカテゴリーである。また『超能力』というのは主に透視、予言、念動力、テレパシーに分類される。今回はこの中から『透視』に関して考察したい。
 透視というのは「肉眼」あるいは「器機」(X線や顕微鏡等)でも見えない筈のモノを見通す力である。更に
これは「遮蔽物がある為に見えない」モノを見る場合と「遮蔽物の有無とは無関係に見えない」モノを見る場合
がある。
 前者に関しては二つのパターンがある。つまり「手品か超能力か」。両者の最も大きな違いはその成功率だ。
手品師はトリック成功率100%が当たり前であり、もし失敗したら(プロなら特に!)不面目だ。しかし超能力者の
場合は何故かよく外れる。特にトリックをさせないように厳重に監視されていると大概失敗する。単なる数字や
物等の当て物の場合、自称・超能力者の的中率と非超能力者の的中率は特に差はないというのが実態である。
念動力に関しても対象物への物理的な働きかけが全く出来ない状態での実験下で成功した例はない。しかし自称・
超能力者は「超能力を信じない人がいるのでその邪念が障害となり超能力が発揮できないから失敗するのだ」と
言い訳をする。しかしマジック・ショーを見ている観客は、そもそも手品師のマジックを超能力だと思っては
いないだろう。だが彼らは「すご技の手品師の何人かは実は超能力者なのでは!?」と思えてくる程の技術を
見せる。しかし少なくとも「手品」は「タネ」というトリックを使用して演じられるものであり、上手い下手は
ともかく「超能力」と「疑いを持たない観客」がいなくては「成功」できないモノではない。
 現段階では「超能力」の実在を完全に証明する実験はいまだ成功していない。自称・超能力者が「超能力は
本当にある」と主張するのであれば、なぜ「超能力を信じる人」だけを集めた場所で、なおかつ一切のトリック
可能な要素を排除した状況で実験し、懐疑主義者をも納得させる科学的な検証をさせて、自らの真実性を認めさせ
ようとしないのか?そもそも彼らの主張する「超能力」が本物であるなら「手品師」の方がはるかに鮮やかに
やってみせる「マジック」をする必要などないだろう。
 この疑問の答えといっていいのかはわからないが、以前「超能力」を扱ったTV番組で「超能力」について
某有名な学者が「トリックで出来る事が出来たとしても『超』がつく程の能力とは言えないんじゃない?」と
語っていた。「本物の超能力」が実在するのならば、たとえば隠蔽されている犯罪の証拠物件探しや災害現場での生存者探知等に役立ててもらいたい。もし本当に実用化できれば、こんな素晴らしい「超能力」はないだろう!




4.素人懐疑主義者の疑問1 at 2022/11/22
 夏になると目につくのが、怪奇現象を捉えた映像や画像を扱ったTV番組である。しかしこれらの番組で扱われる
事柄について、同時に科学的な検証を行い、その真相を暴いた番組は残念ながら寡少である。ただ著名な事例など
では「本物の学者等による解明」についての様々な文献があるのでそちらを読めばある程度クリアできるだろう。 ここでは「素人懐疑主義者」の立場で問うてみたい。

◎怪奇現象を捉えた映像や画像への疑問
 この手の画像に関しては「奇怪な顔や姿が写っている」と紹介されるが、ほとんどがどう見ても単なる思い込み
だろう。「×××が写っている!」と言われてもとてもそうは見えないのだが、ただそういわれるとそれが見える
(ような気がする)のは、ある意味科学的に正しかったりする。これはシミュラクラ現象やパレイドリア現象と
いわれる人間の脳の癖みたいなものらしい。しかしながら「これこそ心霊写真だ!」と撮影した人達の殆どは
怖がりながらも、内心はレアな写真が撮れた♪と無邪気に楽しんでいるのだろう。
 しかし「一般人が偶然撮影した怪奇現象」の映像となるといきなり胡散臭くなる。本当に「偶然に撮影できた
映像」にしてはあまりに「偶然」が多過ぎる。そもそもなぜわざわざその場面を「撮影している」のか?むろん
特別なイベントなどの記念撮影というのもあるだろうが、ありふれた日常をわざわざ撮影し、更に都合よく
「ちょうど何かが映り込む」偶然がそうあるとは思えないのだが。逆に「撮影している場合かっ!?」という
ような場面で、まるで「何かが起きる事」をはじめから見越してカメラを構えているとしか思えない状況で撮影
している例が多々ある。それに加えてカメラワークが不自然である。映像を撮影中になぜかカメラが突然向きを
変える。そこに何かの気配を感じてとっさにそちらにカメラを向けたのならまだわかるが(だったらその場所の
撮影を続けるべきだだろうに…)すぐにもとの位置に戻るとそこにはさっきまではいなかった筈の怪しいモノ
映っている!これだけでも既に相当嘘臭いが、なぜかそこで映像は都合よく終わってしまう。もし本当にそういう
事態に遭遇したのなら、むしろそのまま撮影を続けた方が更に「スゴイ映像!」になると思うのだが。わざわざ
心霊スポットに行って撮影をしているなら猶更だ。実際これらは素人でも簡単にできるトリックで作ったフェイク
映像としか思えない。つまり初めから誰かを騙す意図があるのだ。
 自分的にはテレビ局が「シロウトの幼稚なフェイク映像」を安直に垂れ流して番組予算を節約してるのかと言い
たくなるところだが、たまには「これはちょっといい感じだ」と思うのもある。が、その手の番組でないところで
「この映像を作ったのはウチです」という会社の社長が出演したのを見た。その中にいくつもの覚えのある「いい感じの映像」があった…。あ〜ぁ。
「俺が見たいのは本物の怪奇映像なんだよっっ!!!」




.懐疑主義者の憂鬱1 at 2020/11/11
===我が武器は、オッカムの剃刀と蟷螂の斧。その動力は好奇心。===
 個人的な問題ではあるが、世の中には訊かれて困る質問がある。
UFOを信じますか?
 「UFO」の他、宇宙人、各種占い、幽霊、超常現象、預言等々もそうである。特に最近多いのが「UFO」
ネタである。この問いを発する人は、ただ単純に「信じるか、信じないか」を知りたいだけなのかもしれない。
そしておそらくかなりの確率で「信じます」という答えを期待しているだろう。すると「わたしも信じている
んですよ〜♪」とささやかな仲間意識を得て、無邪気に喜ぶのだ。しかしこう尋ねる人達に、間違っても
「その問いにおけるUFOの定義は?」などと聞いてはイケナイ。ましてや相手が「え?フツーUFOって、
宇宙人が乗っている空飛ぶ円盤の事でしょう」なんて返して来たら、「違いますよ、UFOは未確認飛行物体の
略です。だから宇宙人の乗り物と判明している段階で、もはやそれはUFOとはいえません。そしていわゆる
空飛ぶ円盤とは、フライングソーサーの訳で、本来形状を指すのではなく、その動きが皿が飛んでいるように
見えた事から来た言葉です」などと無駄知識を開陳したりする(俺だ)と、対人関係は非常に悪化する事は間違い
ない。また逆に「UFOなんているわけないじゃないか」(と、いう人も結構多い)なんて単純に答えようもの
なら、上記の説明に続いて「数多の飛行物体全てが、目撃された段階で正体を確認されている訳ではないので、
飛行物体がある限りUFOは存在していないというのは暴論ですね」などと、上げ足をとる奴(俺だ)もたまに
いるので油断がならない。
 少なくともUFOを信じる信じないという、単純な二者選択の問いにも、これだけの危険が潜んでいる。
現実問題としてUFOを「地球外から飛来した何者かの乗り物」を指す慣用句として多用されている現実を黙認
するのは(不本意だが)吝かではない。この単語の誤用がこれだけ一般に流布してしまっていると、いちいち
訂正するのも面倒、というより無駄だからだ。こういう場合、内心では(大概は前者の場合が多いので)「頭の
悪い質問をしてきやがる」と思いつつも、また後者に、前者と同類の頭の悪い奴だと思われようとも「信じる
かもしんないかな〜?」などと曖昧に答えるのが「オトナの対応」という処世術である。
 だが「UFO」についての回答は曖昧にスルーできても「宇宙人」となると素直に敵前逃亡とはいかないので
困る。ついつい「その宇宙人というのは、いわゆる我々が生息している、この太陽系の第三惑星以外の天体に住む
知的生命体を指しているのですか?」などと確認したくなる。「UFOを素直に信じる」上記の人々は「宇宙人」
の存在も素直に信じるだろう。そして「UFO」の時の様に、彼等の同類と思われて、世間的に事を荒立てずに
すむ。だが単純に「信じる」人は上記のような事情により、穏便にスルーできるが「UFOも宇宙人もいない」
と言い切る人にはつい反論したくなってしまう。なぜならば、そういう人達が「いない」と言い張る根拠に疑問
があるからだ。無論、反対論者全員にその根拠を尋ねた訳ではないが、かなりの人達が以下の点を「宇宙人は
いない」という理由に挙げている。

1.(地球型)生物が生存できる環境の天体がない
2.だから地球における人類のような知的生命体もいない
3.万が一、地球のような天体が宇宙のどこかにあるとしても、そんな遠くから地球に来られるはずがない

反論1
 地球が属している、この太陽系の地球以外の天体では、高温すぎる、低温すぎる、十分な酸素がない、水が
ない、重力が強すぎる等々の理由から「生物は存在できない」という。酸素を呼吸し、有機物を食し繁殖する等々
「地球型生命体」の定義があるが、地球は昔から現在のような環境ではなかったし、酸素を製造する生物が今の
ような十分な酸素のある地球を作ったわけだから「酸素が足りないから生物がいない」のであれば、そもそも
地球に生命が存在してないだろう。実際のところ地球上でも地域によってかなりの温度差もあるし、水圧、気圧
による生命にあたえる影響等、様々な生活環境があるが、大概のところに生物はいる。深海にはとんでもない
水圧や高温の場所で生息している生物もいる。なんと溶岩の中に住む生物もいるらしい。地球における生物が
すべて「いわゆる地球型の生命体」ではないのだから、他の天体に「普通の地球型の生命」が生存できる環境が
ないから、生物はいないと断ずるのは誤りだと思う。

反論2
 地球における唯一の「知的生命体=人類」であり、だから「宇宙人」も他の天体における唯一の知的生命体で
あるという定義がそもそも如何かと思うが、もしも他の天体の「地球人」(少なくとも大概の天体は球体だから、
その天体の現生人類のような者は自らを地球人と定義するだろう)が、この太陽系第三惑星を調査しにきた場合、
この天体においては「宇宙人(現生人類)がいない」時期の方がはるかに長く、この惑星において人類の存在を
確認できる時期に遭遇する確率は相当低い筈だ。であるから、彼等が上記の人々の様な認識で、現生人類とその
近類のみを「その星の知的生命体」と定義し、かつこの天体の長い歴史のほんの一瞬の時期以外にこの天体を
調査していたら「この星には宇宙人はいない」と断定してしまう事だろう。太陽系第三惑星に限定しただけで
この有様だ。しかし宇宙全体を考えれば「天文学的」という表現がナノレベル以下に思える程の、長大な時間と
空間が存在している。我々が住むこの微小な天体にすら、数十億の「自称・知的生命体」が生息しているのに
「宇宙には宇宙人はいない」と断定してしまうのは「超純水を調査したが、プランクトン、魚介類等の生命体が
いなかったから、水中(水道水、河川、海中等々)には生命体はいない」と言う様なものだ。

反論3
 よく引き合いに出されるアインシュタインの「いかなる物質も光速より速く移動できない」という定説がある。
今のところこれを否定するような実証はない。(ただアインシュタインは物質以外のものも光速を超えられないと
言っていたらしいがこれについての反論は後日にまわそう)。しかし、そうなると我々人類はその寿命より長い
数百光年を超える移動は事実上不可能である。と、いうわけでSFなどでは人工冬眠だの、空間をショートカット
できるワープ航法などの便利な方法が使用されている。しかし現在のところ現実には実用化されてはいないし、
実用化されそうな見込みは少なくともまだないようだ。が、しかし「今現在、現生人類が出来ない」からといって
未来においても出来ないとはいえないのではないか。
 我々人類の歴史を振り返ってみれば「かつては出来なかったが、今出来ている事」がどれだけあるのか数えきれ
ないだろう。(過去に出来ていた事が出来なくなっている例もある事はあるが…)単一の「生物」においてもこれ程
いろいろな進歩を遂げる事が出来ているのだから、ましてや宇宙全体を考えれば、我々第三惑星の人類よりも
はるか以前に誕生し、より発展している生物がいると考える方が自然ではないのか。

 長々と言説したが、一言でまとめれば「宇宙人なんかいない」と断言する人の方こそ「頭の悪い奴」だと言い
たいだけなのだ。ただこれだけの個人的な見解を、クドクドと垂れ流してしまう奴こそ「より頭の悪い奴」だと
いう事は自覚している。不毛な内面を吐露し憂さ晴らしする場所が、全く私的な自己サイトというアジールのみ
であり、表向きには「オトナの対応」というペルソナを用いているという事に免じ、この戯言を御容赦戴きたい。




.ヒロインの法廷−−−弁護人として−−− at 2013/11/11
 歴史上の人物については、実際にその人自身についての詳細には知らなくても、一般的なイメージというもの
がある。そのかなりの部分は、小説や映画などで作られたイメージが先行していて、史実を詳しく探究した歴史
マニアはともかく一般の人々は、創作された種々のエピソード等を、史実だと思い込んでしまっている場合が
多々ある。しかし、それはフィクションにおいても同様である。某有名な大河小説のヒロインを、某著名な文化人
が「強く美しく知的な女性」と称賛していたが、その小説を原作にした、超々!有名な映画を見る限りでは
「美しく(確かに絶世の美人女優が演じていた)」はともかく「(気が)強い」が、賢いどころか相当に愚かな
女であった。(ついでにいうと小説ではもっと・・・!である。)このヒロインについては後日あらためて章を
設けるつもりではあるが、一般的なイメージがその実像と乖離している人物、特に、良しにつけ悪しきにつけ
不当な評価を与えられているキャラクターについて、その「真の姿」を申し立てたいと思う。

−−−シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』のブランシュ・イングラム嬢−−−

 美しくもなく高貴な身分でもないが、知的で芯の強い女性ジェーンが、数々の不幸や誘惑に打ち勝ち、最後は
真の幸福を得る物語『ジェーン・エア』の中で、彼女はジェーンと対蹠的な存在である。「貧しく取るに足らぬ
庶民の娘」ジェーンが密かに想いを寄せていた荘園の主ロチェスター氏と、縁談が取り沙汰される若く美貌の
「芸事に秀でた名門の貴婦人」であるブランシュは、その一方で、おとなしい貴婦人の無知をなぶりものにし、
幼いアデールやジェーンに「意地の悪い反感」や「無礼な言葉」を投げつけ「とげとげしい態度」を取り続ける。
ジェーンはそんなブランシュの事を「精神は貧しく」「善良でもなく」「独創的でもなく」「同情や憐憫の情を
知らない」と言い切る。ジェーンは、彼女を「嫉妬するに値しない」女と断じるが、実際には互いに愛情などが
ないのも関わらず、まるで恋仲であるかのような二人の姿を目の当たりにし「身をさいなむ苦しみ」を味わう。
自分こそが心底ロチェスター氏を理解し、誠の情を持っていながら、階級差の「利害損失や姻戚関係」に阻まれ、
「愛しのロチェスターさま」がブランシュの様な女を選ぼうとしているからだ。しかし彼女は、本当にそんな
救いようのない愚かな悪女なのだろうか。第一人称の主人公に感情移入せず、客観的な立場から解析してみると、
また別な視点が見えてくる。

罪状1 金目当ての結婚を企てている件
 ブランシュは「金目当て」でロチェスター氏と結婚しようとしている。ロチェスター氏が、自分の財産が本当は
たいしたものではないと噂を広めた後に訪問したイングランム家で、冷たい扱いを受けたという事実がそれを実証
している。一片の愛情もないのに、ただ相手が財産家というだけで、男性を射止めようとは確かに不届きな賤しい
事であろう。少なくとも、自らの努力で自活しているジェーンには、そう言う権利がある。しかし、この時代と
階級というものを、彼女の立場に立って考慮して欲しい。現実問題として「貧しい牧師の娘」のジェーンのように
職業を持って自立する事は、ブランシュの様な貴族階級の女性には不可能なのである。男性でさえ「生活の為に
働くのは紳士ではない」時代だ。自身の身分に見合った財産(無論不労所得だ)を持っているならともかく、
結婚=就職であり、適齢期までに結婚出来なければ、部屋住みの老嬢(ニート、パラサイトシングル)になるだけ
である。ロチェスター氏の父親が、所領地を分割したくはないが、さりとて二男が貧乏人になるのは耐えられない
と、かなり難有り!の大金持ちの娘を妻として押しつけたように、ブランシュもその身分にふさわしい相手と結婚
しなくてはならない。フェアファックス夫人はブランシュが「まだ二十五歳」というが、当時としては適齢期を
過ぎかけている年齢である。まして後ろ盾となる父親がいない彼女にとっては、無知で初な少女のように愛だの
恋だのといった綺麗事を云々している暇はない。この階級の女性には婚活は人生を懸けた切実な戦(就職活動)
なのだ。その目的達成の為に、彼女は心にもない媚態でしきりにロチェスター氏の気を惹き、その心を捉えなくて
はならない。財産目当てである事が明白であっても、彼女はそうするしか、すべがないのである。
 確かに彼女の目当てはロチェスター氏本人よりも彼の財産だったが、ではなぜロチェスター氏なのだろうか。
そもそもブランシュとロチェスター氏との結婚の可能性を話題にしたのはジェーン自身だった。フェアファックス
夫人との会話の中でブランシュの話題が出た時に、ジェーンが「ロチェスター氏のような御金持の貴族や紳士」が
「素晴らしい貴婦人」のブランシュに求婚する可能性をほのめかすと、フェアファックス夫人は、もう四十近い
ロチェスター氏と、まだ二十五歳のブランシュでは不釣り合いだとして、その可能性を否定していた。しかし
ソーンフィールドの館に招かれたブランシュは、しきりにその「四十近い」「醜男」であるロチェスター氏の気を
惹こうとする。ジェーンが最上級の讃辞を贈るロチェスター氏ではあるが、 客観的にロチェスター氏を花婿候補
として値踏みした場合、莫大な財産以外はまったく良いところがない。ジェーン自身、「勢力と決断力と意志
そのもの」であるロチェスター氏の男性的な魅力を称賛しつつも、やはり原則的には美しくはないと言う通り、
当時は「女性的な優男」が至高とされ、外見的にもロチェスター氏はかなり分が悪い。ブランシュの身分や美貌
を持ってすれば、もっと良い条件の結婚相手を捕まえられそうな気がする。フェアファックス夫人が考えられる
障害としてあげたのは、ブランシュ自身はあまり財産を持っていないかららしいが、実は、ロチェスター氏同様
ブランシュの方にも少々問題があるのだ。

罪状2 彼女は本当は「知的」ではない件
 貴顕達がロチェスター邸に来訪した際、唯一騎乗の女性がブランシュだった。そして彼女は「宮廷楽師リッツォ
よりも海賊ボスウェル」の方が好ましく「美しさを重大なもの」と思う「哀れな弱虫」の若者を蔑み、男性には
「力と勇猛心」だけを求めると言う。つまりロチェスター氏のようなタイプが好きだというアピールなのだが、
彼女自身の本音でもあるだろう。しかしこういう野性的な性格は、男性にまで女性的である事が好まれる時代には
非常にマイナスである。つまり彼女は、自分の身分やレディとしての教養、美貌だけでは有利な結婚が出来ないと
自覚し、あえてランクを下げ「ロチェスター氏程度」の男性をターゲットにしたのである。ブランシュのような
「威厳に満ちたタイプ」の女性で「夫に完全な服従を要求し、引き立て役にする」つもりだと公言する彼女は、
まさしく男も女も強く逞しい事が評価された「中世的な女性像」である。そしてそれは本質は決して「淑やかで
唯々従順な女」ではないからこそのジェーンを選んだロチェスター氏の好みからは、そうかけ離れたものでも
ない。彼女があえて(見せかけではあるが)自分から求愛のモーションをかけるというのは、男性の優越感を
くすぐるひとつの恋愛術である。たが、おそろく、ブランシュもジェーンも、どちらも勘定に入れてなかった事
だろうが、ロチェスター氏の「自己の優位性に拘る男性的な性質」は、彼の属する貴族階級の特質というだけでは
なく「(当時の基準に合った)美貌の欠如」がコンプレックスとなり、その反動もあって必要以上に自分の優位性に
執着してしまう傾向が見られる。だから彼女のアピールしようとしている「強烈な個性」である女王様振りは付加
価値にはならず、逆にロチェスター氏の反感を煽ってしまう。その結果、ロチェスター氏はブランシュを当馬に
すると同時に、彼女の「高慢さを挫いて」やろうとするのだ。
 自身の不利な立場を理解し、その価値に引きあう相手を選び、その相手の好みに合わせたアピールをするのに
あえて「当時の理想の女性像に反する」ふるまいをするブランシュの手法は、「結婚」という重大な戦の策略と
してはそれほど間違ってはいない。だが、ジェーンは「俗悪な技巧」や「わざとらしい策略」で氏の気を惹こうと
するブランシュの努力が空回りしているのを見て、彼女にはロチェスター氏への愛と理解がないからだと断じ、
自分なら「静かにそばに腰をかけ」「あまり口を開かず」「目ももっと控え目」にし、その方が氏の心に訴えるのに
と思う。しかし、本当にそうだろうか。
 御屋敷の家庭教師という立場上、淑やかで控え目な態度をとってはいても、ロチェスター氏はそんな「淑女」と
してのジェーンを愛したわけではない。むしろ彼の周りにあふれる「淑やかで控え目な令嬢」とは正反対の、率直
な物言いをする女性だからこそ、ジェーンを選んだのではないのか。実際に婚約期間において、ジェーンも「子羊
のような従順」や「山鳩のような優しい感受性」がロチェスター氏を喜ばせるものではないとし、わざと「うなぎ
のようにつかまえにくく、野いばらのようにとげとげしい」態度で彼を翻弄するのである。
 ブランシュの真の敗因は、ロチェスター氏が本当に好んだのは「当時の理想の女性像に反する強烈な個性」
そのもの ではなく、ジェーンが身分も財産も美貌すらないのにも関わらず、財産も身分もある氏にも媚びたり
せず、自立した賢い女性であったからだという事に気付かなかったからだ。逆にジェーンが「いくらかの美しさ
と相当の財産」を持った身分のある女性だったら、なおかつ「優れた知性と強靭な精神力」をも持っていたと
したら、ロチェスター氏は「ジェーンと別れるのをつらい」と思うどころか、ブランシュに偽りの媚態で接した
様に、その「高慢さを挫いて」やろうとするのではないか?
 しかしブランシュには、ジェーンと比肩できる知性も教養もないではないかと言われるかもしれない。確かに
ジェーンによれば、ブランシュは「書物の中の仰々しい言葉」を繰り返すが「自分の意見を述べる事もなければ
自分の意見をもってもいない」女である。これはジェーンが、自身の見聞から判断した事だから、否定はしない。
しかし、この時代「自分の意見をもっている」上にそれを表明するという事自体が女性、特にブランシュが属する
上流階級の女性にとっては、非常にマイナスなのである。ジェーンがロチェスター氏と二人きりでいる時以外は、
その個性を隠し、あくまで慎ましく控え目な態度をとっていたのと同様に、もしかするとブランシュも、自分の
個性を押し殺して、「ロチェスター氏の花嫁」という目的地に到達するまで、彼女なりに猫を被っていたのかも
しれない。しかしブランシュの「教養」や「たしなみ」が、ジェーンの言うように、単なるレディ教育の範疇を
超えるものではなかったにしろ、その責めを彼女に追わせるのは酷であろう。
 かつての古代ギリシャや古代ローマでは、教養を持ち、それを評価されていたのは、「教養を持った男性」を
もてなす 「高級な娼婦」達であり、一般の婦女子(もちろん上流階級の夫人や令嬢も)は無学のままだった。
同様にブランシュが生きた時代も、「家庭教師」はまだしも「一人前のレディ」に求められる以上の知性や教養は
それが「一人前の紳士」のプライドを脅かす可能性がある不必要なものであり、それを持っているだけでも
好ましくないのだ。

 罪状3 ジェーンやアデールに辛く当たる件
 他の貴婦人達が、ただの家庭教師であるジェーンに「思いやりのある言葉をかけたり」「微笑をおくったり」して
くれ、幼いアデールを「かわいらしいお嬢さん」と心ゆくまで甘やかすのに対し、ブランシュはあからさまに
意地の悪い態度で攻撃する。つまり「淑女」らしくない振舞いだという訳だ。確かに、社会的地位の低い家庭教師や
他家に引き取られた可哀相な孤児は、憐憫の対象であり「弱者」としていたわるべき存在である。だがアデールは
かつてのジェーンのような「無辜でいたいけな子供」ではない。他の「心優しい貴婦人達」の慈しみが、本当に
小さき者への愛情からきたものなのか、それとも単にロチェスター氏の被後見人だからなのかはわからない。
ただ上流の貴婦人であるブランシュの目には、アデールは「まだ子供の癖に、男に媚を売って金を巻き上げていた
その母親同様」に映っただろう。その出生のままに、英国気質になじまない浅薄な性格を持った(ジェーン談)
アデールは、オペラ・ダンサー(当時としては賤しい職業の範疇である)兼ロチェスター氏の愛人であったその
母親同様に、最大限の軽蔑の対象である。
 またロチェスター氏は、ジェーンが彼がそれまで関わった数々の「女」達と違い「自分を追いかけたりしない」
事を評価している。ジェーンもロチェスター氏を熱愛していたが、自分の立場を慎ましくわきまえている。だが
ブランシュの立場からは、ジェーンは突然現れて彼女の狙う獲物を不当に(実際諸般の条件から見てもブランシュ
の方に優先権があると言える)横取りし、玉の輿を狙っている(アデールやその母親と同類の)「賤しい女」と
しか思えない。これは成功するかに見えた「狩り」を妨害されたブランシュの偏見だと思われるかもしれない。
が、この推理には客観的な状況証拠もある。フェアファックス夫人は、ロチェスター氏がジェーンに熱を上げて
いるのが「あまりに目に付くほど」なので、ジェーンの身を心配し、ひどく心を痛めていた。そして「婚約」した
事を聞かされた後にも「あのような御身分の殿方が家庭教師と結婚する」という例のない事態に「用心しすぎる
事はない」と忠告する。ジェーンの美徳と人柄を十分に承知しているフェアファックス夫人でさえこの様に考えて
しまうのだ。ましてジェーンを知らない第三者には「誰にも劣らぬ勇気を持っていた」旦那様が「何かに憑かれた
ように」美しくもない「家庭教師のチビ娘」に引きずりまわされているようにしかみえない。まわりにいる人々から
見れば、ジェーンの方こそロチェスター氏を誑かそうとした悪女であり「その娘がソーンフィールド廷にくる前に
海の底にでも沈んでしまえばよかったのに」と思うのは当然だろう。
 本来、高潔であるべき貴婦人のブランシュが、ジェーンやアデールに露骨に「意地の悪い反感」を示すのは、
決して褒められる事ではない。しかし高慢とまでいわれるほど気位の高いブランシュが、そういう下劣な種類の
女達と同じ土俵で紳士達の『愛』を争わねばならないという、不本意な状況への苛立ちから来た行動ともとれる。
そんな彼女の心情を慮れば、この「淑女」らしからぬ野蛮な振舞いにも情状酌量の余地があると言えよう。

 以上、主に上記の三点で、非難を受けるブランシュ・イングランム嬢に対し、弁護側の立場から無罪を主張し、
彼女の負わされている汚名の一部でも晴らせればと思う。




.歴史マニアの叫び−−−肖像画編−−− at 2012/1/11
 日本史上の人物をキャラクターに使ったバーチャルゲームの戦国武将はコーカソイド系統を汲んでいるようだが
これらはゲーム用のイメージなので、本人の肖像でない事はわかる(と、思うが…?)。物語ではやたら二枚目に
描かれる源義経や沖田総司も、実際はかなり残念な容貌だったらしい。ただ、これらはフィクションの分野の事
なので何でも有りなのだろう。それはそれとして、史実としての歴史上の人物を語る場合、そのプロフィールと
共に肖像画というものが紹介される。しかし、この場合の肖像画も、結構怪しい物なのである。坂本竜馬は本人
の写真とされているものが紹介されているが、西郷隆盛の場合は、彼の顔を知らない人が近親者(弟らしい)の顔
を参考にして描いた「本人と全然似ていない」(家族談)事が明らかになっているイメージ画像が、現在でも堂々と
流布されている。
 近代でもこの有様なのだから、写真のない時代は推して知るべし。歴史マニアになり始めた頃、最初に「!?」
と思ったのはノルマンディー公ウイリアム一世を調査した時である。最初に見たものは某百科事典に載っていた
もので、丸顔で口髭をはやし、温厚な風貌であった。波乱万丈な人生を送った人にしては、ずいぶんと女性的で
可愛らしく、なにやらルイ十六世に似ているような気がした。その後、別な歴史事典で見たものは、面長で力強く
角張った顎をした男性的な厳しい表情の美男であった。こちらの方がずっと彼らしいと思ったが、その後の調査で
ウイリアム一世の姿はあの有名な「バイヨーのタペストリー」に描かれたものだけで、これにはたくさんの人物が
描かれているものの、個人を特定できない事がわかった。つまり、ちらも後世に描かれた「イメージ画像」だった
のである。ま、これは十一世紀の事だし、その当時はあまり精密な絵画が描かれなかったので、こういうイメージ
画像を載せるしかなかったのだろうと、この時は納得していた。
 その後、ルイ11世に出会い、長年その資料を探し続けた。残念ながらあまりメジャーな人物ではないので、
資料も少なく、何年も経ってやっと見つけた肖像画は『歴史の地獄U』( オーギュスタン・カバネス 白水社)の
ものである。くりっとした丸い目、長い鼻、立派な口髭をたくわえた横顔であった。あまり美男子ではなかったが
美形だったと言われている人物の肖像も、しばしば評判とは正反対の場合があるので、その事は別に良い。一般に
言われている悪評芬々なイメージとは違って、わりと愛嬌のある顔であった。それからもいろいろな情報を蒐集し
その他の肖像画も徐々に集まるようになった。一番普遍的なのは口髭はなく、帽子を二重にかぶり、長い鼻を強調
するような横顔のもので、ロワールの歴史博物館にあるらしい。と、するとこれがルイ11世の「顔」だと思い
たくなるが、同一人物に全然別な顔立ちの肖像画が複数ある事は普通である。そして更に探索は続く。その結果、
大きく分けて二通りのパターンの肖像画が発見できた。
 ひとつは一般に流布している横顔の肖像画で、歴史書にもしばしば登場し、「ルイ11不細工顔説」にもよく
引用される。『歴史の地獄U』に掲載されているのもこの系統だ。が、実はこの肖像画が描かれたのは『中世』が
ロマンチックで、ファンタジックなイメージで語られ始めた十九世紀の作品だった事が判明したのである。困った
事に、これはルイだけではなく、たいがいの歴史書に引用されている、異常に面長な父方の祖母イザボー・ド・
バヴィエールの肖像も同様で、ジャンヌ・ダルクも、近世の間忘れられていたジャンヌの存在がクローズアップ
された、十九世紀以降のものがほとんどらしい。イザボーの場合はまだ他にも肖像画があるが、ジャンヌの、唯一
リアルタイムで描かれた絵姿は「軍旗を持った乙女」ジャンヌの噂を聞いた者がイメージした落書きで、女性の
服を着て乙女らしく長い髪をたらしたものになっているが、実際の彼女は短髪の男装だったのだ。
 もうひとつは、痩身だった若い頃のロングショットのもので、即位した頃のものらしく、百合紋のローブを着て
王冠を被り、王杓を持っている。そしてこの人物が年を重ねたものと思われる肖像画。このパターンはあまり一般
には流布していないが、フランスで購入した『ルイ11世の伝記』には、この系統の顔立ちをした人物の肖像画と
彫像の写真が掲載されている。しかしこの本には例の十九世紀系の肖像画は載っていない。さらにノートルダム・
クレリーにあるルイの墓碑に描かれた彫像も同じ顔立ちをしている。これらの状況証拠からみて、この北野武に
良く似た肖像が、一番本当の顔に近いのではないかと思われる。更にありがたい事に(?)肖像画が「本人の顔を
写実した物」になったのはルイの一世代前、シャルル七世の代に活躍したジャック・クールの肖像が嚆矢だとか。
その状況証拠を補強するものとして同時代のアニェス・ソレルの肖像は、古病理学者が頭蓋骨から復元した結果、
本人の容貌を忠実に描いたものであると確認されている。
 唯一の疑念は、ルイ自身が墓碑彫刻作成の際に「若く、できるだけ美しく」という注文を出していた事である。
しかし上記のノートルダム・クレリーの彫刻は、系統2の若者の還暦頃の姿を、リアルに描写したもののように
見える。これは、彫刻家が十五世紀に突如出現した(?)写実主義に忠実なあまり、故意に注文主の意向を無視
したのか(死後に制作された可能性も大)、それとも、かの「注文書」は、新教徒に破壊されたらしいサン・ドニ
の墓碑用だったのかもしれない。ただ不細工系統の肖像画を見慣れていた自分としては、クレリーの肖像が、年は
とっていてもなかなかの美男に見えたので(最初ルイ11世だとは思わなかったくらいだ!)、彫刻家の違約を
責めるのは気の毒な気がする。他にもこの系統に描かれている身体的な特徴は、親族の特徴と一致する点が多々
見られる。多少の贔屓目もあるかもしれないが、個人的にはこの肖像がルイの素顔にもっとも近いと思いたい。

 古今東西の「歴史上の人物」の肖像はたとえ実在であろうと、そしてリアルタイムに描かれた肖像であろうと、
更に掲載しているのが学術的なメディアであろうとも、過去から現在に到るまで、ごく僅かな例外を除いて、その
人物の『肖像』が本人の似姿だと思ってはいけないものらしい。逆に「肖像画が本人の顔を忠実に写したものと
なった」とわざわざ付記された十五世紀は、ある意味で『奇跡の時代』なのかもしれない。

 最後に、次の時代ルネッサンス期のイタリアで大活躍した超!有名な某芸術家が、注文された作品が依頼主に
似ていない事を指摘された時の、捨て台詞を引用しよう。
「何百年後の人びとが、肖像が本人に似ているかどうかなど、気にしたりするものか!」
・・・でもマニアは気にすんだぞーっ!!!

ルイちゃん「じゃあ、こんな肖像画も載ったりする〜?」
にゃんた「絶対ないです!!」
(と、言い切れないからコワイ…)
※ちなみに中世では、過去の歴史の人物でも、その絵が描かれた時代のコスチュームを着せられる場合が多いようです…(^_^;)



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