某学者が日本の幽霊は所縁のある人(殺された場合の加害者等)を追いかけて出るが西洋の幽霊は死んだ場所に
留まるものという定義を語っていたが、全部がそういうものではないようだ。場所につく西洋の例として英国の
ロンドン塔(牢獄&処刑場)を、日本の幽霊の例としては「四谷怪談」のお岩を挙げていた。しかし「四谷怪談」
は江戸時代に書かれた戯曲であり、四谷のお岩稲荷に祭られている「お岩さん」は実在の人物だ。彼女は夫を助け
落ちぶれた田宮家を再興した賢婦人であり、その婦徳を讃え、あやかりたいと思った人々が祭ったものである。
怪談物を上演する時に芸能関係者がお参りをしないと祟りがあるというのは「四谷怪談」の舞台が凝った大道具の
からくりで事故が起きがちだった事を「祟りがあるほど怖い」と興行主が宣伝代わりに利用して吹聴したからで、
むしろ怪談のお岩と間違われたお岩さんに無礼者として祟られるかもしれないから、謝罪の気持ちでお参りする
方が良さそうだ。
実際には「日本の幽霊」も加害者の前に現れる幽霊よりも無関係の人の前に出現する場合が多い。昔の幽霊は
柳の下とか人気のない暗い道、墓場などで「出た」らしいが、最近の幽霊はいわゆる廃屋や人気のないトンネル、
孤独死、自殺他殺等の「心霊スポット」に出没するモノとされている。そのテの場所で「実際に幽霊を見た」と
いう人や、少なくとも気配を感じたとか怪しい音が聴こえたと言う人は結構多いが、知らずに住んで「怪異」を
感じたら後で事故物件だったという話もよくある。しかし実際に事故物件を承知で住んでも何事もなく住み続ける
人も多い。幽霊を見がちな人達は「そういう人は霊感がないから気が付かないだけだ」と言うが、では「霊感」
とはなんだろう。
「霊感のある人」が殺人事件や死亡事故の現場等で被害者の姿が見えるという。「見た」というのは本来映像が
網膜に映り、それを脳が認識した場合をいうものだ。しかし人の目に入ってもそのすべてを脳が認識し記憶する訳
ではない。目視しても記憶に残らなければ「見ていない」つまり存在していたにも関わらず存在していないという
認識になる。「霊感のない人」は見えないというよりも「そんなものはあるわけがない」と思っているから「見え
ないというよりも見ていない」だけなのだろうか。また逆に実際には存在していないにも関わらず「見た」と認識
してしまう事もよくある。以前にも書いたが「逆三角形に点が三つ並んでいると顔に見える」等のような錯視は
例えば危険を危険だと完全に認識するより先に危険かも知れないという段階で回避行動や警戒態勢がとれるように
準備する為に人間の脳に組み込まれているプログラムのひとつだ。「怪異」も原則的には危険な物に分類されて
いる。だから異様な気配に敏感で素早く感知する能力は有用ではある。しかし殺人の恨みを抱いた被害者の幽霊が
脅迫の為に加害者の前に現れるのならわかるが、幽霊がなぜなんの関係もない人の前に出現するのか。未解決事件
等の殺害された被害者なら、殺害した犯人を名指しするとか遺体が未発見であれば隠匿された遺体の場所について
具体的な手掛かりを示唆するとかができないものか。事件によっては被害者自身が犯人を特定できない場合もある
だろう。それでも何らかのメッセージがあるからこそ顕現するのではないのか。せっかくの「感知できる能力」が
あるのなら「霊感を持っている人」にはぜひともこれらの「人々」の声なき声を聞き取り、伝えてほしい。
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