鉛色重たい空が、午後になるとさらにその濃さを増しまるで夕闇のようだ。
9月は6月に次いで降雨量が多い月だと天気予報がつげていた。今年は台風の当たり年で、
週末毎に日本に上陸をくりかえしている。
グラウンドでは、サッカー部がシュートの練習をしているだけで、他の部はさっさと中止を
決めたらしい。反面、校舎の最上階に設けられた体育館からは、バスケット部やバレー部など
のドドドという地響きのような低い音が、かすかな振動と共に伝わってくる。
恵子は一人、部室の片隅で重く垂れ込む雲を眺めながら、文化祭に出展するイラストの図案
を考えていた。
今日のような心まで曇らせるような天気は大嫌いなはずの恵子だが、なぜかこの空から目が
離せないでいる。別に今度の作品のイメージをそこから得ようというのではない。ただ、何か
が気になってしかたがないのだ。
「ガラッ」という大きな音にビックリして、恵子が振り向くと部長の石田がいた。
「あれ?どうしたんだ。電気もつけないで…」
と言いながら、照明のスイッチを押した。
とたんに部室自体が発光したみたいに明るくなった。恵子は雲にみとれていて、部屋が薄暗
いのも忘れていたらしい。
「あっ、な、なんだか、あの重苦しい雲にみとれてて…」
恵子らしくなくあわてて言い訳をする。
「珍しいな、いつもピーカン、お天気瀬川が…」と言ったところで、石田はそれ以上言うのを
やめた。
恵子が上目使いで睨んでいたからだ。
「ひっどーい! それじゃただのお馬鹿みたいじゃない。」
「あっ、ごめん、ごめん。そうじゃなくて、明るいだけが取り柄の…あっ」
とどめの一撃を加えてしまう石田だった。
「恵子。いる?」
その時、陽子がやってきて石田はこれ以上地雷を踏まずに済んだ。といってももはや遅いのだ
が・・・
「どうしたの?あれ?お邪魔でしたぁ?」
異様な気配を察して陽子は部室を出ようとした。
「いいの! 陽子いこ!!」
そう言って、恵子は部室を出ていってしまう。
陽子は石田に耳打ちするように言った。
「石田さん。何があったか知らないけど、恵子に優しくしてあげてヨ。恵子、石田さんのこと
が…」
「陽子! 早く!」廊下から大音響で恵子がどなっている。
「ハイハイ」と返事をしながら、「恵子の気持ちも考えてくださいネ」と石田に念を押した。
「今日は部活ないんでしょ? 駅前のパソコンショップ付き合ってよ」
しばらく一緒に廊下を歩いていたが、恵子が何も言わないので陽子は努めて明るく話した。
「…う…ん」部室の方を振り向きながら、一瞬うらめしそうな顔をした恵子を陽子は見逃さな
かった。
(やっぱり…けいこは…)
一転して恵子は笑顔で
「陽子、そのあと『DAMDAM』付き合ってね」と言い、教室にかばんを取りに行ってくる
から昇降口で待ってて、と走っていった。
(今日の恵子の様子だと、やっぱりヤケ食いだろうな)と陽子は思った。
恵子と陽子の家は駅に向かうバス停をはさんで学校の反対側にある。学校から歩いても
7〜8分程なので、いつもは着替えてから遊びに行くのだが、今日はこのまま行く事にした。
駅に向かうバスはかなり混雑していて、身動きできない程だった。たかが5分程度の乗車
時間が何十分にも感じて、駅に着いたときはヨレヨレになっていた。
「ふえーん。疲れたよぉ」恵子が文句をたれた。
やっぱり、いつもと様子が違うことを陽子は漠然と感じてはいたが、それは石田部長との
ことが原因だろうと思っていた。以前から、恵子は部長の石田に気があると思って、何度か
それとなく聞いてみたことがあるが、恵子本人は気が付いていないらしい。というのが陽子
の結論だった。
こと、恋愛に関しては陽子の方が遥かに興味があるらしく、素敵な彼との出会いを夢見て
いるが、いまだそのオーダーに見合った人が現われない。
恵子にいたっては恋愛の意味すら理解していないんじゃないか? という状況なので、石田
に対する自分の気持ちがわかっていないのだ。
「恵子。ホームページ作成ソフト何がいいかな?」
ソフトの陳列棚の前で、陽子がパッケージをとっかえひっかえ眺めている。
「私はこれを使ってるよ。と言ってもお母さんが買ってきたんだけど…」
といいながら、手にしたパッケージは新発売された多機能のものだった。
「いいな、恵子ン家はお母さんが使うからそういうの早くて、」
「うちのお母さん、パソコンどころかワープロ専用機だって電源すら入れられないんだもん。」
「ところで、GCI使うならプロバイダー変えないとだめだよ」
「うーん、それが問題なのよ。どうしよ。恵子ン家はどこなの?」
「うちは、お母さんの研究室に自由に使えるサーバーがあるし、負荷の調査も兼ねてるから
私も貸してもらってるの。」
恵子の家は母子家庭だ。
父親は恵子が中学二年の時、交通事故で他界している。くわしいことは恵子も知らないが、
どうやらもらい事故のようで反対車線を走っていたトラックが事故の反動で中央分離体を
乗り越え、恵子の父親が運転していたセダンとその他三台の車を巻添えにして横転したらしい。
それまで住んでいたのが父親の会社の社宅なので、引っ越さなくてはならなくなった。
たまたま陽子の家の隣が売りに出ていて、しかもまだ築3年なので、父親の保険金や慰謝料
などでその家を購入した。
母親は博士号を持っていて薬学研究所に勤めていたから、その収入だけでも生活することが
できる。
その研究所では世界の薬品などに関する情報をいち早く入手するために、通信インフラが完
備されていた。しかもセキュリティの観点から通信事業も自社内で行うために、大規模なテス
トサーバーが設置され、研究所の業務とは完全に独立している。テストサーバーではあるが、
モニターを募集して通信時の負荷や障害あらゆる場面を想定して運用に関するテストを行って
いる。恵子もモニターとしてサーバーを借りているので、あえてプロバイダーと契約しなくて
もいいのだった。
「いーなーぁ。いいなぁ。うちもお父さんの会社のサーバー使わせてもらえないかなぁ」
「でも、私のとこだとCGI使えないし、容量も30MB固定だもん。」
「それって贅沢だよぉ。私のとこは10MBだもん」
「でもさ、CGI使う必要あるの? 容量追加するだけでいいんじゃない?」
「だめだめ、やっぱりポインター当てると絵が動いて、時間に応じて『おはよう』とか
『こんばんは』とか変化しないと・・・」
と陽子は頭の中で既に完成イメージを楽しんでした。
「陽子。私、CGIのタグまだよくわかんないよ」
「大丈夫。大丈夫。タグなら私が勉強するから(^o^)/」
なにか自信ありげに陽子が断言した。
「恵子は今までのようにデザインお願いねぇ〜」
「はいはい・・・じゃ、『DAMDAM』よろしくね」
『DAMDAM』での陽子とのおしゃべりで気分転換できたらしく、恵子に明るさが戻って
いた。
結局、雨は降らずに空には星がきらめいていた。
二人は駅前から続くナトリウム灯のオレンジにライトアップされた並木通りを歩いて帰るこ
とにした。
また蒸し返すことになるかも・・・と思いながらも陽子は石田のことを話さずにはいられな
かった。
「石田さんて、そこそこハンサムなのになんでいつも余計なこと言って、みんなに嫌われるよ
うなことするんだろうね。」
「え? そんなに嫌われてるの?」
意外そうな恵子の表情。石田に対する自分の気持ちが全くわかっていないのだ。
「女子バスケ部の部長が、石田さんのことが好きらしくて『卒業までになんとかしたいって』
告白したらしいの。で、その返事がはっきりしないまま、しばらく一緒に帰ったりしてたんだ
けど、ある時『大学受験を前にして部活や恋愛なんかする暇なんてないよね』なんて言い出して、
『じゃあ、私たちはいったい何なの?』って思ったら、頭にきてそれ以来付き合うのやめたん
だって。」
「……。」
「しかも、そのあと一度も石田さんの方から謝ったり、デートに誘ったりしてくれなかったん
だって」
「… …」
「結局、ただのコンピュータおたく、CGおたくなんだって怒ってたわ」
「…… 。 」
「どう思う?恵子」
とっさに話題をフラれて、なんて応えたらいいのか判らなくて、恵子は笑ってゴマかした。
「恵子は石田さんみたいなタイプどう思う?」
「えー、わかんないよぉー」
恵子らしくないあいまいな答え。
「石田先輩、素敵な人だなと思うし、部長としても尊敬できるし、口下手でいつもしょうも
ないこと言ってるけど、悪い人じゃないよ。CGだってイメージを表現する時の真剣な顔を
見てると、すごく真面目な人なんだなって思うし…」
「好き?」
「へっ?★☆★!」

陽子の発したその二文字がいきなり恵子の心を撃ち抜いた。
赤信号のように顔じゅう真っ赤になって、恵子はその場に立ち尽くしてしまった。
「せ、先輩として、あ、あ、あこがれてるだけよっ!」
「隠すな隠すな!私にだけは素直に恵子の気持ち教えてよ」
「だ、だから、…陽子のイジワルゥ!」
「白状したな。そうか、やっぱりね。」
「なにが『そうか…』なのよ!」
「だって、恵子が石田さんを好きなことは、2-Aばかりか学校中のみんなが知ってるもん。」
「な、な、な、なによそれ!」
恵子はいま初めて石田に対する恋愛感情を意識したばかりなのに、周りでは遥か前からウワサ
になっていたなんて、恵子は頭の中が真っ白になってしまった。
「本人の恵子だけが、気付いていなかったんです!」
陽子は断定した。
「わ、私…えーっ!!…(どうしよう…私、先輩が好きなの?…)」
ドクッ、ドクッ…っと心臓が早鐘のように脈を打ち、呼吸ができないほど息苦しい。
激しい鼓動が陽子に聞かれるのではという心配と、息をしようと口をあけても空気が全然
入ってこない恐怖心から、パニックは最高点に達していた。
「ヒィック!」
突然、大きな音でシャックリが出てきた。
「け、恵子?」
「ヒィック!」
「恵子!大丈夫?」
陽子はビックリして恵子の肩を掴みながら心配そうな顔で聞いた。
「ヒィック!」「ヒィック!」
「ヒィック!」「ヒィック!」
「ヒィック!」「ヒィック!」
止まらない。恵子の顔ははさっきまでとはうってかわって青ざめていた。
「ヒィック!」「ヒィック!」
「ヒィック!」「ヒィック!」
「ヒィック!」「ヒィック!」
心の底からパニックに陥ったようだ。恵子にしては珍しいことだった。
「ヒィック!」「ヒィック!」
「ヒィック!」「ヒィック!」
歩くどころか立っていることもできない。
陽子は恵子をガードレールのパイプに座らせて、しばらく肩を抱いていた。
「ヒィック!」…………「ヒィック!」
少し落ち着いてきて、間隔が長くなってきた。
「恵子ごめんね。こんなにパニくるとは思ってなかったの」
陽子は半分泣きながら、恵子に謝った。と、同時に興味本位ですぐ追求したくなる自分を
責めた。
「だ、だいじょうぶ。もう、…ヒィック!…平気。ありがとう陽子。」
「ありがとうだなんて…悪いのは私だよ。恵子の気持ちも考えないで突然…ごめんね。」
「ううん、いいの…。でも・・・、明日からどんな顔で部長と話しをしたらいいんだろ…」
今度はなんだか泣きたい気分になってきた。今まで、恵子はたしかに恋愛感情とは無縁
だったようだ。
石田に対する自分自身の気持ちがはっきりしてくると、部活での石田との会話やその時
の光景が蘇ってきて、まるで恋人同士のようなシーンのいくつかが恵子の心に焼き付いて
離れない。また顔が赤くなって、あわてて意識から切り離そうと空しい努力をしなくては
ならなかった。
「陽子ぉ、今日、家に泊まりにきて。私一人でいるとどうにかなっちゃいそう…。」
「うん。いいわよ。でも、恵子のお母さんは?」
「昨日から筑波の研究所に行ってて、早ければ明日の夜に帰ってくるの」
「じゃあ、先に私の家に寄ってって、ゴハンも家で食べていけば?」
「ごめんね、またおばさんに迷惑かけちゃうね。」
「なに言ってんの、うちのお母さんは恵子が来てくれるの喜んでるわよ。修一が高校受験
じゃなかったら、絶対に泊まってけ、っていうわよ。」
「ありがと、でも修ちゃんも大変ね。国立受験するんでしょ?」
修一とは、陽子の二歳下の弟で、恵子も中学生の頃はよく一緒に遊んだものだ。けれど、
修一も中学生になった頃から恵子たちを異性として意識しはじめたせいか、一緒に遊ぶこ
とはなくなった。
成績は優秀でいつも学年でベスト5に入っている。特に父親や陽子の影響を受けて、
幼いころからコンピュータに接していたので、理数系が得意だ。
その修一がどうせ高校受験するなら、国立付属一本にすると言い出して家族を驚かせた。
陽子の家は、二人が住んでいる住宅地の専用公園を通るとすぐ目の前にある。恵子の家は
その後側になるので、ここからだと玄関は全く見えない。
恵子が陽子の家の玄関を入ろうとしたとき、恵子の家の庭先を通して、黒い高級車が暗闇
の中で街路灯の明りにかすかに浮かんでいるのを見た。
「恵子、どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
陽子に声をかけられてそのまま玄関に入ったが、恵子の記憶の中に線香花火のような
チリチリした光りが見えたような気がした。
<つづく>
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