カツン、と小さな金属音を鳴らしたのは、古泉の手によって閉められた容器だった。部屋を空けている保険医に代わり、その椅子に座る古泉は常備されていた消毒液の染み込んだ脱脂綿をピンセットで取り出し、の手の甲に出来た傷へと触れさせる。先ほど階段から落ちたときに手摺か何かと接触したことで出来たのだろうすり傷から生じる小さな痛みにが少し眉を寄せれば、それに気づいた古泉は、すぐに終わりますよ、といつもの穏やかな顔で言った。

「へー、そうなの、転校生。こんな時にねぇ」

けれど、ここにいるのは古泉との2人だけではない。涼宮ハルヒに朝比奈みくる、長門有希にキョン ―― とつまり、SOS団の全員がここにいるのである。そうして、見たことない顔ね、と言うハルヒに、今日転校して来たんです、と答えたへの反応が、納得したように頷きながら、けれど興味津々と言った様子でを見ながらのこの言葉だった。

「転校早々に階段から落ちるなんてまた災難だな」
「でも、大きな怪我にならなくてよかったですね」

そんなハルヒとは別に、キョンとみくるは心配と安心を織り交ぜた常識的な言葉をにかける。あのまま落下していたら確実に怪我をしていた、と平坦な音を紡ぐ長門に、古泉くんのおかげですね、とみくるが笑う。事実、それは確かであった。だからこそ、それを不思議に思ったのがキョンである。古泉の行動はとても素早かった。そのためには大怪我をせずに済んだのだが、如何せん早すぎたのだ。そして、まるで本能やら反射やらで動いたかのようなその行動以外にも、キョンにはひっかかる点がある。それは彼等の空気だ。

「・・はい、これで大丈夫ですよ。他に怪我はないですね?」
「うん、・・・ありがとう」

大きめのカットバンを貼り終え、柔らかく問いかける古泉に、がどこか戸惑いながら答える。その様子は所謂人見知りと言われるものとはまた違った。そもそもあの階段で、は古泉の名前を呼んだのだ。おそらくは知り合い以上の関係のはず、というのが現時点でのキョンの見解である。さらに言うなら、あのときキョン達に背中を向けていた古泉と、その古泉に隠れていたの表情は見えなかったけれど、あの雰囲気からすると、ただならぬ関係なのか?という推測もキョンの中には見え隠れしていた。けれどキョンはそれをここで口にする気はない。なんと言っても事なかれ主義である。しかし、そんなキョンの考えをばっさりと切って捨てる人物がここにはいた。もちろん、ハルヒである。

「そうね、よし!貴方名前は?」

先ほどから他の会話を余所に何か考え込んでいたハルヒは、それが解決したかのような表情の声音でに声をかけた。そういえばまだ名乗ってもいないということに気づいて、は改めて、けれどどこかハルヒの勢いに押されたように、少し座りなおしてハルヒ達へと向き直る。

「はじめまして、、です」
ね?私は涼宮ハルヒ。ハルヒでいいわよ!」

こっちはみくるちゃん、こっちは有希、これがキョンよ、古泉くんは知ってるのよね?と言葉を重ねるハルヒは最早聞く耳など持っていない。そして同じく慣れたものという団員たちもまた、それに対して口を挟むことはなく ―― 内心では別の人物もいるが ―― 頭を下げたり視線をくれたり手をあげたりと、それぞれの挨拶をする。そんな団員たちを確認するようにしてが頷けば、ハルヒはその姿を待っていましたとばかりに、それじゃあ、と言葉を重ねた。

、SOS団に入りなさい!」

びしっとを指差してまるで堂々たる宣言のように高らかにハルヒの口から落とされた言葉に、保健室は時が止まったかのように静まり返った。それは、ハルヒの言葉がいつものように突然のものであり、またここにいるのがSOS団というこの集まりの構成を理解している面々と、そのSOS団というものを全く知らない転校生だったからである。そうして、その中で一番早くハルヒに対して声をあげたのはキョンであった。

「おまえはまたそういう・・」

疲れたように、そしてどこか諦めを混ぜたキョンの声など耳に入っていないように、そうと決まればほら立ちなさい、との腕を取るハルヒに、は目を瞬かせる。そこでその間に入ったのは、の正面の椅子に座っていた古泉だった。

「・・・けれど涼宮さん、彼女は ――
「・・う、ん」

けれど、古泉の声は途中での声に遮られる。そしてその一言に、驚いたもの、冷静なもの、何か言いたげなものなどの様々な意思表示を持った保健室中の視線が向けられた。けれどそれらの視線を振り払うようにして、いい返事ね、と笑みを浮かべたハルヒに腕を引かれたが立ち上がる。もちろん、押されたというのもある。彼女には確かに惹かれるものがあったというのも理由だろう。けれど、なによりも大きかったのは、一員であることが明白な古泉の存在だった。

「よろしく、ね。ハルヒ」
「ええ!じゃあ早速部室に戻るわよ!」

素直なの言葉に上機嫌になったハルヒは、そのまま勢いよくドアを開けて保健室を出て行った。ま、まってくださいー とみくるが追いかけ、長門は何か呟きながら、けれど足を速めることはなくそれに続く。そうして保健室には、盛大なため息をついたキョンと、やれやれ、と苦笑しながら椅子から腰を上げた古泉が残された。

「仕方ありませんね。僕たちも行きましょうか」
「そうするしかないだろうな」

今彼等に出来ることといえば、確かに古泉の言ったとおりのことだけだろう。納得いかないような様子ながらも古泉に同意して保健室を出れば、もう廊下の見える範囲にい彼女達の姿はない。何が楽しくてこいつと2人きりで廊下を歩かなきゃいけないんだと思いつつも、そういや と、キョンは古泉に声をかけた。

「何か否定しようとしなかったか?ハルヒのイエスマン」
「結果論から言って彼女はこのSOS団の一員になった。それは変わりませんよ」

先ほど保健室での出来事へのキョンの言葉に、古泉は相変わらずの回りくどい言い回しで返す。そうしてそれには質問への答えは含まれていない。そんなことはもう既にいつものことと化しているのだけれど、今回はどこか違う気がして、キョンは言葉を重ねる。

「入ってほしくなかったような口振りだな」
「・・・・そうですね・・そうかもしれません。けれどそうでないのかもしれません」

たった今返された言葉と同様に要領を得ない、回りくどい言葉。けれどそれに含まれるニュアンスは確かに前のものとは違っていた。心情の通りの言葉のように届いた古泉の声に、キョンはそれ以上言葉を紡ぐことはしなかった。突然の展開に半ば追いつけずにいたが、いかにも常識人らしいがSOS団に入るというのなら、自分にとっては喜ばしいことである。そう思い直せば浮上した思考によって、随分大切そうにを見るんだな、という言葉はキョンの胸のうちに留められた。




そうしてたどり着いた部室のドアをガラリと開けば、即座に飛んでくるのは遅い!というハルヒの声。何をちんたらしてるのよ、はいはいすいませんね、なんていう会話をハルヒとキョンが交わせば、まあいいわ、とさも寛大な様子で言い放ったハルヒは、古泉の姿を目に留め、更にその古泉に視線を向けるを目の端に捉えて、そうだわ、と思い出したように声をあげた。

「古泉くん、それに!」

なんですか?と平静に返した古泉とは対照的に、みくると共にお茶を淹れていたは突然の指名に虚を突かれたように声をあげる。そんな2人を見て確信を得たように頷いてから、ハルヒは言い放った。

「あんたたち、今から付き合いなさい!」

その言葉に生まれたのは、保健室で起こったものよりも多少長い間である。そうして、パタン、と本が閉じられた音を合図とするように、その言葉を言われた張本人であるが、戸惑いながらもどうにか声をあげた。

「ハ、ハルヒ?なにを、言って・・」

の言葉に、至極尤もだ、と盛大に頷いたキョンとは違い、ハルヒは何か問題でもある?と言いたげな表情をに返す。そんなふうに返されてしまうと逆に何も言えなくなってしまったと代わり口を開いたもう1人の張本人はといえば、零したのは如何にもイエスマンらしい言葉であった。

「・・・わかりました、そうしましょうか」
「・・・・・・え?」

信じられない、というよりは呑み込めない、という表現の方がきっと今のには近いのだろう。同じくそれを思ったキョンは、けれど普段の古泉の様子とその立場を思い出して、案外素直に納得した。それには、この数十分の間に見た2人の様子に因るところもあるのだろう。そんなキョンと、表情を変えずに事態を観察する長門、逆に顔を赤くし小さく声をあげるみくるを措いて、ハルヒは古泉の了解の言葉に満足気に頷いた。

「そうと決まれば、二人は早退でいいわ!」

言うなり、ハルヒは机の上に置いてあった鞄をへと押し付ける。思わずそれを受け取ったが、その目に困惑と戸惑いと不安を混ぜてハルヒへと視線を向ければ、明日話はしっかり聞くわ!とウインクをして、ハルヒはの体をくるりと反転させる。そうすればその前には、いつの間にかしっかりと自分の鞄を手にした古泉がいつもの笑顔を浮かべて立っていた。




結局古泉に手を引かれる形で部室を出て行った2人の背中を思い出して、キョンははあ、と息を吐いた。ハルヒの考えていることはいつもわからない。けれど今日は常にも増してわからない。その疑問は、ちらりとハルヒがキョンの視界に移ったときに声をなって零れた。

「恋愛は一時の気の迷いじゃなかったのか?」

頬杖をついたまま、特にハルヒに視線を向けるでもないキョンであったが、そうよ、と頷いたハルヒの声に、当たり前でしょ、と言わんばかりの表情を浮かべているだろうことは容易に想像が出来た。別に、こんなことが出来るようになりたいなどとは思っていないが、とキョンは頭の隅で考える。

「別に恋愛をしろって言ってるわけじゃないわ。あの2人なら見てる方としても良く似合うんだもの」

悪びれる様子も迷う様子もなく口にされたのは、あくまでもハルヒの主観 ―― 確かに、似合うということについてキョンは否定する気は起きなかったが ―― である。古泉はどうでもいいが、出会った初日、それもまだ1時間も経たないこんな突飛な人間からいきなり付き合えとの命令を出された彼女には心底同情する、とキョンは心の中で呟いた。しかし、それを口にすることはない。
それは完全なるお前の勝手だろう、なんて言葉は今更過ぎるのだ。