日本2/3周日記(東海)
友情の関東東海編(東海)
はっきりした数字はわかりませんが、朝方の気温はたぶんマイナス3℃くらいだったのではないでしょうか。水溜りには当然のように氷が張っていました。
朝飯は、昨日の残りの野菜や肉を入れてラーメン。
ぼくがテントを建てた場所は既に大月市内だったようで、少し走ると宿場町の風情を残した町並が現れました。へえ、大月ってわりといいじゃん、と思いながら進むと、「日本三大奇橋 猿橋」の看板が出てきました。
猿橋という地名は「中央道、猿橋のバス停付近で三キロの渋滞」などと、交通情報でよく耳にしますが、実際の猿橋なるものは見たことがなかったので寄ってみることにしました。しかし、三大奇橋の残りの二つは何なんでしょう。岩国の錦帯橋と祖谷山の葛橋かな。
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猿橋
猿橋は国道から100mほど脇に入ったところにあり、駐車場には銀杏が落ちていて臭かったです。建築学的にはどうか知りませんが、見た限りべつに「奇橋」というほどのものではありませんでした。切り立った渓谷にかかっているので、名勝となったのでしょう。せっかくなので看板に書いてあった由来を紹介すると、
猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば
「昔、推古帝の頃(西暦600年頃)、百済の人志羅呼(しらこ)、この所に至り、猿王が藤蔓をよじ断崖を渡るを見て橋を作る」
とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)などと様々である
とのことです。「白癬」なんて、かわいそうな名前ですね。水虫持ちだったのでしょうか。
大月市街のダイエーでコロッケと食パンを買い、階段の踊場のベンチで昼飯。おばあちゃんが2歳くらいの孫を連れて買物に来ていました。孫は清涼飲料水「Qoo」のリュックを背負った可愛い女の子(たぶん)なのですが、
「あれ買うー」
「これ食うー」
「あそこ行くー」
「ババア嫌いー」
と勝手を言いながらそこらじゅうをヨチヨチ歩き回り、おばあちゃんが
「これ、それはまだお買物済ませてないでしょ」
「ほら、ここで食べちゃだめ。あそこにおじさん、じゃなくてお兄ちゃんがいるでしょ。あのお椅子に行こうね」
「これ、どこ行くの。そんな勝手したらもう連れて来んよ」
とオオワラワでした。
コロッケサンドをかじりながらそんな様子を階段の上から楽しく眺めていると、Qooちゃんの視線がぼくと合い、まっすぐぼくを見上げてきたので慌てて目をそらしました。
子供は人の顔をまっすぐ見つめてくるので怖いです。
国道20号から139号に折れ、都留市に入りました。あいかわらず狭い道です。
都留市という名前は耳に覚えがありましたが、今まで山梨県のどこにあるのか知りませんでした。 息が詰まりそうなほど狭い谷に家々が並んでいます。
都留文化大学出身で元同僚のりょんこちゃん(仮名)のことを思い出して
「只今都留市走行中。街も道も狭すぎ」
とメールを送ってみたら、
「都留はさびれた漁村のように気持的にも寒くなるところですが、今となってはなつかしいです」
と返事が返ってきました。まあ、判るような気がしないでもない。
道端のファッションセンターしまむらのトイレでウンコして、国道をさらに上り続けると、真っ青な空を背景に富士山が見えてきました。北西風に煽られた積雪が噴煙みたいにたなびいていました。やっぱいいですねえ、富士山は。これ見なきゃ日本を旅したって感慨湧きません。
富士吉田市に入り、ザウルスでインターネットの地図サイトを見ながら北口本宮富士浅間神社に行きました。この辺まで来ると路肩には雪がドカと積もり、完全に車道を走らなければなりません。冬はこれが嫌なんだよな。
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浅間神社参道を行く
浅間神社の参道脇に自転車を停め、ざくざくと雪を踏みしめて社殿に向かいました。参道中央は雪が掻いてありますが、その他の場所は20cm近く雪が積もっています。寒冷地特有のサラサラ雪です。
浅間神社で記憶に残っているのは、境内に富士太郎杉という巨木があったことと、拝殿にでっかい天狗のお面がかかっていたことと、買ったお札に木花咲耶姫の絵が入っていてちょっと嬉しかったことです。お札はやたらでかくて1000円もしましたが、日本一の富士山を祀る神社なんだからと、奮発して買ってしまったのでした。お札の木花咲耶姫はあんまり美人ではありませんでしたが。
夕方薄暗くなった頃見物したのは鳴沢村の溶岩樹形。林の中に、井戸みたいな丸い縦穴がぽっかり開いていました。これが、溶岩に包まれた大木の跡なのだそうですが、「ふーん、そんなもんか」という程度でした。
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雪の上で野宿
今朝の最低気温が河口湖でマイナス8℃だったそうですから、今夜も同じもしくはそれ以上に冷え込む恐れがあります。道の駅「なるさわ」に24時間オープンの休憩所があることを期待していたのですが、道の駅に着いてみると休憩所は午後5時で閉鎖してしまうとのことでした。けちー。
トイレは24時間オープンで、暖房がボンボンたかれていて極楽のような暖かさなのですが、まだトイレで夜を明かす勇気はありません。
仕方ないので腹をくくり、近くの林の中にテントを張ることにしました。雪の上でテントを張るのは初めてです。たぶん今回の旅で最も厳しい一夜になることでしょう。
バーナーで湯を沸かし、ペットボトルに詰めて湯たんぽにしました。
少しは眠ったような記憶があります。
夜中に湯たんぽの水を沸かしなおしました。
朝になってみると、湯たんぽと食用油とぼく以外、全て凍っていました。
外に出しておいた水袋は、鈍器と化していました。
テントをつつくと、内壁から氷がはがれてパラパラ落ちてきました。
食べ残していた人参やブロッコリーもコチコチです。
外気温はたぶんマイナス8〜9℃、テントの中もマイナス5〜6℃まで来たんじゃないでしょうか。
旅の終盤でいい思い出ができました。
「俺さあ、マイナス8℃の雪の上で野宿したことあるんだぜえ」
と友達に自慢できます。
道の駅のトイレで洗顔。昨夜一晩流しの下に充電器をセットしておいたので、機器の電池はばっちりです。
トレッキング姿のおばさんおじさんがウロウロしています。
「富士山に登るんですか?」
と訊いたら、
「まさかあ。その辺を歩くだけよオ」
とのことでした。「その辺」とは、きっと青木ヶ原樹海でしょう。
道の駅から少し走ると、左側に青木が原樹海が広がっていました。自殺の名所だとか、迷い込んだら出られないとかいろいろ話は聞きますが、国道から見る限りではただの藪です。どこか見晴らしのいいところから見下ろさないと広さも把握できないし。
林道に入れば「考え直せ」の看板などが立っているのかもしれませんが、除雪されているかどうかもよくわからないので、今回はさっさと通り過ぎました。
国道といえど日陰は路面が凍結していて、ヒヤヒヤしました。
本栖湖から国道300号に入りました。湖岸沿いの道路には何人ものおじさんたちが三脚にカメラを据え、富士山を睨んでいました。
おじさんたちにつられてぼくも振り返ると、まるで銭湯の壁絵みたいな、コテコテに美しい富士山が湖水の彼方にそびえていました。ついついぼくも土手にデジカメを固定して自分写真を撮ってしまいました。
トンネルを抜けると、富士山のかわりに南アルプスが見えてきました。
わが故郷はあの山並の向こう。今回は海側に迂回するつもりですが、直線距離なら飯田はもう近くなのでしょう。
ヘアピンカーブの下り坂が延々と続き、さっきまであれほど積もっていた雪があっというまに姿を消しました。
同時に別荘や土産物屋も消え、かわりに棚田や木造家屋が谷あいにへばりつく、典型的な寒村の風景が見えてきました。我が伊那谷の遠山郷に似た雰囲気です。そういえばこの辺は赤石山脈を挟んで遠山郷のちょうど反対側にあたります。雰囲気が似ているのも無理ないことかもしれません。
しゃあああと阪を下ります。こんなに標高が高かったんか、そりゃマイナス8℃は当然だな、と感慨を新たにします。
「木食上人の里」というシブすぎる売り文句の下部町を過ぎ、富士川を渡って身延町へ。
ぼくが身延という地名を知ったのは、学生時代に聞いた落語が最初です。なので今回の旅でも、本当は真冬の川に飛び込んで「お材木で助かったー!」と叫ぶ「鰍沢ごっこ」をしたいところなのですが、鰍沢町はルートから外れるので残念至極です。
身延山への途中に上沢寺という寺があり、「さかさ銀杏」が生えていました。さては弘法大師が植えたのかと思って看板を読んだら、さすが日蓮宗のお膝元、植えたのは日蓮上人でした。
むかしむかし。一人の山伏が、日蓮さんと宗論を戦わせました。山伏は日蓮さんに論破され、それを恨んで日蓮さんに毒餅を食べさせようとしました。しかし日蓮さんはすかさず見破り、餅を庭に投げ捨てました。すると犬がやってきてその餅を食べ、ころりと死んでしまいました。犬を哀れんだ日蓮さんは犬を埋め、墓標として杖を立てました。その杖が根付き、銀杏になったということです。
要は、毒をみだり捨ててはいけませんという教訓なのでしょう。この銀杏は葉や実が薬用になることから「毒消しイチョウ」とも呼ばれているそうです。
きっと胃腸にいいんだろうね。キャー。
毒死にした犬の養分を吸って根付いた銀杏なんだから、実や葉が毒用になってもいいと思うんだけど。
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地の神様「望月」
身延山の近くのデイリーヤマザキでパンとカップラーメンを食いました。駐車場の一隅にパンのケースがかぶせてありました。何かと思って覗いてみたら地面が四角く露出していて、お米が撒かれていました。
「地の神様 望月」
という看板が貼ってありましたから、コンビニの経営者は望月さんという名前で、コンビニを始める以前はここに地の神様が祀られていたのかもしれません。
もしかしたら、望月さんという名前の地の神様かもしれませんが。なんだそりゃ。
腹ごしらえしてから、坂を上って身延山久遠寺に行きました。日蓮宗の総本山です。日蓮宗ってどんな宗派なのかよく知りませんけど。
門前通りでは、ゆばを売る店が多かったです。日光もゆばが名物でしたが、やっぱ精進料理ということで寺や神社に縁が深いのでしょうか。
三門わきの観光案内所でマップをもらい、長い階段を登って本堂へ。石畳の上にはもみじが散ってきれいでした。
お札売り場のおばさんに
「毒消しの護符ってありませんか?」
と訊いたら、
「薬局じゃないからそんなのはありません」
と言われました。
じゃあ、交通安全センターでもないのに交通安全のお守り売るんじゃないよ。
本堂裏のリフトで山頂の奥の院に行けるようでしたが、乗りませんでした。登山道もあるようでしたが、めんどくさかったので登りませんでした。夏のころのぼくは、社寺に参拝したら必ず奥の院まで行かないと気がすまない男だったのに、一体どうしたことでしょう。寒いとめんどくさくなるんですよね、いろいろが。
本堂の隣にある事務所みたいな建物から渡り廊下を通って本堂に入れました。入場無料でした。
本堂は広い畳敷で、おじさんおばさんのグループがごろごろひっくり返ってくつろいでいました。みんな気持ちよさそうに寝っ転がりながら、
「こんなところで寝っ転がってちゃ、ご利益も何もないもんだよなあ」
と言っておりました。わかってんじゃん。
五体投地といえば聞こえはいいですが、仰向けじゃ言い訳きかんよな。
畳の部屋を見ると寝そべりたくなるという年寄りの習性は、各地の温泉施設で培ったものでしょう。
あと、この寺で印象に残っているのは、お寺の壁についていた鬼の彫刻が可愛いかったことくらいです。
身延参詣を終えると、あとは飯田までこれといって見たいものはありません。帰るだけです。
今後のルートとしては、国道52号を南下して清水市に入り、東海道に入った後は天竜川を遡り、佐久間・水窪を通って長野県入りするつもりです。
実は手持ちのルートに身延から先のルートが載っておらず、どんな峠道があるやもしれぬ、とひやひやしていたのですが、基本的に富士川沿いに海へ下るわけで、多少上り下りがあったもののさほどしんどい道ではありませんでした。
夕方、富沢町の道の駅に入りました。休憩所はありませんでしたが、トイレはあるのでここで寝ることも考えたのですが、結局水を補給しただけで再び出発してしまいました。
静岡との県境が近づくと、道の左右から人家が失せ、日もとっぷりと暮れて心細くなりました。やっぱ道の駅で寝たほうがよかったかなあと後悔し始めたころ、静岡県に入りました。境を越えたすぐのところに小汚い蕎麦屋があり、駐車場が広かったのでその隅にテントを建てました。
晩飯はレトルトカレー。標高が低いので、寒さはなんとかなるでしょう。
富士山麓ほどの寒さではありませんでしたが、それでも朝はびっしりと霜が降りていました。
蕎麦屋の親父が出勤してきて
「何もんじゃ、ワレえ」
と難癖つけられたらいやなので、朝飯を省略して8時に出立しました。
10時ころ、東海道に出ました。去年の9月に通ったはずですが、あんまり覚えていません。
堤防裏の公園で洗面し、少し走ってサンストアとかいうスーパーで握り寿司とドーナツを買って店先で食べました。
静岡市の中心部を抜けて、宇津ノ谷峠。昨年9月には、海岸沿いの国道150号を通ったのでこの辺は通っていません。
トイレ休憩のために道の駅「宇津ノ谷峠」に寄ると、サイクリングおじさんが話しかけてきました。荷物がないので、この近辺の人でしょう。
「どちらから」
「飯田から」
「どちらまで」
「ええと、いろいろ回って飯田まで」
要領の悪いぼくの返事にわかったのかどうなのか、おじさんは
「ははあ、すごいもんだ。若いもんはいいなあ」
とつぶやいていました。
藤枝を過ぎて島田市、そして金谷の中山峠。この辺は去年の秋に通った道です。同じ道を通るというのは悔しい反面、
「そうそう、ここのコインランドリー使ったんだよ」
「あ、ここで弁当買ったんだっけ」
などと、懐かしい思い出が味わえて少し楽しいです。
コンビニのロードマップを立ち読みして、磐田市の見附天神あたりで右折すればいいかなと思っていたのですが、ずっと手前の袋井市でついつい右折してしまい、一瞬道に迷いそうになりました。幸い「天竜市→」の標識が見つかり、結果的には近道できたようです。
今夜のねぐらは森町との境の深山橋の下。
近くにジャスコがあるのですが、早まってファミリーマートで晩飯を買ってしまったのが悔しかったです。
晩飯はレトルトの中華丼とパック酒。
飯田まではあと100km程度ではないかと想像しています。地元近くで野宿したくないので、こうなったら明日、一気に自宅を陥れるつもりです。飯田に入るころにはちょうど日も暮れて、ご近所や知り合いに目撃されることもないだろう。
朝飯はコンビニのサンドイッチなど。
今日はノルマの距離が長いので、早めに出発しようと思っていたのですが、なんやかんやで出発時刻は9時ごろになってしまいました。
NHKラジオ「子供ゆめ質問箱(ヤなタイトルだ)」で池谷幸雄が子供に逆上がりのコツを教えているのを聴きながら、天竜市の市街地を通過。もうこの辺はサラリーマン時代の営業エリアなので、見慣れた風景です。
「花桃の里」とかいう道の駅でトイレ休憩。浜松ナンバーの車から降りてきたおじさんたちの遠州訛りがなんとも懐かしい。
道は、どんどん山の奥に入っていきます。こんな道を通らなきゃ辿り着けない飯田って、やっぱり田舎なんだなあと、あらためて思います。
昼前、龍山村に差し掛かると「飯田90km」の標識が出てきました。すでに20km以上走ってきたはずなので、今日の走行距離は少なくとも110kmは超えることになるのでしょう。一般的な自転者には平均的な距離かもしれませんが、ぼくにとっては普段のほぼ倍の距離です。
龍山村は、さびれた家々が谷にへばりつくのどかな寒村です。暗くて狭いトンネルの中に交差点があり、そこを曲がって村の中心部に入っていくという、恐いところです。
道端に「溺死一切精霊」と記された石碑が建っていました。おそらく、天竜川の水害などで死んだ人を弔うものでしょうが、ストレートな碑文にそそられます。
この地方では山で死んだ人を「山ミサキ」、川で死んだ人を「川ミサキ」と呼び、そうした事故死者が生者に祟りをなすという言い伝えがありますから、この石碑も何かの祟りがきっかけで建立されたものかもしれません。
遠州から信州に入る道は主に二つあります。
一つは佐久間町・水窪町を通り、兵越峠を越えて南信濃村に入る道。
もうひとつは佐久間町から佐久間ダムに沿って富山村を抜け、天龍村に入る道。
後者は天竜川沿いの道なので峠越えはありません。しかしその途中に、長くて暗くて狭い上に舗装がデコボコでダンプが爆走するという、最悪なトンネル地帯があるのです。
ライトの点かない自転車でそんなトンネルを通るのは嫌なので、兵越峠のルートを選びました。
佐久間町を過ぎ、2時ごろに水窪町に入りました。商店街の個人商店でおむすびとパンを買いました。店のおばちゃんはぼくが自転車こいでいるのを目ざとく目撃していたらしく、訊いてきました。
「どちらまで」
「飯田までです」
「自転車じゃあ、今日中は無理だねえ」
「いや、今日中に着こうと思ってるんですが」
「兵越の道が凍ってなければいいけどね」
おばさんが言ったとおり、山の高い部分には雪が残っていました。
道はだんだん細くなって、ところどころ氷が残っています。
峠の手前の草木トンネルは、案の定自動車専用道路でした。でも別に監視されている様子もなかったのでとっとと潜り抜けました。草木トンネルは広いし明るいし交通量も少ないので、その辺の一般トンネルよりよほど安全です。三遠南信自動車道の一部になる予定なのですから仕方ないかもしれませんが、自動車道が開通するまでは自転車や歩行者も通行可にしてほしいものです。
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兵越峠
兵越峠はやはりしんどかったです。峠の頂上に着いたのは午後4時頃でした。ちょうど山の向こうに太陽が隠れようとしていました。
峠道の雪の量は富士山麓とほぼ互角。下り坂が凍結しているうえ、自転車のブレーキシューが磨耗していて減速がしにくく、そろりそろりと峠を下っていたら、麓に着いたころにはもう夜に近くなっていました。
南信濃村から上村へ向かいます。飯田へはまだ50kmあります。
空が晴れているので、半月が道を照らしてくれていますが、山間の狭い国道を無灯火で走る自転車は、ドライバーにとってかなり迷惑です。
「これも今日が最後なので勘弁してください」と、心の中で言い訳しながら走りました。
日が暮れると、寒さが募ってきます。さすがは信州、やはり静岡や関東とは厳しさが違います。道はゆるやかながら上り坂。峠越えの疲労も蓄積してきています。黙って漕いでいると気が滅入りそうになるので、
「あと少し、あと少し」
と呟きながら走りました。いわゆる「自分を励ましながら」というやつです。
上村では、神社に明かりが灯って車がたくさん集まっていました。そういえば12月は霜月祭りの季節。今夜が祭日の神社があるんだなあと理解しましたが、ここまで来ると早く家に帰りたい一心なので、そのまま通り過ぎてしまいました。
矢筈トンネルにさしかかったのは午後7時ころ。このトンネルも自動車専用ですが、そんなことはもとより承知。監視カメラで見つかって、警備員に捕まるかなとと思いましたが、そんな心配は杞憂にすぎず、無事通過して喬木村入り。
飯田まで、あとはもう下るだけです。
漕がなくていい分、寒さが募りました。阿島橋を渡って飯田に入り、ジャスコの近くから段丘の林の中の道を上って自宅にたどり着いたのは、8時15分でした。
家族が残しておいてくれた晩飯を食い、風呂に入ったら、体の心が抜けてぐにゃぐにゃになりました。
「じいちゃんがなあ、『アキラが旅から帰ってきてご苦労様会やる時は、ワシも呼んでくれ』って言っとったに。ご苦労様会はあしたやるで、じいちゃんとこに電話しとくな」
と母親が言っておりました。何でもテキトーにやってくれ。
翌日、日記読者の人たちに「放浪速報」で帰還を報告しました。
12月14日午後8時15分、無事飯田市の自宅に到着いたしました。
静岡県森町から100q以上走ったので、げっそり疲れました。
そのぶん、いかにも旅の大団円という気分が盛り上がってよかったです。
今回の旅によって、北海道を残して、一応全ての都府県にぼくの足跡(タイヤ跡)を刻んだことになります。
のろのろ走る自転車をよけてくれた全てのドライバー、怪しいテントを見逃してくれた全ての地元住民、泊めてくれたりおごってくれたりした友達、日記を読んでくださった読者の皆様に感謝しております。
根性任せの貧乏旅は気分的に一段落ついたので、来年は仕事でも探して、新しい目標作って少しずつ励んでいきたいなどと、しおらしい気分になっております。
ご愛読およびご声援ありがとうございました。
イマイアキラ