日本2/3周日記(長野〜三重) 試行錯誤の近畿編(長野愛知三重)

3月17日(日)晴 携帯片手に飯盒炊さん

 放浪日記日本一周(?)編をお届けします。
 今回は「です・ます調」がめんどくさいので、だ・である調にさせていただきます。ご了承ください。

 昨夜は元同僚の仲間と同窓会をし、家に帰ったのは夜の1時過ぎだった。
「気をつけて行ってきなんよ」
とみんな励ましてくれた。感謝。

 8時20分出発。
「旅立ち姿の写真を撮ろう」
と両親が言いだし、玄関で撮られている最中に近所のおばさんが通りかかって横目で眺められるので恥ずかしかった。
 国道153号、いわゆる三州街道(伊那街道ともいう)を名古屋方面へ走る。
 飯田はまだ梅の花がきれいだった。
 今回は調理用ストーブも買ったし、味噌醤油などの調味料もしっかり自転車のバッグに積んだが、菓子類を買い込んでおくのを忘れ、阿智村の外れで急に腹が減ったのでそば屋に入ることにした。
 この辺では名の知れた「おんびら」というそば屋の隣の、「花香」という全然名の知られていない店に入った。
 老夫婦がやっている店で、先客のおっさんたちは地元の顔役らしく、声高に田中康夫の悪口を言っていた。店のおばあさんに
「自転車でどこまで行くの」
と訊かれ、ぼくが正直に
「とりあえず沖縄まで」
と答えたらびっくりしていた。
 ここで食べたのは山菜そば(500円)と小ライス(100円)。こんにゃくの煮物とリンゴが出てきたのは、自転車小僧へのサービスか。
 そばにのっている山菜は、スーパーから買ってきたものに違いなかった。
 そばはずいぶんと柔らかく、年寄り好みの歯応えだった。裏のトイレ脇の洗面台で口をすすぐと、水が妙に鉄臭かった。
 先客のおっさんたちも出ていき、ぼくが食べ終わって店を出ると、店内には客が一人もいなくなった。日曜日の昼時というのに。
 一方、隣の「おんびら」は駐車場が満車だった。かつて「おんびら」でもソバを食べたことがあるが、さほど感動のある味でもなかった。
 「うまいか」「まずいか」の差ではなく、「まずいか」「まずくはないか」の違いだけで、隣りあった店にこれほど客の差が出てくるのか。哀れなものだ。

 昨夜の酒が残っていたせいで少し頭が痛かったが、満腹だし、天気もいいし、風も爽やかだし、峠越えの上り坂でも気持ちがいい。
 基本的にぼくは上り坂では無理に漕がず、のろのろ押すことにしている。自転車は平地と下り坂のためにある乗り物だ。  治部坂高原スキー場はまだ客が多く、繁盛していた。
隣村の平谷高原スキー場は半分近く茶色い土が露出していて、客もまばらだった。
 幸い、知り合いの役場職員に出くわすこともなく、根羽の下り坂を一気にか駆け抜けて愛知県稲武町へ。
 4時頃になってまた腹が減ってきた。途中の店で菓子でも何でも買えばいいのに、腹が減らないと店に入らない性分だ。
で、腹が減った時には付近に店がない。仕方ないので水をがぶ飲みした。
 汗と鼻水で塩分を消費しただろうと思ったので、味噌を嘗めた。俺ってワイルド。

 今夜のねぐらは、愛知県足助町の香嵐渓の河原。
紅葉の名所だがシーズン外れなので客も少ない。観光名所だから近くにトイレや水道もある。便利。
 テントを建てていたら、30過ぎくらいの兄ちゃんが話しかけてきた。
「君、もしかして旅人さん?」
「ええまあ。今日が一日目なんです」
「いいなあ。ぼくも6年間バイクで全国野宿してたからさ、君みたいの見るとなつかしくって。
冬バイトして、春になると旅に出るって暮らしを31まで続けてたから。もしかして日本一周めざしてたりとか?」
げ、鋭いなこの人。
「まあ、結果的にそうできればいいんですけどね」
「旅してるといろんな人に会うよね。テント張ってるだけで俺みたいのが寄ってくるし」
「旅に出るとどういうわけか風邪ひきませんよね。それに毎日メール日記書いちゃったりして、妙にマメになるんですよね」
「俺のころは携帯なんてなかったけど、日記は毎日つけたよ。家に戻ってコタツに入ると途端にだらだらしちゃうんだけど」
「そうなんですよねー」
「自転車旅かあ。俺も憧れたなあ。就職した今となっちゃもう無理だけどね。若いうちはいい旅しとかなきゃ。楽しい思い出いっぱい作ってくださいよ」
兄ちゃんはそう言って去っていった。
 31まで放浪してて、ちゃんと就職してんのかあ。結構勇気湧いてくるな。

 近くのコンビニで夕食の買い出し。レトルトカレー、生卵(4個パック)、食パンなどを買った。調理器具を揃えた途端に、買物の内容ががらりと変わった。変わってないのは発泡酒。
 河原でストーブを使ってご飯を炊く。中学生のころ飯盒炊さんして以来だ。
面倒なので米は洗わない。水加減もテキトー。途中焦げ臭い匂いがして、コッヘルの中で米が弾けるような音がするので、どばどばと水を足す。
 火加減が分からないので自宅に電話して家族に訊いてみたが、要領を得ない。
「泡が吹いてきたら弱火にしろ」とのことなのだが、このストーブは火力調節が著しく難しい。火を弱めようとすると消えてしまう。
 蒸らす時間が必要らしくて、待っていられないので先に発泡酒を開ける。
 すきっ腹に流し込むと、たかが5%のアルコールで腹がきしむ。極楽。
 そろそろいいだろうとコッヘルの蓋を取り、大盛りククレカレーをぶっかける。
スプーンを持ってくるのを忘れたので、カレーのパックを細長く畳んで代わりとした。
カレーを食う
カレーを食う

炊き上がりがどうなるかと心配したが、コッヘルの底を少し焦がした程度で、問題なく食えた。というより、やたらうまかった。
やはり自炊して温かいものを外で食うのは違う。冷めたコンビニ弁当をぼそぼそ食っていた昨年が悪夢のようだ。
 食った後のコッヘルはトイレットペーパーで拭く。焦げ跡が少し残ったが、フッ素加工なのでずいぶんきれいになり、洗う必要はなさそうだ。

 テントの外に「睡眠中につきご迷惑をおかけしています」の札をぶらさげ、寝る用意。
 リュックを開けると、底の方から入れた覚えのない大量の梅干しが出てきた。ぼくが梅干しが苦手なのを知っている姉の仕業だ。
 寝袋は二枚重ねにしたが、気温はさほど寒くない。12月の四国のように、狂ったように厚着する必要がない。
 日本一周の一日目という気負いのせいか、なかなか寝付けない。時折どこからか若者の笑い声が聞こえてくるが、さほどガラの悪い連中ではなさそうだ。
 今回の旅では、和歌山の海沿いを走って熊野と淡島様にお参りして、奈良で三輪山にお参りして、それから中国地方に抜けようと決めた。
 明日の朝飯はトーストと目玉焼きにしよう。

近畿編目次 表紙

3月18日(月)曇りのちときどき雨 眼鏡組合の遮光器土偶

 昨夜よく眠れなかったので、朝は7時過ぎまでウトウトしていた。
 朝飯は食パンと目玉焼きとコーヒー。ストーブで食パンを焼こうとしたが、ちりちりと焦げるばかりでうまくいかない。
 目玉焼きはまあまあの出来だったが、コッヘルの蓋をフライパンがわりに使ったら、底が紫色になってしまった。
 目玉焼きをパンにはさんで、黄身をだらだらこぼしながら食べた。
 朝飯の片付け、日記、歯磨き、テントの片付けなどをしていたら10時過ぎてしまった。
自転車に乗ろうとしてふと、公衆便所にカタクリの花のポスターが貼ってあるのに気がついた。どうやら香嵐渓はカタクリの名所でもあるらしい。平日というのに駐車場はけっこう満車になっていた。
 せっかくなので一応カタクリの花を見にいった。満開だった。

 11時にようやく足助町を出発。国道153号を名古屋に向かい、豊田市に入る。昨日のような峠越えがないのでありがたい。ただ、午後になって雨が降りだした。
 名古屋入りしたのは午後3時頃。名古屋市のマークは丸に八の字という、昔の八百屋のようなマークだった。
 途中のドコモショップで携帯電話の料金をプラスLに変更し、市内を西に向かって適当に走る。なんとか三重県方面に進んでいるつもりだ。

 途中で「熱田神宮」の看板が目に留まった。草薙剣が祀られている神社だ。せっかくなので参拝することにする。
 熱田神宮は大きな森になっていて、だだっ広い参道など、雰囲気が伊勢神宮に似ていた。本宮の前にはちゃんとセコムのおじさんも立っていた(セコムじゃないって)。
 本宮は写真撮影OKとのことで、その点が伊勢神宮と違っていた。
 参拝客は背広姿のおっちゃん、就職活動中らしきスーツの姉ちゃん、所属不明な兄ちゃんなどがちらほら。みんな熱心に拝んでいる。
 ぼくはといえば、参拝というのは神様にお願いすることではなく挨拶することだと思うことにしているので、お参りもすぐに終わってしまう。
 お札売り場で千円のお札を買う。厚い板製で、ちょっとうれしい。

 熱田神宮の森には楠が多い。太くてでっかくてこんもりした楠は、聖地にふさわしいと思う。この社地には七本の楠の老木があって、その一つは弘法大師お手植えの楠だという。大師生誕の地善通寺にも楠の大木があった。弘法大師と楠は深い縁があるのかもしれない。
眼鏡之碑
眼鏡之碑

 そんなことを思いながら参道をぶらぶら歩いていたら、木陰に遮光器型土偶のブロンズ像を見つけた。なんでこんなところにこんなものがと思って近寄ると、台座に「眼鏡碑」と刻まれていた。アホ臭さを嗅ぎつけて裏側の銘を読んでみると、

 眼鏡碑の由来
 眼鏡業に携わる私たちは八尺勾玉を造らせたもう玉祖命(たまおやのみこと)を祖神として崇拝し、眼鏡の功徳に感謝しつつ生業にいそしんでまいりました。
わたしたちの組合が六〇周年にあたるので、縄文時代のめがね(遮光器)をつけた土偶を顕彰碑として建立し、広く国民一般の方々に啓蒙、精神文化向上の一助にしようとするものであります。
 名古屋眼鏡商業協同組合
 だそうな。玉祖命は確か、天岩戸開きの時アメノウズメが身につけた勾玉を作った神様で、勾玉職人の一族のご先祖だったと記憶している。タマつながりで眼鏡屋の神様にもなったのだろう。
 でも、それならなんで勾玉のモニュメントにしないんだ?遮光器だけにかこつけて土偶を建てるってのはちょっと飛躍してねえか?
 ただ、「眼鏡の功徳に感謝」ってのは、ミョーに仏教臭くて微笑ましい。
こんなもの作ることがどうして「眼鏡の功徳を広く国民に啓蒙」し、「国民の精神文化向上」に役立つことになるのかは、よくわからない。
 要するに、なんか面白いもの建てたかった、そうなんでしょ?や〜い。

 今夜のねぐらは、神宮から一五分ほど走った川のほとりの公園。先輩(ホームレス)のテントもあるから、野宿しても文句言われないだろう。
 近くのスパーで食材調達。野菜を食わねばと思い、思わずキャベツ一玉50円を買ってしまった。

 公園でテントを張るが、強風で難儀。作業中にテントの上に自転車が倒れてきて、そのはずみでテントのポールがへし折れた。
 よもや今夜はテントなしで野宿か!?と冷や汗をかいたが、付属の部品で応急手当できた。しかしテントの布も破れたし、近いうちになんとかせねばならない。やれやれ。

 今晩の主食はごはん、おかずはキャベツとコンビーフの煮物。キャベツ半玉消費できるかと思ったが、コッヘルが小さくて入りきらなかった。
 自炊は楽しいが、疲れて腹が減っている時は精神的に辛い。空腹でイライラしてる時でも火加減を気にして米炊いて、そのうえ蒸らさなければならないのだから。
 うっかりしてストーブの火を消してしまおうものなら、ストーブが冷えるのを待ってプレヒートからやり直さなければならない。泣きそうになる。
 そんなわけで、今日のごはんは固かった。修行を積まなければ。
 キャベツ臭いゲップをはきながら、チーズをつまみにシュラフの中でウイスキーのお湯割りを飲んだ。昨日調子に乗って一瓶買ってしまったのだ。アル中にならぬよう注意しなければ。

近畿編目次 表紙

3月19日(火)晴 津島の神札ぼったくり

 公園というものは、夜中でも意外と人が来るものだ。
 悪ガキのたまり場ではなかったのでよかったが、真夜中にブランコを漕ぐ音だけが規則正しく聞こえていたのが不気味だった。
 話し声もなかったので、きっと誰かが一人で漕いでいたのだろう。真夜中なのだから子供ではない。
 よほど悲しい人なのか、妖怪なのかのどちらかに違いない。

 朝方は少し肌寒かったが、たいしたことはなかった。昨夜のウイスキーのせいか、旅に慣れてきたのか、昨日よりはよく眠れた。
 朝6時頃に起きてゆでたまごを作り、その湯で味噌汁を作った。具はもちろんキャベツ。それに干椎茸を少し。
 ご飯があれば最高なのだが、朝から米を炊いて疲れるのは嫌なので食パンで済ませる。
 ゆでたまごは、意図しなかったがほどよく半熟で旨かった。
   テントを畳んでいると幼稚園児が大挙して押し寄せてきて、コンクリートの山に登ったりして大騒ぎしていた。一人だけ
「ファイト、いっぱつ!」
を何十回となく、いつまでも繰り返し叫んでいる男の子がいて、涙を誘った。
 しかし平均すれば、一番やかましいのは引率の保母さんだった。彼女も子供と一緒に
「そおれ、いくぞお〜!」
などと叫んではしゃいでいた。仕事だからなのか、本気なのか、よくわからなかった。
 
 昨日折れたテントのポールをどうにかせねばならない。幸いメーカーが名古屋にあったので、今日中に手に入るかもしれないと期待して電話してみたら
「スポーツ店を通してご注文ください。その場合お届けまでには2〜3日かかります」
と、融通のきかない公社の職員みたいな返答だった。
 幸い走りだしてすぐにアルペンを見つけたので、ポールを注文し、明後日アルペン伊勢店で受け取ることにした。
 
 途中「津島」という地名を見つけた。そういえば牛頭天王で名高い津島神社が近い。
 国道から北にそれ、津島市に向かうことにした。
 津島神社は全国の天王社の総本社なのだそうで、熱田神宮ほどではないにしろ広々していて大きな神社だった。
 門前で石碑に腰掛け、食パンとヨーグルトとチーズの昼飯を食べた。
 昼食後、参拝。
 お札を買おうかと思ったが、1,200円もしたのでやめた。熱田神宮でさえ1,000円だったのに。あまりお札ばかり買っていると先が続かない。
 
 天気もいいし、この旅最初のスケッチでもしようと決めた。神社のトイレにザウルスなどの充電池をセットした後、神社裏に天日干しされていた桶やら板やらをスケッチすることにした。
 境内の掃除をしていたおいちゃんが話しかけてきた。この辺の人もけっこう訛りが強い。


「変わったもん描いとるなあ。これはなあ、17日に祈年祭っちゅうまつりがあったもんでねえ、そんとき神さんに供える餅とかおこわとかをふかしたんだわ。ここじゃ餅はよう搗かっせるに。
 あの樽はなあ、紐がついとるだら。あれにこれっくらいの大きなフナを通して供えるんだわ」


 久しぶりのスケッチだったので時間がかかり、描き終わったころにちょうど巫女さんが道具を片付け始めた。ぼくが描き終るのを待っていたのかもしれない。


 津島神社を出て、岐阜県をかすって長良川岸を南下。広々して景色はいいが、道が狭いうえに車の量が多いので、少しきつい。
 国道1号に戻り、桑名で寝ることにした。「その手は〜」で有名な焼きハマグリを食おうかと思ったが、売っている店の様子を見る限り、どうやらただの佃煮のようなのでやめた。
 イメージとしては、店先で生きたハマグリを炭火で焼き、醤油を垂らしてぴゅうぴゅう煙が出ている、そんなのを想像していたのだ。


 城跡近くの公園を野営場所に定めた後、買い出しのためにスーパーを探した。しかし桑名は妙な町で、スーパーがほとんど見当たらない。
 ようやく中心部にアピタを見つけ、入ってみるとやたら混んでいた。どうやら一帯の客を全て集めてアピタが一人勝ちしているような気がする。
 キャベツが残っているので今夜は肉野菜炒めにしようと、豚肉(300円)とモヤシ(35円)を買った。


 公園に戻って調理を始めたが、飯が炊き終わった時点でストーブの具合が悪くなった。どうやら燃料不足のせいらしい。
 慌てて近くのガソリンスタンドに灯油を買いに走ったが、既に閉店していた。
 今夜は野菜炒めをあきらめ、近くのコンビニで缶詰とのりたまふりかけを買っておかずにした。
 火力が弱めだったせいか、ごはんはこれまでで一番うまく炊けた。
 豚肉とモヤシは足が早い。あしたの早いうちに消費しなければ。

近畿編目次 表紙

3月20日(水)晴 ザウルスさっそく故障

 日記を打っていたら8時頃になった。牛乳とロールパンで軽く朝食。
 トイレで洗顔・髭剃り・頭を洗う。大便もする。今回の旅で初めてのウンコだ。
 鼻のかみすぎで鼻はガビガビ、唇は乾燥してバリバリ。食事の時も口を大きく開けられない。
 撤収間際、散歩のおじさんが話し掛けてきたが、口が動かなくてろくに会話できなかった。
 おじさんは俺のことを超人だとか、若い頃を思い出すとか、言っていたような気がする。
 途中、トンカチとかいうホームセンターで灯油を入れた。1リットル29円。その半分以下しか入らないのだが、1リットル単位でしか販売しないのだという。まあ、たいした出費ではない。

 国道23号を行く。四日市の公園で、ちょっと早い昼食にしようと決める。昨日買って使えなかった肉とモヤシを消費せねばならない。
 しかし、ストーブの火がやっぱりうまく付かない。ストーブをあちこち分解して、何とか使えるようになった頃にはしっかり昼になっていた。
 肉野菜炒めを鍋二杯食い、肉とモヤシを全部食うのがもったいなかったので、晩の食材にとっておくことにする。生肉はさすがにやばいので火を通した。片づけしているとまたどこぞのおっさんが現れて、
「どこから」「どこまで」の会話。
「いい思い出作りなさいよ」
「どーも」

 国道ばかり走るのは味気ないので、午後3時頃にちょっと海側に道を逸れてみた。
 松の防風林の向こうに堤防、その向こうに砂浜。さっそく降りて裸足になり、足に海水を浸してみる。
 意外と冷たい。しばらく足をつけているとかじかんでくるほど。
 海岸沿いに伊勢まで行ければ最高なのだが、堤防沿いの道は川や港によってすぐ途切れる。やはり無難なのは国道ということか。それでも昔ながらの「伊勢街道」の町並風情は悪くなかった。

 国道23号に戻り、「そーいやここ、去年通ったかもな」と思いながら津市の中心地を通過。
 夜は香良洲町というさびれた町の海沿いの公園にテントを張る。キャンプ場らしく、利用者は前もって役場に連絡を、との看板が出ていたが、役場の電話番号が書いてなかったのをいいことに、そ知らぬ顔でトイレに近い松林にテントを建てた。見つかって、誰かに言われてからでも遅くないや。
 飯は、うどん。残り最後のキャベツ・肉の残り・スーパーで一本だけ買ったニンジンの切れ端などと一緒に煮る。やはり米を炊くよりも手っ取り早い。

 ザウルスの調子が良くない。ボタンを押しても電源が入らない。
 ここは静かで寝やすい。

近畿編目次 表紙

3月21日(木)曇のちときどき雨 恐るべしノリナガ

 朝飯は再びうどん。もやしを今朝までとっておくのはやはり厳しかった。芽の部分が溶けている。それでも強引に鍋にぶち込んでしまう。
 誰かがキャンプ料を取りたてに来るかと思ったが、何事もなく出発。国道23号に戻り、松阪へ。

 松阪では本居宣長記念館に行く予定だ。
 本居神社にお参りし、城の秘密の抜け穴とやらを覗いてから、記念館へ。展示内容は、今どきの施設にしては地味だったが、それなりに面白かった。古事記の世界観を宣長がチャート化した「天地図」、架空の都市と系図をでっち上げた「端原氏城下町図」と「端原氏系図」。特にこの架空の町図と系図は、宣長が何かオリジナルの物語でも構想していたのか、と思わせる。本居宣長版「帝都物語」みたいなものを。
 今は西洋風なファンタジーが飽きられて、和風伝奇ファンタジーが流行ってるけど、宣長が残したこいうものを使って日本的クトゥルー神話みたいなものもできるんじゃないだろうか。

 他に思ったことは、
「やっぱ学者って、細かい字を書けないと務まらないな」 ということ。そして、宣長が17歳の時に書いたメモ帳が、国の重要文化財に指定されている事実。やはりエライ人は扱いが違う。俺が17歳の頃何を書いてたか。授業ノートの他には…、うう、恥ずかしくて言えない。
 宣長の旧宅「鈴屋」が記念館の近くに移築されていて、いい雰囲気だったのでハガキにスケッチしていたら、ちらほら雨が降ってきた。慌ててレインウエアを着て出発したが、その後はほとんど降らなくて拍子抜けした。

 なつかしい秘宝館の前を通過して伊勢市に入り、とりあえず情報収集のため近鉄宇治山田駅へ。今日はアルペン伊勢店に、テントポールが届く手はずになっている。
アルペン伊勢店を見つけだして無事ポールを入手し(税込2,100円)、今夜は倉田山公園というところのトイレ裏でキャンプ。近くのスーパーで食材を買い込み、思わず無洗米2sを買ってしまった。重いなあ。
 翌朝の朝食の分も炊こうとしたら、米が多すぎて鍋に溢れんばかりになってしまった。下は焦げるわ上は硬いわ、どうもうまくいかん。ストーブの調子も今ひとつだし。
 今夜のメニューは牛肉とごぼうの混ぜご飯(レトルト)。そして冷奴。コップでお湯を沸かしてウイスキーのお湯割りを作ろうとしたら、コップが熱くて半分以上こぼしてしまい、そのうえお湯が灯油の煤臭くなってしまって最悪だった。

近畿編目次 表紙

3月22日(金)曇のち雨 恐るべしマコンデ

 宿営地はどこか臭かった。トイレの裏だったけれど、人糞臭ではない。近くで家畜でも飼っているのかという種類の臭いだったが、結局原因は掴めなかった。もしかしたら、草木の臭いなのかもしれない。

 昨日炊いた飯を火にかけて温めてみたが、焦げるばかりだし火も調子悪いので止めた。昨夜の時点では、ムスビにして昼飯にしよう、などと考えていたのだが。
 味噌汁は作った。豆腐、椎茸、ワカメ。ネギがないのが残念だけど、俺好みの味噌汁。
 あとのおかずは、姉の梅干。初めて一個だけ食べた。それからフリカケ。

 トイレで携帯を充電しながらテントを畳んでいたら、掃除のおじさんが連れに向かって
「誰かが充電してんだよ」
と喋っているのが聞こえたので、慌てて
「それ、ぼくです」
「困るんだよね、掃除できないから、ごちゃごちゃ云々」
独り言みたいな小言、すなわち「ひとりこごと」だったので、何言ってるかよく分からなかった。

 今日は雨と言われていたので、少し急いでテントを畳み出発。伊勢郵便局で一万円下ろす。一週間もたなかったのが悔しい。熱田神宮のお札やテントポールのせいだ。食費だけの出費なら、まだ手元に三千円は残っていたはずだ。
 郵便局の前で「さて、次はどこ行こうか」と地図を見ていると、おじいさんが話しかけてきた。
「これからどこへ」
云々。愛想のつもりで
「伊勢のオススメポイントはどこですかね」
と訊いてみたら、
「古市ってところには昔大きな遊郭があったんだが、戦争で焼けてしまってなあ。麻吉って旅館が一つ残ってるだけだけど、近くには入場無料の資料館があって、係員さんが何でも教えてくれるよ」
と教えてくれた。そして話題は戦時中の回想へとトリップ。
「終戦の二週間前に空襲受けてなあ、徴古館なんかも焼けてしまったんじゃ」
とのこと。

 紹介された以上は行かないわけにいかないと思い、坂道を上って古市の町へ。長峯神社とかいうアメノウズメを祀った小さな社に挨拶し、麻吉旅館へ。斜面に沿って何層かになった建物で、眺めもよさそう。さびれてるけどいい雰囲気で、リッチな伊勢観光の時にはここに泊まるとカッコいいだろう。
 おじいさんに紹介された資料館は、祝日の翌日ということで休みだった。
 その後、倭姫宮にお参りしてから猿田彦神社へ。お札授け所には二人の巫女さんがいて、ぼくはブスな方の巫女さん(失礼な!)から剣幣(800円)を買った。

 その後、伊勢内宮に二度目の参拝。夕暮れに行った前回と違い、小雨の平日だが客は多い。宇治橋手前でヤクザっぽいおいさんに声をかけられ、ケバ目の情婦らしきおねえさんとのツーショットを撮ってあげた。

 内宮の正殿では、男の子が母親に
「ねえ、ここでナンマイダしないの?ねえ、しないの?」
としつこく尋ねていたり、
「写真撮っちゃいけないの?」
と尋ねるおじいさんに警備員さんが
「まあ昔はねえ、写真撮るのは恐れ多い、なんてことも言ったんですけどね、まあ今じゃやっぱりフラッシュ焚たいたりするとね、それに拝んでる所を撮られると嫌だという人もね、いるんで、まあ、そんなに大きな看板で出してるわけじゃないんですけどね…」
と、しどろもどろで答えていた。
 横の方に回りこむと、砂利越しに正殿がわずかに見える場所があったので、せっかくなので写真を撮った。

 宇治橋を渡って「おかげ横丁」に行くと、雨が本降りになってきた。
おかげ横丁はいかにもな観光地だ。昔は伊勢御師が住んでいたそうだが、昔も今も商魂逞しい連中がひしめいている場所ということだろう。古びた雰囲気の建物が多いが、どれも皆食い物屋か土産物屋。
大学時代の友人で三重に勤務経験のあるプライムモア藤崎君(仮名:日記読者)が、
「伊勢神宮門前の赤福本店で赤福を食うべし」
とメールで教えてくれたのを思い出して、寄ってみた。黒光りする柱が印象的な店だ。けっこう混んでいたが、男一人ならどこでも坐れる。
 赤福三つと焙じ茶がついて230円。赤福は土産としてよく食うが、こういう場所で茶を啜りながらちまちま食うと、なんだか美味しく感じられる。作りたてのせいもあるだろうが。
 ガラス越しに、餅に餡をつける作業が見えた。マスクをしたおねえさん(?)たちが素手で餡を餅に塗りつけている。赤福の餡の形はその指の跡なのかと、初めて知った。
 今日はおかげ横丁で食い歩こうと、次に揚げ団子を食う。看板を見て
「すごろく団子ください」
と言うと
「すごろく団子は店の名前でねえ」
「じゃあ、エビ団子」
「あいよ」
エビ団子は100円。要するに揚げかまぼこだ。なにはともあれ、揚げたてはうまい。
 藤崎君は、なんとかいう伊勢うどんの店を推していたが、メールを確認できないので店の名前がわからない。確か伊勢市駅前にあると書いていた気がする。そっちまで行くのは面倒くさいが、伊勢うどんの味を再確認するつもりで手近な店に入った。「二光堂支店」という、ちょっとこぎたない店だった。
 ぼおっとしたおっさんと、ぼおっとしたおばあちゃんの店員がいた。
 席に着いてもなかなか茶が出てこなかった。注文した伊勢うどんが出てくるのにも、しばらく待たされた。いつも思うが、こんな具もないようなうどんが480円とはふざけてる。タレも多すぎてしょっぱすぎる。
 ぼくが食べているうちに客が増えてほぼ満席になった。ツッカケ履きに首手ぬぐいのばあちゃんが助っ人として働き出した。
 先ほどのばあちゃんに代金を払う。ありがとうも言わない。レインウエアを着こんで店を出ようとしたら、首手ぬぐいのばあちゃんが
「お代払った?」
「…払いました」
思わず目をむいてしまった。
 今までの経験で、見た目まずそうな店で、入ってみたら実はうまかった、という店はない。
 やっぱり、伊勢うどんなんてそれほどうまいものではないな、と思った。

 おかげ横丁を出て、雨の中「朝熊街道」を鳥羽方面に走る。途中、伊勢神宮の神田があった。茅葺屋根の家と手入れの行き届いた裏山が、わざとらしいくらいにきれいだった。
 右神神社とかいう小さな神社を覗いた後、マコンデ美術館へ。前回ここを通ったとき、すごく気になったものの入らなかったのだ。
シェタニの像
シェタニの像

 マコンデというのはアフリカのタンザニアあたりに住む部族の名前で、彼らが製作した彫刻を展示しているのがこの美術館だ。
 入館料は1000円と少々張ったが、中に入ると不気味かつ珍妙な彫刻群に圧倒された。特に「シェタニ」(サタンの意)というモチーフは、出っ歯の人相が他人事とは思えなくて、痛い反面可愛かった。
 木の根っこなどの形をそのまま人物像にするので、顔・胴・手足の位置関係が滅茶苦茶で、まるで異次元の生物を見ているようだった。
「子供に浣腸する医者」
「痔を病む骸骨」
などという作品もあったが、そんな創作テーマが、一体どこから湧いてくるのだろう。アフリカ人の頭の中は謎だ。
スナップ写真撮影OKとのことだったので、喜んでずいぶん撮りまくってしまった。
受付のおじさんに
「なんでアフリカ芸術の美術館がここにあるんですか?」
と訊いたら、
「別に意味はありません」
とあっさり言われた。コレクションを収集したのは名古屋の人なのだそうな。
 売店には小さなマコンデ彫刻も売られていたが、「いいな」と思うものは全て数万円の値がついていたので手が出なかった。

 濡れたレインウエアを着こんで再び出発。去年通った道を鳥羽へ。途中九鬼水軍の城跡なるものをちらと見物し、ビスケットをばりばりかじって水で流し込みながら磯部町の伊雑宮へ。
 伊雑宮では、今どき短ランを着た頭の悪そうな高校生二人と、関係者らしきスーツ姿のおじさん数人が、熱心に参拝していた。
 彼らが去るのを待ってお参りすると、賽銭箱に人数分の千円札がひっかかっていた。どこぞの御曹司の合格祈願なのだろう。

 雨降りなのでねぐら探しが難しい。伊雑宮の斎田には屋根つきのスペースがあって惹かれたのだが、いかんせん周囲の住宅から丸見えなので断念した。
 磯部町の駅前公園に東屋があったので今夜はここに決定。やはりなんとかなるものだ。すぐ近くにスーパーがあるのも幸いだった。
 ボンベの燃料が少なかったので、晩飯は加熱効率の良いうどん。続くなあ。
 お湯を沸かして副菜のアスパラを茹でてから、そのお湯でうどんを煮込む。具はもやしとハム。ストーブの扱い方もコツがつかめてきたような気がする。
 今夜は酒は飲まず、牛乳をがぶがぶ呑んだ。

 今日は一日の走行距離が短いので臀部は痛くないが、妙に肛門だけが痛い。痔だろうか。

近畿編目次 表紙

3月23日(土)晴 アイスの里の牛鬼

 朝、日が出ていたのでありがたかった。
パンツと靴下を洗い、レインウエアとともに植木の上に広げて乾かす。目の前が志摩磯部駅なので、時々電車のアナウンスがうるさいし、ホームからぼくが丸見え。まあいいけど。テントを繕ったりして10時ごろに出発。風が強い。
 このあたりの地図を持っていなかったのだが、
「どうせ田舎だ、国道を走れば海岸伝いに和歌山に行けるんだろう」
とたかを括って、国道167号を賢島方面に走ったのが間違いだった。昼前に橋を渡って賢島に着いたのだが、そこはその名のとおり島だった。
 さっさと引き返せばいいのに、強引に狭い道を行ってみると、潅木に覆われた崖っぷちに出てしまった。
「なんじゃこりゃあ」とぼやきながら賢島駅まで引き返し、別の道に行ってみたら、企業などの別荘地帯を抜けて、元の道に戻ってしまった。
 熊野方面に行くには、国道を逸れて浜島方面に行かなければならないことに気づくまで、しばらく阿児町内を右往左往してしまった。アホだ。
 リアス式海岸沿いの道。風が強い。レインウエアを羽織っていても肌寒い。
 道端の展望台みたいなところで、コンビニで買った味噌ラーメンを茹でて昼飯にしようとしたが、うまく火がつかない。昼間だと炎の色が見えにくくて調節しづらい。風が強いのですぐ消えるし。
 ラーメンは結局断念し、残っていたパンとハムで昼飯とした。

 国道260号に入り、やがて狭い田舎道になる。岬と入江が入り組んでいるから、上り下りも激しい。
 朝、牛乳をがぶ飲みしたせいか、屁が出る。ブーと音をたてると、肛門が震えて、痔(?)で痛んだ尻に心地よい。

 南勢町に入ると、小さな漁村が多くていい雰囲気。
 峠道に、「五輪坊」という妖しげな遺跡があった。石が敷き詰められた真ん中に、古ぼけた五輪塔が立っている。墓らしい。
 看板によれば、これは山火事が起こったために見つかった遺跡だという。山火事以前からこの場所には朱が埋められているとか、平家の落武者が割腹した場所だと伝えられていたらしい。かなり祟りパワーを秘めた場所として信仰されているようだ。
 ここへお参りすると、イボが取れたり喘息が治ったりするという。

 町の中心部に入って地図看板を見ると、近くの「愛州の里」というところに「牛鬼」の像があるという。
 よっしゃ、今夜は牛鬼の足元で寝させてもらおう。と決め、近くのスーパーで買物。牛肉細切れ、食パン、バナナなどを買う。

ガソリンスタンドで灯油を入れたら、「15円です」とのこと。なんだか申し訳ないので20円出し、
「お釣りはいいです」
と言ったが、きちんと5円の釣りとレシートをくれた。

 愛州の里は五ケ所城という城跡を公園化したものらしい。「剣道のふるさと」だそうで、下手な絵の案内看板が出ていたが、なんやかんやでまた道に迷った。看板に従って走っていくと、川沿いの山道に来てしまい、
「ここから先、歩行者以外は通れません」
…そういう断りはもっと先に出しといてほしい。
 苦労して着いてみたところで大した公園ではなく、「作っただけ」な感じの茶室と、「動いているだけ」な感じの水車小屋があるばかりだった。
愛州の里の牛鬼像
愛州の里の牛鬼像

 お目当ての牛鬼像も、なんだか曖昧な形をしたシロモノで、面白くなかった。
 説明文によれば、この城の近くに棲んでいた牛鬼を、弓の名手だった城主が射殺したのだという。その祟りで奥方が病気となり、彼女を離縁したところ、奥方の実家の北畠家が怒って五ケ所城を滅ぼしてしまったのだそうな。

 なにはともあれ、トイレも水道もあるので、テント設営。燃料も充分なので飯もそつなく炊けた。少し水が多かったかなという気もしたが、今までで一番うまく炊けた。
 おかずは、昨日の残りのモヤシと安売りしてた牛肉細切れ。ウイスキーの瓶が終わった。

近畿編目次 表紙

3月24日(日)曇ときどき雨 リアス海岸にウンザリ


 夜はフクロウの声が聞こえて、風流だった。
 朝飯は、昨日の昼に食べそびれた味噌ラーメン。うまかった。
 歯を磨きながら、その辺を少し散歩。牛鬼像の奥の細道に入っていくと、城跡の古井戸などがあった。

 雨が降りそうな空。
 今日はしんどいルートだった。小さな湾、小さな漁村が峠に隔てられて繰り返し現れる。景色はいいのだが、自転車ではかなりしんどい。道沿いには河童の棲んでいた川やら、鬼が棲んでいた洞穴やらがあった(鬼の洞穴は、案内看板を見ただけだが)。
峠道のトンネル
峠道のトンネル

 一番しんどかったのは、南島町から紀伊長島町に行く峠道。箱根ほどではなかったかもしれないけれど、少なくとも治部坂峠よりはしんどかった気がする。峠頂上のトンネルも真っ暗な上にやたら狭く、これが国道かと疑いたくなった。

 トンネルをくぐった時点で雨が降り出した。長い下りが気持ちよかった。
 錦という漁村を過ぎて、更に峠を二つほど越えて紀伊長島町の中心部に出た。紀伊というくらいだから和歌山県かと思いきや、まだ三重県だ。しぶとい。
 ねぐらを探しながら行くと、道の駅に大きな東屋があるのを見つけたが、近くに晩飯を買える店がないのでもう少し走ることにした。
 「主婦の店」とかいうスーパーで食材を買い、その先にあるらしき臨海園地を目指して走る。途中にうら寂れた海水浴場があってそそられたが、水が出ないので諦めた。
 結局臨海園地に着いたのは夜8時だった。これほど遅くまで走ったのは今回初めてだ。
 ラジオをつけると、日曜なので「ラジオコメディー みんな大好き」が鳴っていた。中村メイコの声にどっと疲れが増し、早々にスイッチを切った。民放はCMがうるさいので聴かない。
 
 晩飯はレトルトカレーにするつもりだったが、飲むヨーグルトの一気飲みと食パンで腹が膨れてしまったので、ナスの味噌汁だけ作って飲んでシュラフにもぐった。
 国道42号から離れていて、人家も全くない入江なので、とても静かだ。波の音が規則正しい。山の方でなにやら物音がするが、猪だろうか。

近畿編目次 表紙

3月25日(月)晴 種まき権兵衛の呪い

 朝、テントの中でウトウトしていると、数人のおじさんおばさんが集団で隣の神社にお参りに来た様子。
 昨夜から水に浸したおいた米をナスと一緒に炊き、レトルトカレーをかけてナスカレーにして食った。
 ノートに日記を書いていると、中学生らしき少年少女が十数人、先生らしき人に引率されてやってきた。
神社の由緒書きをたどたどしく読み上げたりしている。
女の子が
「縁結びってなんのこと?」
と尋ね、男の子が訳知り声で
「縁を結ぶってことだよ」
などと答えているのを聞いて、(なーに言ってんだか)と思いつつも、微笑ましかった。

 連中はボーイスカウト&ガールスカウトに類する一味らしく、芝生に整列してなにやら特訓のようなものを受けていた。
自分の名前を大声で叫び、先生(?)に
「まだまだー!」
と叱られて何度もやり直しをさせれていた。
 更にその後、団歌のようなものを歌い始めた。

♪赤い包みに緑のリボン
 夢の小箱をいっぱい積んで
 村から町へ訪ねます
 よい子のおうちへ届けます
 中日ナントカこども会〜♪
 通信販売か宅配便の宣伝みたいな歌だった。
 中学にもなって、よくまあこんな団体に参加できるものだ。この経験を活かし、やがてはしっかりとひねくれた大人になって欲しいものだと思う。
 日記も書き終え、いつまでもテントの中にいると暑いので、出発準備。
テントを畳んでいると子供会の引率者のおっさんが、声をかけてきた。
「どこから」「長野県から」「長野のどこ」「飯田です」「飯田なんら何度も行ったぞ。これからどこへ」「沖縄へ」
「着く予定は。秋か」
「いや、できれば夏前に」
「予算は」
「50万もあればと思ってるんですが」
「学生か」
「いや、学校は出たんですけど」
「就職決まって入社式待ちか」
「いや、一度会社には勤めまして、いろいろワケあって時間ができたもんスから」
…はっきりと「無職です」と言えばよかったんだな。今度からそうしよ。
 その後おっちゃんは子供たちのところに戻っていき、昼食を終えた彼らになにやら講話しているのが聞こえた。
「第二次大戦中には…」
という言葉が断片的に聞こえた。ああ、やだやだ。

 仕度を終え、公園の隣の神社に参拝しようかと思っていると、子供会も帰り支度をしてぞろぞろ公園を出てきた。
列の先頭に立っていたあのおっちゃんが、
「気をつけてな!信濃の国でも歌って行けや」
「ありがとうございます。しいなあのおおのおくうにいわあ〜」
…嫌いなタイプでも、偉そうな人に対しては調子を合わせてしまう俺。こんなぼくをおっちゃんは「礼儀正しくフレンドリーな若者」と見ただろうか。ああ、気持ち悪い。自分に対して。
 峠を越えて国道に戻る時、子供会の行列を追い越した。追い抜きざま、先頭のおっちゃんに
「どーも、お先に」
と声をかけておいた。それくらいはするのが礼儀だろう。

 R42号を走る。途中、熊野古道の標識があちこちに出ているが、自転車を置いて山歩きの往復をするのは面倒臭いので、全てパス。

 海山町に入ると中里という地名があった。大菩薩峠も近くにあるに違いない。
 この町は「種まき権兵衛のふるさと」が売りらしい。「権兵衛が種撒きゃカラスがほじくる」の民謡で有名な権兵衛さんは、ここに実際に住んでいた人物なのだそうだ。武士の身分ながら思うところあって農業に精を出し、また鉄砲の名人だったそうだ。
 彼は大蛇と戦って撃ち倒したが、その毒気に当てられて死んでしまったという。ゴンベさんのくせに壮絶なラストだ。
ただし、ぼく自身は「権兵衛が〜」のフレーズは知っていても、民謡は聞いたことがない。ゴンベさんの歌と聞いて思い出すのは、「ゴンベさんの赤ちゃん風邪引いた」だ。きっと、ゴンベさんの赤ちゃんの風邪も大蛇の祟りだったのだろう。
 熊野も近いことだし、ゴンベさんの撒いた種をほじくったカラスは、三本足だったに違いない。

 ついつい「種まき権兵衛の里」なる所にもタイヤを伸ばしてしまった。だだっ広い駐車場と、トイレと、年に数日も開店しなさそうなシケた売店(もちろん休業中)があるだけだった。
 ゴンベさんの菩提寺という寺にも行ってみたが、面白いものはなかった。
ただ、山の斜面にある墓は、全て里に背を向け、山に面して建てられていたのが意味ありげで記憶に残った。方角を確認していないけれど、西方浄土に向けて建てられているのだろうか。

 それにしても、俺っていつの間にゴンベさんフリークになっちゃったんだろ、と照れ笑いを浮かべながら来た道を戻ると、ツーリングのバイクが「権兵衛の里」目指して走ってくるのが見えた。あの人はきっと熱烈なゴンベファンに違いない。

 峠を越えて尾鷲市に入り、はちみつ食パンと柿ピーで腹ごしらえをしてから再び上り坂に。
 矢ノ川峠というらしいが、しんどかった。高架橋が谷川を横切って、上り坂がどこまでも続いている。狭くて歩道もないくせに、車の通行量はやたら多い。
 峠のトンネルも暗く狭く長く、幅56センチの側道(の、ようなもの)の上を必死で走った。
 よろけて壁面に接触し、銀マットのカバーやレインウエアが真っ黒に汚れた。

 坂を下ってようやく熊野市入り。熊野市って和歌山じゃなくて三重なのか。知らなかった。熊野三山は和歌山なのに。
鬼ヶ城の鬼
鬼ヶ城の鬼

 海岸線に出た頃はもう夕方になっていたけれど、「鬼ヶ城」という名所があったので寄ってみた。入口に立つ鬼人形はアホっぽかったけれど、海蝕された岩壁がごてごてとして気味悪く、仮面ライダーとショッカーが戦う舞台としては最高だった。虫に食われたかのような小さな穴がびっしりとあいており、それが人面に見えそうになる。今にも海の彼方から「あんとく様」が出現しそうな、まるでモロボシワールドだ。

 鬼ヶ城からトンネルをくぐると熊野市中心部。商店街のオークワで地物のカツオ焼き節と紙パックの焼酎、そして野菜を買う。この辺にはオークワがやたら多い。
 駅前の地図で当りをつけ、住宅地の中の公園に潜入。先に米を水に浸してからテント設営にとりかかる。
 米にカツオと人参を削って入れ、醤油をたらして炊き込みご飯。小さいコッヘルで菜花を茹で、ビニール袋にあけて水洗い。それをナイフでザク切りにして醤油と七味をかけ、おひたしの出来上がり。
 晩酌は、焼酎のお湯割り。
 うまかった。炊き込みご飯はなかなかの出来だった。栄養バランスも悪くないと思うし、アルコールも入れて実質500円もかかっていない。
 ストーブを買って正解だったとつくづく思う。今回旅に出てから、阿智と伊勢で店に入った以外は、毎日食費は千円以内で済んでいる。もし観光などに金を使わなければ、一万円で10日暮らせる計算だ。

近畿編目次 表紙

3月26日(火)晴のち曇 少しなりとも熊野古道

 住宅地の真ん中にある公園だったので、苦情が来るかと思ったけれど、何もなかった。食パンと昨夜のカツオの残りで朝飯をすませ、8時半ころ出発。

 ちょっと行くと、「花窟(はなのいわや)神社」というのがあった。名所らしいので、デジカメの充電がてら寄ってみると、なんとここはイザナミノミコトを葬った場所(by『日本書紀』の一書)だという。『古事記』には、イザナミが葬られた場所は比婆山だとあるが、いろんな言い伝えがあるものだ。
 社殿はなく、大きな岩壁そのものが御神体。あまり葬地という暗い雰囲気がなかったのは、天気がよかったからか。
 イザナミを死に追いやったカグツチも、隣の小さな石座に祀られていた。久しぶりにスケッチでもする気になって、自宅宛にハガキを書いた。


リス村のリス
リス村のリス
 昨日までの地獄のような峠道が消え、道は平坦な直線になる。御浜町に入り「ふれあい公園リス村」に寄る。入場無料。台湾リスが何匹もおり、ぼくが入ると餌をもらえると思って体をよじ登ってくる。小さな手でぎゅっとしがみつかれる感触が気持ちいい。しかし、餌がもらえないとわかったとたんにみんな近寄ってこなくなる。
 リスの中には、腰の毛が抜けた奴や、尻尾の毛が抜けてミミズみたな芯が出ている奴がいる。昔ぼくが飼っていたモルモットの冬ちゃんを思い出す。
 リス公園の隣は「道の駅パーク七里御浜」。ツアーバスがひっきりなしに出入りしている。観光コーナーには熊野古道の写真やパンフが置いてある。見ているうちに熊野古道なるものも少しは歩いてみたくなり、風伝峠という峠道に行ってみることに決めた。風伝峠なんて、名前もカッコいいではないか。
 峠までの道は緩やかな上り坂で、自転車を押して歩くことはせずに済んだ。峠の手前の尾呂志という集落は、すぐ後ろに岩山がそそり立っており、いい雰囲気だった。
 
 国道311号のトンネルの手前から旧道に入った。石畳の道や峠の法界塔があったので、よろこんでわざとらしい自己写真を撮る。
「この峠の茶屋の風伝餅は、昔から旅人の楽しみの一つだった」
と説明版に書かれていたので、食ってみたくなり、「峠の茶屋」に入った。店に近づくと犬がうるさい。お客さんに向かって失礼な、と思いながら店内に入ると、場末のバーみたいな(っていうか、場末だけど)カウンターと椅子があるだけ。餅を売ってる雰囲気じゃないなーと思いながらも「こんにちは」と声をかけると、店の奥から場末のバーさんが出てきた。
「お餅が欲しいんですけど」
「お餅はねえ、もうやってないんですよ」
「そうですか、失礼しました」
とっとと出てきてしまったが、どんな餅だったのか、いつまで作ってたのか訊いてみれば面白かったかなと思った。
いずれにせよR311なんてさほど交通量もないし、まして旧道の峠道まで来るのはわずかな観光客だけだろう。未だに店が存続していることが不思議だ。


丸山千枚田
丸山千枚田
 その後、紀和町の丸山千枚田へ。棚田百選に入っているらしい。すぐ近くかと思っていたのに、坂がきつくてしんどかった。
 丸山千枚田は、山の半分を意地で開墾した感じで、かなり迫力だった。自転車を道端に置き、田の間の遊歩道を歩いて展望台まで。棚田や山並は迫力あるが、下の方に教会みたいな建物があるのがものすごく目障り。
 一句ひねれと投句箱があったので、「龍神のうねる山なみ千枚田」と書いて入れておいた。棚田を竜の鱗に見立てたのだが、カッコつけすぎてカッコ悪いかもしれない。季語がないから川柳だろうし。

 展望台から見えた教会みたいな建物は、紀和町ふるさと公社の「千枚田荘」という宿泊施設だった。観光開発をして逆に景観をぶち壊す田舎行政の典型だ。ネーミングも、なんか「今日の焼肉は、“センマイだぞう”」みたいでカッコ悪い。

 今日中に熊野本宮大社に行きたくて、走る。
 本宮町まですぐ行けるかと思ったのに、意外と難所だった。和歌山県に入ったと思ったらなぜか奈良県に入ってしまったりして、道を間違えたかと不安になってしまった。
 本宮町に近づいたとたんに、何故かたて続けに自転車のチェーンが外れて、疲れた。

 左膝が軋み始めたけれど何とか川湯温泉に到着。
 腐りかけたような売店で金ちゃんラーメンを二袋買う。これが晩飯だ。店のおばちゃんに「元湯はどこですか」と尋ねると、どの宿もめいめいで温泉を川から引いているとのこと。
 見れば、河原にいくつもの露天風呂が掘られている。河原に穴を掘って、川の水で薄めて入る温泉があるという話は聞いていたけれど、ここのことだったのかと今頃になって悟る。
「公衆浴場」
という名の温泉浴場が200円だったので、そこに入ることに決めた。別料金で河原の露天風呂にも入れるらしいが、石鹸が使えないだろうから、浴場で良しとする。
 湯量は豊富で、少し硫黄臭がする。身体の垢をごいごいと擦って、長湯した。気持ちよかった。
 風呂から上がって体重計に乗ると、52.5sだった。出発前より、1〜2sは痩せただろう。リュックを体重計に載せてみると、12s近くあった。10s弱だと思っていたので、少しびっくりした。

 温泉街の対岸に釣堀跡のようなものがあり、その軒下がよさそうだったので立ち入り禁止のロープを乗り越えて進入した。
 金ちゃんラーメンを二袋食い、酒は「いいとも」の湧水割り。昨日と打って変わって粗食だが、一日くらいはそれもいいや。
 天気予報では夜から雨ということだったが、まだ月や星が出ている。
 家から持ってきたキャンプ用の蝋燭の二本目が終わりに近づき、燃え残った蝋をなんとか使いきろうといろいろやっているうちに眠くなり、寝てしまった。

冒頭↑ 次へ→
近畿編目次 山陽編目次 表紙