日本2/3周日記(和歌山)
試行錯誤の近畿編(和歌山)
天気予報では夜から雨が降りだすと言っていたのに、実際に降りだしたのは朝方近くだった。昼過ぎに止むという予報だったので、半日つぶす覚悟で、テントの中で日記書いたりしてゴロゴロしていた。柿ピーを食べ尽くし、食べるものが無くなったので、パンに塗るための蜂蜜を舐めたりして凌いだ。
10時過ぎると小雨になったのでぼちぼち仕度開始。釣堀屋の雨樋が壊れていて、その飛沫のせいでテントはかなり濡れていたが、なんとか畳めた。
川湯温泉を出るとき、川には温泉が流れているのかと思って手を入れてみたけれど、普通の冷たい水だった。
河原に白い字で「がんばれ木葉」という字が書かれていた。はっぱのフレディの応援かと思ったが、もちろんnhkのテレビ小説の方だろう。
そういえば、川湯温泉には「ほんまもん」のパンフレットまで置いてあった。朝のテレビ小説なんてほとんど見たことはないが、「おしん」とか「ひらり」とか「あぐり」とか「あすか」とか、主人公の名前がタイトルになっているところを見ると、「ほんまもん」の主人公は姓が「本間」で名が「モン」なのだろう。
などと下らないことを考えながら漕いでいたら、熊野本宮大社までの4qほどの間に、たて続けにまたチェーンが外れた。何なんだよー。
本宮大社の手前で、明治時代までの旧社地「斎原宮跡」に寄る。川べりで、木に囲まれた原っぱだ。星野之宣の『宗像教授伝奇考』では、ここのどこかに空井戸があり、その奥にある鳥居をくぐると出雲にワープしてしまうのだが、それらしき空井戸はなかった。うそつき〜。
コンビニやスーパーなどが無かったので、空腹を紛らすために大社門前の茶屋で「もうで餅」を食った。餡入の黄な粉餅一つと抹茶で300円。食い足りん。
大社は、三本足カラスの幡がカッコよかった。社殿も桧皮葺の屋根が趣き深い。境内は一応撮影禁止になっているところがまた神聖な雰囲気でよい。右隅にある「満山社(八萬神)」というのが少し気になる。山の神か?
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熊野本宮の横断幕
ただ、門に
「蘇る日本!!人生を癒す熊野本宮」
と書かれた大垂れ幕があって目障りだった。
真面目なぼくは、境内での写真を控え、代わりに社殿の絵葉書を描いた。覗きに来るジジイさんババアさんもおらず、静かでよい。
神宝館は閉まっていた。サッカー日本代表のユニフォームと似たデザインのお守りがたくさん売られていたが、そんなのには目もくれず、念願の牛王神符を買い、大麻も買った。各五百円。
昨日手に入れた地図を見て、今夜は新宮町の徐福公園で寝ようと決定。
新宮市までの30qの間、また何度もチェーンが外れた。
新宮市に入り、いつも通りオークワで夕食の食材を買う。オークワがやたら多い。
徐福公園は、勘違いしたラーメン屋というか、高知の珊瑚博物館みたいなゴテゴテした建物で、とっくに門が閉ざされていた。
なんでえ、野宿できねえのかあ、とぼやきながら周辺をうろつきまわり、結局「丹鶴城」という城跡公園を選んだ。
桜が満開で、ライトアップされて花見客が多い。
人々の死角になりそうな場所を選んでテントを建てた。晩飯は、鶏肉とピーマンの炒め物。味付けは醤油と味噌を適当に混ぜて。鶏肉は焦げつきやすくて苦労した。
去年の伊勢秘宝館でもらって愛用してきたセクシーライターが壊れた。
ライターが壊れて火が使えないのを忘れていて、朝ピーマンを刻んでしまった。仕方ないのでとりあえずビニール袋に入れて保存。
律儀に周りのゴミ拾いをしてから出立。
まずは徐福公園へ。『珍日本紀行』に出ていない物件なので、喜びもひとしおだ。
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徐福公園
徐福公園は中身もかなりアホだった。徐福自身、秦の始皇帝をたぶらかした胡散臭いペテン師(とする解釈が有力)だ。そのお墓があるという時点で既に嘘臭いのに、それに便乗しておかしな観光施設を作ってしまう根性が大笑いだ。
ボタンを押すと女性のガイド音声が流れてきた。最後の決めゼリフは
「はるかなる時空を超え、ゆっくりと徐福ロマンをお楽しみください。ゴーン(ドラの音)」
公園の中心にある徐福の墓は江戸初期に紀州藩主徳川頼宣が建てたものだそうだが、それ以前の墓はどんな姿をしていたのだろう。
解説によれば、徐福は秦の始皇帝の命令でこの地にやってきたが、「風光明媚な風土と土地の人のあたたかい人情」にふれ、永住を決意したのだそうな。そんな地元びいき丸出しの解釈されると、こっちが恥ずかしくなるんだけど。
この公園は平成6年に整備したらしい。徐福が連れてきた七重臣の塚というのが昔はあったそうで、それにちなんだ「不老の池」というチンケな池には鯉が泳いでいた。石橋を渡って池の中に立っている七本の石柱に触ると徳が得られるのだそうな。「徳」って何。いらんぞそんなもん。
公園内の売店は中華料理屋みたいな外観で、中に入ると当然のように徐福饅頭から徐福アイス、徐福CDが売られていた。CDの中身は
「徐福夢男―虹のかけ橋(新宮編)」と「徐福音頭」。
唄は鳥羽一郎。天下の鳥羽が唄うなよそんなもん。
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チャイナドレスコーナー
売店の一角には「チャイナドレスを着て記念撮影してみませんかコーナー」があった。そんなの利用する客がいるのかと思ったら、ちゃんと記念撮影した連中のスナップ写真がベタベタ貼ってある。
イチャモンをつけさせてもらうと、いわゆるチャイナドレスは清の時代の衣装であって、徐福がいた秦の時代とはえらく時代差があると思うのだが。
たとえてみれば、卑弥呼が中国にやってきたという伝説があって、そのゆかりの地に「卑弥呼公園」が作られて、そこの「あなたも日本の衣装で記念撮影してみませんかコーナー」で、ちょんまげカツラをかぶって裃着て写真を撮るようなものだ。
こういうアホな場所の売店は、近所のばあさんが店番しているのが普通だが、徐福公園の売店には若い女の子が二人も働いていて、徐福が求めた不老不死の薬そのものであるという「天台烏薬」という薬草の入った「徐福茶」をサービスしてくれた。体内の活性酸素を減らす効果があるそうだが、もし徐福がこれを始皇帝のところに持って帰ったら、張り倒されただろうな。メシマコブのほうがまだましだ。
「ここは公営なんですか」
と店員さんに訊いたら、「財団法人です」とのこと。パンフレットを見ると「財団法人新宮徐福協会」とあった。怪しさからして「宗教法人」の間違いじゃなかろうかと思ってしまうが。
笑いをかみ殺しながら公園を後にし、徐福宮がある阿須賀神社へ。最近の台風のせいで新しく建て直したそうで、境内の徐福宮の祠も新しく、面白味はない。
もう少し真面目なものはないもんかと、神社境内にある資料館に入った。展示によれば、徐福伝説は東北から九州まで、全国各地にあるそうだ。絶対「徐福サミット」やってんだろうな。
近年中国で「徐福村」という村が発見され、それが徐福の出身地だと証明されたらしい。徐福村って、そのまんまでいいんだろうか。それじゃぼくの出身地はイマイ村なのかよ、と言いたくなるが、まあ名前と出身地が重なる場合もあるのだろう。もしかしたらぼくの先祖は本当に今井村の出身なのかもしれないし。
資料館から出るとき、管理人のじいさんが暇そうにしていたので声をかけてみた。
「徐福公園見てきましたよ。スゴイですね、竜宮城かと思いました」
するとおじいさんは思い出話を聞かせてくれた。
「今じゃああいう公園になってしまいましたが、ワシらが子供の頃はあのあたりは畑でねえ、徐福さん、徐福さんっていって夕方遅くまで遊んでたもんですよ」
今の徐福公園じゃ、地元民は近づきたくないよなあ。夜は閉まっちゃうし。観光客を目当てにしたって、徐福なんてそれほどメジャーじゃないだろうし。徐福知ってる人といったらそれなりに歴史に興味ある人たちだろうから、そんな人たちが今の徐福公園見たら腹立てるだろうし。
郵便局で一万円下ろし、次に熊野速玉大社へ。熊野三山のひとつだが、山ではなくて海岸にほど近い川のほとりにあった。
有名なわりに、あんまり見栄えのしない神社だった。本殿も拝殿も近年改築されたらしく、赤や黄にペンキ(?)が塗られているのがケバケバしいだけで安っぽい。
鴨居などに立派な彫刻でも施されていれば見栄えするだろうが、そういうものも一切なし。
一応お札(500円)を買い、神宝館を見学。お守り売場で申し出ると、巫女さんが出てきてシャッターを上げてくれた。
中は薄暗くて薄汚くて薄ら寒かった。
展示品は、
「鎌倉時代の針七本(国宝)」
「懐紙三枚(国宝)」
「紐(国宝)」
と、ホントにそれ国宝かよ!?と叫びたくなるものばかりだった。国宝の懐紙には金箔が貼ってあったけど、でもやっぱり、懐紙って要するにチリ紙のことだろ?
他にも、
「阿須賀神社に貸したっきり返してくれないので作り直した槍」
だとか、
「戦後進駐軍の米兵に中身を騙し取られた太刀の鞘」
などと、展示品の説明書きが愚痴っぽくて面白かった。
しかしいずれにせよ、500円は高すぎる。
神社の門前で昼飯の食パン(チーズとはちみつ)を食い、那智に向かって漕ぎだした。
那智勝浦町へは、じきに着いた。まず、補陀落渡海の中心地だったという補陀落山寺にお参り。寺の裏山には補陀落渡海上人のお墓などがあった。本人は海に流れていってしまったのだから正確には墓ではなく供養塔と呼ぶべきなのかもしれないが。
お寺の隣には、神武天皇が行宮を構えた場所を示す石碑があった。
長い坂を上って那智大社へ。途中の公衆トイレで充電がてらパンツと靴下を洗濯。
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熊野古道(那智大社参道)
トイレから少し進むと熊野古道の参道があったので、自転車を置いて2qほど歩くことにした。杉(だったかな)の間に古げな石畳と石段が続いていて、雰囲気バッチリ。他の古道はともかく、ここを歩くだけでも熊野古道を歩いたという気分になれる。
門前町に出ると、道に石が埋まっていた。これは「晴明橋」の名残だそうで、昔この付近で安倍晴明が庵を結んでいたのだそうだ。フーン。
那智大社の門前は、年寄り臭い土産屋がずらりと軒を連ね、西国札所巡りの巡礼さんの姿が多く見られる。白い笈摺、サンヤ袋、金剛杖。同行二人の文字も四国巡礼と同じだ。巡礼は日本中どこでも同じ格好でいいんだろうか。
那智大社は、拝殿こそ新しいが、その向こうに垣間見える本殿は桧皮葺で古めかしく、ぼく好み。大麻(お札)を物色したが、気に入ったものがないので熊野牛王符を買った(500円)。牛王神符はどこも同じかと思ったら、熊野三社それぞれ形が違っているようだ。どれもグニャグニャした烏文字だから気が付かなかった。
ここでも宝物館(300円)に入った。光を当てると反射した影に神様の像が映る「魔鏡」や、布都御霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を模した剣などがあった。
隣の青岸渡寺も大きくて古くて立派な寺だった。西国一番札所ということで那智大社よりも賑わっている。境内からは満開の桜と三重塔と那智大滝が一度に見えて、いい眺めだった。
鎌倉時代からそのままの姿で残っているという石段を降り、那智大滝のふもとへ。なかなかの迫力。
詳しいことは知らないが、那智大滝はずいぶん古くから神格化されていたらしい。きっと今でもこの滝に打たれて修行する人は多いのだろう。
そうした人は、何を求めて修行するのだろう。神通力が欲しいのか。では神通力を身につけて何をしたいのか。神通力を使って金を儲けたいのか。「神通力を使えたらカッコいいと思って」程度のノリなのか。それとも、神通力を使って世のため人のために役立てたいのか。世のために役立ちたければ滝に打たれる前にボランティアでもしとれと言いたくなるが。
…などとどうでもいいことを考えながら、しばらく柵に頬杖ついて、飛沫をぼーっと眺めていた。ぼくと同じようにボーッと滝を眺めている若い男がもう一人いた。ぼく同様一人旅だろう。
自転車に戻って、一気に海岸まで下る。那智駅の脇の歩行者用トンネルをくぐって砂浜に出てみた。夕日がきれいだった。昔の補陀落上人たちはこの浜辺から船出していったのか。今はこぎれいなベンチが並ぶ海水浴場だ。
近くのAコープ(久しぶりにオークワ以外の店に入った)で買物し、浜辺にテントを建てた。満月なのか、月が丸い。晩飯は、玉葱とピーマンとハムを煮てスープを作った。
朝、近所のおじさんたちが犬の散歩に来た。「タロー」は好奇心が強くしつこい犬だった。ぼくが朝飯を作ろうとストーブに火を点けても、タローは鼻づらを突っ込んでくる。飼い主のおっさんは
「すんませんな、犬のことやさかい堪忍しとくなはれ」
とぼくに言い、犬には
「こらタロー、あかんよ。ほら火。熱いよ、怖いよ」
と言っていたが、タローはてんで言うことをきかない。
電車で騒ぐ子供に「おじちゃんに叱られるよ」と言う母親みたいなものだ。
飼い主として他人に迷惑をかけたくないと思うなら、「タロー、やめな!」と怒鳴って犬を張り倒すくらいの気概が欲しいものだ。
焼きそばの具に玉葱を刻んだので、タローに
「ほれ、食うか」
と差し出してみたら、嫌そうな顔をした。
「犬は玉葱食うと腹壊しますんや」
と、おじさんは言っていた。
アベックラーメンという乾麺は、安いし、ラーメンにも焼きそばにもなると書いてあったので作ってみたのだが、ソースがうまくからまなくて60点の出来だった。
昼頃から天気が崩れるとラジオで言っていたが、確かにぶ厚い雲。
くじらの町太地町はすぐ近くだった。観光地化されていて、つまらなかった。
くじらの町というからには、漁民が返り血に赤く染まりながら漁村をのし歩き、路地裏にはクジラの白い肋骨が転がっていてほしい。そこでグリーンピースがデモ行進し、警官隊に火炎瓶を投げつける…。そんな光景を想像していたのに。クソッ。
くじら博物館は、ゴンドウクジラのショーが目玉だけの水族館らしかったので、入らなかった。
ひやかしのつもりで寄った土産店は、店員のおばちゃんがなかなかのやり手で、ぼくにつきまとって次々と試食させてくれた。クジラジャーキーやクジラそぼろ煮などをつまんでいるうちにすっかりその気になってしまい、1,700円のクジラ刺身を買ってしまった。
今夜の晩飯はクジラ刺身定食だぜ、と意気揚揚と走り出す。
串本町に入り、橋杭岩という名勝地に寄る。海岸にでかい岩が列をなしており、確かに橋げたのように見える。
昔弘法大師が、紀伊大島に渡るためにアマノジャクに命じて橋を作らせようとしたが、途中で一番鶏が鳴いたので朝がきたと思い、作りかけであきらめた、という伝説。
なんだか役行者の話とごっちゃになってないか?とも思うが、「役行者開山、弘法大師中興」と伝える修験系寺院も多いから、よほどこの二人は縁が深いのだろう。
橋杭岩の売店は、数珠だのバッグだの、ババア臭い土産ばかりわんさと売っていた。
せっかくなので本州最南端の潮岬に回ってみる。岬を過ぎたあたりでついに雨が降ってきた。今回の旅では最初の本格的な雨だ。
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謎のゴリラ岩
まっ黄色のレインウエアを身にまとい、雨の中を走る。途中、「世界一大きい吸殻入れ」(ただのドラム缶)のある恋人岬や、妙にリアルなゴリラ岩などを見て、すさみ町入り。
すさみ町には日本童謡公園とかいうつまらなそうな施設や、イノブタを飼っている「イノブータンランドすさみ」というしょーもない道の駅があり、かなりアホな町とお見受けした。
すさみ町の中心地に案の定オークワがあったので、クジラ用におろし生姜のチューブを買った。
今夜の宿泊地は、工事中の海水浴場の更衣室の軒下。ベンチに濡れたレインウエアやバッグを並べ、テントを建てた。
飯を炊き、ほうれん草の味噌汁を作っていざディナーを食おうとすると、テントの壁に黒い影があるのが見えた。ゴキブリだった。外で炊事をしていたときに、開けっ放しの入口から忍び込んできたのだ。黄色い壁布にはりついていてくれたからよかったものの、黒い床部分にいたら見逃すところだった。クジラ肉を包んでいた新聞紙をちぎって、ヤツがカップの陰に逃げ込もうとするところを捕らえ、生死も確認せず外へ放り投げる。まだ春先だからか、動きが鈍くて助かった。
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クジラ刺の晩餐
ようやく晩飯。クジラ肉は、今までぼくが食べたものに例えると鹿刺しに近い気がした。赤い汁(血か?)でびしょびしょだった。ナイフでも切りにくく、
「刺身を食べる」
というよりまさしく
「生肉を喰らう」
という表現がぴったりだった。
おろし生姜を買っておいて正解だった。醤油だけではやはりうまくない。
テントに直接雨が当っているわけではないのだが、どうもテントの中が濡れている。濡れたコンクリートの床から、布地を通して水が沁み込んできているようだ。このテントは防水性がないのか。ダメじゃん、これじゃ。
朝食は食パン半斤とクリームチーズ。
雨は上がったが風が強い。外に出てみるとコンクリートの床も干したレインウエアもとっくに乾いており、乾いていないのはテントの下のマットやシートだけだったのが悔しかった。
すぐ近くの工事現場では、おじさんたちがもう働いている。それを横目にテントを干しながらのんびり出発仕度。
すさみを出て日置川町へ。大学一年のとき、実習に来た町だ。
「こんなとこだったかなあ?」
というのが実感。8年も前になるから仕方ないのかもしれないが、町並に見覚えがない。町の入口にこんな立派なトンネルがあったけな。
日置川町の歓迎看板には
「アユとテニスの町ひきがわ」
とある。ちょっと情けない。
今どきテニスの町なんて言われてもな。どうせテニスコートがあるだけなんだろ。それとも役場職員は全員テニスルックなんだろうか。学校の給食は毎日アユなのだろうか。
町の真ん中にまた道の駅がある。8年前にこんなのあったかな、と思いつつも、シュラフを乾かしたかったので立ち寄る。
駐車場脇の木造ステージみたいなところでシュラフを広げてくつろいでいると、地元のじーちゃんが自転車を押しながら近寄ってきた。
どっから来た、などの一連のやりとりをして、
「実はぼく、8年くらい前にこの町に来たことがあるんですよ」
と言ってみると、じいちゃんは
「学生が何人も来て、方々でいろいろ話を聞いていったことがあったなあ。確かあれも8年くらい前だったかいな」
と言う。
「げ、ご存知ですか。その中にぼくもいたんですよ」
「あれは何という学校の衆だったかな」
「何某大学っていうんですけどね」
「そうそう、ナニガシ何某。わしのとこにも来てな、漁業のことを聞かせてくれっていうんで町議会議員さんのとこに連れて行ってやった。そうか、あんたもあの時に来たんか」
「ええ。ぼくは山の方に入ったんですけどね。三舞山の麓でしたけど」
「ああ、それやったら安居やろ」
「あ、そうそう。懐かしいなあ」
実習の時のことを知っている人に会うとは思わなかった。結構あの実習はこの町にとって大きな出来事だったのだろうか。
やがておじいさんは身の上話を始めた。
「ワシはなあ、鼻が利かんもんやから飯食っても味がさっぱりわからんのや。しょっぱい辛いは分かるけど、お吸い物なんかになるとさっぱりわからん」
「そりゃまたどうして」
「弟に殴られたんや。あいつは酒飲んで車乗って事故ばかり起こしてな、ちっとも懲りんのや。平成10年には一年に車を二台も潰してな、年末に事故起こして、正月は酒謹んどったがまた飲み始めてな、初えびすになってもまだ昼間っから酒飲んどるもんやからワシ腹立ってな、
『お前、酒ばっか飲んでてどうするんや』
って頭くらわしてやったらそれを根にもってな、去年顔殴られて。
ほら、ワシの顔よく見るとツギハギ入っとるやろ。骨折してプレートが10枚入っとるんや。入院して手術して、またプレート取ったんやけどな。
喉んところに疵があるやろ。ここに空気チューブ挿して、顔の皮をベ〜っと剥いで手術するんや」
シビアな身の上話をセキララに聞かされて、反応に困ってしまったけれど、おじいさんはあくまで淡々とした口調だった。
「これからどっちに行く?和歌山か。そんなら白浜温泉に寄ってくといいぞ。タダで入れる露天風呂があるから。“崎の湯”っていってな、町営の露天風呂や。そこ行く途中には“三段壁”とか“千畳敷”とか、観光名所があるから寄ってくといいぞ。景色いいから」
と言って道順を教えてくれた。
おじいさんが去ってから、トイレで靴下とパンツを洗い、売店の紀州梅干をつまんでから出発した。
国道42号に平行して太平洋自転車道があったので走ってみた。老朽化したアスファルト道だったが、常緑樹の緑と空&海の青が派手できれいだった。plフィルターを効かせれば、真っ黒になりそうな空だった。
「みいさき〜めえぐ〜りのお〜、バあスは〜、はあしるう〜♪」
と古い曲を歌いながら、おじいさんに教わった道を走った。途中に静かな公園があったので立ち寄り、ジーンズやシャツなどの洗濯をした。
干している間、昼なのにご飯と味噌汁と作って食った。
ジーンズは生乾きだったけれど、日が傾いてきたのでそのまま履いて走り出した。
途中、おじいさんの言っていた三段壁があった。屋台の立ち並ぶ参道を抜けた先に、足摺岬を小さくしたような感じの崖があった。近くには洞窟(へのエレベーター乗り場)があった。海蝕洞で、九鬼水軍の隠れ家を再現したものがあるらしいのだが、1000円もするので断念した。
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千畳敷で「海の男」
千畳敷も、三段壁の近くにあった。波打ち際の平らな岩場で、寄せてくる波がカッコよかったので、三脚立てて「海の男」のポーズをしてしまった。
しばらく走ると、高層ホテルが立ち並ぶ白浜温泉に着いた。おじいさんの言っていた崎の湯はすぐわかったが、入浴は午後5時までとのことだったので明日におあずけ。
晩の食材は温泉地から少し外れたところにあるvショップというスーパーで買った。
今夜のねぐらは白良浜の公園。白い砂がきれいだ。夕日が丸い。
どうせ夜はカップルなどで賑わうだろうと思い、公園の隅のゴミ倉庫の陰にテントを建てた。奥ゆかしい。
晩飯は鶏のセセリ肉を具にしたうどん。
明日は南方熊楠記念館にでも行くかな。二回目だけど。
朝飯は確か、またうどん。
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崎の湯にて
崎の湯へ行く。波打ち際の岩場が露天風呂になっており、眺めがいい。石鹸使っていいのか迷ったが、他の人たちも身体を洗っていたので、便乗して洗わせてもらった。
南方熊楠記念館へ。学生時代に一度行ったのだが、あまり記憶に残っていない。館内にはなぜか、さだまさし作品のピアノメドレーがかかっていた。
南方熊楠は、明治から昭和初めにかけて活躍した博物学者だ。
十数カ国語を自由に操ったというが、本当かどうか。
熊楠の子供時代は、近所の家で『和漢三才図会』を読み、家に帰ってから記憶だけを頼りに筆写したという。そのノートが展示されているが、筆字の細かさが恐ろしい。さすが神童。
大英博物館の嘱託研究員をしたり、孫文と交流があったりというのは「ふうん」という程度だけれど、南アメリカでサーカス団に加わっていたというのは尊敬する。ピエロでもやっていたのかと思ったら、ただの通訳兼雑用係だったそうで、少し残念。
展示パネルの文章によれば、
事理が透徹して宇宙を成す―
熊楠は西洋の学問に対抗し、東洋の学問の確立をめざした。西洋近代因果律に対抗し、偶然性を取り入れて森羅万象を組み立てた南方曼荼羅を科学方法論として示した
なんのことやらよくわからんが、とりあえずカッコいい。
熊楠は、大英博物館で喧嘩して追い出されたあと、日本に帰って様々な執筆活動を展開。
例えば、他の学者が『変態性欲』(大正14年2月号)の90頁で「江戸時代の文献に見えたる屍愛と殺人淫楽」について論じたのに対して、熊楠は同年、雑誌『変態心理』に「屍愛について」を寄稿し、屍愛に関する数々の事例を紹介して反論した。
そんな怪しい論文を投稿して議論している人たちがいるというのはすごいが、そもそも『変態心理』『変態性欲』なんて雑誌があったこと自体が驚きだ。
遺品コーナーでは、「熊楠愛用の孫の手」などに交じって「熊楠愛用の十手」というのが展示されていたが、十手をどう愛用したのだろう。謎だ。
熊楠の脳は解剖され、現在大坂大学医学部に保存されているという。
まあ、いろいろと凄い人だったんだなあと思うが、一番凄いのは、どうやらこの人は生涯まともな仕事に就いていないということだ。尊敬に値する。
これからの予定としては、高野龍神スカイラインを通って高野山に行くつもり。高野山はもうこれで三度目だが、金剛峰寺にまだ行っていない。
白浜町を出て、田辺市をかすって龍神村方面へ。
途中に「奇絶峡」という、名前だけは物々しいところがあったが、まあ別に大したことはなかった。でっかい磨崖仏があったが、最近作られた新しいものらしい。
ツーリングのバイクが多い。
龍神村への道は、さほど強烈な勾配ではないが、だらだらと長く続く。夕方ようやく村境を越えた。龍神村の役場は、なんだかヘンな建物だった。
「ふれあいマートあだち」で買物。山の中だから、安くない。米を切らしていたので、仕方なく1sの高い米を買う。
龍神温泉はなかなか洒落た建物で、少しそそられたが、一日に何度も風呂に入る趣味はない。温泉から少し走ると工事途中で野放しになった橋があったので、そこを渡って空き地にテント設営。犬を連れたおじさんがやってきて、
「ここ、キャンプしても大丈夫ですかねえ」
と訊くので、
「個人的な勘では、文句言われないと思いますよ」
と答えたら、彼は大きなテントを持ってきて、家族でわいわいと建て始めた。小さな子供がぎゃあぎゃあ騒ぎ、犬がワンワン吠えている。
そこまでうるさくすると責任取れないぞう、と思いながらも知らんふりした。
子供への示しもあるから、ファミリーはちゃんとした場所でキャンプした方がいいと思う。
曼荼羅美術館なるものがあったので、ついつい寄ってしまった。障子張りに畳敷きという純和室で、極彩色の曼荼羅を鑑賞するのは妙な気分。ラジカセから流れるCDがやかましい。
曼荼羅はどれもさほど古いものではなさそうで、きっとインドやチベットで売ってるのを買いあさってきたのだろう。チベットの釈迦は頭がカマキリのように三角形なのが印象的だった。
曼荼羅美術館の割に、一番肝心な金剛界、胎蔵界の両曼荼羅がなかったのが不満。公営なのか私設なのかよくわからないが、入場料500円は高い。
いよいよ高野龍神スカイラインへ。通行料金は自転車百円だったかな。
いかにも「山の上だ〜」という景色。四方八方全て山。
しんどいので、休み休み上る。道端に、まだ食えそうなフキノトウが生えていたので、何個か摘んでみた。今晩、味噌汁にでも入れよう。
道の途中に土産物屋があったので、蓬餅を買って食った。
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護摩壇タワー
スカイラインの最標高はどうやら1,280m。上りつめたところにある護摩壇山には、「護摩壇タワー」がそびえていた。ちゃんと井桁状に組まれている。護摩壇というからには、観光客が展望台に登ったところで火をつけるのだろう。夜中に燃やしたら迫力あるだろうなあ。
護摩壇山を過ぎるとひたすら下り。10q近く漕がずに済んだような気がする。
高野側の料金所のおじさんが、
「あんた、ずっとここまで自転車で来たの?」
とびっくりしていた。少し得意顔になってしまった。
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高野町マップ看板
高野町は観光マップ看板が面白かった。菩薩がスキーしたりテニスしたりしているのだ。
まずは奥の院へ。去年行きそびれた企業の墓を見物。
有名どころは新明和産業の「ロケット墓」。銘文を読むと、
「宇宙産業に連なる当社は、アポロ11号を模してこの慰霊碑を建立し、永く在職物故者の冥福を祈るとともに、併せて社運の繁栄を祈念するものである」(要約)
ロケットの他にも福助墓(福助足袋)やヤクルト墓など、いろんな墓が並んでいる。キリンビールの墓には、ちゃんと一番絞りが供えられていた。スーパードライだったら良かったのに。
企業の墓は、「在籍中ばで命を落とした社員を慰霊する」と明記した墓碑もあるが、多くは退職後に亡くなった歴代社員全てを供養するためのもののようだ。
つくづく日本の企業は「イエ」なんだなあと実感する。欧系外国人の観光客のグループが大喜びで墓巡りをしていたが、彼らの目にこういうものはどのように映るのだろう。
企業の墓ばかりではなく、日本しろあり対策協会建立の「しろありやすらかにねむれ」と刻まれたしろあり供養塔や、柳家金語楼が昭和四十二年に建てた「楽書塚」などもあった。
楽書塚は、「世の中には落書が多い。よそでは書かずにここに書くように」という主旨らしいのだが、なにせ相手は石なので、太いマジックかカラースプレーでも持参していないと落書できない。今後高野山参りをご計画の方は、どうぞお忘れなく。
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岡山県老人供養塔
中には、「岡山県老人供養塔」というのもあった。気が早いというか、無駄というか。趣意書によれば、「岡山県関係の老人有志が、先祖の供養と自らの息災を願って建立」したものだそうだ。
民俗的には、盆の期間中に年寄りを「イキミタマ」と呼んでもてなす風習があるが、それに通じるのだろうか。
個人の墓としては、南アメリカを自転車で横断旅行した後、日本に戻って四国遍路の途中で死んだ若者、中田秀人氏の鎮魂碑があった。「道の訊き方が悪い」という理由で暴漢に殺されたのだそうだ。ううむ、他人事ではないぞう。他人に道を訊くのはよそう。
秀人氏の死後、母親のみと子さんが、彼の冒険記を自費出版したそうな。ありがちだ。
どの墓も、「永く霊を慰める」などと墓碑を刻んでいるが、奥の院の参道にはガラガラ崩れた供養塔があちこちに見られる。諸行無常が感じられて趣深かったので、ハガキにスケッチした。
スケッチが終わった頃には暗くなっていたので、スーパーとねぐら探し。方々をほっつき走ったが、高野町にはまともなスーパーがない。仕方ないので、シケた個人商店に入ってラーメンや缶詰を買った。
テントを建てたのは、奥の院の駐車場の隅。
明日は金剛峰寺を見物して、和歌山方面に下るつもり。
駐車場のトイレで洗顔後、金剛峰寺へ(500円)。
比叡山は信長に焼き討ちにされたりしてハードな歴史を辿っているけれど、一方の高野山の歴史をぼくはよく知らなかった。パンフなどによれば、高野山も秀吉に攻められたことがあったが、寺領を返上し武器を棄ててあっさり降伏したので、事なきを得たのだという。優柔不断で世渡り上手な真言宗ならではの歴史だと思う(偏見)
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金剛峰寺は空海が建てたのかと思ったら、秀吉が母親の菩提を弔うために建立した剃髪寺がその始めなのだそうだ。それが後に青巖寺と改められ、明治になって金剛峯寺と名を変えたのだそうな。
金剛峯寺では、お茶とお菓子(お供物)の接待が出た。
板張りの台所は大きくて古くて、しかも今でもちゃんと使われているらしくて、カッコよかった。
でも、特に面白かったのは、トイレの貼り紙。
「用便時の偈ならびに真言
大小便時 当願衆生
〔u蜀〕除煩悩 滅除罪法
オン・クロダノウ・ウンジャク」
そうか、坊さんはトイレでも衆生の救済を願い、真言を唱えるのか。
「オ〜ン、クロダノウ、ウンジャク!!」
…力入るなあ。
仏教では、トイレを我慢する時の苦しみや、放出する時の快感も、煩悩の一種なのかな?
だとしたら、悟りを開けばウンコやオシッコもしたくなくなるのか。いや、悟りとは苦しみからも快感からも解放されるということなのだろうから、用便時の感覚を感じることなくただ垂れ流すのみになるのか
。
まあ、真言宗のことだから、「排泄の苦しみも快感も、みな仏の真理である」とか言うんだろうけど。
密教における便秘封じ(封じちゃいかんか)の修法では、三日三晩護摩を焚いて金剛快便明王を奉り、この真言を唱えるのだそうだ(ウソ)。
便秘は治っても、座り続けて痔になったりして。そうなると今度は、ヒサヤ大黒天にお祈りせねば。
金剛峰寺の次は、高野山霊宝館(600円)へ。かっこいい仏像が見られてアタリだった。
変わったものでは、関ヶ原戦で敗れ、高野山のふもと九度山に流されていた真田幸村が、家臣に焼酎を無心したときの書状なんてものがあった。
「この壷に焼酎を口いっぱいに詰めてくれ。代わりにゆかたびら一枚を送る。壷は二個送るが、余分があったらもっとくれ」
なんか、ほのぼのしてていいなあ。
苅萱堂や女人堂をざっと見、さて山を下ろうかというときに、ふと道路に特大の足型ストップマークがあるのを見つけた。それも土人型。縦の直径47p。その隣に、小人さん用の裸足マークがついていて、その直径は6cm。去年来た時は全然気づかなかった。恐るべし高野山。
山を下り、蟻通神社へ。こぢんまりした地味な神社だ。詳しくは知らないけれど、高野山に関わりの深い神様らしい。昔、天武天皇が唐の高宗から「曲がりくねった穴のあいた玉の中に糸を通せ」という難題を持ちかけられた時、この神様が「蟻に糸を結びつけ、穴の片方に蜜をつけて蟻に穴を潜らせよ」と教えたという。
蟻に糸を結ぶのも、かなり難しい技だと思う。「玉の中の曲がった穴に糸を通す」というのは、一般的には姥捨て伝説によく登場する。蟻通神信仰とどういう関係があるのだろうか。
高野山に関係深い神といえば丹生都比売神社だけれど、ルートから逸れてしまったので寄らずに過ぎてしまった。
紀の川沿いの国道を走る。山に霞がかかって、いかにも春の空気だ。桃の花がきれい。
途中ダイソーに寄ったら、太いキャンドルが売られていた。キャンプ用の蝋燭よりもよほど長持ちしそうだったので、さっそく買った。
去年、四国からお礼参りのために通った道を懐かしがりながら走る。日が暮れた頃和歌山市内に入った。
ねぐらは、和歌山駅の近くの、小さな公園。犬の糞が多くて臭いが、我慢する。
今夜もまたうどん。
明日は淡島神社にお参りして、大阪府に抜けるつもり。
ろくな地図がないので、淡島神社にたどり着くのにずいぶん道に迷った。途中、ミスタードーナツで百円セールをやっているのを見つけ、無性に食いたくなったので、珍しく買い食いした。
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淡島神社の花嫁人形
淡島神社(加太大社)は、さびれた漁村の先っちょにあった。ちょうど昼近くだったので、門前ではおばさんたちが
「お兄さん、寄ってかない」
と客引きをしていた。
神社の軒先には、市松人形から花嫁人形、雛人形、信楽焼の狸まで、ずらりと並んでいた。どれもジャンル別にきれいに分類されている。ご苦労なことだ。
隅っこには、ビニール袋に押し込められた人形たちが焼却処分を待っていた。焼却炉を見ると、燃え残りの人形が虚ろな眼差しでこちらを見つめていて、かなり怖かった。
札授所では、ピンク色のかわいいお札が売られていたので、買った。
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燃え残り人形
お札以外にも、女性の下着を売っていた。「お祓い済み」とある。きっとこれを履くと、安産になったり病気が治ったりするのだろう。品揃えはおばさんくさいパンティばかりだ。
本殿の隣の末社には、なにやらビニールに包まれた布がたくさん格子にくくりつけられていた。どうやらこれが使用済みの下着らしい。おじさんたちがニヤニヤしながら格子の奥を覗いている。ぼくも覗いてみると、木彫りの男根がゴロゴロしていた。いかにも子宝の神様だ。
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末社を覗く男たち
祈るのは女性、見物するのは男性だ。ぼくも含めて。
神社の伝承によれば、淡島様は天照大神の6番目の娘で、住吉大神に一の后として嫁いだが、下の病にかかって離縁され、うつぼ舟で流された。そして三月三日にこの地に流れ着き、人形を作ったのが雛祭の始まりなのだという。
昔は淡島願人という宗教的な乞食が、淡島様の神姿の人形を持って家々を回り、淡島様への賽銭を集めて廻ったという。
淡島神社という名前や立地場所からして、淡路島の遥拝所だったのではないかと想像したくなる。実際、神社は海を背にして建っているし
。
岬町を経て、海沿いに大阪府へ。『珍日本紀行』掲載の「東洋剥製博物館」(岸和田市)に行きたいと思ったのだ。地元のおっちゃんがおびただしい数の剥製を集め、自宅が剥製だらけになってるらしい。
岸和田市には入ったものの、お目当ての博物館がどこにあるのかわからない。
「岸和田市立自然資料館」なるものもあるが、外観が写真で見た記憶と違う。
仕方ないので資料館に入って、
「東洋剥製博物館ってのがあると聞いたんですけど」
と訊くと、
「こちらですよ」
との返事。
「あのう、個人のお宅でやってると聞いたんですが」
「剥製のほとんどはこちらに寄贈されてるんですよ」
ぼくは剥製そのものを見に来たのではなくて、自宅が剥製でゴチャゴチャになってるという異空間を見たくて来たのだ。なんとか受付のおばさんから寄贈者の家を教えてもらい、行ってみた。
確かに、写真で見たとおりのさびれた建物があった。一見、個人商店かと思うほど目立たない建物だけれど、確かに看板が出ている。金色の菊花紋が怪しい。
「こんにちわあ」
と声をかけてガラス戸を開けると、正面に狸のだんじり行列が置かれていた。
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だんじり狸
人はいるようなのだが、一向に出てこない。剥製や張り紙を見物しながら出てくるまで待たせてもらったが、出てこない。仕方なく部屋の戸を開けると、老夫婦がこたつにあたっていた。
なんでも、足が悪いのでろくに動けないらしい。
「すごい剥製がたくさんあると聞いてお邪魔したんですけど」
「ああ、勝手に見てってくれ」(という内容の大阪弁)
とのことだったので、勝手に見させてもらっていると、仕方なさそうにおじいさんはヨボヨボと部屋から出てきた。
拙いおだてトークで機嫌をとると、それでもけっこういろいろ話してくれた。
このトラが、ワシが一番最初に買った剥製や。170万したで。
これら作ったのはスガワという剥製作りの世界的名人でな、100年経っても大丈夫なものなんや。中に入っとる物が違うからな。
タヌキは違うで、スガワ名人が弟子にやらせたもんや。
以前は年間10万人の見物人が来よったで。子供が怖がって入ろうとせんかった。うちの剥製は実物そのものみたいやからなあ。
全部買い揃えるのに20億円かかったで。
平成7年に、めぼしいものは市に寄贈したけどなあ。
玄関を入ったところに、
「無縁会総本山縁昭寺 設立主旨」
なる文章が掲げられていた。尋ねると、かつてそういう名の宗教団体を設立しようとしたらしい。
結局失敗に終わったそうが、今でも募金箱が置かれており、
「募金を盗むな!」
「盗人に告ぐ!」
などといった貼り紙がベタベタ貼ってある。
ぼくもご縁だったので、300円ほど寄付をした。
一階の奥も見せてくれたけれど、期待していたほど異空間ではなかった。市に寄贈される前ならスゴかったのだろうが、『珍日本紀行』自体、もう古い資料なので仕方がない。
蕎原文吉さんの名刺を貰い、「お元気で」と言って剥製博物館を後にした。
明日は、金剛山を見物して奈良に入ろうと思う。
ろくな地図もないまま適当に走り、今夜のねぐらは「蜻蛉池公園」。けっこう大きくて立派な公園で、管理人さんがうるさい可能性もあったけれど、えいままよ、と目立たない場所を選んでテントを建てた。
晩飯は焼きそば。塩コショウで味付けしたような記憶がある。
岸和田には「蛸地蔵」なるものがあると後で知り、行けばよかったなあと思った。