日本2/3周日記(山口島根) とっとと山陰北陸編(山口島根)
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9月17日(火)曇ときどき雨 郷愁のチョコタン

 3月17日に飯田を出たので、今回の旅を始めてから今日でちょうど半年です。
 小雨がすこしちらつきますが、おおかた雨は上がった様子の朝でした。
 朝飯は食パン2.5枚。ラジオは朝から小泉総理の北朝鮮訪問のニュースでもちきりです。
 
 福徳稲荷とかいう真新しい神社のトイレで洗顔。あとはひたすら海岸沿いを走ります。
 食パンだけでは腹が減るので、11時ころに豊北町あたりの神社のすみでラーメンを茹でて食い、しばらく走ってまた小腹がすいたので長門市のAコープに寄り、半額になっていた菓子パン(60円)を買って食べたらパサパサでした。
 途中、「楊貴妃の里」という『珍日本紀行』モノの看板が出ていましたが、国道からずいぶん遠ざかるようだったのでやめました。
 鎖峠とかいう峠を越えて夕方に萩市入り。
 またスーパーによって軽く食い物を物色していたら、駄菓子コーナーに、わがふるさと伊那谷は豊丘村の天恵製菓の「ふんわかチョコタン」が売られていて少し感動してしまいました。
 「ふんわかチョコタン」は、マシュマロの中にチョコクリームが入った田舎っぽい駄菓子です。
 実は、ぼくはまだ食べたことがありません。よっぽど買おうかと思いましたが、望郷心にかられて出費するのは愚かしいことだと思い直し、買いませんでした。
 
 萩市は昔ながらの城下町の風情が残っているとのことだったので、少しばかり巡ってみました。
 曇り空のせいもあるのですが、シャツだけでは寒いので、レインウエアを羽織りました。もう秋なんですねえ。
 
 イヤホンラジオで日朝首脳会談のニュースを聴きながら、夕暮れの白壁の路地を走るというのは、なかなかオツです。
 北朝鮮のパーマでぶさんは
「拉致も工作船もわたしは関知していなかった」
と述べたそうですが、もしそれが本当なら、金正日さんは軍の統率すらできない役立たずなのでしょう。そんな無能者が
「これからは決してこのようなことは起こさない」
などと何を根拠に約束できるのやら。
 それにしても、被害者の家族の談話が報道されていましたが、素人はおもしろいですね。
 横田めぐみさんのお父さんなんか、ゲホゲホむせてるし。じいちゃん、もっと落ち着けよ、と言いたいところですが、こういう場合は落ち着いていない方がいいんでしょうね、やっぱり。
 
萩の武家屋敷
萩の武家屋敷

 それはそれとして、確かに萩の城下町は、古い屋敷門などが残っていて風情がありました。ずうっと続く白壁もよろしいです。
 街灯がないなと思ったら、目立たないように瓦塀のひさしにつけられているんですね。気を遣ってます。
 ただ、天守閣もない萩城跡が、入場料210円も取るというのは納得できませんでした。他にも古い武家屋敷などは有料で見学できるようでしたが、ぼくはどこにも入りませんでした。
 
 サンリブ(スーパー)で買い物して、今夜は武家屋敷近くの公園にテントを張りました。
 晩飯は、「ごはんがススムくん」の麻婆豆腐と、網焼きブロッコリーです。
 あしたには島根県に入れるでしょう。
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9月18日(水)晴のち曇 鯛やヒラメが泳ぐ池

 朝はチャルメラ1.5袋。
 日が出てきたので、一昨日の雨で濡れたリュックの中身を誰かの銅像の台座に広げて天日干し。
 ゴミを袋に入れて自転車の近くに置いておいたら、掃除のおばさんに持っていかれてしまいました。捨てる手間は省けたけど、少し悔しい。ポイ捨てしてたんじゃないんですよ、置いておいたんですからね!
 
明神池
明神池

 萩市を出て、通りがかりの明神池というのに寄りました。昔の火山活動で海がせき止められて池になり、今でも鯛やらエイやら海の魚が泳いでいる、という不思議な池です。
 岩の隙間を通して多少は海とつながっているようですが、鯛などは完全に池の中で繁殖しているそうです。ほっとけば独自の進化を遂げるでしょう。楽しみだ。
 しばらく行くと、阿武町という町に
「道の駅発祥の駅」が謳い文句の「道の駅阿武町」がありました。ひねりも素っ気もない駅名からして、本当に元祖道の駅なのかしらと思い、寄ってみました。
 蕎麦などの食堂、がらんとした直売所、温泉プールなどが併設されていて、確かに道の駅の典型と言った感じです。この道の駅の歴史を紐解くと、
 
平成元年 ふるさと創生事業で温泉掘削
平成3年 第一回道の駅実験開始(全国12箇所)
平成4年 直売所オープン
同年 温泉施設オープン
同年 第二回道の駅実験(中国地方ではほか3箇所)
平成5年 食堂「憩」オープン
同年4月 道の駅認定
平成7年 多目的広場、ちびっこ広場オープン
 
とのこと。一億円で温泉掘ったり、食堂に「憩」なんて名前をつけたり、「多目的広場」とか「ちびっこ広場」なんてものを作っちゃうあたり、いかにも田舎町の地域おこしの「王道」を行ってますな。
 これでも当時は先駆的な取り組みだったのでしょうか。
 こんな「道の駅阿武町」の歴史をザウルスにメモしていると、40歳くらいのおじさんが寄ってきました。ピチピチのサイクリング用パンツを履いているところを見ると、どうやらこの人も自転車人のようです。
 聞けば、秋田から阿蘇まで行く途中なのだそうな。阿蘇への楽な道はと訊くので、やっぱり大分から上ってくのがいいんじゃないですか、と答えました。
 秋田を出て今日で十日目だそうです。東北地方から山口県まで、その程度で来れるんですね。雪が積もる前に青森県、なんとかなりそうだ。
 食堂で蕎麦を食い始めたおじさんに挨拶して道の駅を出、近くのスーパーに入って食パンとキャベツと低脂肪乳1リットル100円パックを買って、道端で昼飯。
 キャベツをちぎって魚肉ソーセージとともにパンに挟み、低脂肪乳で流し込みます。
 
 山陰路は向かい風がちょっと強めです。
 国道から眺める海は、打ち寄せる波の風情がなんとなく日本海。沖縄のサンゴ礁の緑の海もいいですが、ぼくには日本海の方が似合っているかも、などとぼんやり思いながら走ります。
 夕方、県境を越えて島根県益田市に入りました。看板に、「人麿と雪舟のまち益田」とあり、やがて
「柿本人麿の誕生地 戸田柿本神社」
の看板が出てきました。
 柿本人麻呂といえば、梅原猛の「水底の歌」で有名です。まともに読んだことはないのですが、確か人麻呂は藤原不比等との政争に敗れて水に沈められて刑死し、その怨霊を鎮めるために神格化されたとか。
 怨霊好きなぼくとしてはチェックする必要があると思い、矢印の方向に国道を逸れました。
 途中の路地で遊んでいた子供たちがぼくを見て
「がんばってくださーい!」
と声をかけてくれました。ぼくが手を振って応えると、彼らは
「おお〜」
と歓声をあげて喜んでいました。どよめかれるほどのモンじゃありませんけど、あたしゃ。
 
 戸田柿本神社はちっちゃな集落にあるちっちゃな神社ですが、人麻呂はこの地に生まれ、神社の宮司家には人麻呂関係の各種古文書があり、人麻呂の遺髪塚もあるのだとか。
 また付近には「人麻呂の足型石」なるものもあるそうなのですが、歌聖だからってなんで石に足跡つけられるんでしょうね。
 うーむ、日本古来の足跡信仰がこんなところにも。
 神社そのものはさしてすごいものではないので、ちりんと一円玉を投げて拝み、そそくさと国道に戻りました。
 
 安売の低脂肪乳をがぶのみして腹を下すというのは学習能力のないぼくの悪い癖で、それまでプースカおならが出ていたものが、だんだん気体でなくなってきたのでこれはやばいと思っていたら、運よく「ふれあい広場」の公衆トイレがありました。
 しばらくトイレにこもって外に出ると、すっかり薄暗くなっていたので今夜はここに泊まることにしました。
 ゴミ回収をしていたおじさんが、また「どっから来た」と訊くので、飯田から来て、沖縄を回って青森に行くところだと答えたら「若さだなあ」と感心しておりました。
「ここなら泊まるのにいいぞ、よくキャンプする人がいるんだ。風邪には気をつけろよ、身体壊しちゃ夢もなんにもないからな」
と言ってくれました。
 広場の上に芝生の平地があったのでそこにテントを設営。線路のすぐ近くで、時折電車の音がやかましいですが、そのかわり日本海がよく見えます。
 晩飯は、レトルトカレーとキャベツスープ。
 最近食事もぜいたくせず、つつましい日々を送っています。
 今月12日、湯布院で降ろした一万円で食いつないでいるので、あと三日のあいだ貯金を降ろすのを我慢して、一万円で10日間暮らすというのを達成してみたいです。
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9月19日(木)晴 歌聖の神社の天声人語

 朝飯はまたラーメンだったかな。
 天気が良かったので、朝からパンツと靴下を洗いました。乾くまでの間、ベンチで短パンのほころんだ部分を繕いました。日だまりで針仕事をしていると、なんだかおばあさんになったような気分でした。
 向こうの芝生では、おじさんがゴルフの練習をしています。手持ちのボールを打ち終わるたび、拾いに行っています。のどかな風景です。
 どうにか乾いた洗濯物を畳み、下のトイレに行くと、早くも今日一人めの自転車旅の人に出会いました。ぼくと同じくらいの年でしょうか。旅の間は剃らないと決めているのか、口の周りには老人のように髭が生えています。なぜか知りませんが、サッカーボールを持っていました。トイレに入るときも持っていましたから、よほど気に入っているのでしょう。
 彼とは、少し立ち話をしました。本州一周旅行の途中で、青森から下ってきたところだそうです。
 
 益田市内に入ると、「高津柿本神社」の看板が出て来たので、これも人麻呂関係のものだろうと思って行ってみました。
 しっかりと門前町もできていて、昨日の戸田柿本神社よりも立派な神社でした。
 参道下の池のほとりでは、近所のじいちゃんがのったりと座り込んでいました。
「どっからきた」
などと、また声をかけられるかなと思いましたが、むっつりと黙ったままでした。
 適当な石碑に自転車を立て掛けて石段を昇りはじめて、
「ちょっとこの神社、ヘンだ」
と気づきました。
 石段のわきにプレートがいくつもぶら下がっていて、そこには「里の秋」だとか「手のひらを太陽に」だとかの童謡や懐メロ(?)の歌詞がマジック書きされているのです。
 歌の神様にちなんで、ということなのでしょうが、何十枚もそういったプレートがぶら下がっているのですごく目障りです。
うざってーんだよ!
ありがたいオコトバの数々

 それに加えて山門や拝殿わきには、妙に説教臭いエッセイが同じマジックペンで書かれてべたべた張られていました。
「自然の恵みをいただいて生きられる
自然を尊び感謝しての暮らしが神の道に通じる」

とか、
「夢
捨ててはいけない きっと叶うもの 思いが弱いと叶わない」
「もったいない
手の届くところにほしい物がたくさんあるのでかえって物を粗末にしてはいないだろうか。
魚にも肉にも野菜にも木にも命を宿していた。人間はそれ等の命をいただいて生きられる。
浪費は必要以上の命を奪う、また自然の破壊にもつながる。…云々(以下略)」

などと、天声人語気取りの年寄り臭いお説教コラムが、これでもかこれでもかというように貼ってあるのです。
 そんなお説教や教訓は、寺の坊主に任せておけばいいのに。神道も宗教である以上、なにか「いいこと」を言わねばならん、という妙な思い込みがここの宮司にあるのでしょうか。もしくは、ただの説教好きなのか。
 貼紙は、その場所の管理者のレベルを表すバロメーターだと感じます。
 トイレの注意書きしかり、町なかの標語しかり。
 ぐちゃぐちゃ貼紙してないで、黙って実践してろ、と言いたくなります。
 
 悪口はほどほどにして、神社の由緒を申しますと、
 柿本人麻呂公は益田市沖の鴨島で亡くなり、その地に柿本神社が祭られておりましたが、大地震によって島は海中に没し、神社の御神体である人麻呂像が松崎という場所に流れ着きました。長い間そこに社殿が設けられていましたが、江戸時代に現在の場所に移されたんだそうです。
 御札授所で売られていた関連書籍を立ち読みして知ったんですが、梅原猛は机上で人麻呂論を展開するだけでなく、鴨島があったとされる海底や、人麻呂が葬られたとされる墓の発掘調査もしてるんですね。たいしたもんだ。調査の結果は、さしてぱっとしないものだったみたいですが。
 
 昼時になり、腹が減ったので市内のスーパー「キヌヤ」で食パン、サンマフライ、マミー(ヤクルト風味の乳酸飲料)を買い、鴨島があったらしき海上を眺める海岸で、サンマフライサンドを食いながらマミーをがぶ飲みしました。サンマとマミーってのは、少し合わなかったです。
 
 腹もくちくなったので出発。
 交通安全週間が近いからか、おまわりさんが見張りをしていて、ぼくも停められました。
「何か身分証持ってる?」
と訊くので、運転免許証を出すと、
「なんだ、持ってるんじゃない」
と、さも意外だと言わんばかりの口調でした。車が運転できないから自転車漕いでると思ったのかな。
「大きなリュック背負って、トラックなんかにひっかけられると危ないでしょう。このへんは歩行者もいないし、なるべく歩道を走ってくださいよ。でこぼこして嫌かもしれないけど」
そうなんですよねー、歩道なんてそもそも自転車が通るために作られてないですからね、走りにくいんですよ。と、思いながらも、
「はいはい」
とおとなしく返事しておきました。
 
 今日は、夜宿泊場所に着くまでに五人の自転車旅の人とすれちがいました。
 一人目は前述のサッカー髭氏。もう一人は、坂道を押して上っていた若者。学生かな。後ろから追いついてしまったので、声をかけて追い越し、自転車を停めて少し話をしてみました。
 彼は今日は萩を出発したと話していたので、彼もずいぶん一日の走行距離が長いです。
「また会うかも知れませんね。追いついてください」
と挨拶して、ぼくは先に行きました。
 残りの三人は道路の対岸を対面走行ですれちがったので、手を挙げて挨拶しただけでしたが、一日に五人もの自転車男に出会うなんて、ちょっとびっくりです。
 今の時点で一体何人が、自転車で日本を巡っているのでしょう。
 まあ、9月過ぎれば大学の夏休みも終わるし、寒くなるので旅人人口も減るでしょう。
 
 今夜は江津市の中央公園でテントを張りました。
 晩飯はスパゲッティミートソースとキャベツスープ。北九州で買った焼酎が切れてしまったので、今夜はひさしぶりにノンアルコールデーです。
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9月20日(金)曇 石見銀山視察レポート

 今日はぼくの無職記念日です。会社辞めてからもう一年になるんですねえ。
無職の期間が長ければ長いほど再就職率が下がる、という話をよく聞きますが、そんな呪いには耳をかさないようにしている今日このごろです。

 朝飯は何食ったかな。ラーメン1.5袋だったかな。
朝から猫がぼくの回りをうろうろしています。なかなかかわいい顔のトラ猫です。外に出て片付けをしていると、テントの中に入り込んでみたり、魚肉ソーセージの匂いを嗅ぎつけて手を出そうとします。
 ぼくがなにも餌をやらないでいると、友達なのか恋人なのか、黒猫もやってきて、広げて乾かしているテントの上で二匹してじゃれあっていました。
 いいですねえ、猫は。少なくとも吠えないから。
 
 公園を出て、9号線を出雲方面に向かいます。途中、道路工事ばかりしていて辟易します。
交通整理のおっさんに、車が全部通過するまで待てとか、対岸に渡れとか、歩道を通れとか、降りて歩けとか、いろいろ指図されてうざったいです。
 江津市の隣の温泉津(ゆのつ)町には、温泉津温泉という、くどい字面の温泉があるそうで、入ろうかなとも思いましたが結局通り過ぎました。
 その隣の仁摩町には鳴砂海岸があると看板が出ていましたが、砂がメソメソ泣く泣砂海岸ならともかく、ただキュウキュウ鳴るだけならまあいいやと思い、さっさと通過してしまいました。
 やがて今度は「石見銀山右折7km」の看板が出てきて、
「石見銀山かあ。聞いたことあるな。おもしろそう」
ということで、矢印の方向に曲がってしまいました。
銀山というからには洞窟関係。洞窟ものは入場料が高いだろうと思い、一万円で10日を過ごす記録挑戦をあきらめ、途中の郵便局に寄ってしまいました。
 前回一万円を降ろした湯布院の12日から数えて九日目でした。
 
大森町の町並
大森町の町並

 石見銀山は大田市の大森町にあり、ずいぶんとけっこうな町並でした。
 国の景観保全地区に指定され、古い家を改築する場合も専門家が調査を行い、建築されたころそのままの形に建て直しているのだそうです。
 防火ホースの収納箱やゴミ収集箱、郵便受けなども、みな木製だったり木製のカバーで覆われていたりして、気を遣っている様子がよくわかりました。これ以上何かをしようとするなら、電線の地中化くらいしかないでしょう。
 道路をすべて石畳にしちゃうってのも手だけど、あんまりやりすぎるといかにも観光地って印象になっちゃうし。
 ただ、こうした取り組みは評価するのですが、だからって「石見銀山を世界遺産に!」ってのは、もううんざりなのでやめてほしいです。
 そういうものに指定されないとあんたたちは自分の町を保てないのか。町の景観を保全するのは観光客のためや名誉のためじゃなくて、まず住民たちの誇りのためじゃあないのかい。
「〇〇を世界遺産に!」
ってポスターを方々の観光地で目にするたびに、そう思うんですけどねえ。
 
 愚痴はさておき、ここでは、まず銀山資料館に入りました。代官所として使われていた建物だそうです。錆びた採掘道具やら、石見銀山の絵巻物などがありましたが、500円も取られるわりにはあんまり面白くなかったです。
 坑内の換気用に唐箕が使われていたというのは、ちょっとした勉強でしたが。
 次に行ったのは「町並交流センター」。ここはもと裁判所だったそうで、裁判官や弁護士のマネキンが立っていました。
 展示は大したことがありませんでしたが、ここで観られるビデオは、地方の自治体が作ったものにしてはなかなか金をかけた力作でした。
 文部科学省かどっかの助成金を受けてNHKエンタープライズに製作させたもので、このビデオさえ観ておけば、銀山資料館の展示など観るよりもよっぽど分かりやすくて勉強になりました。

 そしてメインは「龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)」。マブというのはもちろん愛人のことではなくて、坑道のことです。
 石見銀山は「仙の山」という山に掘られたいくつもの坑道の総称です。室町時代から大正時代にかけて、いくつもの間歩が掘られて、道端にもぽかぽか入口が開いています。
 龍源寺間歩は現在でも中に入れる唯一の坑道で、入場料は400円。相場からすれば、割安な値段でしょう。
龍源寺間歩
龍源寺間歩

 中に入ってみると、洞穴でした。そりゃそうだ。
怪しいムー大陸の彫像も無く、泡盛のビン棚もなく、動く鉱夫のマネキン人形もありませんでした。一応、テープで石見銀山の解説がずっと流れていました。
 ライトで照らされている場所に、笹やら何やらの植物がしっかり育っているのが印象的でした。
 間歩を抜け、金山彦をまつる佐毘売山神社にお参りし、無料休憩所でキャベツサンドを食って充電しながら日記を打っていたら4時を回ってしまったので、大田市街に下ることにしました。
 
 夕暮れの大田市街をぐわーっと走り抜け、今夜は多伎町の台場公園とかいうところにテント設営。
 太田市で晩の食材を買いそびれてしまったので、残っていたスパゲティを茹でてありあわせのキャベツとサラミとコンソメをぶちこんでスープスパゲティということにしました。
 酒無し二日目です。アル中のつもりはないですが、なんかちょっと寂しいんだよなー。
 退職一周年の夜は、こうして更けていったのでありました。
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9月21日(土)晴 日本三周めのツワモノ

 朝飯は、ビスケットでもかじってたかな。
 沖縄を出て以来ひさしぶりに、朝っぱらから暇そうな昼寝おじさんを目撃しました。
おじさんは自転車でやってきて、便所でウンコして、トイレを出てしばらく観光マップを見上げていましたが、やがて台場公園の模造大砲を覆っている東屋のベンチにごろりと横になって、そのまま動かなくなりました。
 まあ、休日ですからべつに昼寝しててもおかしくはないのですが、ホームレスではないにしろ、よほど家にいられない事情があるんでしょうて。
 
 しばらく走った道の駅「キララ多伎」(ケッ)で観光パンフを物色し、出雲大社に向けて出発。
 大社町で朝飯を買うために寄ったスーパーは、すべてのものが定価で売られていて腹が立ちました。
 定価の弁当と定価の菓子パンと定価のジュースを買って駐車場で食い、これまた道の駅「大社ご縁広場」へ。なんやかんや言って、ぼくってやっぱり道の駅好きなのかな。
この「ご縁広場」は入場無料の展示施設で、展示はさしておもしろくありませんが、読書コーナーでは、日本神話を扱った学習マンガが二種類あって、それぞれを読み比べるとマンガ家や監修者の視点や力量がうかがえて面白かったです。
 神話を題材にしたマンガは学習マンガばかりではないのですから、もっといろいろ集めてくれればいいのに。
 
 松並木の門前町を抜けて出雲大社へ。ここは縁結びの神様だけあって、他の神社よりも参拝客のうちカップルの占める割合が高くて居心地悪い。
 二年ほど前に旅行で訪れたときは、本殿の前が掘り返されて巨大柱が露出しておりましたが、今日行ってみるとその場所は埋め戻され、柱の位置を示すタイルが貼られておりました。
 大昔の出雲大社は直線ウォータースライダーみたいな、ながーい階段とたかーい柱を持つ異様な建物だったと推測されておりますが、最近ラジオで聴いたニュースによれば、階段が伸びていたと推測される部分を発掘してみたものの、それらしき柱跡などは発見されなかったとか。
 出雲大社のナゾは深まるばかりですな。
 宝物殿は250円くらいだったかな。
 展示品の中では、江戸時代の天明年間、土佐の人が祈願成就のお礼にと四国の吉野川から出雲に向けて流したという「願開船」が面白かったです。
 二年かかって大社近くの稲佐浜に流れ着いたというその小船の実物が展示されているのです。きっと、途中で船乗りさんが拾って、稲佐浜まで持って来て浜辺にこっそり置いといた、というのが種明かしではあるまいか。
 
 出雲大社を出て、出雲の阿国の墓を撮り、日御埼神社へ。海沿いの崖伝いに走る道は眺めが良かったです。
 日御埼神社は「日沈の宮」(下の本社:祭神天照大神)と「神の宮」(上の社:祭神須佐之男命)の二つの本殿があります。「日沈の宮」は、伊勢の五十鈴川上流に鎮座する「日昇の宮」すなわち伊勢大神宮と対となる神社なのだそうです。沈む夕日が御神体ということなのでしょうか。そう考えるとなかなかかっこいい。
 日御碕神社を後にするとき、道端に座っていたおばあさんが
「自転車かい。大変だねえ」
と声をかけてくれました。
好奇心丸出しのおっさんに根掘り葉掘り訊かれるより、こういう味のあるばあさんに声をかけてもらったほうが、なんかいい気持ちになりますね。
 日御碕灯台には行きませんでした。

孫の手を引き黄泉へ赴くおばあちゃん
猪目洞窟

 岬から直接平田市方面に抜けられるかなと思い、必死こいて峠を越えて海岸沿いを走ってみましたが、黄泉の国の入口と伝えられる猪目洞窟をすぎると再び峠道になり、なんのことはない、出雲大社に戻ってしまいました。あほだ。
でも峠道で、怪しいお地蔵さんの祠を見つけました。祠の中に地蔵ともなんともよくわからぬ石がいくつか安置されており、その石と言わず、祠の壁と言わず、「南無地蔵大菩薩」と書かれた納め札がびっしりと貼りつけられているのです。
こういうあやしい習俗は大好きなので、これを見つけたときちょっと幸せでした。
納め札だらけのお地蔵様
納め札だらけのお地蔵様


 素直に平野部を走り、国道431号に入って平田市入り。そのまま一気に宍道湖の北岸を突っ走りました。
 途中の道の駅でトイレに寄ると、ベンチで自転車人がひとり、なにやら晩飯のようなものを食っていました。トイレを済ませてから近寄ってみると、自転車の前と後ろに合計四つの巨大なバッグをつけた自転車。年の頃は50くらいでしょうか、頭はつるっぱげのおっさんです。見るからにかなりの筋金が入ってそうな旅人さんです。
「ごくろうさまです、どちらから」
と声をかけると、
「日本を二周して、今は日本縦断の途中」
とのこと。いろいろ話を聞ければ面白いとは思いましたが、そのときのぼくは食料がなく、その場に野宿するわけにはいかなかったので、
「そうですか。ぼくは長野から。まだ日本半周もしてませんよ。お気をつけて」
と言って、すぐに別れてしまいました。きっとあのおっさんも、今までに何十回となく他人から変わり映えしない質問を投げかけられて来たことでしょう。
 それを考えると、あんまり同類にいろいろ質問しづらいな、と思いました。
「どっからきた、何日目だ、パンクしないか、予算はいくらだ、学生か、親は何もいわないか、云々」。
出会う人々からの聞き飽きた質問にも、明るく答えてあげるのが旅人の義務もしくは礼儀なのかもしれませんが。
 
 スーパーを見つけるまでは、の一念で暗い国道を走り、松江市内に入ってようやくAコープを見つけました。米やパンを買い込み、酒にもそそられましたが、とりあえず我慢しました。
 今夜のねぐらは、Aコープのすぐとなり、ティファニー庭園公園の駐車場です。
 おかずは、チキンバーの網焼きともやしスープ。
 これに酒があればなー、くう〜、と悔しがりながら飯を食い、寝てしまいました。何のためにそんなに我慢してるんだか、自分でもわかりませんが。
 明日は松江市内。小泉八雲記念館でも観てみるかな。
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9月22日(日)曇ときどき雨や晴 八雲愛用の鉄アレイ

 朝飯は、トーストとモヤシのみそ汁。
 近くのトイレで洗顔をすませ、外のコンセントを借りて日記を打っていると、9時過ぎになって観光客が何人かやってくるようになり、係のおじさんに
「お客さんが来るから、あっちのバス停に行ってくれない?」
と言われたので、潮時だと思って出発することにしました。
 国道では「松江玉湯毎日マラソン」の最中で、ランナーたちがしんどそうに走っていました。マラソンなんてしんどいことをよくやるなあ。
 
 とりあえず、県立博物館に入りました。入場料は200円。県立にしては展示室が一部屋しかなく、こぢんまりしたボリュームでした。
 でも、今時の県立博物館がどこもジオラマとレプリカばかりなのに対して、島根の場合は展示品の多くは実物で、パネルの解説も比較的分かりやすくて好感がもてました。
親子連れが来ていて、小さな女の子が
「おとうさああん」
とわめき、遠くのお父さんが
「なんじゃらほい」
と答えるのですが、子供には聞こえないようで
「おとうさああん」
「なんじゃらほい」
「おとうさああん」
「なんじゃらほいー」
というやりとりが、ほほえましいけどやかましかったです。
 ここの博物館の読書コーナーには、岡野玲子の「陰陽師」が揃っていたので、読んでいない巻を喜んで読んでいたら、すぐにお昼が過ぎてしまいました。
 次に行ったのは小泉八雲記念館。八雲が熊本に赴任する前に住んでいた旧宅だそうです。
入場料は300円で、連休中だけあって大賑わいでした。中身は、熊本の八雲記念館を訪れていた者としては、さして目新しい発見はありませんでした。
 ただ、「八雲愛用の鉄アレイ」というのが展示されていたのが面白かったです。
でも、
「八雲愛用のアブフレックス」
「八雲愛用のアブローラプラス」
「八雲愛用のエーカン」
「八雲愛用の美容ローラー」
「八雲愛用の金運を呼び込む風水財布」
はありませんでした。なんでないんだ。探しだせー。
 
 松江城のお堀を一回りして、次は境港へ。水木しげるロードはかつて行ったことがあるのでさほど興味はないのですが、隠岐に行こうと思い立ちまして。
 昼飯は、あいもかわらずお手製キャベツサンド。
 中海の北岸の狭い国道を走り、境水道大橋を渡って6時に境港に着きました。
目玉街灯
目玉街灯

 夜の水木しげるロードは、数組のカップルがそぞろ歩いていますが、基本的に活気が死に絶えていて、かなりうら寂しいものがありました。
 目玉街灯はかわいかったですけど。
 市内最大と思われる「やよいデパート」で半額になっていた揚げ物、安売りしていた80円の鳥肉、べつに安くない120円のアスパラを買いました。
 テントを建てたのは、お台場公園とかいう、古そうな灯台のある公園。晩飯はインスタント焼きそば。
 今日で禁酒三日目です。
 明日は隠岐に渡ります。
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9月23日(月)晴 よくわからん妖怪神社

 朝、ごはんを炊こうとしたら、燃料が切れていました。
 腹が減って仕方ないので、昼飯にしようと思っていた白身魚のフライとコーンクリームコロッケを、パンに挟んで食べました。
しかし、米はゆうべから水につけてしまったし、生の鳥肉も消費しなければならないので、7時半ころになるのを待って、ガソリンスタンドに走って燃料を補給しました。
 ということで、正式な朝飯はごはんと鳥肉野菜スープ。腹が一杯になりました。
 
 テントを畳んで公園のトイレで歯を磨いていると、おじさんが自転車で通りかかり、
「旅してるんか。何年めだ」
今まで、「何日目だ」と訊かれたことはありましたが、「何年目だ」と来られたのは初めてです。
何年も放浪してるように見えるんですかね。たしかに着てるTシャツはかなりぼろくなってるけど…。
いろいろ訊いてくるかと思ったら、
「パンクしないか、宿はテントか」
といった基本的な質問をしたあとは、何かを言いたいのに何を言えばいいのか自分でも分からない様子で、いつまでもぼくの自転車を眺めているのでした。変なの。
 妙な沈黙が続いて一時はどうなるのかと思いましたが、そのうちおじさんの携帯に電話がかかって来たようで、おじさんは何やらしゃべりながら向こうに行ってしまったのでほっとしました。
 公園の中にある小さな木造の灯台をちらりと見物。中ではおばさんが二人、長机に陣取っていましたが、別に何かガイドするでなく、ものを売るでなく、ひたすら二人で世間話していました。
 
 フェリーの出港時間は2時40分。暇があるので水木しげるロードをそぞろ歩くことにしました。
 七割がカップル、二割が親子、一割がその他です。
 カップルはたいてい、女が鬼太郎やねずみ男の像の横に座ってにっかりと笑い、それに向かって男が懸命にシャッターを切っています。
 一割の「その他」には、ぼくみたいな一人旅の男のほかに、老夫婦などが含まれています。
70くらいのじーちゃんとばーちゃんが、小さな妖怪のブロンズ像を覗き込んでいるのですが、面白いと感じているのでしょうか。
 
 水木しげるロードには、「妖怪神社」があります。かの「貧乏神神社」と向こうを張るほどのヘボい神社です。一反木綿をかたどった鳥居の向こうに、御神体なんだかモニュメントなんだかよく分からないオブジェが立っているだけです。
 隣の土産屋「むじゃら」が社務所を兼ねているらしく、「妖怪の教訓」絵馬なんぞを売っていて少し腹立たしかったです。
 むじゃらに読書コーナーがあったので、水木しげるのイラスト集や、雑誌「怪」などを読んでいたら、あっというまに2時になりました。
 フェリーターミナルに行って、自転車を解体して輪講袋に入れようとしたのですが、慣れない作業でなかなか入りません。出港時間が迫ってきたのでやむなく自転車を組立て直し、押して乗り込みました。
 自転車料金は受託手荷物料金の倍。660円損しました。帰りのフェリーでは、時間に余裕をもって梱包作業をしなければ。これは教訓だ。
 
 客室はかなり混んでいました。狭苦しいので、荷物だけ置いてデッキへ行きました。
 写真を撮ったり、ベンチでうたた寝したりしているうちに日が暮れてきて肌寒くなりました。
 島前の別府港を過ぎると客の数は一気に減ったので、客室でのんびりメールを打つことができました。
 ところで、ぼくは隠岐についてあまり知識がありません。漠然と、「いろんな人が流されてるよね、確か」という程度です。はっきり言って去年まで、隠岐と壱岐と沖ノ島の区別がついていませんでした。
 別に見たい目あてがあるわけでなく、ただどんなところか興味があるだけです。
 
 島後の西郷港に降りたのは、午後6時50分。あたりはすっかり暗くなっていました。
 ねぐら探しに港の付近をうろつき、橋のわきの駐車スペースみたいなところにテントを張りました。
 隠岐に上陸しての第一印象は、「ここにもウォーキングおばさんが多いなあ」
でした。
 晩飯は、何食べたっけなあ。どうせレトルトかインスタントのどっちかだ。
 ノンアルコール四日目です。
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9月24日(火)曇 大蛇の寝言が聞こえる

 朝飯は、ご飯炊いてみそ汁でも作ったかな。
 立ち小便したら、もうもうと湯気が上がりました。冷えてるんですねえ。夜中も、シャツを2〜3枚重ね着するようになりました。
 ぼくのシュラフは買ってからかれこれ5〜6年は経っている代物なので、少し煎餅化しているような気がします。でも、寒さなんかには負けないぞ。今のところは。
 
 テントを畳んだ後、フェリーターミナルに戻って溜まっていた日記を打ちました。送信しようとしたら、PHSが効きませんでした。壱岐ですら郷ノ浦では使えたのに。田舎だなあ。
 
 ターミナルを出ると、時刻はもう3時近く。
 近くのデパート「ピア」でレトルトカレーだのスパゲティなどを買い込み、玉若酢命神社でいつものキャベツサンドの昼食。
 この神社は、隠岐の国作りの兄弟神のうち、兄の玉若酢命(たまわかすのみこと)を祀っています。
ちなみに弟は水若酢命(みずわかすのみこと)といいます。
 臍茶若酢命という神様もいたのでしょうが、隠岐の国造りには参加しなかったようです。
ムニャムニャ、ご隠居、もう食えません…
八百杉

 境内の八百杉という巨木は八百比丘尼のお手植えだそうで、彼女は杉を植えて
「八百年したらまた来ます」
と言って立ち去ったのだそうな。
 ちなみに、杉の樹齢は2000年だそうです。八百比丘尼がこの島にやってきたのが弥生時代だったのか、それとも彼女が植えた杉が当時既に大木だったのか。
 八百比丘尼が植えた苗木の下には大蛇が眠っていて、ぐうぐう寝ているうちに成長した杉が大蛇を閉じ込めてしまったそうです。今でも八百杉に耳をつけて心を静めると、蛇のイビキが聞こえてくるそうです。
 ぼくも柵を乗り越えて八百杉の幹に耳をつけてみましたが、ぼくにはイビキは聞こえませんでした。
運がいいと、
「ムニャムニャ、お母ちゃんのバカ」
という、大蛇の寝言が聞こえるそうです。
 
 腹ごしらえをして、ようやく隠岐島後一周に出発。
 田舎なので、交通量も多くなくのんびり走れます。少し山がちですが、対馬ほどではありません。
 ところどころに地元の伝説を紹介したプレートが建てられていて、伝説好きにとってはありがたいです。

 さして特徴的な風景には出会いませんでしたが、大久という小さな漁村には、稲はざの向こうに海食崖がそびえているのが見えたり、馬がいたり、猫がいたり、犬が縁の下から鼻面を出していたりしてのどかな光景でした。
 ちょっと写真でも撮ろうかと立ち止まったら、縁の下から犬がわんわん吠えたてたので、何も撮らずに退散しました。
 今夜のねぐらは布施村の浄土ヶ浦です。一応、景色がよいということで名所になっているようです。
「浄土ヶ浦野営場」
という看板が立っているのでキャンプ場のようなのですが、料金とか申し込み先とかは何も分かりません。
 ってことはタダなのだろうと思うことにしたのですが、観光パンフの地図を見ると、ほぼ同位置と思われるところに「ミモザ浄土ヶ浦キャンプ場」というのが載っていて、これは料金がテント一張1,000円とのこと。
浄土ヶ浦の夕景
浄土ヶ浦の夕景

「浄土ヶ浦野営場」と「ミモザ浄土ヶ浦キャンプ場」とは同一のものなのか、そのうち管理人がやってきて1,000円請求されるのではないか、と少し不安でしたが、なんとかなるだろう、と腹をくくりました。
 日が沈み、空がピンク色です。遠く水平線近くに、漁船の漁火が見えて、ちょっといいです。
 
 晩飯は、レトルトの玉子丼。無酒生活5日目です。
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9月25日(水)ほぼ晴 蛇に呑まれたトカゲ

 朝飯は焼きそばだったかな。
 1,000円とられることなく、浄土ヶ浦を後にすることができました。隠岐には、別にこれといって見たいものがあるわけでもなく来てしまったのですが、「トカゲ岩」なるものがあると観光パンフに出ていたので、行ってみることにしました。
 トカゲ岩は山奥にあって、3kmの坂道はけっこう傾斜が鋭くてしんどかったです。
 お目当てのトカゲ岩は、山の崖が風化してトカゲが崖を這い登っているように見える、とのことだったのですが、ぼくがみる限りトカゲというよりクチバシの短いキツツキのように見えました。
 
 来た坂を下り、海岸伝いに五箇村方面へ。
 白島展望台に寄ってから、五箇村の田舎道を走っていたら、道のまん中でへビがうねうねとダンゴ状にこんがらがっているのを発見しました。
 何をやってるんだろうと自転車を降りて覗きこむと、へビがト力ゲをつかまえて今にも呑みこもうとしているところでした。
観念して呑まれちまえ、うひひひひ(とヘビくん)
トカゲくん、絶体絶命!

 爬虫類が爬虫類を食うというのは何だか共食いのような気がしますが、これはヒトがブタを食うのと変わらないわけで。
 と、理屈ではわかっていても、ウロコのあるものがウロコのあるものを食うというのは、見ていて少し妙な気分です。お前ら親戚どうしだろ、何良くしろよ、なんて言いたくなります。
 トカゲはへビに締めつけられて苦しそうにしています。助けてあげたい気もしますが、下手に助けてその日の夜ぼくのテントに
「こんばんわ〜」
とトカゲ女房がおしかけてきたら怖いし、何よりへビに怨まれそうだったので、ひたすらことのなりゆきを見届けることにしました。
 へビとトカゲの格闘は、なんだか柔道の寝技の攻防を見ているようでした。
 ぼくが熱心に見物していると、通りがかった軽トラからじいちゃんが
「何やってんだ」
と不審そうに降りてきました。いい年した男が、リュック背負ったまま道にしゃがみこんでいたら、そりゃまあ怪しまれるかもな。
「へビがトカゲを呑もうとしてるんですよ」
と答えると、じいちゃんは一瞥して
「へビがニ匹いるじゃないか」
「いえ、トカゲです」
「ふうん」
何だかぼくは恥ずかしくなって、
「いやあ、こうして見てないと車にひかれちゃうと思って」
「ふうん」
じいちゃんはそのまま軽トラに戻って去っていきました。
 
 そうこうしているうちに、初めこそトカゲをもてあまし気味だったへビも、獲物の動きが鈍ってきたのをチャンスとばかり、トカゲを頭から呑み込みはじめました。
 よくまああんなにロが開きますねえ。
一亘呑みはじめたら早いもので、へビは「えぐっ、えぐっ」といいながらトカゲを尻尾まで丸呑みしてしまいました。
へビが一息ついているところに、カーブの向うから車のエンジン音が近付いてきました。
どうするんだろう。こんな道の上で食後の昼寝してたら、牛になる前に轢き殺されるぞ、と心配していたら、車を察したへビは、今までの無防備な動きはどこへやら、しゅるしゅるっと走ってあっという間に草むらにかくれてしまいました。ほっとしました。
 いやー、自転車で走っているといろんなものを見られるなあ。子供の頃から生き物がものを食う様子を観察するのが大好きだったぼくは、すっかり嬉しくなってしまったのでした。
 
 五箇村の水若酢命神社にお参りし、共通券650円で「五箇創生館」と「隠岐郷土館」を見物。
 「創生館」は隠岐の牛突き(闘牛)と古式相撲、そして植物を紹介する展示施設でしたが、入場料500円は高いぞ。
「郷土館」は、民具中心の展示でしたが、どこにでもあるような物置型資料館の典型で、これも入場料300円は高い。そのうえ、見物途中にどっかの町の議員さんたちらしき、背広姿のオッサンどもがどやどやと入って来て、
「オラァ町長と違って教養ねえだから、こんなもん見てもわからんゾ」
などと言っておりました。
 たぶん視察旅行なのでしょうが、確かに議員さんが民具なんか見ても役に立たないでしょう。
 
福浦トンネル
福浦トンネル

 川のほとりでキャベツサンドと柿ピーの昼飯をすませ、次に行ったのは福浦トンネル。新福浦トンネルが完成する前に使われていた旧道のトンネルで、凝灰岩の崖に掘られた手掘りのものだそうです。
 波打ち際を見ると、車道が通る前に使われていたと思われる小さなトンネルが開いているのを見つけました。
 小さなトンネルで、163pのぼくですら頭を低くして通らなければなりません。
 道は波打ち際の崖下を通っており、道というより「歩ける場所」といった感じです。昔の人はこんなところを歩いて行き来していたんでしょうか。「青の洞門」の本来の姿を見るようで、少し感慨深かったです。
 
 そろそろ夕暮が迫って来ましたが、壇鏡(だんぎょう)の滝というのがあって、滝を裏から眺められるという話だったので行ってみることにしました。
 4kmちょっとの坂を汗かきつつ上っていると、バイクに乗ったおばさんが何やら歌いながら下りてきました。
カーブを曲がってぼくを見るや、おばさんは
「ごくろうさまね〜♪」
と、アドリブで歌いながらすれ違っていきました。隠岐にはかわったおばさんがいるものです。
 薄暗い中を訪れた壇鏡の滝は、なかなかいい雰囲気でした。滝のほとりには「壇鏡神社」がありました。
 昔、この山の下の方にある寺の住職が山に分け入ってこの滝を見つけ、そこから鏡を発見して社に祭ったのがこの神社の始まりだそうです。しかし、本殿は最近火事で焼け落ちたのだそうで、現在はちっちゃな仮殿と再建用の資材が転がっておりました。
 かの壇鏡の滝はちょっと水不足で、滝というより極集中豪雨みたいな感じでもの足りませんでした。
 
 参道入口にトイレがあったので、今夜は鳥居わきにテントを建てました。
 周りには人家もなく、夜は真っ暗ですが、テントの中に入ってしまえばそんなことは関係ないので、静かなぶん気楽です。
 晩飯はスパゲッティミートソースとスープ。最近レトルトに頼ってばかりです。
そりゃ、隠岐まで来たら海の幸に地酒、なんてぜいたくをしてみたいですが、なにしろ軍資金がキビしいもので。
無酒生活日目です。
 
明日には本土に帰ります。島渡りはこれくらいにしとかないと、青森に行けなくなる。
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9月26日(木)曇 隠岐の駅鈴

 朝飯はボンカレー甘口。基本的にカレーは辛口が好きなので、沖縄のこーれーぐすをかけて辛みを足しました。
 
 トイレの水道で軽く頭を洗わせてもらってから、山を下りました。
 都万村で舟屋群を見た後は、さほど面白いものはなく、昼前に西郷町に戻りました。
 このまえ行きそびれた隠岐家宝物館に。入場料300円。顔の長いじいさんが出て来て、
駅鈴
駅鈴

「まずこちらをご覧ください。これが日本で唯一ここだけに伝わる駅鈴でございます…」
と、立板に水のごとく解説してくれました。
駅鈴、京都御所新築祝いのときに駅鈴を納めた櫃などが展示されており、じいさんは次々と説明してくれます。
「駅鈴はどこにぶらさげたんですか?」
とか
「たかがちっちゃな鈴を入れるのに、なんでこんな長持みたいな櫃が必要だったんですか?」
とか、いろいろ質問したかったのですが、じいさんはそうした質問をする隙を与えず、一気に解説をし終えると、到着したばかりの団体客を迎えるために去っていってしまいました。
 
 昼飯用のパンなどを買いにスーパーを物色して、地場産コーナーで「サザエカレー」を買いました。
隠岐では昔からカレーにサザエを入れて食べていたのだそうで、サザエの肝を練り込んだバターを使用しているのだそうです。
 レトルトパウチ一袋が480円もするのですが、まあせっかく隠岐まで来たのだからと奮発しました。情けない奮発の仕方ですが。
 後でフェリーターミナルの土産物売り場を覗いたら、同じサザエカレーが530円で売られていて、少し嬉しかったです。
 やっぱ観光客向けの店で買い物するもんじゃありませんね。
 
 フェリーの出港の二時間前に港に着き、じっくり時間をかけて自転車の梱包にとりかかりました。
 その結果、大分で買った輪行袋に、わが第二コルド丸は入らないことが判明しました。
車輪やハンドルを外してみたのですが、袋が小さすぎるのです。
「これで十分だよ」
と自転車屋のオヤジは言っていたのに。くっそ〜、騙された。5,000円がドブだ。
 
 手足を油で汚した甲斐もなく、再び自転車を組立て直し、自転車料金を払ってフェリーに乗り込みました。
 今回はフェリー到着後すぐに乗り込んだので、二等の大部屋の隅を陣取ることができましたが、出港間際になるとどっと客が増えて、往路同様の混雑になりました。
 視察客らしき、スーツにワイシャツ姿のおじさんの団体です。郷土館で重なった連中でしょうか。隠岐の観光は視察でもってるんじゃないかと思うほどです。
 揺れが少なかったお陰で、美保関町の七類港に着くまでに、溜まっていた日記を片付けることができました。
 再び境水道大橋を渡って境港に行き、またデパート「やよい」に行って晩の食材を買い込み、この前と同じ台場公園でテント設営。
 
 晩飯は、シイラの切り身が安かったので、ぶつ切りにしてセロリやニンジンといっしょに煮込んだ「シイラのスープ煮」と、塩コショウを振った切り身を網で焼いた焼きシイラ。
 約一週間ぶりに酒も買ってしまいました。パックの月桂冠。
 九州沖縄で焼酎や泡盛に慣れ親しんでしまったので、日本酒はなんだかすぐこめかみが痛くなりそうな感じがします。安い酒だからかもしれませんが。
安い日本酒はいくらでもありますが、少なくとも調味料が入った酒は買わないようにしよう、と思いました。
 シイラは、スープ煮はボチボチ、焼きシイラはなかなか、旨かったです。
 明日は、大山です。

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