日本2/3周日記(鳥取京都) とっとと山陰北陸編(鳥取〜京都)

9月27日(金)曇ときどき雨 鬼っ子大集合!

 朝はラーメン。支度をしているうちに雨が降ってきました。
 
 公衆トイレに歯を磨きにいくと、おばあさん二人が世間話をしていました。
ワシの兄弟は八人もいたがずいぶん戦争で死んだとか、そんな話をしていました。
 境港の老婆というと、みんな「のんのんばあ」みたいにぎょろ目の不気味な人々ばかりなのかと思っていたら、ふつうの年寄りでした。
 そりゃそうだ。
 
 レインウエアを着て走り始めたら、雨が止んだので途中で脱ぎました。めんどくさい。
 米子を通過し、大山東麓の溝口町に向かいました。ここに「鬼ミュージアム」というのがあると聞いていて、前々から行ってみたかったのです。
おいらが緑鬼、だー!
ミュージアムにどっかり

 狭い国道181号を走り、左右に山が迫ってきたころ、右側前方に、建物の屋上に片膝立てて座り込んでいる巨大な緑鬼が姿を現しました。
 後に入手したパンフレットによれば、全長26m、世界最大の鬼のブロンズ像なのだそうです。
 そんなにでかい緑色のものを作ったばかばかしさは別にしても、像そのものはなかなかリアルでかっこ良かったです。
 鬼に椅子代わりにされているのが目指す鬼のミュージアムなのでした。
「鬼のミュージアム」には、「おにっ子ランド」という遊園地(の、ようなもの)が併設されていました。
 「親に似ぬ子は鬼っ子」などという言葉もありますが、民俗的には、生まれたときから髪が生えていたり、歯が生えていたりする異形の赤ん坊が「鬼っ子」です。妖怪としては「血塊(ケッカイ)」などとよばれ、産み落とされたとたんに素早く走って逃げるとか、この妖怪が縁の下にもぐりこんで母親の真下に来ると母親は死んでしまうとか、いろいろ言われています。
 我が伊那谷にも同様の妖怪が「ケッケ」と呼ばれて伝承されていることは、以前にも触れました(放浪日記5月11日参照)。
 「おにっ子ランド」は、そんな鬼っ子限定の遊園地かと思ったらそうではなく、鬼っ子で遊べる遊園地かと思えばそうでもなくて、ただローラー滑り台とミニSLがあるだけの、ふつーの遊園地でした。本当にふつーの遊園地なら、もっとアトラクションがあるでしょうけど。
 こんなしょぼい遊園地の一日フリーパス券が600円とはどういうことなのでしょう。滑り台とSLだけで、どうやって一日遊べというのでしょう。
 鬼のすることはよくわかりません。少なくとも、ぼくが見たときは客はだれもいませんでした。
 
 パンに缶詰のビワを挟んで昼飯をすませてから、いざ鬼ミュージアムへ。入場料は400円。もぎりはネクタイ締めたお兄さんでした。
 自動ドアを抜けると、ミュージアムのキャラクターらしき子鬼の人形の首が動き、
「いらっしゃいませ!鬼のミュージアムにようこそ。ゆっくり楽しんでいってね」
と喋りました。
 もう一つドアを抜けると、正面にでっかい鬼の面があって、そいつもアゴを動かしてしゃべります。
「うわーははは、おれたちは怖い鬼ではないぞ、愛と勇気の鬼なのだア」
「愛の鬼」、「勇気の鬼」。…想像すると、やっぱり怖い。
 展示の中身は、溝口町に伝わる鬼伝説、たたら製鉄と鬼の関係などが主でした。
 この町には鬼住山(きずみやま)という山があり、そこに住んでいた「乙牛蟹(おとうしがに)」と「大牛蟹(おおうしかに)」の兄弟鬼を、ここを訪れた孝霊天皇が退治した、という伝説があるのだそうです。
 孝霊天皇は第7代の天皇で、この鬼退治伝説が日本最古の鬼伝説といわれ、そこで溝口町は「鬼の里」で町おこし、というわけです。
 溝口町一帯には製鉄関係の遺跡が多く、鬼とは、山中で働く産鉄民をふもとの民衆が見誤った(?)ものだという起源説が、有力なものとして紹介されていました。鉄を作るときの赤い炎に照らされて赤鬼が、青い炎に照らされて青鬼が誕生したというのです。
 まあ、いろいろ説はありまさあね。
 
 メガネ無しで見られる3Dシアターというのもありましたが、これなどは熊本のトンカラリンビデオ(日記6月22日参照)並にアホでした。羽織袴に山高帽のじいさんが、林の中を抜けて神社の扉を開けると、鬼の顔が飛び出してくる、という何の意味もないストーリーでした。
 
 あとはまあ、鬼の歴史を紹介した文字だけの手抜きパネルや、全国の鬼を大ざっぱに紹介したパネルなどがお茶を濁していました。
 二階は郷土資料の展示、三階はクイズコーナー。古くて動きの遅い機械を相手に、押し付けがましい〇×クイズ
(例:溝口町の鬼はただの恐ろしい鬼である? とかそんな感じ)
で全問正解すると、「鬼の博士」の称号が与えられ、「これからも鬼の研究をよろしく」と、子鬼のキャラクターに励まされたりするのでした。
 三階からは26mの鬼のブロンズ像の中に入れ、口の部分からは伝説の鬼住山が望める、という趣向でした。
 
 こんなミュージアムに来る客がいるのかなあと思ったら、時々親子連れなんかが訪れて、ちっちゃい子は26mの鬼を見て泣きだしたりしていました。
 せっかくなので日記読者向けになにか写真を撮ろうと思い、トイレにあった「ションベン子鬼」を撮りました。
案の定、しっかり一円玉が投げ込まれておりました。
 
 ミュージアムを出ると、雨が降ってきました。近くのAコープでパンや100円クッキーを買い、大山へ。
 山頂まで登るのはしんどいし、時間もかかるので、中腹の大山寺に参拝して下るつもりです。
 大山寺へは、長い上り坂です。溝口インター近くのバス停で蒸れたレインウエアを脱いで休んでいたら、バスからどやどやとおばさんの団体が下りてきました。ナップザックを背にして、足元をトレッキングブーツで固めているところを見ると、大山の登山客です。
 宿へのタクシーを待つ間、狭いバス停はおばさん臭さでムンムンになりました。
ぼくのリュックを見た一人が
「これから登るんですか?」
と訊いてくるので、
「いや、ぼくは自転車旅行で」
「アレマー、大変ねえ。親御さんはなんにも言わないのオ?」
といつものパターン。
居心地悪いのでさっさとレインウエアを着込んで
「じゃ、登山頑張ってください」
と、そそくさとバス停を逃げ出しました。
 
 冷たい雨がそぼ降る中、大山寺に着いたのは6時近くでした。
 標高は800mくらいあったと思います。この秋初めて手がかじかみました。
 公衆トイレでパンツやシャツや靴下を絞り、薄暗い中を参拝。大山寺は古くからの天台修験の寺だそうですが、ここも明治の神仏分離でかなりの打撃を受けたようです。
 昼間はなにがしかの拝観料をとられるようですが、とうに事務所も閉まっていて、境内には勝手に入れました。本堂の扉は閉まっていましたが。
 寺の奥、日本一長い石畳道という触れこみの参道を進んでいくと、暗闇の彼方に明かりがぽつんと見えました。大神山神社の奥宮です。
 「大神山」というのが、大山の古い名前なのだそうです。もとは大山寺と一緒だったものが、明治時代に分かれたのだとか。
 
 真っ暗な中、滑る石畳に用心しいしい駐車場に戻りました。
 相変わらず雨が降っています。公衆便所の中で寝るわけにもいかず、どこか雨に濡れない場所はないかとねぐら探し。
 土産物屋や旅館、広い駐車場はりますが、東屋つきの公園などはどこにもありません。
 仕方なく夜道をふもとに下っていったところ、ようやくおあつらえむきのバス停の待合所を見つけました。広さも十分です。テントを建て、やれやれともぐりこみました。
 調理ストーブを使うのも面倒臭いし、晩の食材も買いそびれたので、晩飯は食パンにセロリを挟み、月桂冠で流し込みました。
 
 明日は、さっさと鳥取市に向かう予定です。
 鳥取市の県立博物館で特別展「異界万華鏡」というのをやっているを観る予定なのですが、月曜の休館日と重ならないためにも、明日中にできれば鳥取市内に入りたいと思っています。
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9月28日(土)曇 弥生人のアタマの中は

 朝はなんとか雨が上がって、日差しも出てきました。
 バスの始発が来る前に撤収しようとゆうべは思っていたのですが、のんびり者のぼくにそんなことができるはずもなく、バス停を出たのは8時過ぎでした。
おばあさんが一人、少し離れた道端にしゃがんでバスを待っていて、申し訳なかったです。
近くに民家らしきものはなかったのですが、どこかに家があるんですねえ。
 
 名和町に下り、名和公園の公衆便所で洗顔。
 歯を磨いていたら、杖をついたばあちゃんがよちよちとやってきて何やら言うので、
「はい?」
と訊き返すと、
「便所の掃除は済んだかねえ」
「ど、どうなんでしょうねえ」
ばあちゃんはのこのこと障害者用トイレに入っていきました。
 訊き返す必要なかった。
 
 海沿いの国道9号をタッタカ走ります。基本的に真っすぐで平坦な道なので、ぼくなりに速度が出せます。追い風なのも幸いでした。
 大山を振り返ってみましたが、厚い雲が垂れ込めていて山は隠れていました。
 
 途中の大栄町は、名探偵コナンの作者、青山剛昌の出身地で、町中にキャラクターのブロンズ像が建っているのがウリだそうですが、国道を走る限りではそれらしきものは見かけませんでした。
 マンガ家に頼った町おこしというのは境港の二番煎じのような気がしますが、なにより、名探偵コナンなんて、息の長いアニメになり得るんですかね。
 流行が去って旅行客から「この像、なに?」と訊かれたら、かなり悲しいぞ。
 
 羽合町あたりで再び雨が降りだしました。道端の廃屋の軒下で、長年の懸案だったザックカバーの補修をしました。このカバーは去年から使っていて、あちこち穴だらけになっていたので、リペアシートを切り貼りして穴を塞いだのです。
 シートをただ四角く切って貼るのはつまらなかったので、円く切って貼ってみました。シートはもともとレインウエアやテントの補修のために買った黄色いものなので、赤いザックカバーに貼ったら、まるで赤い空に散らばる黄色い星みたいになりました。かっこわる。
 
 今日寄ったところで面白かったのは、青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡展示館。ここは、弥生人の脳みそが発見されて最近有名になった遺跡です。
 その弥生人の脳みそが展示されているという噂を聞いたので、寄ってみることにしたのです。
 入場料は無料でした。ラッキー。
 建物は急ごしらえな感じでしたが、展示品は、弥生時代のものとしては日本最大の木の板や、殺傷痕のある人骨、組みひもやカゴなど、保存状態の良好な出土品が並べられていて面白かったです。
 中でも、「皆さんのお知恵拝借」のコーナーでは、用途不明の出土品を紹介して、それらが何に使われたのか、見学者の意見を訊くアンケートが用意されているという点がなかなか良い趣向でした。
 何かの部品と思われる木製品や骨製品はどれも精巧な加工が施されていて、正体がなんとなく分かりそうでやっぱり分からない、という微妙な不可解さが魅力的で、ぼくもついつい腕組みして考え込んでしまいました。
 例えば、椅子と思われる木製品に、二本の人間の犬歯が意図的に埋め込まれたもの。一体何のためにそんなことをしたのか、弥生人の頭の中はよくわかりません。

弥生人の脳みそ
弥生人の脳みそ

 ということで、肝心の弥生人の脳みそなのですが、これはほんの小さな断片が小ビンに入って展示されていただけだったので、少し拍子抜けでした。
 ぼくとしては、ずっしりとボリュームのあるものが、でっかい容器の中にホルマリン漬けされているという光景を想像していたもので。
 しかし、紹介されていた写真では、しわくちゃの豆腐みたいな脳みそがしっかりと写っていて、すげえな、と思いました。掘り当てた人はびっくりしたでしょうねえ。
 
 青谷上寺地遺跡は道路建設に先立っての調査で発見された遺跡で、溝の中から109人分の人骨がざくざくと出てきたんだそうな。
 埋葬の形跡がないこと、武器で殺されたと思われる人骨が多いことから、戦死者を穴に放りこんで埋めたものと考えられるのだそうです。
 子供の骨にもヤジリが突き刺さっていたといいますから、はっきり言って虐殺ですな。
 弥生時代は戦争が激しかった時代だそうですから、きっと他の土地にも同様の大量人骨が今も埋まったままになっていて、我々はその数メートル上で日々暮らしているということなのでしょう。
 大地には人類の歴史と怨念が埋もれているのです。
 そのわりに心霊写真には、せいぜい遡っても戦国時代の落ち武者の霊くらいしか写らないのはなぜなのでしょう。うーむ、謎だ。
 
 今日中に鳥取市街に入れるかと思いましたが、白兎海岸で日が暮れたので、今夜はここのバスの待合所にテントを張ることにしました。
 広いので、ぼくがテントを張ってもまだ人が余裕で入れます。
 
 白兎海岸は、例の因幡の白兎の神話の場所だと言われているそうで、白兎を祭った白兎神社があり、白兎が体を洗った池と称するものもありました。
 なんだかドンヨリとした池で、こんな池の水で皮を剥がれた体を洗ったら破傷風になりはせんかと、他人事ながら心配になってしまいました。
 神社にニンジンがお供えされているかと思いましたが、それらしきものは見当たりませんでした。
 
 一応バスの最終便が過ぎるのを待ってからテントを建てました。晩飯はレトルトカレー。
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9月29日(日)晴(?) 痺れるほど水木しげる

 待合室には「シャブがほしけりゃ大阪西成に来い」などという落書きがあったりしましたが、別に夜中に騒がしい若者がやってくるわけでもなく、無事朝を迎えました。
 白兎神社のトイレで歯を磨き、鳥取市街へ。
 コンビニでカップラーメンとパンの朝飯を食い、通りがかりの写真屋に入りました。
 デジカメのコンパクトフラッシュが満杯になったので、CDに焼いてもらおうと思ったのです。
 店のおじさんに訊くと、出来上がりは明日の朝になるとのこと。金額は、基本料金500円+CD代500円+焼付代1400円とのこと。那覇で焼いてもらったときよりもえらく高いなあと思いましたが、今更よその店を探すのもめんどうなので、頼むことにしました。
 今後コニカの店には入らないように気をつけます。
 
 ちょうど時間が9時頃になったので、県立博物館へ。
 特別展「異界万華鏡」の割引券を持っていたので、特別展入場料200円+常設展入場料180円で入れました。
 受付のおばさんがぼくのリュックを見て
「重くて大変でしょう。お預かりしますよ」
と言ってくれたので、ありがたく置かせてもらうことにしました。
 「異界万華鏡」展は、国立歴史民俗博物館の巡回展で、テーマは「あの世」「妖怪」「占い」そして「水木しげる」です。「水木しげる」というのは鳥取でやるからということでとってつけたのでしょうが。
 展示物は、百鬼夜行絵巻や河童の実寸大模型、外道を調伏する安倍晴明の立体模型などでした。
 こういう模型を作ってる業者がいるわけですよねえ。仕事してる人、楽しそうだなあ。
 
 水木しげるコーナーは、本人の顔写真パネルと著作物の読書コーナーがありました。
 「猫楠(南方熊楠伝)」や「コケカキイキイ」などを読みました。「コケカキイキイ」は学生時代に兎谷さんの本棚から借りて読んだのが最初ですが、水木マンガの最高傑作ではないかと一人で思い込んでいます。今回もその実感を新たにしました。
「コケカキイキイ」とは、怪物(神様?)の名前です。貧しい老婆と、飼主に捨てられた老猫と、その猫についていたシラミの夫婦が同じ場所で息絶え、その怨念が合体して生まれた異生物です。
 形は「ぬりかべ」のカドを取って半透明にしたような姿で、寝ぼけた二つの目と出っ歯がチャームポイントです。
彼は「コケカキイキイ」と鳴きながら巨大化し、日本中の金持ちを絞め殺して、家や財産を貧乏人に分け与えるというストーリーです。
「コケカキイキイ」という鳴声に象徴されるナンセンスと、ブルジョアに対する嫌悪、そして貧富の無い世界への憧れが織り重なって、典型的な水木ワールドが凝縮されている作品です。
 知らなかったのは、「コケカキイキイ」がシリーズ化されていたこと。コケカキイキイは神様として祭られ、かよわい人々の願いを聞いて様々な悪い怪物と戦うのです。
 しかしそういう勧善懲悪の二極対立の構造に取り込まれてしまうと、1作目のような理不尽な魅力が失われてしまうのが残念です。
 
 水木しげるのマンガには、貧しい者の味方になって悪い金持ちをやっつけるヒーローがよく登場しますが、それのどれもがいたって格好悪いのが特徴だと思います。
 鬼太郎だって、もともと片目の異形の子供ですし、悪魔くんも変なカオしてるし。
 こんな土臭い絵柄で、どっちかというと厭世的なストーリーばかり描いてきたマンガ家が、ここまで売れっ子になった理由というのは何なのでしょう。
 やはり、日本中の妖怪をビジュアル化し、それをマンガの世界に蘇らせた功績でしょうか。
 ぼくの隣の席では、小さな兄弟が妖怪図鑑のページをめくっては、お兄ちゃんが弟に
「これの名前は?…これはね、がんぎ小僧」
などと、妖怪の名前を教えてあげておりました。
 二十過ぎの若者たちのグループは、
「おお、懐かしい〜。おれ昔、このマンガが怖くってさあ」
若い夫婦は、
「へえー、水木しげるって鬼太郎だけじゃないんだ、こんなに描いてるんだねえ」
 ぼくが黙々と読み耽っている間にも、周囲からはいろんな声が聞こえてきました。
 これほど幅広い世代の支持を集めている水木マンガの懐の深さを改めて思い知りました。
 腹が減って頭の芯がしびれてきて、そろそろ潮時かな、と読書コーナーから立ち上がって時計を見ると、すでに午後4時40分。
ほとんど一日中読書コーナーに陣取って水木マンガを読んでいたのでした。
 急ぎ足で常設展を流し見して受付に戻ると、リュックを預かってくれていたおばさんが
「ごゆっくりでしたねえ」
と言いました。
 
 朝の写真屋から携帯に電話がかかってきていたので、折り返し電話して用件を聞いてみると、
「確認させていただくのを忘れましたが、お預かりしたデータはバックアップなどおとりになっていらっしゃいますか?万一のときのために、バックアップをとって頂くようお願いしているんですけど…」
「あー、かまわないんでやっちゃってください」
バックアップが取れないから、出費もやむなく写真屋に持ち込んでるんだけどなあ。
 
 今夜は近所でねぐらを探す必要があります。
Aコープで昼飯に相当する食パン&フライのサンドイッチを食い、久しぶりに風呂にでも入ろうかと市内をさまよいましたが、鳥取駅近くにあるらしき「鳥取温泉」が見つからず、結局風呂に入る事なく樗(おうち)谷公園にテントを張りました。
 晩飯は、500円で買った「鰯寿司」。鰯のお腹におからを詰め込んで姿寿司にしたものです。酒のつまみとしては悪くありませんでした。
 
 メールチェックをすると、愛知の野田農さんから「一号車回収終了」とのメールが届いていました。
 実は、大分で「第一コルド丸」がおシャカになったのを日記で知った野田農さんが、
「日記の一読者として、一号車が辺境の地で果てるのは忍びない。回収して直したいので自転車屋の連絡先を教えてくれ」
と言ってくれたので、大分の自転車屋「ダイトー」の電話番号を伝えていたのでした。
 あれからどうしたものやら、ポンコツの自転車をお金出して回収して直して乗ってくれるとはなんと酔狂な、ではなくってなんとありがたいことかしら、と思っていたのですが、とうとう回収が完了したとのこと。
 ダイトーのあのアクの強いおやじとどんなやりとりがあったのかと思ったら、べつにたいしたこともなく、電話一本で送ってくれたとのことでした。
 
 やっぱりモノは大切にしなきゃいけませんね。
ぼくよりも野田農さんの方がよっぽどコルド丸に愛着を感じてくれていたようで、ちょっと自分が薄情者のようで恥ずかしい。
 野田農さんはトヨタ系列の会社のエンジニアなので、自転車を直すくらいは朝飯前なのでしょう。
 学生時代も、壊れた自転車を拾ってきて組み立てては、周囲に貸し出ししてくれてました(←法律違反)。
 我が第一コルド丸は、野田農さんの手にかかっていったいどのような変身を遂げるのでしょうか。彼のことですから、なんだかすごいモノに改造しそうで、続報が楽しみです。
 
 あしたはCDを受け取ってから鳥取砂丘見物です。
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9月30日(月)曇 鳥取砂丘での屈辱

 朝飯は、大根葉のみそ汁と、パンだったかな。
 写真屋にCDをもらいにいくと、
「いい写真をとってらっしゃいますねえ」
と世辞を言ってくれました。半年以上旅をしていると言ったら、写真屋は夫婦揃って驚いていました。
 
 鳥取砂丘に行く前に、Tシャツがみすぼらしくなったのでアウトドアショップで速乾性のシャツでも買おうかなと、電話帳で住所を調べ、店に向かいました。
 しかし目当ての店に着く前に、気まぐれで作業服屋に入って、ポリエチレンと綿の混合の長袖シャツを買ってしまい、アウトドアショップには用がなくなってしまいました。
作業服屋のおばさんは、アフロヘアでした。
 
 次の目的地は鳥取砂丘です。
 市街地からほど近くでした。展望所に行くと、観光バスの運ちゃんが話しかけてきました。
 長野のどこから来たと訊くので、飯田ですと答えたら、ああ、あの昼神温泉のあるところか、と返ってきました。そういえば、天竜下りもあったな。とも言っていました。
 まあ、飯田(伊那谷)についてそれくらい知ってくれていれば、御の字でしょう。
 
 展望所から見下ろす鳥取砂丘は、思っていたほど広くありませんでした。
 海岸線沿いに延々と砂浜が続いているのかなと思ったら、砂丘があるのはごく限られた場所なんですね。
 でも展望台から降りて砂浜に出てみると、なるほど広く感じます。
砂丘の馬の背を登ると、急に波の音が聞こえてきました。急な砂の丘を下るとすぐ海です。
久しぶりに靴を脱いで波と戯れてみると、海水は意外と冷たく、あらためて季節の変化を感じました。
 背後にそびえる砂丘の上では、パラグライダーが膨らんで浮いています。気持ち良さそう。
 裸足のまま急な砂の坂を登り、砂丘の最長部に出ると、眼下に大きな落書きが見えました。
 観光客が、自分の名前や相合い傘などを砂の上に描いているのです。
 いいなー、俺も何かでっかい絵を描いて世間の注目浴びたいなあ。
何を描こうかと考え、鳥取のトリと「砂漠」にちなんでダチョウの絵を描くことに決めました。ダチョウって、砂漠に棲んでそうなイメージがあるんですけど違いましたっけ。
 足元に小さく下絵を描いた後、坂を下って足を使ってざくざくとダチョウを描き始めました。
頭上から、若い連中の声が聞こえます。
「何描いてんだあ?」
「わっかんねーな、あれじゃ」
「かっちょブーなダチョウか?」
かっちょブーなんて言うな、かわいいと言ってくれえ!

やっぱりよくわからん
ダチョウのつもりなんだけど

 一生懸命に深い線を掘り、出来上がって砂丘の上から見下ろしてみると、確かに何を描いてあるのかわかりませんでした。
 大きく描いたつもりだったのに、実際は隣の文字と比べても小さく見えます。
小っちゃい絵の周りは自分の足跡だらけで線が目立たなくなってしまい、線を深く掘ってもあまり意味がありませんでした。
 やっぱり、線の深さよりも全体の大きさが重要ですね。実感。絵を描いていたときの昂揚感が、上から見下ろしたとたんにしぼんでしまう。
 自転車旅行でも、走ってる最中は
「どんなもんだい、俺ってけっこうスゴイ旅してるでしょ」
と少し得意げでも、旅が終わってネットで調べてみると、自分より濃くてハードな旅をしてる連中がいくらでもいることを知ってがっかりしてしまう。
 人生なんてそんなもんスかね。
 丘を登ると、さっきぼくを見て話をしていた連中が描いたのでしょう、砂丘の上に
「おつかれ」
の砂文字が大きく書かれておりました。
 
鳥取砂丘小景
鳥取砂丘小景

 とぼとぼと観光客の群れからそれて、砂漠の真ん中方向に歩いてみました。
 さほど広いわけでもないのですが、ほとんどの観光客は砂丘入口と丘の最高部にしか行かないので、そこから離れると急に人影が消え、まるで本当に大砂漠の中を歩いているような気分になるのです。
 砂が音を吸収するのでしょう、砂に囲まれた窪地の底に降りると、それまで聞こえていた人声や波の音などがぱったりと消えてしまいます。
 一人でしんみり鬱を味わいたい人には、鳥取砂丘はオススメです。
 裸足のままでしばらく砂の上でぼんやりと座って静けさを楽しんでから、ぼちぼち観光地の雑踏に戻りました。
 
 鳥取砂丘を過ぎてしまえば、後は鳥取県には用がありません。
「二十世紀梨直売」の店々を横目に、兵庫方面へ。砂丘を過ぎると、それまでの平らで直線的な道は一転して峠越えの続くカーブの多い道となります。
 国道9号から国道178号に入り、夕方に兵庫県入り。県境の浜坂町の海岸にけっこうなトイレを見つけたのでここを今夜のねぐらと定めました。
 まだ少しテントを建てるのに時間があったので、駅で観光マップを入手して、「ユートピア浜坂」というありがちなネーミングの町営温泉に行きました。施設名の表記が「湯〜とぴあ」でないだけ、ましとしてあげましょう。
 入浴料は300円。浴室にはボディソープがついていました。よい心掛けです。
 もりもりと垢を落とし、じっくり湯に漬かって、ふにゃふにゃな気分で外に出ると、もう真っ暗。さびれた漁村のこと、まともなスーパーなどもなく、個人商店で発泡酒とチキンラーメンを買い、浜辺の東屋でチキンラーメンをボリボリかじりながら発泡酒を飲みました。
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10月1日(火)曇のち雨 橋立目指しまっしぐら

 浜辺の東屋の下にテントを張ったのですが、近くに木道が通っているせいで、ウォーキングのばばあさんやら、徘徊もとい散歩のじじいさんやら、仕事なさそうなおっさんやらがけっこう多かったです。
 朝飯はなんだっけな。確かボンカレーだったと思う。
 
 曇天で多少うすら寒かったのですが、隣の香住町の「余部」という地区に入って本格的に雨が降ってきました。
 この集落には大きな鉄橋が掛かっていて、その下の説明板を読むと、明治時代に作られた鉄橋で、昭和50年代に脱線事故を起こした現場なのだとか。
「アマルベ鉄橋列車事故」というのは耳に記憶あるなあ、と思い至るに及んで、「余部」を「あまるべ」と読むことに気づきました。
 
 雨の中をひたすら走ったら、昼頃に豊岡市に着きました。午前中に50km近く走った計算です。ぼくとしては珍しいハイペースです。
 スーパーに入って、いつもの手製フライサンドと1Lパックジュースで昼飯。
 よおし、今日中に天橋立に行ってやるぞという意気込みで午後も走りっぱなし。
 午後になると雨は降ったり止んだりで、レインウエアを脱いだり着たり。
 豊岡市を過ぎるとすぐ京都府。大宮町に入って「マツヤデンキ」のお店を見つけて、「あー、懐かしい」と郷愁にかられたり、直径60センチを越える巨大土人専用足型を発見して喜んだり。
 夕暮れになるとまた雨が本降りになってきて、びしょぬれになりながら天橋立へ。
 すっかり暗くなってしまって寝場所捜しに苦労しましたが、伊勢元宮の籠(この)神社の近くに公園を見つけ、goodな東屋を見つけたのでそこにテントを張りました。
 晩飯はスパゲティミートソース。
 今日は90qくらいは走ったでしょう。
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10月2日(水)晴 ラジオ片手に股覗き

 朝はきれいに晴れました。
 散歩人にも邪魔されない場所だったので、濡れたレインウエアやシュラフを干していたら午前11時になりました。
 朝飯に何を食ったか記憶にありませんが、身支度が終わったころにはもう腹が減っていたので、近くのスーパーによっていつものサンドイッチ用の食パンとコロッケ、そして半額引きの菓子パンなどを買いました。
 籠神社にお参りしたら歳末助け合いの募金をやっていたので200円寄付しました。
赤い羽根はいらないと断ったのですが、募金箱のおばさんが
「上(展望台)でもやってるから。これつけとけば募金済んだってわかるから」
と、無理やり羽根をつけてくれました。でも、羽根をつけていようといまいと、募金しようかなという気分になれば募金するし、気分でなければ無視するし。
 いまどき赤い羽根などつけて歩くのはこっ恥ずかしいので、すぐとってしまいました。
 
 山の上に笠松公園というのがあり、そこから股覗きで見る天橋立が絶品だというので、登ってみることにしました。幸いロープウエーの横に階段がついていて、歩いて登れました。
 階段の途中では、蛇が蛙のお尻にかぶりついていました。
 公園の休憩小屋でラジオを聴きながら昼飯。北朝鮮の拉致問題で、拉致被害者の死因が報道されているところでした。
で、これがなんだっちゅうの?
一応股覗き

 イヤホンを耳にねじ込んだまま天橋立を鑑賞。ちゃんと股覗きもやりました。
 ラジオで横田滋さんの咳を聞きながら眺める天橋立は、これまた一興でした。
 この人、どうしてこんなに咳してるんでしょう。風邪なのか、それとも緊張による発作なのか。奥さんの方がよっぽどしっかり喋ってる。
 もし風邪なら、トローチ舐めて暖かくして寝てください。
 
 茶店のおやじさんもラジオで同じニュースを聴いているらしく、客に
「悲しいことだねえ。恐ろしいよ。いや、拉致事件のことですよ。この辺でも不審船が出たり、人がさらわれたって噂が立ったりしてるから、他人事じゃないですよ」
と言っておりました。
 
 笠松公園から降りて、自転車に戻りました。遊覧船の桟橋に東屋とトイレがあったので、用を足した後日記を打っていると、二匹の猫がすり寄ってきました。
 白猫と銀猫(濃い灰色)です。ぼくは無視していましたが、二匹とも毛並のきれいな美人猫のため、観光客のおばさんが
「マ〜かわいい」
とちやほやして、土産の干物などを恵んでやっています。
「もう餌ないのよ、ごめんね」
とおばさんが立ち去った次にはランドセル背負った女の子が一人やってきて、
「クロちゃーん、クロちゃん」
と呼んで、ひたすら猫の背中を撫でていました。
 次に通りがかったのは同じく小学生の女の子三人連れで、白猫と銀猫がじゃれあっているのを見て
「わーい、交尾だ交尾だ!コービしちゃった!」
と大きな声ではやしたてておりました。
 
 なんとか日記に区切りをつけ、天橋立の松並木を走りました。まあまあきれいな並木なので、走ってる自分の写真を三脚立てて撮っていると、その現場を中年の男女に見つかってしまいました。
おっさんが
「苦労やな、撮ってやろうか」
というので、素早く
「いえ、大丈夫です」
と言うとおばさんが
「自分で撮った方がいいのよ。ねえ」
というのでおじさんが
「そうか。ええの撮れたか」
と訊くので
「ええ、おかげさまで」
とは答えたものの、実際はうまく撮れていなかったので、彼らが遠く見えなくなるまでじっと待ってから、撮り直ししました。
 
 天橋立には「羽衣の松」だの「夫婦松」などといった名のある松のほか、真水の湧いている井戸や神社など、いろいろ見るものがありましたが、ぼくはどちらかといえば、あちこちに点在する立派な東屋を見るたびに「あ、あそこでも寝れた、ここでも寝れた」と、そんなことばかりに気をとられていました。
 でも、実際こんなところで野宿していたら、観光客がうるさくて寝坊もできなかったことでしょう。
 船が通るたびにぐいいーんと回転する橋を渡って対岸へ。
日本三大文殊の一つだという智恩寺に参拝。財布を見たら10円玉以下がなかったので、お賽銭はなし。
 
 宮津市内のスーパーで買い物をし、舞鶴市方面へ走ります。
 由良浜という海水浴場があったので、そこにテントを張ることにしました。由良浜は森鴎外ので有名な山椒太夫のいた場所なのだそうです。
 「山椒太夫」というお話のあらすじをかいつまんで紹介すると、姉の安寿を人買いに殺された厨子王が、百地三太夫のもとで忍術を学び、巨大なサンショウウオに変化する術を身につけて姉の仇を討って長者に出世し、人々から山椒太夫と呼ばれるようになったという、感動的なスペクタクルロマンだったな、確か。
 キャンプ禁止と書いてありましたが、シーズンは終わってるし文句は言われまいと海岸にテント設営。水道が使い放題なので洗濯し、その後晩飯はススムくんの麻婆豆腐。
 波の音がすぐ近くです。これでぼくが不審船に拉致されて北朝鮮に売り飛ばされたら、「朝鮮太夫」といったところでしょうか。
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10月3日(木)晴 自転者四人で大宴会

 朝には、きのうの洗濯物はほぼ乾いておりました。
 由良浜から少し走ると、山椒太夫の屋敷跡なるものがありました。
 地元では昔から「山庄太夫」という長者がいたという伝説があるのだそうで、彼にまつわる遺跡が多いのだそうです。屋敷跡と言っても実際は大昔の古墳があるばかりで、建物の礎石があるわけではありませんでした。
 
舞鶴市の手前に大江町へ行く道の標識が出ていました。大江山と言えば酒呑童子。ここにも鬼にまつわるミュージアムがあるようで、大山の鬼ミュージアムとの比較も興味あるところなのですが、今回は涙を呑んで通過することにしました。
 舞鶴市は、港に海上自衛隊の大きな基地があったこと以外はあまり印象に残っていません。
 ちょっと早めの11時頃、腹が減ったのでスーパーに寄り、定番のコロッケサンドとパックジュースを橋のたもとの土手に座って食いました。
 胃が一杯になった後は腸が一杯になるので、公衆トイレに寄ってウンコし、その後道の対岸の郵便局に入って溜まったパンフやらCDやらを自宅に送りました。
 大分の臼杵市で買った妖怪マップも、ようやく手放せました。私物ばかりだと角が立つかなと思い、自分で食うために買っておいた隠岐のサザエカレーを土産として同封しました。
 
 夕方福井県に入り、休憩と日記打ちのために高浜町の「シーサイド高浜」という道の駅に寄りました。
 自転車を止めてカギをかけていると、一人の自転者さん(いわゆる「チャリダー」を、これからこう呼ぶことにしました)がやってきました。
「ご苦労様です。ぼくは向こうの自転車ですけど」
と声をかけると、
「あー、久しぶりに自転車の人に会いましたよー」
と、彼はうれしそうな顔をしました。
「ぼくは九州目指して走ってるんですけどね、今夜はここで泊まろうかなと思って。温泉もあるみたいだし」
「そーですか。ぼくはちょっと休憩」
トイレに寄って出て来ると、今度は別の自転者さんがやってきました。金髪に青い目の外国人さんの自転者でした。
「おー、自転車旅行ですか。ぼく金沢から来たんだけど、人に会わなくて寂しくて寂しくて。あなた九州方面に行く人?一緒に走りましょう」
「いや、ぼくは北上するんですけど、方向同じ人が来てますよ」
ということで、旅人三人が道の駅の休憩所で顔を突き合わせることになりました。
 自転者同士、すぐ打ち解け合うのがこの世の常で。
 初めに来た彼は群馬県出身、北海道から走ってきたカナヤ君(本名)26歳。
 次に来た彼は成田から北海道を経由してきたオーストラリア人のMack(本名?)24歳。
 Mackは流暢な日本語で
「北海道からこっちに下って来るまで自転車の人に全然会わなくてねー。話ができなくて『寂しい台風』が21号まで来てたのよ。うお〜、うお〜、寂しいよ〜って」
「なんだいその『寂しい台風』ってのは」
「わっはっは」
 自分はどこを走ってきたとか、日本の交通事情は最悪だとか、オーストラリアじゃカンガルーをバンバン轢き殺してるんだろとか、そんな話で盛り上がっているところに、もう一人の自転者さんがやってきました。
「外に自転車がたくさん停まってるじゃないですか。人恋しくて来ちゃいましたよ」
「おー、今日はすごいな。本州でこんなに旅人が出くわすなんて珍しいよ」
「みなさんグループで?」
「いーや、全員偶然」
「まあどうぞこちらへ」
「どーも、お邪魔します」
一番最後にやって来た彼はタカハシ君(本名:21歳)。北海道出身なのですが、夏の間石垣の近くの島でバイトして、現在北海道の自宅を目指して自転車で北上中とのことでした。
 互いにこれまでの道中で撮った写真などを見せあいました。Mackはデジタルビデオを持参しており、自転車のハンドルに取り付けて撮った走行中の風景を披露してくれました。
 日本人のカノジョがオーストラリアに留学中で、彼女から「早く帰って来てね、ウフ」というメールをもらったんだそうで。九州に足を延ばすか関西空港からオーストラリアに帰るか、分かれ道の交差点でカメラに向かって思案し、カメラの前でコインを投げて
「マリコ(だったかな)、ゴメンヨ!」
と泣きながら九州への道を選んだ様子の映像を、延々と見せてくれました。
 ガイジンさんも彼らなりの思い出作りをしてるんですねえ。
 
 ぼくがMackに、足型ストップマークや飛び出し君の写真を見せて、オーストラリアにこういうものがあるかとたずねると、
「そんなものは無い」
という答えが返ってきました。
「日本は経済的には一人前になったかもしれないけど、世界標準に届いてるとはいえないよ。道路環境も良くないし、とくにこういう変な看板や標識見ると、随分変わった国だと思う。
 それに、日本は物価高すぎ。ユースホステルが3000円も4000円もするなんて他の国じゃ考えられないよ。バブルでいい気になっちゃって、まだそのときのが冷めきれてないね」
という旨のことを言っていました。かなり辛口な批評でしたが、誰も反論しておりませんでした。
 日本に住んでても、実際そう思うもの。そんな「いびつな国」は、これからどうなっていくのでしょうか。そんな日本のいびつな部分も、不愉快な一方で可愛いのではありますが。
左からMack、タカハシ、カナイ、イマイ
四人揃って記念写真


 会話の中で、ぼくを除く三人は、軍の関係者であることが判明しました。
 Mackはかつてオーストラリア海軍に在籍経験があり、カナヤ君は会社を辞めて航空自衛隊に再就職の予定、そしてタカハシ君は海上自衛隊を辞めてこの旅に出たんだそうです。
「オーストラリア海軍はね、兵力は少ないけど潜水艦は強いよ。アメリカやマレーシアと一緒にやる戦争ゲーム(軍事演習)でも、いつも勝つんだから」
とMackが自慢すると、今度はタカハシ君が
「日本の自衛隊はね、階級社会だから妙に無駄なところが多いってのは覚悟しといたほうがいいですよ。なんでこんなことしなきゃいけないのかなってことがありますけど、それに我慢できないと続きませんね」
これから入隊するカナヤ君はそれを聞いて、
「えー、そうなの。俺そういうの我慢できないなあ。タンカ切って辞めちゃうかも」
 
 話に花を咲かせているうちに外はあっというまに暗くなってしまい、ぼくも彼らと一緒にこの道の駅で寝ることになりました。
 Mackは毎日風呂に入って風呂場で洗濯しないと気が済まない性分だそうで、道の駅併設の温泉に入るとのことでしたが、入浴料が600円とのことだったので、ぼくは入りませんでした。
 
 風呂の後、Mackとカナイ君が近くのコンビニに晩飯を買いにいってくれました。
 めいめいカップラーメンなどを食い、皆酒が飲めるクチだったので発泡酒で乾杯しました。
 道の駅の休憩所で宴会やっちゃってよいのかしらとも思いましたが、発泡酒が空いた後はぼくも買い置きの「いいちこ」を提供しました。
 Mackは「日本の酒はちょっと」と手をつけませんでしたが、カナイ君はけっこうグビグビ飲んで、最後には真っ赤な顔になって寝ておりました。
 10時過ぎ、休憩所の好きなところにめいめい銀マットとシュラフを敷いて寝ました。

 久しぶりに賑やかで楽しかったです。これまでは、夜遅くまで賑やかに騒いでいる連中を横目に
「けっ、やっかましーなー。誰かとつるんでなきゃいられない奴なんてサイテーだな」
と思いながら寝ていた立場だったぼく。でも集団の中に入ると、ぼくも大きな声で喋ったり笑ったりするわけで。
 人の感情や価値観なんてものは、その立場でころりと変わるもんですな。
 休憩所に居合わせた他の皆さん、うるさくしててごめんなさい。

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