隣で本を閉じた木更津が、たった今思いついたかのように顔を向けてきた。
「ねえサエ……人魚って、いると思う?」

 生まれて初めてサボった。
 サボタージュか、レストか、はたまたエスケープと呼ぶのかは判然としない。でも終業式を真面目に受けるのは馬鹿げていると思う前々からの考えを後押ししてくれたのは、木更津亮の「サボる?」という一言だった。
 幸いにして、佐伯は生徒会役員でもない上に、小さなステージであることないこと書き連ねた作文を音読させられるわけでもない。表彰式が始まってもテニス部の部長として葵が表彰状を受け取ってくれる。いつも優等生として振舞っている佐伯は、少々サボっても誰も咎めない。ポマードを異様に塗りたくった校長の話や、声にさえ威厳を持たせようとして失敗している生徒指導の話を聞かねばならない、という以外で佐伯がいる必要はないのだ。それはもちろん木更津も同じであり、それならば、ということで「サボる」ことに決定した。
 もちろん見つかれば教師の大目玉を食らうに違いない。そこで最適の避難所として機能してくれたのが、紛れもない保健室だった。昨日のサバにあたったと話せば湯たんぽも貸してくれる。眩暈がするとでも訴えればベッドに横にだってさせてくれる。冬が始まったこの時期には最高の場所だった。どうせ授業ではない。一時間休んだだけで進学に影響するわけでもなく、欠課が一つ増えるだけだ。
「失礼します」
 形式だけの挨拶でドアを開く。佐伯に引き続いて木更津がわざとらしく腹を押さえて保健室に入った。
 エタノールを薄めたような匂いが鼻腔に忍び込む。擦り傷や捻挫をしたときぐらいしか入らないので、逆に新鮮だった。狭くもなく、教室を一回り小さくしたぐらいの広さがある。中央には机があり、その回りにはパイプ椅子が周囲に並べられていた。左側にはベッドが三つ並んでいるが全てもぬけのからだ。
 どうやら養護教諭は何かの用事で席を外しているらしい。木更津は腹にやっていた手を外して、佐伯に席を勧めた。妙に手馴れた手つきで問診表、体温計、先の丸まった鉛筆を渡されて、最初に体温計をわきの下に挿した。二人とも言葉なく問診表に鉛筆を走らせ始める。
 学年、クラス、出席番号、名前、時刻、体温、症状、原因と思われること、欠課した授業、食事の有無、就寝時間と起床時刻、便通、悩んでいること。書かねばならないことがこんなにあるなんて、日頃保健室に用がない佐伯にとっては予想外のことだった。時刻に行き当たったら時計を振り返って、症状で頭を悩ませた。何も思いつかない。仕方ないので飛ばして、食事の有無を書き始めた。
 木更津が覗き込んでくる。すると「書けないんだったら『だるい』って書けばいいよ」と笑顔で応対してくれた。そのアドバイスに従って、とりあえず全ての項目を埋めた。
「でもちゃんとだるそうにしておくこと」
「亮もね。って、病状を淳のせいにする気かい?」
 木更津の問診表、症状の原因の箇所には「淳が昨日のつくねに当たったから」と端正な文字で表記されていた。
「仕方ないだろ。本当なんだから」
「いくら双子でも、それはないんじゃないか?」
「でも俺が風邪とか引いたら、何も伝えなくても淳は電話をかけてくるよ。それと同じなんだ」
「同じって何だよ」
「同じってこと。双子に生まれなきゃ分かんないよ」
「そりゃそうだな。やっぱりあれか? よくテレビとかでやってるよね、双子同士でのテレパシーとか」
「できるようになりたいけどね。流石にそこまでの力は神様がくれなかったみたいだよ」
 そう呟いた木更津の語尾をかき消すようにして、チャイムが空気を震わせた。「ウエストミンスターの鐘」という曲名なのだと、昔のラジオ番組で聞いたような気がする。あの、間の抜けた鐘の音だ。
 木更津が時計を見つめながら、ほう、と息を吐いた。その息は冷たく凍らなかった。
「終業式、始まるね」
 そうだね、と返す。木更津は再び時計を眺めやった。
「しばらくしたら女の子が担ぎこまれるのかな」
「なら剣太郎に教えた方がよかったかな? 貧血で倒れる子って肌白そうだから可愛い子が多いと思うよ」
「それは偏見だろ。倒れなくても綺麗な子は沢山いるさ。俺みたいに」
「さり気なく自分自慢? なら俺も、皆に『無駄に男前』って言われたよ。いつだったっけ……忘れたけど、関東大会の前後にさ」
 木更津は指に長い髪を絡ませて、妖艶に微笑む。
「それなら俺は……」
「『ロン毛がうざい』って言われてたね」
 言葉を引き取ったが、なにを間違えたか分からない。
 数ヶ月前に冗談で交わしていた言葉を再現しただけだ。正直に話した。なにか悪いことでも言ったか? それでもそろそろ切ったほうがいいとは思うから、それはそれでいいと自分を納得させる。
 なにも言わず木更津は立ち上がった。その足が保健室の扉に向かう。
「どこに行くんだ?」
「……なんでもない。ちょっとトイレ。それと図書室に行って適当に本借りてくる」
 声に険がある。それも、ミノカサゴのように盛大に。
 できるだけ当たり障りのない言葉をかける。
「ああ分かった。腹下すなよ」
「傷んだつくねを食べたのは淳だよ」
 遠くで見ている佐伯が肩を跳ね上げるほど、扉をスライドさせるにしては大きすぎる音が破裂した。ドアが勢いよく閉められた反動で、閉じられたのにも関わらず上靴が縦に入るぐらい思いっきり開いた。廊下の冷たい空気が水のようにとろとろと流れて、くるぶしを冷やす。
 ……本当になにか悪いこと言ったのか?


 佐伯が一人になってから、一時間は経過した。まだ木更津がトイレに篭城しているのなら湯たんぽの必要性もあったが、保健室のコンロを勝手に使ってもいいものか迷い、結局無為な時間を過ごすことにした。いつもであればなんの用もない保健室を眺めるのもなかなかいい。自分の体重を量って、春先と比べて減りも増えもしなかったのに安堵した。身長が少しだけ伸びていることにガッツポーズを取った。測定距離よりも遠くに立って、視力検査用の一番小さなランドルト環が見えたことに口許をほころばせた。
 木更津はまだ来ない。
 次はなにをしようか。寝ていようか。それとも座って、ゆったりとした時間を過ごすか。ここには消毒液やガーゼ、包帯など手当ての道具と、書類、パソコン、養護教諭用の机などがある。パソコンのスクリーンセーバーでは「千葉県立六角中学校」という文字が色を変幻させながら跳ね回っている。
 机の上に鎮座する十数冊の本に視線を走らせる。簡単な応急処置、自閉症児への接し方、不登校児を励ます方法、癌の症例、火傷の症例、手話や点字の本、芸能人の闘病記、五体不満足、生きてます十五歳、卒業式まで死にません。養護教諭は看護師とほぼ同じ資格を持つから、知識は絶えず吸収しなければならないようだ。
 その中から適当に、癌についての本を抜き出した。やたら大きくて薄いハードカバーだ。オールカラーのページを左からぱらぱらとめくる。煙草を吸ったら肺癌の危険性が上昇するということを写真入りで解説していたり、正常な組織と癌組織の比較をしていたりした。チェルノブイリで強い放射線を浴びた人が将来的に癌になる確率を記したものもある。おそらく、これは生徒に貸し出しする目的で置いてある本なのだろう。文字は蟻より大きく、それ以上に図版も大きい。そして後半には、文字が一色刷りで連ねられた資料のページが存在する。
 一色刷りの紙をめくる。
 めくる。
 めくる……なんら面白いところはない。それでも右側のページがどんどん薄くなるので、とりあえず最後まで読んでやろうという気にはなる。
 最後の一枚。また面白くもないことが並んでいる……はずだった。
 子供受けを狙ったクマのキャラクターが、小見出しを指差す。
『がんは不死の細胞だ!!』
 不死……?
 興味本位で続きに目を通す。
『通常、細胞は、分裂、増殖、プログラムされた細胞死(アポトーシス)で成り立っています。ですが、がん細胞は、からだが必要としていなくても細胞の分裂を続けるから、不死といえるのです』
 とても短い説明だった。その先にも少し説明がある。文字列を視線でなぞる。先は、先は? 心臓が嬉々として先を要求する。
 佐伯がそのトピックスに夢中になった瞬間、足元で、プラスチックが木の床に当たる乾いた音がした。思わずそれに目を移す。
 液晶を裏面にして、電子体温計が投げ出されていた。思い出せば、鳴った記憶がない。いや、木更津と話をしている間に鳴って、ずっと気づかなかっただけかもしれなかった。今まで体温計が落ちないように気をつけて動いていたせいか、それがくせになって、ずっと体温計が挟まっていることを忘れていたのだろう。
 佐伯は本を背表紙の隙間に戻し、腰をかがめて体温計を拾い上げた。さて、自分の体温は何度だったのだろう。
 四十二度。
 目を剥いた。四十二度といえば、蛋白質が凝固してあらゆる生物は茹だっている温度である。その前に佐伯は風邪など引いていないし、なにより体感温度は平熱そのものだ。そんなに体温が高かったら佐伯がこうして動いている保証もない。
 ピッという電子音とともに数字が変わった。二十八度。八十七度。六十三度。次々と温度が表示される。その瞬間、液晶の文字盤がメチャクチャに数字を羅列し始めた。一の位も十の位も、零から九までの数字をデタラメに組み合わせ、次第に体温計が熱を持ち始めた。
「熱っ……!」
 持てる熱さを超えて、思わず振り払った。再び、カラ、と乾いた音。体温計は木の床に落ちて、くるくると数度回転した。液晶はまるでコンマ以下の秒数を刻むストップウォッチのように高速で文字を打ち出した。
 ほぼ同時か、教師用の机に置かれたパソコンの画面が、マウスに触れていないのにも関わらず突然スクリーンセーバーを失った。その代わりに映ったのは深夜のテレビを思わせる砂嵐だった。一拍遅れて、テレビでなにも放送されていないチャンネルを映したときと同じ、耳障りなノイズが空気に染み出した。
 思わず、画面を凝視した。しかし砂嵐は、異様な吸着力をもって佐伯を吸いつけた。
 本当になんでもない、どこにでもあるような、滝の音に似たノイズ。この砂嵐を見ていれば、翌日殺害される人間の名前でも読み上げられるのかもしれない。もしくは、無音に溶け込むようにして得体の知れないものの囁きが混ざっているのかもしれない。いつかの映画の予告編で、この曲を聴いたら自殺するというハンガリーの歌謡曲があった。その楽曲の最後には聞こえるか聞こえないかというような声が混ざっていて、囁きかけてくるという。それと同じなのかもしれない。
 部屋の明度が急に下がった。蛍光灯がちかちかと瞬き、火花を散らし始めた。蝋燭の火を吹き消したように、忽然と保健室が薄暗がりに放り出される。窓の外から差し込む光さえなく、パソコン画面の砂嵐が佐伯の頬を照らし出した。この砂嵐の中に、人の顔が隠れているのかもしれない。それでも視線を逸らせない。砂嵐は磁石のように目を吸いつける。白と黒と灰色の乱舞は麻薬のように佐伯を釘づけにした。

 ――ざぞざぞ……

 なにかがいるのではないか?

 ――ざぞざぞ……

 この砂嵐の中に。
 二色が荒れ狂う嵐の中に。

 ――ざぞざぞざぞ……

 なにものかの声が。
 この黒白の合間にひそんでぬちぬちと蠢き、のたうち、絡み合いながら、砂嵐の向こうにいるものを待ち受けているのではないか。砂嵐に魅入られたものを喰らおうと今もなお待ち受けているのではないか。本人の気づかぬ間に、口から、鼻から、耳から、瞼と眼球の隙間から、ありとあらゆる箇所からアニサキスのように忍び込んで身体に巣食うのではないか。
 突如、光が一閃した。
 外に思わず目を移した刹那、光が消えるのと時を同じくして、巨大な岩が岩に突き落とされたような重く猛烈な轟音が、鼓膜を破るほど空気を突き動かした。残像の影響か、視神経をぶった切られたような暗闇が保健室に満ち満ちていた。視覚が闇に囚われたまま、嗅覚が異様な臭気を感知した。プラスチックが焼け焦げ、融け、炎を吹き出す寸前のような異常な匂い。弾かれたように足元に目を向けたら、体温計の外装がチーズフォンデュそっくりに融け、今まさに床に広がろうとしていた。
「う、うあ……」
 声にならない呻きが漏れる。自分の声にも過敏に反応して、自分以外の誰かが後ろから囁きかけたと、思考が回る前に直感的に思った。足が意思を待たず駆け出し――しかし保健室は広くはない。三歩と進まぬうちに閉じられた窓ガラスにぶちあたり、がぃぃんと濁った音が前頭葉に反響した。言うことを聞かない指を必死に動かして窓の鍵をまさぐる。開かない。二重ロックの一つを外す、大きい鍵のレバーをがちゃがちゃと下ろそうとする、指がもつれる、震える、動かない、力任せに拳で窓を叩いた、ガラスはがんがんと不快な反響を残すだけだ。
「くそ! くそ! くそっ!」
 息さえも震えている。その息は室内であるのにも関わらず白く凍り、窓を曇らせた。
 気づいた。ガラスの遥か奥、窓の外を、鼠色の雲が覆い尽くしている。いや、それだけであればよかったのだが……海の方角に、まるで竜巻のように垂直に伸びる雲があった。それは風の流れ、雲の流れを全く無視して、あたかもそこに突然出現したかのようないびつさで、オブジェのように直立していた。トーテムポールのように建つ、雲の柱。周囲の木々は風になびき、曇天も少しずつ動いているのに、その雲だけは学校を、佐伯を見下ろしているかのように、その場所にとどまって一歩も動く様子がなかった。
 そして二階から見る風景もまた、異常だった。電柱の先、家や車のアンテナ、それだけでなく門扉の尖った部分にさえ、ケサランパサランのような白く半透明の球が浮かんでいたのだ。ゆらゆらと不安定に灯る球体は、大小の差はあるものの同じような形で、尖ったものの先に刺さっていた。
 セントエルモの火……中世の船乗りが最も恐れた、嵐の預言者。
 息ができなくなる。後ずさる。嫌な味の唾を嚥下する音が存外に大きく頭蓋に響く。
 言葉なく息が細かに振動した。指が、脚が、まるで神経が通っていないかのように自由がきかない。
 再度、光が閃いた。同時に、落雷音。
 後退を続ける上靴のかかとが変に軟らかいものを踏みつけた。チーズのように融けた体温計が木製の床にべったりと張り付いて、上靴の模様を黒く刻み付けていた。
 臨界点を超えた。
 叫びが声の輪郭を取れずに口唇から飛び出した。足元の体温計を力いっぱい蹴飛ばし、からからとどこかに転がっていた。
 思わず駆け出して、保健室のドアに体当たりして、もつれる指で力任せにドアを横に叩きつけた。転がるように外に出、
「うああっ!」
「うわっ!」
 誰かにぶつかってそのまま転がった。落ちた本の上に倒れて滑り、リノリウムの床に左肘を強かにぶつけた。ファニーボーンに当たったのか、肘から指先までが一気に痺れた。痛いと呟く間も惜しい。
 手を突いて起き上がる直前、「サエ!」と声をかけられた。起き上がりざまに声の主の肩を右手で掴み、もはや怒鳴りつけるように尋ねた。
「亮!? 亮なのか、亮!」
「そうだよ、俺は亮だよ。とにかくサエ、落ち着いて。どうしたの?」
 どうしたの? 木更津は宥めるように、混乱しながらも冷静を保ったまま尋ねた。佐伯も精神の荒波が少しずつ、それでも確実に鎮まりつつあるのを感じた。
「なんか分からない、だけど突然電気が消えて、パソコンが砂嵐になって、雷が鳴って、それで……」
 すると木更津は、ああそれか、と安堵したような表情に戻った。そして、子供をあやすような語調で囁きかける。
「電気なら、さっき落雷したみたいで、短時間だけ停電が起こったみたいなんだよ。それで、一人になるのも不安だし戻ってきたんだけど……」
「違う! 雷の前に電気が消えて……」
 そこでふと背後を振り返った。
 開けっ放しのスライドドアの奥に広がる保健室の蛍光灯はすっかりと光を取り戻し、端を黒ずませながらも頼りない光源として光を供給し続けていた。しかし寿命の尽きようとしている蛍光灯は充分な明かりを提供するには少なすぎる。棚の影、机の下、カーテンのひだに隠れる陰影など、あらゆる影が密度を濃くして、全体に薄く広がっているように見えた。今起こった全てのことを気のせいで片付けるにはどうも納得がいかなかった。
「保健室は大丈夫だよ。なにも怖いことなんてないから。安心して」
 寝るとき以外外さないのがポリシーなのか木更津は帽子をかぶりなおして、ふっと安心させるような笑みを浮かべた。
 しかし佐伯には、今のことを忘れて保健室にいることが、どうしてもできなかった。
「ほら、本持ってきたよ。怖いなら俺もいるから安心していいし」
 木更津が二冊のハードカバーを拾い、立ち上がる。
「それに今更終業式に割り込んでも、先生に疑われるだけだよ。大人しくしていた方がいいんじゃないか?」
「……そうだな」
 木更津の尤もな提案に形だけうなずいて、佐伯はもう一度保健室の中に入った。
 パソコンの液晶では相変わらず文字が跳ね回り、砂嵐など痕跡もない。足元に視線を移すが、融解したプラスチックの破片は一片として残ってはいなかった。何本もコップに入れられた体温計は身を寄せ合うように一方に寄り、融けた体温計は何処かに行ってしまった。窓の外は、鼠よりもなお暗鬱な空が広がり、全ての自然法則を無視して竜巻のように突っ立つ雲など何処にも見えなかった。住宅地を見回しても、一つとしてセントエルモの火は浮かんでいない。明るいのは民家の窓と、午前中だというのに煌々ときらめく街灯の明かりだけだった。
 夢……
 そう思いたかった。
「ほら、座れば? サエ。具合悪そうにしてないと養護の先生に怒られるよ」
 なかなか動かない身体を動かして、どうにかパイプ椅子に座る。ぎし、と軋む音にさえ神経を削られていくように感ずる。
 机に両肘を乗せて、指を前髪に埋めた。肺から空気がなくなるまで、長く息をつく。
 さっきはなにが起こったのだろう。
 全ては正常な状態に戻っている。しかし起こったことが全て幻想だったとは考えにくい。あそこまで克明な幻覚なんて存在しない。狂った体温計の熱。滝壺のような音を垂れ流す砂嵐。物言わず立ち尽くす、濃灰色の雲。佐伯は憶えている。自身の影を床に縫いつけた雷の閃光さえも、網膜に焼きついている。そうそう忘れられるものではない。
 顔を心配そうに覗き込む影は木更津だ。
「サエ、本当に大丈夫?」
「え? あ、いや……大丈夫だよ、大丈夫」
「それならいいんだけど」
 と言いつつ、木更津の表情は変わらない。
 佐伯は笑顔を取り繕った。引き攣ることは絶対にない。小学校低学年のころに六角小に転入してきた佐伯は、ずっとこの笑顔でクラスの輪の中に自分のポジションを確保してきたのだ。これを豪放磊落な笑い方で「胡散臭い」と冗談交じりに評したのが同級生の黒羽春風一人だけだった。それにこの笑みは、自分でも貴公子のスマイルだと意識して振舞うようにしている。
 悟られることはない。絶対に。貴公子は腹でなにを考えていても、それを顔には出さないからだ。
「気にしなくていいよ。多分、いつの間にか寝ていて、悪夢でも見ていたんだろうから」
「……そう?」
「ああ。そういえば亮はなんの本を借りてきたんだい? せっかくだし読みたいな」
 そう言って佐伯は机の上に置かれた本を手に取った。マルキ・ド・サドの著作と、アンデルセン童話だ。
「サエって、束縛する人が好みだって言っていたよね」
 ……だからと言って、一足飛びに「悪徳の栄え」を持ってくる木更津も木更津だと思う。

 勧められて仕方なく「悪徳の栄え」を読んでいる途中に、童話を読んでいた木更津が、たった今思いついたかのように顔を向けてきた。
「ねえサエ……人魚って、いると思う?」


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