その瞬間、開け放しにしていたスライドドアが勢いよく開かれて、間髪入れずに白衣の女性が現れた。
「あら、また来ていたの? 亮君」
 サバサバした語調で、白衣の女性養護教諭は尋ねた。蒼白な女生徒の肩に手を回して爪先を引きずらせて平然と進むあたり、どことなく黒羽と似ている。髪が黒く短いというのもその一員だろう。脚が長く細く、白衣の下に覗くウエストはしっかりと細く、腰の倍はある胸の布地が存在を主張していた。この細い身体つきのどこに、女の子を爪先だけ引きずる力が隠れているのかとも思った。しっかりとカールをかけられた睫毛に塗られたマスカラは濃く、ファンデーションも厚くはないが透明感がある。校内ということを無視しても、少々ケバい、という印象が強かった。
 足元がふらついて今にも倒れそうな女生徒は、先刻佐伯が言ったとおり色白で、手足は針金のように細かった。髪が長くて表情は伺えなかったが、それでも肌の色の悪さは致命的だった。肌には少し白い粉のようなものが見えたが、恐らくにきびを隠す最大限の努力なのだろう。それの奥にある肌の色が直に分かった。現在学校中でダイエットが流行しているが、それが行き過ぎたケースかもしれない。しかしまさかクラスメイトが倒れるとは佐伯でも予想外であった。
 養護教諭は女生徒をパイプ椅子に座らせて、問診表と、先の丸まって使い勝手の悪い鉛筆を渡した。しかしここの鉛筆は管理者の性格もあってか、先が丸まってもあまり削られていないようだ。無意味ではあるが養護教諭は体温計をコップの中にある何本かの中から取り出した。
 そのとき佐伯は今さっきまで進行していた悪夢を思い出し、思わず養護教諭の手から体温計を奪い取った。手の中に納まった体温計を見つめる。しかし液晶画面には一切の表示がなく、完全に電源を切られているようだった。数字も、度数表示もなにもない。
 ここまで正常すぎると、なにもなくて安心どころかうそ寒い気分になる。生唾を嚥下しても、心臓のあたりの布地を掴んでも、体温計を握り締めても、なにもない。
 養護教諭の当惑した顔が、宥めるような、困ったような苦笑いに変わる。
「……どうかしたの?」
 すぐに違う体温計を抜き取られ、「あっ」と手を伸ばしたが遅かった。渡された女生徒は遠くを見ているような手つきで体温計を脇に挿した。
 養護教諭は女生徒の斜向かいのパイプ椅子にどっかりと腰を下ろし、佐伯と木更津の問診表に一通り目を通した。
「えっと、亮君と……虎次郎君ね」
「あ、はい」
 佐伯は直立したまま応える。どうも初めて会話する人は苦手だ。一度慣れたらそのまま話し込めるものの、慣れるまでが長い。これは小学生のときに転入してきてからの癖だ。直そうと努力するまでもないほどのものだが、直したほうが円滑に人間関係を進めることができるのは知っていた。
 その緊張を悟られたのか、養護教諭は動作に会わないふんわりとした笑顔を浮かべて、既に座ってペン回しをしている木更津の隣の席を勧めた。
「さっきちょっと雷騒ぎがあってね、体育館で。何人か倒れた子ぉいるのよ〜。それで今ちょっとベッドは空きそうにないんだけど、それでもいい? 続々とくる予定だから」
 鉛筆を落とした木更津が猫のように顔を上げて尋ねた。
「まだ来るんですか、先生」
「そ。体育館の隅で休んでいる子も多いから、その子達が落ち着いたら来ると思うわよ」
 その瞬間、開け放しにしていたドアが勢いよく開かれ、間髪入れずに、豪放磊落と評された、かの人物の声が割り込んだ。
「サエ、亮、見舞いにきたぜ」
 ここが校内ではなく海辺であれば、この格好はわずかな違和感をもたらさなかったのかも知れない。佐伯が思うにある種ライフセーバー然としたその格好は、実に校内という場所には不似合いなものだったからだ。当の黒羽は上の学ランを脱ぎ去り、中に来ている黒いタンクトップをむき出しにしていた。そして黒羽をライフセーバーみたいだと思った最大の証拠は、黒羽が小さい物を背負って、まるでたった今救助したかのようにびしょ濡れだったことだった。テニス部を引退してもなおトレーニングを欠かさない根で真面目な性格が功を奏したのか、水に濡れた上腕二頭筋は盛り上がった筋肉を光らせている。
 今も短い髪の先から雫を滴らせている黒羽の背中にある小柄な人を覗き見、そして佐伯は椅子を蹴って立ち上がった。
「お、オジイ! どうしたんだよ、大丈夫なのか?」
「ああ、それがな。さっき雷が鳴ったことわかるだろ? 体育館の女子がきゃーきゃーパニック起こしやがってよ、阿鼻叫喚ってやつ? それで外に逃げ出そうとしたやつが先公の制止を振り切って外に出ようとしたら、オジイが外に立っていたんだとよ。それでまた二人ぐらいぶっ倒れて、今体育館の隅で座り込んでる。もうすぐ来るだろ」
 黒羽はそう言って、親指でドアを指した。開けっ放しになったドアからは、かすかに人の声と足音が近づいてきている。
「オジイさんも? ベッド足りるかしら……」
 養護教諭は保健室から出て、廊下の向かいにある宿直室の様子を見に行った。
 体育館でそんなパニックが起こっているとは思わなかった。まあ教室にチョウやトンボが入り込んだだけでも大騒ぎになるから、それはある意味普通の反応なのかもしれない。うるさいとは思うけど。雷の轟音に紛れて聞こえなかったのかもしれなかった。
 木更津は座ったまま頭をひねる。既に持っていたアンデルセン童話は閉じられ、さりげなくマルキ・ド・サドの著作を隠していた。
「大丈夫なの? オジイは」
「さあ、わかんねぇな。意識はねえし、身体は冷てぇし、最初は死んでんじゃねえかと思ったけど」
 いきなり不謹慎なことを言う。
「けど?」
「息はしてるし、脈もある。とにかく身体拭いてベッドに寝かせたほうがいいかと思ってな。亮、ちょっとそこどいてくれ。座らせるから。で、サエもタオル取ってきてくれ」
「わかった。このタオル使ってもいいかな?」
 佐伯はシンクの横に据え付けられた手拭用のタオルを掲げた。オジイをパイプ椅子に座らせて服を脱がせている黒羽は佐伯の方を見ずに、
「いいんじゃねえ?」
 と応えた。
 パイプ椅子に力なく座り込んでいるオジイは、長く白いひげの先から、雨のように水滴を落としていた。たった今まで滝に打たれていた仙人のようだと思ったが、あの豪雨の中にいれば滝だろうが雨だろうが一緒だろう。黒羽が所構わず濡れた服を絞るものだから、床や机に水溜りのまだらが生まれた。この様子を養護教諭が見たら怒るだろうな、と思ったが、そもそもあの教諭は何処となく黒羽に似た女性だ。びしょ濡れにした本人に後片付けをさせる以外、そんなに激昂しないだろう。その予想に甘えてか、水溜りに水滴が落ちてそこらじゅうに撥ねる。
 オジイは六角小学校のテニス仲間たちに骨皮筋衛門と揶揄されるほど痩せぎすだったが、濡れた服を取り去るとその身体つきがよく分かった。ひだのように皺が深く刻まれている。
 そのオジイの身体を真っ白なタオルで甲斐甲斐しく拭く黒羽の姿が、妙に男らしく見える。介護というか介助というか、自分達の未来を見ているというか……
「ん? どうした、サエ」
「え? ……あ、いや、なんでもないよ」
 笑顔で返す以外にどんな返し方があるというのだろう。手を振って返すと、黒羽は「ふーん」と、納得していそうなしていなさそうな、なんとも言えない返事をした。
 すると、オジイが突然、枯れた声で「あ……」と呟いて、震える指先で窓の外を指差した。結露しすぎて透明度を増したガラスの奥には、先刻から変わらぬ曇天。相も変わらず雷が鳴りそうな黒雲を人差し指で指した。
「さい……がい」
「へ?」
「よだ、じゃ……」
「よだ?」
 佐伯と黒羽は二人して顔を見合わせた。「よだ」という言葉を聴いたためしがない。近い発音は、ジョージ・ルーカス監督のスターウォーズに出てくる緑色で六十六センチしかないジェダイ・マスターだ。しかしオジイが見ているとは信じがたい。
「よだ」という言葉から導かれる連想を遮り、オジイは枯れ木を割るような声で続けた。
「あやつらが……くる。海から……」
 と呟いた直後、糸が切れたようにオジイの首から力が抜け、腕が下がった。黒羽が律儀に反応して、必死にオジイと連呼して脈を取っている。
 黒羽以外が一切の言葉を発さない短い沈黙が訪れた。窓の外から、ガラス越しに激しい雨音が続いていた。




「もしもし、木更津ですけど、どなたですか?」
『おう、亮か? 俺だ俺』
「なあんだ、オレオレ詐欺か。狙うのは俺みたいに若い人じゃない方が簡単に巻き上げられると思うけど? バイバイ、オレオレ詐欺のバイトさん」
『なワケねーだろ。俺だよ俺、バネだっつーの。……ちょっと待て、切るな切るな!』
「クスクス、だろうなとは思った」
『亮、確信犯かてめぇ』
「もちろん。確認してないとこんな悪戯はできないだろ? で、どうしたんだい、突然電話して」
『ああ。二十四日、予定ないよな?』
「ぶしつけだね。いきなり決めつけないでよ。せっかくのクリスマス・イブ、世の女の子達が俺を放っておくと思うかい?」
『あ、デートか? そりゃ悪かった、じゃあよろしくやってくれや。みんなは参加するんだけど、女が絡むと仕方ねえ。じゃな』
「ちょ、ちょっと待って。俺は、俺に予定があるとでも言ったかい? そうだよ、まさかの事態だった。想定の範囲外だよ。世の女の子達は俺を放っておいたんだ」
『ならハッキリ言えよ。危うく招きそこねるとこだったぜ』
「バネが人の話を聴かないからだろ?」
『ハハッ、まあいいや。じゃあ二十四日の午後一時に海に来いよ。その後パーティーすっからよ、部室で。遅れてもいいけど、休むんじゃねえぞ』
「なんだいそれ……まあ、オッケー。いつかの誰かさんみたいにはならないようにするから」
『誰かさんって誰だよ』
「あーあ、そういえば六年生の時のパーティーでは、ダビデが、駄洒落を言っても突っ込んでくれる人がいないって寂しがっていたなぁ」
『そ、そんな昔のこと持ち出すんじゃねえよ!』
「そうだね。古傷を抉り続けるのも意外に精神力がいるんだよ。憶えてなきゃなんないから」
『抉られるこっちの身にもなれってんだ』
「クスクス。久しぶりにイジるのは楽しいな。じゃあ明後日の午後一時、海で会おうか。それまでバイバイ、バネ」
『あっ、亮テメ、わざとイジリやがっ……』
 最後に文句を言い損ねた受話器を置き、部屋に戻る。




「ねえにいちゃん。今日はなんのはなしをしてくれるの?」
「今日は……そうなのね」
 顎に手を当てて、しばしの間考える。暗いところで文字を読むと目を傷めるから本は読めないけれど、明るくしたら弟がいつまでも眠れないからだ。
「まだ?」と催促する弟の瞳が、窓の外からかすかに差し込む光を反射して仄かに煌めく。
 赤ずきんは話した。ヘンゼルとグレーテルも話した。七匹の子ヤギも、シンデレラも、ブレーメンの音楽隊も話しつくした。人魚姫は弟のお気に入りだが、何日も語っていると「飽きた」と言われて暴れられる。
 それなら、人魚姫に関連する物語を話してあげよう。
「じゃあ、オジイが語ってくれた昔話を話すのね」
 夜目も利かない闇の中、布団に潜りこんだ弟に、優しく語りかけた。
 自営業で経営している食堂「いつき屋」は、午後八時を過ぎた今でもまだ客が残っている場合が多い。父も母も兄も姉も店に出払っているときは、いつも次男である希彦が弟を寝かしつけなければならなかった。幼稚園を卒業して少ししか経っていないから、まだ一人で寝ることに恐怖を感じているのだ。
 そんなときはいつも昔話を語って寝かせている。
「題名は、題名は?」
「八百比丘尼っていうお話なのね」
「ヤオビクニ?」
「そう。じゃあ、目を瞑って大人しく聴くのね」
「うん!」

 とある漁村で起こった事にございます。
 ある家で、浜で拾ったという人魚の肉が振舞われました。村人たちは、人魚の肉を食べると永遠の若さと命を得られると知っておりましたが、やはり不気味さが勝ります。みなは食べずに懐に入れて持ち帰り、帰り道にこっそりと捨ててしまいました。ですが八百比丘尼の父は話を聞いておりませんでした。父がこっそりと隠しておいた肉を、幼い娘は食べてしまわれたのです。そして歳月が経ち、娘は美しく成長しました。村では誰が娘の婿となるかという話でもちきりでした。しかし数年が経ち、人々は少しずつ首を傾げるようになりました。娘はうら若い少女のまま、成長していないように見えたのです。村人に気味悪がられたため、仕方なく遠くの村から婿をとりました。娘の変わらぬ若さを恐れる亭主もいれば、全く気にしないものもいました。ですが、流れ行く時間とともに、めとった夫も次々に死んでいきます。娘は次第に村人から疎まれ、頭を丸めて尼となり、諸国巡礼の旅に出ました。そして八百年を過ぎたころ、どこをどう巡ったのは分かりませんが、若狭の国を訪れ、世を儚んで岩窟に消えました。それ以来、八百比丘尼の姿を見たものはおりませんでした。

 気づけば、隣からは穏やかな寝息が聞こえてきていた。今日弟は、クラスメイトと一緒に走りまくったらしい。こんな短時間で眠るとは想像以上だった。
 小さくて、ぷっくりした頬に赤みの差した可愛い寝顔だ。
 樹は起こさないようにそっと布団から出る。すると寝返りを打った弟の指が、自分の人差し指を掴んだ。テニスでまめだらけになって、それが治ったばかりの、厚い皮膚。それを、温かくて脆い指が、ずっと一緒にいてとせがむように掴んでいる。
 樹は穏やかに笑み、もう一度布団に横になった。
 窓の外ではあまやかに、しとしとと雨が下草に降り注いでいた。


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