これを「魚」だ、と断定するには少し迷いが生じた。いや、大部分を見れば魚以外の何物でもない。肘から指先までの長さが充分にあるヒレは六本あるし、鉄色の鱗は畳のように見事に並んでいる。腹は魚と呼ぶにふさわしい生白さで、砂に塗れて輝きこそ失ってはいるものの、これを焼いたら秋刀魚のような焦げ目が出来るのではないかとさえ思った。触れば軟らかいのだろうが、到底触れる気にはなれなかった。大きさも、成長期にある中学生六人の腹を満たせるほどあるだろう。大人のマグロと体長を比べたらどっこいどっこいだ。こうして見る限りでは何の変哲もない、沖に行けばどこにでも泳いでいそうな魚であった。
 人面、という一点を除いては。
「なんなのね、これ」
 と、樹が覗き込みながら呟く。
 魚の顔は若いとはとうてい言えず、ローレライの伝説にあるような美女とは無縁の表情をしていた。奇怪に痩せた老人のようでもある。髪はなく、それが外見の年齢を引き上げているのだろう。額は切り立った崖のように急な斜面である。頬骨が出っ張っていて、その下がべこりとへこんでいた。往年のプロレスラーを思い出すほど顎は前突していて、よく海底の岩にぶつかったりして磨り減らないものだと感心さえ覚える。まぶたは死に際の人間のようにカッと見開いていて、明らかに苦悶の色を浮かべていた。肌は全体的に青白い。海底に棲み太陽光に当たらなかったのだろうか。
 学ランの袖を肘まで捲り上げて、葵が恐る恐るといった様子で長い鰭を一枚つまみあげると、突然根元からぶちりと千切れた。慌てて葵が跳びすさる。手に残った鰭を見つめて、それを振り払った。
 葵がTシャツの裾を掴んだ。その直後に、未知の存在に不気味さを覚えた不安げな問いがかけられた。
「サエさん……これなに?」
「なにと言われても……なあ」
 木更津に視線を逃がすが、当の本人はしゃがんで魚の腹を人差し指で突っついている。
 人面魚としか答えようがない。いや、シーマンと呼ぶべきだろう。いつかゲームでそんな宣伝がなされていた。
 腕を組んで唸る間にも、木更津に「いっちゃん、触ってみなよ」と促されて、樹がちょんちょんと人差し指で鱗を突っついた。葵も便乗して触り始めた。肝心の怪魚はピクリとも動かないので敢えて注意はしないが、見慣れない魚に触ったり何かをしたりするのは賛成しかねた。
 臆病な好奇心に誘われて、この中で一番魚に詳しいだろう樹に尋ねた。
「いっちゃん。この魚、なんだと思う?」
「うーん、やっぱ人面魚なのね」
 やっぱり、と佐伯は肩を落とした。自宅で食堂を経営しているほど料理に親しんでいる樹でさえ分からない種類の魚では、佐伯もお手上げだ。葵の残念がる顔は見たくないが、これは仕方がないだろう。
「気味悪いよ。僕だって、お魚に人の顔ついてるの怖いよ。食べたくない」
「確かに食べたくはないなあ」
 苦笑い気味に困ってしまい、思わず髪に指を埋めた。しかしあくまでも軽めに応対する佐伯に対し、わがままを言う子供のように葵は学ランの袖を引っ張った。
「ねえ、棄てようよ、サエさんってば!」
「でもこれをテレビとかに証拠として出したら、ちょっとはお金貰えるんじゃない?」
「即物的だね。サエも」
「だって……うーん、そうなのかなぁ」
 その時「おーいサエー!」と黒羽の声が、遥か後方の防波堤より聞こえてきた。
 直後、天根の気のない声がおぼろげに届き、
「つまんねぇんだよ、ダビデ!」
 とお決まりの台詞が吐かれた。佐伯には聞こえなかったが、つまらない駄洒落を言って黒羽の怒りを買ったのは事実だろう。頭部を狙う回し蹴りを辛うじて避けた天根は、黒羽の横をすり抜け、今佐伯たちのいる浜辺へと砂を散らして猛ダッシュをしてきた。
 木更津が長い髪をもてあそびながら余裕そうに、
「あーあ、また怒らせてる。懲りてないね、ダビデも」
 と言ってクスクスと笑った。
 冬休みに突入して二日。六角中の元・テニス部レギュラーメンバーは、久しぶりに集まってクリスマスパーティーでもしようという黒羽の提案を受け入れて、こうして海に食材を採りにやってきた。しかし冬の海というのはなかなか魚介類を採ることができない場所という致命的な事実を脳内からすっかりと漏らしていたのだろう。黒羽と天根が先に食材を買いに行き、集合場所としてだだっぴろい海を指定された佐伯たちは、暇を持て余して浜辺を適当にぶらついていた。
 残念ながら首藤は帰省中で集まりには参加できなかった。木更津の双子の弟である淳も、寮の清掃期間以外は帰ってくるつもりはないらしい。その期間は新年が明けてかららしく、クリスマスと新年は寮のメンバーと過ごすつもりだそうだ。クリスマスをこっちで過ごさずに寮で過ごすというのは、さすがミッション系の私立学校に通うだけはある。しかし佐伯にはそれが残念でならなかった。家も近くで、同じ小学校に通い、中学校でも一年とちょっとの期間を共にテニスに費やした幼馴染だ。その仲間と一緒に新年を迎えられないのは、二度目でも少し寂しいものがあった。それでもその選択が淳の意思であればやむをえない。二名が抜けたまま楽しむのも、仕方がないことだ。
 佐伯は感傷から現実に意識を切り替えると、大小さまざまな魚を入れたバケツを持ち直して、全員に呼びかけた。
「じゃ、そろそろ行こうか」
「うん! 行こ行こ!」
 葵は佐伯のバケツを奪うように取り返すと、「いっちゃん、バネさんのとこまで勝負だよ!」と宣言し、スタートの声を出す前に駆け出した。慌てて走り出した樹は振り返りざまに、
「サエも亮も走るのね」
 と言い残して、葵の背を追った。この中で一番小柄な葵の脚力は、六角のメンバーの中でも他の追随を許さない。標準よりはるかに速いはずの樹をぐいぐいと引き離し、かかとで砂を散らしながら、まぶたをしばたく間に抜いていった。
 天根は葵とすれ違う直前に方向を翻して先頭に立った。葵のスピードも上がった。
 徒競走に加わらなかった木更津は、読めない笑みを浮かべながら佐伯の横に並んで歩み出した。
「元気だよね、みんな」
 という木更津の呟きに、まあな、と曖昧な返事を返して、佐伯は微笑を浮かべた。
 木更津が佐伯の顔を、軽くお辞儀するように覗き込んで尋ねた。
「サエは先行かないの?」
「早く行きたいのはやまやまだけど、今は隠居生活だからね。走ると疲れるんだよ」
 半分くらい嘘で、真実だ。佐伯だけでなく、三年生は現在、受験勉強に追い込まれている。
「何だよそれ。まだ中学生だろ、サエも。それとも、オジイみたいに歳を取らないまま何十年も生きてるとか?」
「それはないよ、流石に」
「でもオジイって、黒船が来たころからオジイだったんでしょ? それなら考える余地はあるじゃないか。佐伯虎次郎は十五歳に見えますが、実はオジイに相当する高齢者でした、みたいにさ」
「やっぱりありえないって。俺には、十五年間生きていたっていう記憶しかないんだよ。それなのに百歳を超える長寿でした、なんて」
「百歳なんて言ってないだろ? まあ、そうだね。本当にそうだったら今頃、サエは研究所でわけのわかんない薬を飲まされて、身体に何十本ものチューブを繋がれて、うんうん唸ってるんじゃない? ベッドの横で白衣の人がカルテ持ちながらさ」
「ひどいなそれ。まるで怪物扱いじゃないか」
 その時、葵の足跡の真横で砂に塗れた小魚が死んだように落ちているのを見つけた。葵のことだ、佐伯から奪い取ったバケツの中に魚が入っていることも頭から抜け落ちて全力疾走、せっかく釣れた数少ない魚を撒き散らしていったのだろう。これを若気の至りと、そう呼ぶのではあるまいか。
 浜に打ち上げられていた、顔だけが人間の造作をした魚を思い出す。あれは何だったのだろう。佐伯は思わず両腕を組み、歩みは止めぬままに少しうつむいた。
「あの魚って、何だったんだろうな」
 ほとんど自分に問いかけていた言葉だったのに、答えが返ったことで思わず木更津を振り返った。
「人面魚。もしくは人魚」
 佐伯は人魚という言葉を反芻する。しかし外国の映画や童話の挿絵に描かれた人魚は、腰から上がギリシャ彫刻のように白く顔の作りも肉感的に整った、絶世の美女の姿である。それとさっきの怪魚が結び付けられるとなると、少々首を傾げたくなる。佐伯は苦笑い気味に返した。
「人面魚ってのは分かるけど……でもあれが人魚って、似てなさすぎないか? 人魚って普通、腰から上が綺麗な女だろ?」
「サエはアンデルセンの大ファン? それともディズニー映画で育ったりして」
「いや、それだけじゃないけど」
「まあ外国の人魚はそんな形をしてるよ。マーメイド、メロウ、ドイツのニクス。アンデルセンの童話に出てくる人魚姫は腰から上が綺麗な女性だから、明らかにマーメイドだね。でも日本の人魚は、顔以外は全て魚っていう、美しいイメージからはかけはなれているんだって」
「そういえば日本で作られた人魚のミイラは上半身が人間だけど、それは外国への輸出用だったからなぁ。外国のイメージに合わせたのかな?」
「だろうね。昔の人も儲けたかったんじゃない?」
 その時、木更津の語尾をかき消すような葵の大声が二人に呼びかけた。
「サエさーん! 亮さーん! 早くおいでよー!」
 佐伯は片手を上げてそれに応え、葵は両手のひらでメガホンを作るように「先に行ってるよー!」と叫んで、防波堤の向こうに消えた。木霊せずに、声は海鳴りに没した。
「剣太郎は元気だよな」
 雲ひとつない青空の下で「いい天気ですね」と語りかけるのと、全く同じような語調で言う。
「若さゆえだよ。あの元気を分けてもらいたいな」
「ああ、同じこと思ったよ」
「淳も考えてると思うよ。同じこと」
 そう呟いて、木更津はクスクスと、双子の弟と全く同じ笑い方をした。
 今年の正月に帰ってきたのが、淳を見た最後だと思う。関東大会でも全国大会でも、淳を見つけることができなかった。同じ学校に在籍していたのにもかかわらず、一度関係性が断絶されたら会える人にも会えないのかもしれない。
 防波堤を乗り越えると、その先には塩気に強い松が、蛇のように曲がりくねりながら小規模の防砂林を作り出していた。その真ん中を突っ切るように伸ばされたコンクリートの歩道を歩く。この松林を抜けると、似ていない家屋のデザインが集まりすぎておもちゃ箱のように雑然とした住宅街が広がっていた。背の低い民家が地面にへばりつくように広がり、天を目指す途中で作るのを諦めたようなボロマンションが点在している。しかし天は鼠が押し寄せたかのような模様になっている。今から町が濡れ始めても絶対に驚かない。
 つぎはぎだらけのアスファルトを踏むと、靴の裏についた砂がざりざりと音を立てる。
 しかしそれ以上に聞こえるのは、町のあちこちから響いてくる犬のほえ声だった。最近は犬がやたらめったらに吠える。昨日なんて、一緒に帰った葵が散歩中のドーベルマンに喧嘩を売られ、またいつものプレッシャーでよからぬことを考えたのか犬に近づいて、危うく咬まれそうになっていた。犬もこの時期はパートナーを求めて吠えまわるのだろうか。
 そんな身もふたもない上に意味もなさそうことを無為に考えながら、佐伯はただ歩いていた。
 通りに沿って百メートルも離れていない場所には学校の鄙びた校門がある。そこにはもう黒羽の影も葵の姿もない。先に部室にこもってしまったのかもしれない。
「早めに行こうか」
「バネもそろそろやきもきしてるって。行こ、サエ」
「分かってるって」
 木更津にシャツの肩を引かれて歩く。
 校門は、常時開放されている。これは、六角中の教育方針に沿っているのもといえた。いつも学校を開放することにより、生徒に自由に校舎を使わせ、練習や課外時の活動を活発にするためだ。いつもであれば野球部やサッカー部の声が、吹奏楽部の管弦楽器の音が聞こえてくるところだが、部活終了時刻をすぎたか、さもなくばクリスマス休暇でも取っているらしい。唯一野球部が威勢のいい掛け声を発している。飽きもせずボールを投げては返していて、その度にミットにボールが収まる小気味のいい音がグラウンド中に木霊している。
 校門から見上げることができる南校舎の横をすぎ、巨大な楕円をかたどった第一グラウンドを、野球部の邪魔にならないよう横切る。そしてすっかり畑の形をした第二グラウンドを通り過ぎた。
 学校敷地内の隅には、すっかり古びた小さなプレハブが建てられている。鉄製の螺旋階段を上って右がテニス部の部室だ。引退している三年生に対してでも、現テニス部メンバーはそれが当たり前とでも言うように使わせてくれる。
 佐伯と木更津は第二グラウンドの畑を避けるように歩き、プレハブに向かった。
「雨……降るかな?」
 木更津は不安げだ。その言葉に間髪入れず、頬に冷たい雫が落ちた。佐伯は雨粒の軌跡を指で拭うと、その手の平を空に向けた。木更津が白い帽子のつばを直す。
「俺、折り畳み傘持ってきてないよ。サエは?」
「……ドンマイ」
 ああ、とお互いにため息をついた。
「走る?」
「賛成だよ、亮。反対なんて誰がするんだい?」
 佐伯は、黒羽に「お前胡散臭いぐらい爽やかだよな」と評された時と同じ笑みを浮かべた。二人で頷く。直後駆け出した。
 些細な会話をしているうちにも、足元の土は少しずつ変色していく。細かな斑は集まりすぎると同じような模様にしかならなくて、校庭は見る見るうちに濃く染まっていった。雨粒も少しずつ大きくなっていって、まるでスコールのように激しさを増していく。肩を叩く雨が痛みをともなってきはじめた。
 わずか十秒ぐらいの疾走。螺旋階段をスニーカーの底で激しく叩くが、その音さえも雨音にかき消される。そして開け放されていたドアに飛び込んだ。
「遅ぇぞ。って、雨降ってたのか外」
 黒羽が放り投げてくれたスポーツタオルを頭にかぶせて、佐伯が応える。
「今降り始めたとこ。本降りになるまで結構短かったよ」
「その割には濡れたな。なんだよ、二人とも『水も滴るいい男』ってか?」
「バネさんオヤジくさい」
 言った瞬間天根が身構える。しかし黒羽は黄金の右足を持ち上げる動作もせず、「カッカッカッ!」と人好きのする笑い方で、見るも華麗に天根の予想をスルーした。「気の利いた駄洒落喋れば良かった」とでも言いたげな天根が部屋の隅で縮こまり、佐伯は苦笑い気味に、ワックスでガビガビになった天根の頭を撫でる羽目になった。どうやら黒羽に構ってほしかったらしい。
「なにやってんの、みんな! 早くお皿持ってこないと食べちゃうよ!」
 団扇を持って床に座る葵が、七輪を前にして目を輝かせていた。言うが早いか、葵は割り箸で、網の上で泡を吹くハマグリを突っついた。間もなく音を立てて開かれたハマグリの口から、中身を引っ張り出す。それと同時に、樹が鍋のふたを持ち上げ、葵の坊主頭に振り下ろした。金属染みているのにどうしてか間の抜けた音がした。葵が頭を押さえながら、不満顔で控えめに抗議する。
「いっちゃん、お鍋のふたで叩くのやめてよ。いつものことだけど、そうやってぶつの良くないよ」
「その前に一人で抜け駆けして食べる態度を改めるのね、剣太郎!」
 自前の割烹着を着てコンロの前に立つ樹が、妙にお母さん染みて見える。これはいつもの光景であり、自宅から拝借してきた割烹着と三角巾で装備をしている状態、それは樹が料理をするための戦闘服だった。その樹は鍋の中身をお玉でかき回している。佐伯は鍋をのぞきこんで尋ねた。
「なーに作ってんの? ぶり大根?」
「今日は大根がまだ小さかったから、あさりの味噌汁なのね」
「おっ、いいじゃん。今日はあさりの他になに入れるの?」
「後で隠し味当ててもらうから、なに入れるかは秘密なのね」
「OK。じゃあ後で当てさせてもらうから待ってるよ」
 料理は得意な人に任せる。佐伯もクラスの女子よりは上手いと自負できるが、樹の作る料理はまた格別だった。
 部室の真ん中に置かれた机には、スポンジケーキワンホールが陶磁器の大皿に乗せられている。先ほどのショックから立ち直った天根が、金属のボウルに入れられた生クリームを泡だて器でしゃこしゃことかき混ぜている。その顔には、表情の乏しい天根にしては珍しいほど満足そうな笑みを浮かべていた。
「おいおいダビデ、甘くしすぎんじゃねえぞ」
 黒羽は天根のすぐ側に、まるで肌身離さずといったように寄せられていたイチゴのパックを横取りする。そのうちの一粒をつまんで吟味し、口に入れた。天根が一瞬目をしばたいて、直後に助けてあげたくなるほど哀しそうな目で黒羽に視線を向けた。
 天根の伸ばした手を、黒羽は軽やかな手つきでイチゴからかわす。それが何度か続いた後天根が、無表情の中に潜んだ懇願する目線で訴えた。
「バネさん、つまみ食い駄目。返して」
「やだ」
 と言いつつ黒羽がまた一粒を口に運ぶ。
「ケチ」
「ケチでいいぜ。ホイップもあんまし使うんじゃねえぞ。サエが食べられなくなるだろ」
「いや、俺はどっちでもいいんだけどな……作る人に任せるよ」
「ほら。だからバネさん、イチゴ返して」
「やなこった!」
 口をもごもご言わせながら、黒羽は身を翻した。握力でイチゴを詰めた軟らかい透明パックが歪み、零れそうになったが、それを黒羽はすんでのところで拾い上げる。
 黒羽と天根のショートコントを横目に、佐伯は、黒羽がやりかけで放り出した装飾の仕事をすることにした。ベンチに座って、延々と折り紙の短冊を丸めて鎖にする作業だ。黒羽が飽きるのも無理はない。赤と緑の二色を交互にステープラーで留めていく。騒がしい中、一人でするのも寂しいところだ。十センチぐらい進んだところで、手持ち無沙汰だと困り顔の木更津が隣に腰を下ろし、細長く切った折り紙を端の輪につなげて留めていく。お互いに端を持ちながら、両端を長くしていく作業に入る。
「俺達、これしかやることないよね」
「そうだね」
 短い世間話を経た後は、めっきり言葉が減った。
 それぞれがそれぞれの作業に没頭する時間。それは受験勉強から遠く離れた世界であり、久しぶりに過ごす穏やかな時間だった。人知れず短針が盤上を回り、時刻はもう夕刻に近づきつつある。雲の上は茜色に染まっているのだろうが、生憎と地上は強い時雨の降りしきる異界だった。水溜りが手と手を繋ぐように校庭を覆い、野球部員が消えて人影もなくなり、部室のあるプレハブの窓から漏れる明かりが、明度を下げ始めた外界の水溜りに一筋の光を描いていた。
 ふと横に視線を送ったら、木目も年季に磨耗した棚の横に、オジイを中心に据えて全員が集まった集合写真が、黄色いピンで留められていた。ここにも淳はいなかった。
 料理自体は既に作り終えていた。徐々に手伝う人員も増加していったのにも関わらず、装飾が一番時間を食った。これは黒羽のこだわりでもある。生活感溢れる部室は一時間を過ぎたころには、棚の上部に折り紙の鎖が波のように張られ、壁には星のように多種多様な装飾が施されている。棚の上の壁には、酸性雨についてのレポートを書いた模造紙の裏を使ってデカデカと「クリスマスパーティー」という文字が躍り、窓には粘着する透明のゼリー状シールがトナカイを走らせている。半透明のトナカイとサンタクロースは完璧なまでにデフォルメされていて、それでも窓の外の夜に溶け込み、このメンバーと対比すると女性的なまでの可愛らしさを演出していた。部室の隅には何故か竹に紙製の星をくっつけた、一部を除いて完璧なるクリスマスパーティーの様相を呈していた。
 ラメの入った銀色のとんがり帽子をかぶりながら、佐伯は何気なく違和感を口に出す。
「クリスマスに竹って……ちょっとイメージ違わなくないか?」
「ああそれか。単にモミの木の枝が見つからなくてな。なあ、ダビデ」
「でもそこで竹を持ち出すって発想が変」
 黒羽以外の全員がうなずく。それにも気づかず黒羽は一時期だけにしか通用しない理由を述べ立てた。
「竹なら願いを叶えてくれるだろ? クリスマスと一緒だって」
「いっちゃんどうする? バネが小学生に戻らなければならないみたいだよ」
 樹が腕組みをして深刻そうに「重症なのね」と鼻でため息をつく。
「おいおいおいおい、それはナシだろ!」
「ナシじゃないだろ。七夕とクリスマス間違える奴がどこにいるんだい? なあ、剣太郎?」
「え……あ、うん」
「あ、サエこのヤロ、年下味方につけるなんて汚ぇぞ!」
「どこが汚いんだい? 討論ではより多くの同意見を集めた方の戦略勝ちだろ? なあ亮」
「そういうサエも相当な策士だよね。観月みたいなこと言わないでよ。思い出すじゃないか」
 その瞬間、場の空気に僅かな重りがつけられたように、かすかに全員の視線が床に落ちた。黒羽の拳が人知れず、ぎゅ、と握られ、木更津が帽子のつばで目を隠す。誰も何も口に出さない沈黙が雨音の侵食を許し始める。無慈悲に全てを押し流す時計の秒針は、幸いにも雨にかき消された。
 淳を連れて行ってしまった観月はじめというかつてない策士を、このメンバーは思い出すまいと口にも出さないように今まで努めてきた。観月が六角に来校したのは、部室に飾られた時計にまだひびが入っていなかったころ。淳が転校してから、淳の話題は出しても、観月の名だけは出さないと全員が暗黙の契約を結んでいた。しかし亮は、積極的とも思えるほどに口に出すようにしていた。嫌っている人物の名を敢えて出すことで、全員に、淳のことを思い出させようとしているのかもしれなかった。いや、忘れさせないように、かもしれない。
 時計のガラスにひびが入ったのは、突然転校を決めた淳になにも相談できなかった黒羽が、自分への怒りのあまりに壁を殴りつけた拍子に時計が落ちたからだ。幸い機能には障害は出ず、飛び出た電池を押し戻すだけで秒針は時を刻み始めた。それでも、その瞬間にも淳は、確実に聖ルドルフの門をくぐっていた。
 六角にいる木更津は亮。聖ルドルフ学院に転校したのは淳。
 赤いユニフォームを纏うは亮。白いユニフォームに袖を通すは淳。
 帽子をかぶるは亮。ハチマキを風に踊らせるは淳。
 それは揺るぎない事実であるとともに、亮と淳の区別を、これまでになく明確なものに仕立て上げていた。しかし「区別」というものは定義して初めて存在するものであり、「区別する」ということ自体が暗に両者が似ていることを示唆している。それを指し示すように、六角にいるときは、始めはどっちがどっちでも良かった。誰でも亮を淳と、淳を亮と間違えた。それでも二人は笑っていた。気にするなといって手を振った。それがいつからすれ違い始めたのだろうと、淳を含まない全員が思った。
「どしたの? みんな」
 葵だけが、不思議そうに周りのメンバーを見回す。ああ、と佐伯は思った。葵だけが、淳を連れて行った観月を知らない。それが幸か不幸かは佐伯には推し量れない。
 空気の構成成分が全て二酸化炭素に変わったかのようなやり場の無い沈黙に耐え切れず、葵は黒羽の学ランの裾を握り、
「ね、バネさん、パーティー始めよ?」
 と、わざと明るい声を出した。
「そうだな。ダビデ、クラッカー何処にやったっけか?」
 黒羽は踵を返し、白い半透明のビニール袋を漁り始めた。しかし豪放磊落とも評される黒羽の性格は、淳のことから完全に思考が離れることを恐れていた。自然な感情の動きではありえないほどぎすぎすした明るさで、肉食動物の歯のように袋詰めされたクラッカーのパッケージを剥がし、全員に配る。
 全員に行き渡ったところで、黒羽はケーキの乗せられた机を輪の中心に寄せた。
「メリークリスマス!」
 黒羽の号令に従って、計六本のクラッカーが同時に、小気味の良い音を響かせた。
 


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