もう当初のぎくしゃくした雰囲気は跡形もなく、宴もたけなわといった時刻だった。既に屋外には家々と街灯がともす文明の灯しか光源は残っていない。それさえも雨に霞んでいるのだから、街灯は光源の周囲をぼんやりと照らし出すだけの様相だった。時に車のヘッドライトが学校の周りを通り過ぎることもあったが、それは窓に照り返しを一瞬残して消えるだけの急ぎ足のものだった。雨脚はますます強く、生まれ育った町の景色を親の仇のように叩いている。校庭は泥水をいっぱいに溜めたような表情で物言わず広がっていた。一粒ごとに些末な水飛沫が上がる水溜りの海は、無数に落ち行く雨粒によって波紋を絶やさなかった。それに呼応して、ブラウン管の砂嵐に似た音を立てて、雨は降り続く。止む気配は一切見られず、それどころか降り始めよりもその勢力は強くなっているとさえ感じた。
「……やまないな」
 開け放った窓に両手を突くようにして、佐伯は誰に言うともなく呟いた。
 宴の只中では、黒羽と天根がやりはじめたポーカーに木更津が参戦し、楽しそうだと踏んだ葵が他のメンバーに教わりながら、カードとにらめっこをしていた。しかし葵の無意識的な百面相は、ポーカーフェイスという言葉が生まれた遊戯のさなかにおいては無力どころかその身を追い詰めている。木更津は婀娜めいた微笑を浮かべながら悠然とカードを抜き差ししているところから見て、リードしているのだろう。
 しかし佐伯はその遊びに参加する気力がなかった。参加してもいいのだが、面白そうに見えなかったからだ。とはいえ、それは今に始まったことではなく、誰にも悟られぬまま悶々と雨粒の行き先を眺めていた。無数の波紋を生み出し消えるだけの雫。雨脚の弱まる気配は全くもってない。雨粒が砕け散るだけで屋根の裏も濡れそうな勢いで、雨は雲の下にそびえる全てのものを凍りつかせるように叩いている。
 ため息が白く濁り、水滴の嵐に紛れて消えた。雨には良い思い出がない。小学生の頃の体育祭は校長が雨男だったせいで最後の一年を除く全てが雨で延期になったし、マラソン大会では途中で雨に降られてびしょ濡れになりながらもゴールした。それだけではない気もするが、佐伯はその意識を頭から振り払った。一昨日だって、パソコンの画面が砂嵐になったし、変な雲は出たし、体温計は狂った。
 雨は、嫌いだ。全てを湿らせて腐らせる。濡らして黴を生やす。太陽がどれだけ明るく輝こうとも、雨雲は全てを水で覆ってしまう。だからこそ晴れが好きなのかもしれない。これが雪だったらまだ少しは救いがあった。唱歌にあるように、蛍の光、窓の雪でも夜に文字が読めるくらいには明るくなる。雨は、暗いばかりだ。奪うばかりだ。太陽を。
 ふと時計に視線を移したら、ひびの奥に見える短針が六の直前で止まっている。雨は、夕日も奪うのか。
「どうしたのね、サエ」
 不意に横から覗き込まれて、思わず瞠目した。樹が心配そうな表情で佐伯を見ている。安心させるための笑顔を作り、佐伯は開け放した窓の奥を指した。
「雨、やまないからさ。どうやって帰ろうかな、って思ってたんだ」
「傘、忘れたのね?」
「折り畳み傘だと骨が折れそうな勢いだからさ。でもちゃんとした傘って、なんとなく使うのがもったいなくない?」
「そうは思わないのね。使われないままなんて傘の意味が無いのね。俺はちゃんと使ってあげるのね」
「そっか。いっちゃんらしいかも」
 笑顔でその場を取り繕う。つられてかすかに笑みを浮かべた樹に、佐伯はなぜか罪悪感のようなものを感じた。理由はないのに、佐伯はたまにそう思うときがある。
 そのとき、なにかが割れるガラス染みた音が部室に反響し、同時に佐伯のズボンの裾に湿り気を感じた。足元に視線を向けると、割れて粉々になったコップが水溜りを広げていた。ずっと窓の縁に置いていたものだ。割れちゃったのね、と佐伯は樹の真似をし、二人で目を合わせて噴き出した。
「ごめん、いっちゃん。新聞紙何処にある?」
 すぐ片付けるから。そう話して、佐伯はその場にしゃがみこみ、ガラスの欠片に手を伸ばした。
 部室の明かりが一瞬だけ明滅した。そして、足元から僅かな振動。地獄から響く亡者のうめき声のような音が、ほんのわずかにだけ、雨音に混じった。
 地震かな? 思って呟くまでの、電気をつけて蛍光灯が光るまでの間隙のような時間。
 足元から突き上げるような振動が、大地をぶっ叩いた。地の振動はプレハブを伝って部室に、シェイカーの中にいるかのような錯覚をもたらした。吊り下げられた電灯が振り子運動にもならないような揺れ方で上下にシャッフルされ、影が不規則に暴れ回る。棚が意思あるもののように動き出して中のものを吐く。思わず佐伯は桟に縋ってしゃがみこんだ。樹は頭を抑えてその場に座り込む。黒羽が慌ててドアを押し開けたが、突如それ以上の振動が低い悲鳴をこだまさせた。棚の上から、埃と油にまみれた優勝カップが落石のように降り注ぐ。金属の音が響き渡り、テーブルに乗せられていた白磁の大皿が破片と散る。レンジの上から、もとはペン立てに収められていたカラフルなマーカーが足元を覆うように降り注ぐ。ボールがごろごろと転がり、或いは跳ね回り、逃げ道をふさぐ。「危ない!」と葵の叫ぶ声と全く同時に、頭から鋭利ななにかの破片を雨のように食らった。カッターで切りつけられたかのような痛みがうなじに降りかかった。首筋に熱い線が伝う。そこに指を触れさせると、ズキリとした感覚とともにぬるりとした血液の生ぬるさが肌に絡みついた。それがガラスの破片だということに、佐伯はコンマ数秒の間気がつかなかった。
 次の瞬間、先刻樹が鍋のふたを葵の頭に、骨ばった皮膚にぶつけたような音が――実際はそれよりももっと凄絶な――金属音が響いた。半狂乱になって「ダビデ!」と葵が叫ぶ。その音の生まれた場所に視線を送ることもできないまま、佐伯は自分の首から流れる血液の赤に、ぞわりとしていた。肌という肌の毛細血管が一気に収縮した。冬ということさえ圧倒する冷涼感が背中から頭までを刹那にして這い上がる。歯の奥ががちがちとかち合う。自分の足元が突如として信用できないものとなり、ここがいつ崩れてもおかしくない砂上の楼閣だと今更気づかされた。もし地震が起こったらプレハブから飛び出ろよ、という教師の忠告が脳裏によぎる。そんなものできるわけがなかった。安定したものの上でなければ、歩くことも走ることも叶わない。それに今は、立つことさえままならない。もしかしたらこのままプレハブと運命をともにするのではないかと錯覚するほどの状態だ。その錯覚は、時々聞こえるかすかな軋みの音が現実にもっとも近いことを証明していた。
 佐伯は這いつくばりながら壁伝いにそろそろと移動する。膝小僧でガラスが踏み砕かれる。布の生地を突き破って膝の皮に破片が突き刺さる。黒羽が「亮逃げろ!」と叫び、腕を握り損ねて服を掴み、棚の前から引っぱり出した。木更津が帽子を押さえて倒れこむ。木更津がいた場所に、棚に押し込まれていたジャージやボールが降り注ぎ、その直後、棚を構成する木材が九十度傾いて床にぶちあたる。突如明かりが消え、がちゃんと質量のあるものが、薄いガラスの割れるような音を残しつつ机に落下する。その反動で床に転がったものは今の今まで光源の役割を果たしていた電灯だ。机の下でぼんやりと見えた葵の肌が、青を通り越して真っ白になっていた。落ちたものは振動で絶えず移動を続けながらも、折れた蛍光灯の残骸を散らし、機能を死なせていた。
 永遠にも思えた揺れが鎮まった頃には、全てが暗闇に閉ざされていた。夜目の利かない闇の中でも、床に転がる惨状は目を凝らさずとも見える。
 あらゆる光がなくなったことで、冬が冬として滲出するようになった。佐伯が、そろそろと立ち上がる。靴の裏で、じゃり、とガラスが鳴った。開けっ放しの窓の外には、ただ一つの光さえ見つけられない、暗黒がひたすら広がっていた。雨音だけが唯一の音源となる、静謐の世界。雨は火の手を防ぎ、住宅街をひたすら無音に浸していた。徐々にだが闇に目が慣れてくる。よく周囲を眺めれば、住宅街の屋根が全体的に沈降しているようにも見えた。時々、パチッという音とともに、傾いだ電線から火花が散る。
 あれほどうるさかった犬も一言の吠え声も残さない。悲鳴さえ聞こえない。静寂が、町に澱のごとく沈殿していた。誰も、何も言わなかった。永久に続くかと錯覚させるほどの無音が、窓の外からタールのように流れだし、その空間をねっとりと包み込んでいった。誰も微動だにしない。空気すらも動かないかのような、永遠の静けさ。
「サエさん、携帯借りるね!」
 停滞しきった世界で、世界の秩序を崩すようにたった一人の小柄な影だけが真っ先に動いた。小学生染みた黄色いレインコートをマントのように羽織って、佐伯のズボンに遠慮なく手を突っ込んで携帯電話を抜き出す。そしてドアに体当たりをして、丸坊主が部室から飛び出た。黒羽が「バカ、剣太郎戻ってこい!」と叫ぶが、「海見に行く!」とだけ残して螺旋階段を叩く靴底の音が次第に遠ざかっていく。
 黒羽は前髪に指を埋めて「あの野郎」と呆れ半分心配半分で呟いた。
「余震くるかもしれねぇんだぞ……走っていってどうすんだあのバカ!」
 今にも走り出しそうな黒羽を引きとめたのは、天根のうめき声だった。振り返った黒羽の顔が見る見るうちに血色をなくし、慌てて天根に駆け寄った。天根の怪我自体は佐伯からはよく見えないが、すぐそばに血だらけの優勝カップが転がっている。テンガロンハットに入るほど水をためられそうな巨大な優勝カップが、落下した拍子に天根の頭皮を切り裂いたのだ。黒羽は「待ってろよ」と呟くように繰り返しながら、救急箱を漁り始めた。その間にも血液は、光量が足りないせいで頬に伝い床に黒く跡を穿つ。
 佐伯は窓から離れると、髪に残ったガラス片を手探りで取り除き始めた。繊維の隙間に、触れるとかすかな痛みを覚える固形物を、抜き出しては捨てる。その度に、ちゃり、とガラス片の触れ合う音がする。
 樹が、ガラス片を頭からかぶった佐伯に「怪我とかないのね?」と心配そうな声音で尋ねた。この薄暗さでは表情さえ見受けられない。ダビデの方が重傷だからと返したが、指に絡んだ血が見えてしまったらしい。樹は「サエも同じなのね。絆創膏持ってくるのね」と残して、倒れた棚の横に放り出されていた紅白の救急箱の中身を漁り始めた。
 木更津は部室の外に目を凝らすのと、携帯をいじるのとを交互に行っていた。真っ暗な部室の中で携帯電話と、液晶が照らす木更津の顔面だけがいやに明るい。そして三回目に携帯を覗き込んだとき、木更津は携帯を耳に当てて沈黙した。数秒の沈黙。そして「出ない……」と呟いて唇を噛んだ。
「多分回線が混乱しているんだ。亮、もうちょっと待ってから電話をした方がいい」
「分かってるよ……でもどれくらい待てっていうんだ」
 舌打ちでもしそうだ。木更津は再度、携帯を操作して、顔の横に当てる。
 数秒。永遠とも呼ぶ。
『亮さん!』
 静けさを割るように、1オクターブ高い葵の声が携帯電話から漏れ出した。半分怒鳴るような口調で木更津が返す。
「剣太郎。今何処にいるんだ」
『防波堤。それよりも危ないよ! 海が引いてるんだ、逃げないと!』
「海が!?」
 黒羽が消毒液のボトルを手にしたまま振り向いた。ちっと舌打ちをすると、天根の額にガーゼを当てて紙テープで乱雑に留めつつ指示した。
「剣太郎に、今すぐ戻ってこいって伝えろ!」
「分かってる。……剣太郎、今すぐ海から遠ざかるんだ。早く戻ってきて」
『うん、すぐ行く』
 電話の切れる小さな音の次の瞬間、黒羽が立ち上がった。
「出るぞ」
 血で目が開けられない天根の目を、黒羽が学ランの袖で拭う。天根は肩を抱きかかえられてやっと立つが、すぐに手を額に当てた。指の隙間から苦痛に歪ませている表情を覗き見る。皮を切り裂いたのではなく、モロに頭部にぶつかったらしい。あのカップは軽く一キログラムはある。打撲と切り傷で済んだのが不幸中の幸いと呼べるかもしれない。
 黒羽が出口のドアに手をかけながら怒鳴りつけた。
「サエ、もたもたしてねぇでさっさと走れ!」
「分かってるって!」
 佐伯は倒れた棚の横にピンで留められたままの集合写真をひったくると、折り曲げもせずにポケットに突っ込んだ。しんがりで部室から飛び出す。螺旋階段を目の回る勢いで駆け下り、泥の地面に靴を下ろした。水溜りを踏む音と共に靴下に水滴が跳ねた。雹と見紛うばかりの雨が容赦なく顔を打った。五秒もしない内に濡れ鼠になる。
 この付近で一番近い山は、一キロメートルほど北にある睦角山だ。町の指定避難所として機能している山の一つで、地震があった場合はそこに逃げることになっている。年に二回、学校主催の避難訓練でその旨は何度も呼びかけられていた。睦角山は雨と夜闇のカーテンに覆われ、姿もおぼろげにしか見えなかった。そこに走れば今からなら、間に合うかもしれない。
 しかし黒羽の脚は全く違う方向に向いていた。あろうことか、海の方角へ向かっているではないか。
 佐伯は樹を追い抜かし、黒羽の肩を掴んだ。
「何処に行くんだよバネ!」
 黒羽は半分以上怒鳴りつけるような口調で、佐伯に返事を投げつけた。
「剣太郎迎えに行くに決まってんだろ! 手ぇ離せよ」
「今からなら間に合う。睦角山に逃げよう」
 黒羽の目が、驚愕に見開かれる。
「バカ言ってんじゃねえよ! 今から行って間に合うと思ってんのか!?」
「でもそこが指定避難所だ、確実に安全は確保できる」
「剣太郎置いてけってのか!?」
「そうじゃない! どちらにせよ剣太郎の脚なら俺達に追いつける。だから山に逃げようって言ってるんだ」
「潮が引いてんだ。そんな遠くに逃げられるもんかよ! ダビデだってあんまり激しい運動したら傷口が開く。一番近ぇのは校舎なんだ、そこに逃げるしかねえ」
「ッ……バネ、」
「もういい。みんな、校舎に走れ!」
 黒羽の号令に沿って、樹も天根も木更津も、うなずく前に校舎へ向けて駆け出した。
 しかし黒羽は、全く逆方向の黄色いレインコートに向かって、脚の筋肉をフル稼働させていた。派手な水飛沫を撒き散らして、葵のもとへ走り出す。佐伯も為すべき事に迷い、結局黒羽の後を追った。身体の前面を氷雨が、凍らせるかのように激しく叩く。額に張り付いた髪を掻き分け、ひたすら水飛沫を跳ね上げる。学ランの布地が肌に張り付く。服と生地の摩擦が大きくなり、脚を出すスピードが鈍る。着衣水泳をしているかのようだ。それは黒羽も同じだろう。
 黄色いレインコートの姿が一瞬で小さくなった。黒羽が叫ぶ。それと全く同じタイミングで、佐伯は今世界一見たくないものを――防波堤を乗り越える巨大な波飛沫を――六角一優れすぎた眼球でしかと見た。水が波ではなく塊としてコンクリートにぶつかる音が一歩遅れて鼓膜に轟かせた。
 葵は地に這ったまま腕だけで進み、足を引きずっていた。
「バネ! 急げ!」
 黒羽は葵の小柄な身体を、まるで外套を羽織るかのごとき軽やかさで背に負うと、そのまま校舎に向かって全力疾走した。佐伯も順ずる。踏んだ水溜りが学ランを汚す。飛沫はそのまま碇となり、スニーカーの内部まで滲みこんだ泥水が楔に変ずる。
 なるほど、悪い子に与える、サンタクロースの特大プレゼントってわけか。佐伯は一人自嘲に頬を歪ませる。しかしその目も長くは開けていられない。顔に降りしきる雨を袖で拭うも、袖の布地さえ水を吸っている。全身がずぶ濡れであり、布が皮膚にべったりと、でんぷんのりのようにくっついている。氷雨が体表面の熱を奪い、心臓の何処かでスリルを待ちわびる気持ちが身体の芯に熱を供給する。
 その瞬間だけ、どうしてか『死の危険』がとても魅力的に思え、それだけでなくこの海の御許に呑まれることに安心するという、逃げおおせようとする足の動きとは無関係な情動が、身体を乗っ取り始めた。それは激痛に喜びを感ずる気持ちとは無縁であり、その場においてだけ『死』を求めるといういささか奇妙とも思える情動だった。出来るならば今反対方向に逃げ出して、押し寄せる海に大の字になって呑み込まれたいという、根拠もない感情の嵐だった。諦めとも呼ぼうか。目前に迫る海の中を見たいとでもいうものだろうか。いや、それのどれでもない。あるものは『海に呑まれたい』ただそれだけの、津波のように激しい感情のうねりだった。表面だけは、嵐の前のように凪いでいたのにも関わらず。
 世界が霞に包まれる。代わりにはっきりと現れたのは、ほとんど忘れかけていた記憶だった。ガラス越しの雨音が聞こえる日にした、転校して初の自己紹介。見知らぬ顔ばかりで、その全てが好奇の視線で自分を見る。憐れみの視線で自分を見る。雨が止んだ放課後、佐伯を除く全員が海へ出た孤独。自分も一緒に海に行って皆と一緒に遊ぶ、今までにない芸当。海に飛び込めば皆と同じでいられるのではないかという望みを打ち砕いた閉鎖的社会。そうだ、海に飛び込めばみんな友達として見てくれる……
 背後へ流れてゆく景色が速度を減らし、ずんと重たい疲労が脚にかかった。身体の前面でなく頭に、肩に、降り注ぐ冷気として濡らした。やがて、止まる。上空を眺めても、降りしきる雨が、天を眺めることを許さなかった。足元の水位が、雨によるものではない速やかさで上昇した。くるぶしが水に浸かる。
「諦めんな、走れサエ!」
 その一言で、精神のもやが急激に晴れた。雨の冷たさが肌に沁み、足は重い。凍みる息が網膜の前をぼやけさせていたが、意識だけはこれまでになく明瞭だった。手を掴まれた。引っ張られる。バランスを崩しかけて、足が勝手に前に出る。そのまま走り出す。ばしゃばしゃと派手な水飛沫を立てて、歩くのも初めてのロボット人形に走り方を教えるような不器用な走り方だった。
 足が重い。しかし走れる。重さは、精神的な重さではなく、物質的な重さだということに気づいた。くるぶしまであった水はもはやふくらはぎの半分まで上がり、まだ水位を上昇させている。津波の第一波だ。そして次の波が大きいことも、瞬間的に察する。
 背後で、間近で、海がうねった。黒羽に手を引っ張られたままの佐伯は、目の前に昇降口があることを思い出し、そこへ全力で疾走した。波が佐伯を追う。呑まれたら、死。先刻の恍惚とは全く違う精神状態が、走ることを強要した。体当たりするように鉄線入りガラスのドアを押し開け、飛び込んだ。海の塊が音を立てて扉を粉々に砕け散らせ、破片が流れに混じる。黒羽を追い、階段を駆け上った。一段飛ばしで駆け上がる。その足元に海の進出が重なりかける。踊り場で何度折り曲がっても波が上昇してくる。
 心臓が悲鳴を上げた。一つ一つの拍動にさえ痛みが襲う。全身が酸素を要求する。足りなかった分、筋肉が乳酸に砕かれる。手すりを使って半回転して走り続ける。鬼ごっこ、或いはいたちごっこのように波に追われ続ける。
 それが何度も何時間も永遠に続くような錯覚が終わった後、黒羽が荒い息を隠さずにぐったりと床にへたりこんだ。天井を見上げて、息を切らせている。葵が左足から立ち上がるが、右足を宙に浮かせている。佐伯も手すりを掴んだまま、背を曲げて膝を掴んだ。呼吸が自分の意思だけでは制御できなかった。足元には3の文字が、内観を崩さない程度に大きく印字されていた。
「サエ! バネ! 剣太郎!」
 振り返るのも億劫だったが、辛うじて声の方向に顔を向ける。駆けてきた樹が、「大変なのね」と続けて、夜闇の中で真っ青な色を浮かべていた。
 樹に誘導されて、窓の外を眺める。
 たった一つの明かりがない町が、そこにあった。身を潜めるかのように、町には一切の音がない。ただ激しく降りしきる氷雨の唄声だけが、延々と世界を凍らせていた。その雨の落ちる先は、屋根ではない。家屋さえ破壊しつくした海の群れが、小さな住宅街一つを、冬の海に沈めていた。


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