とにかく、何かをせずにはいられなかった。創傷部から絶えず血液が滲み出す天根の怪我は無視できるような軽さではなかったし、雨に打たれたこともあって非常に寒いと訴えていた。葵は走ってくる途中に泥に足をすくわれたという。葵の捻挫は歩行が困難になるほど痛みが強いらしく、すぐに処置を必要とさせた。
 今持ってこなくてはならないのは湿布か包帯、そして消毒液。佐伯の切り傷も軽いものではあったが、樹が珍しく強硬に手当てを主張し、結果保健室から何かしらの医療道具を持ってこなければならなくなった。
 待機室である一年A組の蛍光灯のスイッチを押したが、ぱちぱちと虚しく音だけが雨に融けた。トイレも確認したが、泥水が噴出してタイルを水の下に沈めたので諦めざるを得なかった。水道管が外れたのかもしれない。どうしても、という人はB組のゴミ箱の中に用を足すようにというのが黒羽の指示だった。
 津波も引き波がまだ来ず、一階は天井まで完全に水没し、二階の膝あたりまで水に浸かっているという状況だ。葵と天根を三階の教室に待機させ、木更津に二人のお守りを務めさせた。佐伯と黒羽に、主張した本人である樹が加わった二手に分かれた。この采配は黒羽によるものだが、実質は携帯電話の有無によって半ば決められたようなものだった。六角では携帯電話を持っているのは佐伯と木更津の二人しかおらず、後は家の電話に頼りきりの状態だった。佐伯の携帯電話は葵によって雨の下に持ち込まれたのにも関わらず無事に機能を果たし、木更津の携帯もまた連絡用として使われるようにもなった。佐伯のグループは兎にも角にも救急箱を探しに、二階にある保健室へ下りることになった。
 ガラス片が落ちているかもしれないので靴のまま水の中に足を突っ込む。ざっくざっくと雨の日の長靴のような音がする。これでも少しは波が引いたようで、ふくらはぎの半分より下まで水位が下降してきている。潮の匂いが鼻を突き、くらくらしそうだ。磯の匂いではなく、どちらかと言えば生魚の匂いだろう。湿気が髪の重量をかさませ、その匂いが毛髪に染みこんだらと思うと少し不快なものがあった。無意識に佐伯は髪に手櫛を入れる。
「ひでえな、こりゃ」
 黒羽の呟きは、佐伯も思っていたことであった。泥に濁った水を掻き分け、黒羽は肩を怒らせたようにして(或いは気概を表しているかのように)ずんずんと進んでいく。その先を照らすように、佐伯は携帯電話のカメラに搭載されたフラッシュをたいていた。樹がそれに続く。ばしゃばしゃと、無言のまま三人は床板の見えない廊下を進んだ。照らされた水面が不均等に透けて見える。波は不規則な円を描いて、壁に突き当たって反射する。
 まず二階の職員室に行き、そこで体育教師の使っていたものと思われる鳴子笛を、教室に待機させている葵に渡した。校舎の三階からは海が見える。潮が引いていたら鳴らすようにと指示した。津波は何度もやってくるという事実は、学校の避難訓練で耳にたこができるほど言い聞かされていた。それにもし知らずに一階に下りていたら、みすみす津波の餌食となる。それを避けるがための佐伯の指示だった。
 次に、ありとあらゆるロッカーを探し、濡れていないブランケットやセーター類を何枚も調達した。大抵が女物でディズニーやジブリのキャラクターがプリントされた色鮮やかなものだったが、それは我慢してもらう他ない。待機している三人に防寒具を渡したが、特に寒がっている天根は学校指定のセーターを四枚使って雪だるまのように着込んでいたがそれでもまだ寒いと言われた。それも仕方がないことだったので、天根には我慢させて、佐伯達は保健室に向かった。保健室は二階にあり、水はまだ膝丈ほどあった。
 保健室と何の変哲もない明朝体で印字された真っ白なプレートに携帯の照明が反射した。手振れによって字が読みづらくなるが、扉の横の柱にかけられた「火気管理者名:椎名佳織」と養護教諭の名前が赤く印字されている。
「入るぞ」
 スライドドアの金属製のもち手に黒羽が手をかける。すんなり開いた、というのは錯覚で、半分ほど開きかけたところでなにかに遮られた。黒羽が二回、三回と力を込めて横に引くが、三十センチほど開いたところで止まった。それ以降は、なにかに邪魔されているのか、なかなか開かない。
「サエ、中見てこい」
「オッケー」
 細い隙間から身体をすり抜けさせる。簡単だと思ったが、今の自分の身体では少しきつい。子供の時ならば呼吸をするように出入りできたろう。成長した今では少々無理をして押し込まねばならない。息を吐いて、慎重に頭を押しいれ、足を、胴を入れていく。携帯電話は後だ。そしてやっと狭い隙間をすり抜ける。携帯電話のフラッシュをさほど大きくもない部屋に向けてぐるりと回した。部室と大なり小なり異なってはいるが、ここも地震と津波の洗礼を受けたらしい。室内のほとんどのものは津波に流されて、廊下方面の壁に折り重なって倒れている。すっかりと荒んだ廃墟を髣髴とさせる家具の角から落ちる雫が、明かりと交差するごとに一瞬だけ光り、水面に新たな輪を広げた。間隔を置いて響く水滴の音が、いやに不安をあおる。
 ガラスの棚は倒れて水の中に浸かりながらも骨だけを腐った死骸のように晒して、中身を床に吐いていた。記憶に頼るが、その棚は薬のビンや注射器のシリンダなどが収められていた。消毒液なり包帯なりがあればいい。佐伯は尻が水面につかない程度にしゃがみこんで、右手で光源を掲げながら、左手で足元の水を掬った。水の色が、土が混じっているにしては少々濁りすぎのようにも思えたが、それは歩く際に自分が水をかき混ぜたからだろう。一つや二つじゃない、つるつるした円筒の感触。ガラス特有の冷たい感触だった。すべり落とさないようにしっかりと掴んで、明かりを瓶に当てた。かなり日に焼け、インクも滲んではいたが、英字でオキシドールと印字されている。
「なんかあったか?」
 黒羽がドアの奥から急かすように言った。佐伯は茶色い瓶を左手に持ちながら、「消毒液があったよ」と言いかけ、
 途中で息を呑んだ。いや、それどころではなかった。意識とは正反対に口腔から悲鳴が溢れ出た一瞬を過ぎたら、派手に水を蹴散らして後ろにすさり、勢い余って水を吸ったマットレスに倒れこんだ。明かりを持つ手が震えた。影が意思あるもののように蠢いた。よく見えないということが、焦点を合わせようとすると背筋に氷の蛇のようなおぞましい感覚を這い上がらせた。「なにがあった!」と黒羽がドアを激しく叩く。振動するドアは、佐伯が悲鳴を上げざるをえないものを床に横倒しにして飛沫を跳ね上げた。樹の手が隙間から出て、その瞬間佐伯は弾かれたように叫んだ。
「いっちゃん、来ちゃ駄目だ!」
 と言ったものの、本音はこんな場所から飛び出して逃げたい。見たくない。一緒にいたくない。そしてそれと同じくらい、樹には見せてはいけないと、凍える理性が必死に主張していた。歯の奥が音を立てた。携帯電話を握る指の関節が白く変色する。それほどの地獄。
 正視に堪えられる人がいたら、それはアステカの処刑人か人食い人種に違いない……そう思わせるのに充分な惨劇が、その場に倒れていた。
 土色に汚濁した水が、それだけじゃない色を混じらせていた。最初に気づけばよかった。それでも最初に気づいたらこんな悪夢のなかには足を踏み入れなかっただろう。それでも最初に気づかずに、"こんなもの"と同じ部屋で同じ空気を共有していたのだなんて。いや、空気を共有なんてしない。できるわけがない。何故ならそれには、
 内臓がなかったからだ。
 鎖骨まで捲り上げられた赤い洋服は、元はニュージーランドあたりでゆったりと過ごしていた羊から剃り落とされた毛糸で編まれたセーターだったのだろう。白くむらが残る真っ赤なセーターだ。ししむらの横にあられもなく広がった白衣もまた、朱染めに変わっている。それを染めているものがなにかと考えることすら脳髄が拒否する。足元の水さえ、土の色に紅を混ぜているのにも関わらず。
 どんなヨガの達人でもここまで腹をへこませることはできまい。いや、ほとんどの肉が削がれ、頭蓋骨と肋骨、そして骨盤のへこみにへばりついた肉が、辛うじてそれが元"人間"だということを照明していた。肋骨の裏側にある赤黒いザクロのような肉を、震えるライトが照らす。理科準備室の骨格模型と全く同じ脊椎がある。違うのは、それにまだ血抜きもしていない生肉がへばりついていることだけだ。肌はずるむけに剥がされ、眼球がくるくる回っていたはずの眼窩には肉色の穴が開いていた。中途半端に垣間見える白い固形物が、傷の深さを顕著にしている。表面は肌色とは縁遠く、喩えるなら骨格模型に粘土の要領でミンチをくっつけて途中で飽きたから血をぶちまけたような、悪趣味極まりないオブジェだった。
 それがもう生きていないただの"肉塊"だと気づいた瞬間、潮風に混じっていた他の匂いが、磯染みた腐臭だと気がついた。鉄錆の香る猛烈なまでの腐敗臭で、胃の腑が握り潰されるような吐き気が喉に突き上がった。目を逸らしてもまぶたに焼き付けられたししむらは消えることがない。強く目を瞑ると感覚に強く作用した。鼻がばかになりそうなほどの異臭。誘発される嘔吐感。
 これが人の手で為されたものであれば、どう楽観的に考えても猟奇殺人に違いなかった。
 手の中の明かりが、ふっと消えた。
「うぁぅ……」
 水を吸ったマットレスの上で口を押さえた。黒羽は板一枚を挟んだ先になにがあるのかも知らないまま、ドアが壊れそうなほど叩く。死体と呼ぶのにもはばかられるような、人間の尊厳とは天地ほど離れた肉の塊が、ドアの振動に合わせてずれ、水の中に顔の半面がぼしゃりと沈んだ。空ろと呼ぶにも無表情にもどうとでも取れる目が、ぼんやりと佐伯を見つめていた。ゆっくりと下降していく水位が、空ろな眼窩から塩辛い水を流させた。
「うっ……」
 そのとき、金属のレールからキャスターが外れて、肉塊を支点にしてドアの天井部分が倒れて、水飛沫が上がった。
「サエ、大丈夫か、なにがあった」
 ドアを容赦なく踏みつけてようやく室内に入れた黒羽は、佐伯の左肩を掴み、力強く尋ねた。それに応えようと、佐伯は吐き気を噛み殺した。
「死んでる」
「なにがだ。話せ」
「今、ドアの下にあるやつ」
 言葉をひとつふたつ交わして、ようやく平静さが息を吹き返す。佐伯は額に滲んだ脂汗を学ランの袖で拭い、呟くように言った。
「椎名先生だ。養護の」
 あれがそうだと、確たる証拠はない。なにしろ性別さえわからないほど荒らされていたのだ。目も鼻もなく、髪も皮膚ごと剥がされ、胸があったかどうかも定かではない。しかし血染めの白衣と、ここが保健室であるという状況証拠を合わせれば、養護教諭だということは容易に想像がついた。
 黒羽は一度ドアの下からはみでている骨の浮いた腕を一瞥し、舌打ちをして視線を背けた。樹の嚥下の音が聞こえたが、意外にもすぐに合掌して南無阿弥陀仏と唱え始めた。南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も知らないが、なんでもいいから念仏を唱えることが死者に対して一番失礼のない行動なのだと思いあたった。
「とにかく出るぞ」
 黒羽の助けは拒んだが、佐伯はまだ少し立ちくらみを覚えていた。結局樹が佐伯の肩を抱いて、兎にも角にも進むことになった。携帯の操作が分かる佐伯がいなければ連絡もつかないし、黒羽に教えてもすぐ忘れるに違いないか、叩いて直ると信じて壊すといった事例も想定できる。現在回線が混乱しているのか電話もメールも用をなさないが、後々必要になるだろう。先に壊されたらまわらない。
 保健室にいる間にかなり水が引いたのか、一階でさえ膝小僧の高さまで水位が下降していた。もうすぐ大きめの津波の第二波が来るだろう。しじまに耳を傾けておかねばならない。
 その束の間の沈黙に融けるように、黒羽が再度確認するために問うた。
「椎名先生だったんだよな、あれ」
「ああ……多分そうだ」
 暗闇に目を凝らすと、あれと同じものが見えそうで、佐伯は出来るだけ明るい場所を選んで視線を移す。
 黒羽は前を凝然と見つめながら、今後の策を口にした。
「決まりだな。あんな殺され方をされてちゃこっちも危険だ。なにかしら武器があった方がいい」
 黒羽が冷静に推察する。今までこのような目に遭ったことはないが、黒羽はいつも、感情的に見えて一番冷静な判断を下していた。それに佐伯のグループは大人しく従っていた。黒羽の判断はいつでも、最終的に正しかったのだ。いつだったか、まだ泳げなかった葵が離岸流に呑まれて沖に流されたことがあった。そのとき、佐伯は急いで助けに行こうと泳ぎに向かったが、黒羽はライフセーバーを呼んで救助の手助けを待った。佐伯はなぜすぐに泳いで助けに向かわなかったのかと刃向かったが、小学校低学年レベルの算数をすれば簡単だった。無理に助けに行って二人仲良く海に沈むより、訓練を受けた人物に頼んだ方がより確実に助けることができるからだ。黒羽はただの一度も理由を説明したことはなかったが、全員が掛け値ない信頼をしていた。
 黒羽はそれを、一度も裏切ったことはない。
 歩みを止めないままに階段下へ。一階には、ホールや音楽室、家庭科室などがある。いちいち歩きづらい潮水をばしゃばしゃと跳ねながら、黒羽を先頭に進んでいく。携帯電話しか光源がないのも存外に厄介だ。水に浸された職員室ではいくつか懐中電灯を見つけられたものの、どれもが電池切れか、濡れて使い物にならなかった。
 全くの無言で歩き続ける黒羽に、樹は心配げに尋ねた。
「バネ、どこ行くのね」
「家庭科室」
 一言で斬って捨てられ、樹はそのまま口をつぐんだ。
 階段を爪先で探りながら下り、一つ目の角を曲がったあたりには、佐伯の立ちくらみも随分とよくなっていた。樹の介添えも必要なくなった。朝会で倒れる女の子の気持ちが分かるような気がして、これからは自分も優しく接してあげようと誓った。
 家庭科室のスライドドアのガラスは内側から破裂したように断面を晒していた。教室は押し並べて海側に面しているため、津波の勢いで割れたとも考えられたが、どちらかというと先の地震で割れたのだと言われた方に説得力があった。鍵がかけられていないため、黒羽は靴底で水とガラスを踏みながら、扉を横に滑らせた。
 黒羽の肩越しに、室内を見遣る。携帯電話の拙い明かりでは部屋の隅々まで照らし出すには力がなく、遠くなるにつれて闇に融けていった。九つあるテーブルは、携帯電話の光を遮った場所に影を蠢かせていた。割れた窓がちらちらと光っている。水に浸かった足は震えも忘れるほど冷え、血が通っていないかのようだった。しかし「血が通っていない」と称するのにはやや気分が悪い。
 ガラスの隙間から、窓外の雨音が侵入して静謐と同化する。耳鳴りがしない静寂。黒羽の嚥下も、横にいてよく聞こえる。
 黒羽は携帯電話をかざし、照らし忘れを防ぐようにして教室前方のホワイトボードに向かった。正確にはその隣の棚である。棚のガラスは×字状に割れていたが、幸いにも中の金属ボウルや皿は水を溜めているだけで落ちてはいなかった。津波の方向に対して、水平に据えられた棚の向きが良かったのだろう。
 黒羽はなにも言わず、一番下の引き出しを開けると、中から金属色の刃を三本取り出した。包丁である。それを樹に二本差し出し、樹は佐伯と一瞬戸惑ったような視線を交わした。黒羽の「持ってろ」という言葉でやっと柄を掴み、佐伯に片方を渡した。
 銀色の、不透明の刃だった。鋭利な光を跳ね返すのは刃先だけで、大部分の金属部分は錆防止のためか銀色の面が白く濁っている。穴は開いておらず、キュウリを切るときはくっついてさぞ大変だろうと想像させる。調理実習で肉や野菜をぶつ切りにしたりみじん切りにしたり乱切りにしているものだ。指でなぞると、表皮が僅かに白くめくれた。
「バネ、今は料理できる状態じゃないのね」
「今料理しろとは言ってねぇだろ。これで身ィ守れ」
「でも」
「いいから。椎名先生みたいになりたいのか」
 その一言で、樹はしぶしぶ持つことを決めた。ポケットに入れることも難しいから手に持つことになる。
「とにかく戻るぞ」
 その瞬間、聞こえるかどうかというほどの水の音が、黒羽の語尾に重なって消えた。その音にかすかに、鯉が水から跳ね上がるような音がして振り向くが、廊下にはなにもいない。「サエ、行くぞ」という号令に押し流されて、佐伯は律儀に家庭科室のドアを閉じる。


 オジイを見つけたのは、本当に偶然と呼んでもいい。
 一年C組、海が一番よく見える窓際に座る小柄な影を見つけた時は心臓が破裂するかと思ったが、その人物が発した「いたの?」という枯れた声は、雨音の静寂にもよく響いた。木更津は、オジイを一人にしておくわけにもいかないので、三階の探索を途中で諦めてオジイをA組に連れて行った。
「オジイ、一人でどこにいたの? 心配したんだよ、僕たち」
 と葵がむっつりと頬を膨らませる。
「海を……な。見ていてのう」
 いつ死ぬか分からないほど掠れた声でオジイは返す。
「災害が……来たのじゃ。ついにの」
「ついに? ついにってなに? オジイは前から分かってたの!?」
 沈黙で返されて、葵はそっぽを向いてむくれた。
 天根は先刻からずっと、床に寝てモルモットのように丸くなって震えている。時々、歯の根がかち合う音が聞こえる。木更津ももっと防寒具を探そうと思ったが、もう捜索隊の三人によってあらかた探しつくされてしまった。天根はずっと寒気を訴えて、いつもならときおり口に出すはずの駄洒落さえ言わない。こう完全に沈黙されると、駄洒落で寒くはならない代わりに、対策を練る会議さえできなかった。まさか天根をのけ者にはできない。
 捻挫の手当てもしていないのにも関わらず、葵は立ち上がった。苦痛に顔を歪めるが、それは一瞬だけである。右足を引きずりながらもオジイの座る椅子の前にきて、両肩をがしりと掴んだ。
「ねぇオジイ。前から分かっていたって、どういうこと?」
「ん……教えても、防ぎきれないなら……話せない。話しても、意味はない」
「意味なんてなくてもいいよ!」
 葵は弾かれるように叫んだ
「オジイは今まで俺たちに、テニスと料理以外のことは教えてくれなかったよね。それが当たり前だったから。でもね、僕たちは、オジイの年齢も、出身地も、本名さえも知らない。たまに昔話をしてくれるだけだった」
 葵は、オジイの目を真正面から見据えている。皺が寄り、瞳孔が見えないほどに痩せ衰えた眼輪筋である。その奥から覗くのは、視線か、否か。
「教えてよ。また来る地震や津波で、誰かが怪我をするかもしれない。下手すれば死ぬかもしれない。僕はそれが嫌だ。オジイがなにかを知っているのなら、それはなんでもいい、教えてもらわないと。対策を練られなくても」
 オジイの肩を掴む両手に力が入りすぎて震えた。
 沈黙に、秒針の音だけが無為に流れた。かち、かち、と秒針が無慈悲に世界を押し流していく。木更津はなにも言えず、ただオジイが口にするかどうかも分からない言葉を待ちわびた。それでも、オジイは「ん……」と喋る前にする微妙な音を発して、顔ごと視線を斜めに逸らした。
「教えてよ……」
 顔をうつむきに、葵はオジイの肩に身体を預けるようにして呟いた。その声は、今にも涙を流しそうなほどに震えていた。
 無音が続いていた。雨脚が強く、窓を絶えず叩く。旋律のようにも聞こえる雨の歌は、此の岸と彼の岸とを繋ぐ哀歌のように、無情にも流れた。
「好奇心では、あるまいな?」
「え?」
 オジイはやおら葵の両肩に枯れ木のような指をかけ、亀のような速度でゆっくりと尋ねかけた。その瞳は、今までに見たことがないほど強い芯を感じさせた。横で見ていただけなのにも関わらず思わず、木更津はその意思の強さに後ろにすさった。しかし葵はたじろぐことはなかった。対抗する目の力でもって、オジイの視線を受け入れた。
「本当のことを知るのならば、それ相応の覚悟が必要じゃ。儂の話を聴いて、それをただの昔語りにするのならばそれでもよかろう。信じられることを前提に昔話などすまい。しかし今回ばかりは、信じられぬ話を信じてもらう必要がある……心の傷と呼んでも構わぬ話を聴くのであれば、儂の物語を受け入れてもらう他はないのじゃ。それでも良いか」
「当たり前だよ! 僕は、オジイの話を信じる。だから教えて。災害って……なに?」
 一息だけ海の香る匂いを吸い、オジイは言葉を口にした。

「……今から、四百年ほど昔の話じゃ」
 


TOP > 小説目録 > ギャングエイジTOP > 次へ