あるところに村があった。村と言っても、山と山に囲まれて海に面した、小さな村だった。そこに住む人間も百人ほどと少なく、江戸時代が始まったばかりでもお役人の目が届かない僻地にある集落だった。そこに住む人々は農耕と漁業で生計を立てていた。やませは吹くが、海の幸だけは豊富にあり、もし大規模な飢饉が起きても魚を食べれば生活できた。人々は互いに助け合って生活をしていた。
 その集落に儂はいた。
 儂は幾許かの畑を持ち、米と野菜を作り、それを売り、そのお金で魚を買い、普通に暮らしを営んでおった。
 そんな生活が、母の腹から出て三十年も続いた頃、魚が大量に獲れたという知らせがあった。ちょうどその日は秋の豊作祭の時期で、その魚が村人に振舞われた。豊かとは言えない生活の中で、ここまで多くの魚が獲られたのは生まれて初めてだった。ひもじい思いを打ち消すように、儂とその子供達、そして村人達は焼かれた魚を貪るようにして腹におさめていた。
 その肉は脂の味が濃く、民も十二分に満足した。犬畜生の肉を食べぬ生活だったから余計に美味しく感じられたのかもしれぬ。臭みはなく、脂のように柔らかい。甘い匂いが芳しく、肉自身もそれに違わぬ甘さであった。儂はそれを一口二口かいつまむように食べて、茶を啜った。
 しかしその後、ある少女が村人の前に出た。若いのに剃髪をし、白い浄衣に身を包み、幅の広い市女笠を頭にかぶっていた。若い比丘尼である。その少女は二十にも満たぬようにも見えた。肌が白く、細い目である。当時であれば絶世の美女である。しかしその目をカッと見開いて、叫んだ。
「その肉を喰ろうてはなりませぬ!」
 一瞬静寂がやぐらの周りに広がった。比丘尼のいでたちをした少女はなおも続け、腹から叫んだ。
「その肉は海神の眷属のものにございます。おぬしらが群ごうて食すれば、近いうちに流行り病が起こることとなりましょう。祟りが起こる前に、その肉を食べるのをやめるのです!」
 しかし若い比丘尼の言葉が聞き入れられることはなかった。それは若さゆえに、年長の者に聞き入れられないという年功序列の風習が強く残った集落での帰結でもあった。
 三味線まで持ち出され、いつまでも終わりそうのない騒ぎの中、儂はふと尿意を催して祭りの輪を離れた。幸いにも祭りのやぐらから十分ほど離れた場所に厠があり、そこに用を足そうと思ったが、少々歩き出すのが遅かったらしい。儂はこそこそと茂みの中で用を足した。そして帰ろうとしたところ、木々の合間に、いささか奇妙なものが捨てられておった。儂はその中を覗いてみた。暗がりでよくは見えない。しかし赤くぬめるように輝く満月が朧に揺れ、風が群雲を吹き流し、月の光がその物を照らし出した。それがなにかということに考えが及んだ瞬間、腰が抜けて尻餅を突いた。
 いくつもの眼球が月の明かりに照らし出され、ぬらぬらとてらめいた。よく見れば人の顔が、まるで戦場であるかのように無造作に転がされていたのだ。一つ二つではない。虚ろな瞳を晒す目は、百とも二百ともあった。いくらのように寄せられた顔、顔、顔……恨みつらみとも思える憎しみの顔が、ごろごろと捨てられていた。
「惨きことよ」
 錫杖が土に突きつけられる、金属の音がした。そして草履が腐葉土を踏む、柔らかな音も。じゃら、と数珠が鳴った。
 振り向けば、すぐ後ろに白い浄衣に身を包んだ少女が、美貌を台無しにして、苦虫を噛み潰すような顔をしていた。市女笠の陰でも、白い顔がくっきりと浮かび上がる。蟋蟀が鳴く秋の夜だった。夜風が浄衣をはためかせた。
 見詰め合う、ししおどしの鳴る間隙のような時間。その僅かなひとときに割り込むようにして、秋虫の鳴き声にかき消されるような悲鳴が、静寂にこだました。女の悲鳴だ。ひとつだけではない。子供の泣き声、男の怒声が混じり、次第に男の女の子供の別なく悲鳴が夜闇に響き渡った。思わず悲鳴の方に顔を向ける。木々に遮られ、やぐらの周りでなにが起こっているか判別できない。
 比丘尼が、キッと強い目つきで儂を見た。
「そなた、今すぐこの村から逃げるのです」
「……それは」
「もうこの村は終わりじゃ。海神の祟りがきおったわ……まさかこんな早く、よだも祟りも起こるとはのう」
 やぐらの方面を眺めながら、比丘尼は舌打ちしそうな剣幕で錫杖を土に突き刺した。
「舟で沖まで逃げなされ。間違っても、村人のおる場所に戻るでないぞ」
 それだけを言い残して、比丘尼は袈裟を着ているとは思えない素早さでその場を後にした。足音が次第に遠ざかり、同時に忘れかけていた判断力が力を取り戻した。
 祭りには、妻も息子もいる。残してはおけなかった。
 草履の鼻緒に接する指の皮膚が痛んでも、やぐらに向かって走る。土がふくらはぎにかかる。
 やぐらについたときは、餓鬼道がこの夜に降臨したかのような修羅場が広がっていた。
 散らかされた人の残骸。千切れた腕が、もがれた首が、あの捨てられていた首のように恨みがましく儂を見ておる。噴き出した血がそう大きくもない広場を朱染めにし、食い散らかされたかのように腕や足が無造作に転がっている。悲鳴がこだまする中、足の力が抜けた。血染めの地にへたりこみ、その首を見る。五つにもなっていない息子の首が、あけびのように縦にぱっくりと割れて、中身をこぼしていた。
「丞助……丞助……」
 血も乾ききらない生首を抱きしめると、今までの思い出が嵐のように去来した。唇を震わせ、目も開けられぬほど、強く抱きしめて泣いた。
 そのときに、また新たな悲鳴がすぐそばで上がった。家屋が倒壊する――実質的には押し潰されるような――木材の音がして、一番近くの家屋を振り返った。
 それがなにかということが、一瞬分からなかった。縦はやぐらの半分ほどはあろう。横は小さい小屋ほどの大きさをした、人の肌の色をした物体が、びゅるん、と手を伸ばして逃げる子供を掴み、突如開いた口に頭から放り込み、ぼり、と噛み切った。一口に食べ切れなかった腰の中ほどから鮮血と内腑がほとばしり、一つの悲鳴が消えた。「千代丸!」と若い女が涙混じりに叫ぶ。しかしその女も、その肉塊から伸びた新たな手によって腰からむんずと掴まれ、先ほど子供を喰った口へと放り込んだ。ぼり、ぼり、と咀嚼する、胃の腑が締め上げられるような音がした。
 丞助の首が、膝からずるりと落ちた。じゃり、と血に塗れた顔に砂をまぶして転がった。
 それが、徹底して現実的でない光景に致命的な楔を打ち込んだ。今しがた二つの人間を食した肉塊の目が開き、儂を見た。その瞬間、肉塊から何本もの腕が伸び、骨を折る音を立てながら人の歩みを越える速さで迫ってきた。新たな手が伸び、自重を移動させる度に折れては新たな腕が作られる。這うように迫り来る怪物を、初めて恐ろしいと思い、思わず丞助の首を拾い上げて走った。
 いつも足を鍛えていたのが功を奏したのか、肉塊からは徐々に距離を広げていった。肉塊は地獄から響く亡者のような声で、儂の名を呼んだ。しかし振り返ってはいられなかった。丞助を殺したのはあの化け物かもしれない。そして自分も、あのように食われて殺されるのかもしれない。死への恐怖が、足を酷使した。
 木々の中に入る。草履の鼻緒は切れ、右足は裸足同然だった。時に石を踏み、爪が剥がれた。安い麻の着物に草の種がついた。肺が破裂しそうだった。そして、崖があることさえ気づかなかった。突如足元から地面が消え、斜面は容赦なく身体を打った。落ちた先は、砂浜だった。そこにはたった一つだけ、漁業に使っていた舟が、櫂と共に残っていた。
「それに乗って逃げなさい」
 どこにいたのか、比丘尼の声が届いた。儂らしくなく半狂乱で尋ね返した。
「比丘尼殿、あれは一体何なのです。もう何人もがあれに喰われました。それを知らない限り、丞助も報われませぬ」
「海神の祟りでございます」
「祟り? 貴方は何度も仰いました。祟りとはなになのですか」
「……人魚の肉を食べすぎたものの末路です」
 そのとき、藪をかきわけ木を踏み折って、新たな肉塊が現れた。それは長い腕を伸ばして、比丘尼に手を伸ばした。儂は思わず丞助の首を投げ、そちらに注意を向けた。狙い通りというべきか、肉塊は丞助の首に向けて手を伸ばした。
「急ぎなさい、早く!」
「貴方も乗りなされ、早くせねば貴方もあのものに食べられまするぞ」
「わたくしは死ねませぬ。いいから先にお行きなさい!」
 儂は櫂を漕いだ。慣れない櫂に水が跳ねて袖が濡れたが、気にしている暇はなかった。徐々に砂浜から遠ざかっていくのが分かる。
 水平線に向けて急いだ。時折、櫂に大きな魚がぶつかったが、それを気にすることもできなかった。ただただ必死に漕いでいたことばかりを覚えている。
 そうして漕いで漕いで……そして村が米粒ほどに小さくなったとき、潮位がほんの僅かに上昇した。それは気がつくかつかぬかというささやかなものだったが、陸にいるものには致命的な災厄をもたらした。
 津波である。
 波は総てを海に呑み込み、そして村を亡きものにした。


 たった一人だけが生き残った。望むと望まずに関わらず。
 儂は一人、陸に戻った。家が、畑が、舟が、そして人が、総て海に浚われていた。なにもなくなっていた。息子の丞助も、妻のつねも、弟の梅次郎も、父の敬介も、祖父の義豊も、隣の昌宜も、向かいのお藍も、なにもかもがなくなっていた。夜も更け、東の空は曙に染まっている。
 一人浜にへたりこんでいると、誰かが柔らかい砂を踏んで現れた。長い影が目の前の砂にかかり、儂は亀のように首を持ち上げた。市女笠の少女であった。白い浄衣を着た、肌も魚の腹のように白い絶世の美女である。
「そなたには、もう死が訪れることはないでしょう」
 ゆっくりと、比丘尼は己の過去を振り返るように呟いた。
「そなたは、なにをしても死ぬことはありませぬ。いつまでも生きることとなりましょう。覚悟をする他はございません。そなたは、魚でなく人でもないものの肉を喰ろうてしまわれたのでございますから。しかしまだ救いはありましょう。わたくしは人魚の肉を食べ過ぎました。そなたが口にした肉は、ほんの一口か二口。永劫とも呼べる時間の中で、ゆっくりと老いながら歳を経なさい」
 比丘尼は儂に背を向け、歩みだした。砂浜に転々と足跡が捺された。
「待って下され」
「わたくしにはもうなにも言うことはありませぬ。一人、久遠の生き地獄で時の変化を知りなさい」
「儂には、それしかできることはないのでございますか?」
 歩みが、止まった。比丘尼は整った横顔を朝日に照らしながら、尋ねた。
「ない、と申したらどう致すおつもりで?」
 儂はしばしの沈黙の中、砂を掴んでいた。そして、一つの覚悟ができた。立ち上がって、比丘尼の背に向けて宣言した。
「時の流れを見守りまする。時を紡ぐ子供達、若者を見守り、貴方が呼ぶ『永劫と言う名の生き地獄』を生き抜いてしんぜましょう」
 時が、この指から流れ落ちる砂のようなものでも。
「生きるのは地獄です。死んだ方が良いと思うことに何度となく遭うこととなりましょう。それでもそなたは、生きると申すのですか?」
「生きます」
 例え愛するものが何度となく死に、その度に哀しみを感じたとしても。
「儂は絶対に絶望など致しませぬ」
 人の生が五十年を越さぬ短さでも、丞助のような幼い子供を、一分一秒でも長く、生かすために。
「儂は、永劫の時を生き抜くつもりです」
「……勝手にしなされ」
 そうして市女笠は遠ざかっていった。渚に沿って捺される草履の足跡を、途切れるまで眺めながら、儂はその砂浜に突っ立っていた。
 



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