「その顔は……人魚の?」
 葵ではなく、木更津が問うた。その顔というものは、木々の合間に打ち棄てられていた顔のことである。その無数の顔は、さばかれた人魚のものかと尋ねているのだ。
 手探りでしかものを探れない暗闇の中、葵は首が抜けそうなほど左右に振って、その後身体を包み込む女物の白いジャケットを抱きしめた。女物と言っても探索組がどうにか見つけたものだ。葵はやや細いながらも濃い眉をしかめて、口を尖らせる。
「僕なら、絶対食べないよ。気持ち悪いもん」
 木更津は冷静にオジイの物語を分析して、結論を口に出す。
「せっかくの大漁だったんだよ。貧しさは人を狂気に駆り立てる。なんでも食べるだろうね」
「うう……僕なら絶対食べないよ」
「じゃあ剣太郎。もし、毎日毎日食べるものが何もなかったらどうする? どんなに毎日テニスをしても、食べ物どころか水さえ満足に口に出来ない。その状況で、自分だけが正常な判断を下せると、剣太郎は思うの?」
 葵は再びぶんぶんと首を振った。髪が木更津ほど長ければ、髪の先がついてくる前に顔が正反対を向いていることだろう。
 携帯を閉じたまま、木更津は窓の桟に腕を預け、茫洋と広がる海に視線を泳がせる。
「一般的に人魚は、ジュゴンの見間違いとされているようだよ。でもそれにしては範囲が広範すぎるよね。人魚伝説での有名どころとしては若狭の八百比丘尼伝説だけど、日本中に分布している。沖縄でも、ザン、つまりジュゴンの肉は長寿の秘薬として用いられたみたいだしね。北海道にも、アイヌソッキという名前で存在している。前にサエにも言ったように、マーメイド、メロウ、ドイツのニクスやローレライ伝説。これだけでも、人魚という存在は世界でも普遍的な伝説として各地に残されている。全ての人間の潜在的無意識の中に、人間と食物である魚の融合というモチーフがあるのかもしれない。もしくは、決して死ぬことのない不老不死への憧れを戒める為に伝えられたのかもしれない。どこかの神話で、決して死なないという願いが叶った女性が、永遠の若さを望まなかったために無限に老いていく話もあったね。ただ中国の古典『山海経』での人魚は河川に住む生き物で、どう考えてもオオサンショウウオの一種だな」
「そうなんだ……」
 葵が素直に感嘆の息をつく。いつもの木更津ならこんなに饒舌になることはない。一時的に去ったとしても、現在は危機の渦中である。津波や地震、そして凍え死ぬ可能性。そのどれがいつ襲ってくるか分かったものではない。その状況が饒舌を強いているのだろう。
 しかし、木更津にはどうしても腑に落ちないことがふたつある。何故オジイがこの状況で昔の話を持ち出すのか。村一つが人魚の肉によって滅び去り、オジイ自身も人魚の肉によって永劫に近い長寿を運命づけられたという、現実とはかけ離れた話。それを、語りだす前に「信じて欲しい」と前置きしてから話すオジイ。両方が不可解だった。その昔話にあった話が、今再現されるからとでも言うような口調だった。
 確かに、顔面が人間の形をした魚を見た。それは突然変異で発生した魚なのかもしれない。最初に見た時は驚きが勝って人間の顔に見えたが、思い返せば単にシミュラクラ現象で顔に見えただけなのかもしれない。
 しかしあの肌色は、崖のように急な額は、死に際の人間のように見開いた目は、今思い返しても「人間の顔」と断言できる。ネコのように薄い眉、濁った目、魔女のようにひん曲がった鼻、魚の胴体にぴったりとくっついた耳、紫色になった唇、青ぶくれた水死人そっくりな頬の色、尖った顎、そのどれもが幻想だとは思えない。幻想と呼ぶにはあまりに人間じみた顔である。あの時、持ち帰って検分すれば良かったのだ。そうすればオジイにも見せられた。人魚だったのだと断定できたかもしれない。
 そこで木更津は気づいた。あの魚を人魚だと断定しようとしている自分がいる。目の前だけを見て全てを断定しようとする自分が今ここにいる。それでは駄目だ。なにが真実で、なにが虚偽か、見極めなければならない。佐伯、黒羽、樹が探索という肉体労働ならば、木更津はオジイの昔話と人魚の分析をする頭脳労働だ。万が一にも誤ってはいけない。誤ったら、あの時の、あの人のようになる。それだけは絶対に避けねばならない。
 いつ海が襲いかかってくるか分からない。ちらりと一瞥した窓の外には、未だ押し寄せる海の一部が雨のカーテン越しに浮かび上がる。どうやら少しは潮位が下降して、膝頭ぐらいまでになっているようだ。その闇にひとつ、黒すぎて逆に浮かび上がるものがあった。それは漆塗りのように黒い空を校庭ほどの広さの円を描いて旋回する、一羽のカラスだった。カラスがたった一羽で、夜が始まったばかりの空に翼を広げている。
 雨。津波。そして、生き残っている人は全てこの校舎の中にいる。そう思うと、この校舎がノアの方舟に思えてきた。カラスはオリーブの枝を咥えているわけではない。海が引いたのを告げているわけでもない。しかし、そう思ってしまうのだ。逃げる場所を選び間違えた全ての生き物は海の下に沈み、神が選んだ生き物だけが生存できる。
 この方舟の中に、ノアはいるのだろうか。
 それとも、神がいるのだろうか。
 神がいるのだとしたら、なにが原因でこのようなことをするのか。人間の出すぎた謀略を正すためか。それとも不信仰を責める目的か。どれもこれもくだらない。神なんてものは存在しない。それでなければ、双子として生まれずに一人の人間として生を授けてくれたに違いないから。それとも神を自然と解釈するなら、自分達が双子として生まれてくることは自然な出来事の一つだったのだろうか。せめて失敗して二つに分かれずに一つの人間として生を享受していたら……
 駄目だ。こんな事を考えてばかりでは前進できない。
 為すべきことに迷い、木更津はそのカラスをぼんやりと眺めていた。創世記によると、洪水の四十日後にカラスを放すと、留まるところがなくて戻ってきたという。せめて戻ってくるな、と思った。陸地があるなら、三羽目に放たれた鳩のように陸地を見つけてくるだろうから。
 カラスは地上を征伐した海の上を周回するように大きく円を描いていたが、螺旋を描きながら下降し始めた。そしてばたばたと夜よりなお暗い漆黒の翼を広げて、防波堤近くに残った松の木に降り立とうとした。黒い鉤爪が幹を掴むその瞬間、カラスの足元の水面が弾かれるように跳ね上がり、飛沫を散らした。斬り殺されるような悲鳴が上がり、翼が水を払ったが、一瞬の間に、カラスは闇の海に引きずり込まれていた。付近の水面は雨粒よりも更に大きく不規則な波紋を広げた。
 思わず木更津は椅子を蹴って立ち上がった。椅子が音を立てて倒れる。その木更津に葵が少しだけ驚いたような視線を向けて尋ねた。
「どうしたの? 亮さん」
 木更津は声もなくガラスに両手を貼り付けた。表面が呼気で湿り、曇る。しかし窓を開けるまでには至らなかった。葵に感づかれないほどの小ささで、唸るように呟く。
「今のは……」
 ゆっくり見てもいられなかった。
 突然、教室の隅から椅子を蹴る金属質の音と、歯軋りから漏れる呻きが重なった。そして間もなく、呻きは悲鳴に変じた。
「ううっ!」
 同時に、葵が心から驚いた悲鳴を上げた。
「ダビデっ!!」
 振り返ると、教室の隅で縮こまっていた天根が、弓のように反り返って苦悶の呻きを上げていた。夜目で細かいところまでは見えない。エビのように腰を曲げているのではない。弓なりに反っている。そしてよく見れば、がたがたと痙攣が始まっているではないか。その痛み苦しみにもがき苦しむように、天根は床でのた打ち回っている。
 葵は右足をだらりと力なく下げながら、机と机の間を縫うように天根の元へ駆けつけた。木更津も葵に倣った。
 天根の横に膝をついた葵が、どうしようどうしようと連呼する。どうしようと言いたいのはこっちだ。木更津はひとり、心の中で舌打ちする。とにかく「押さえて!」と指示を出した。苦悶し続ける天根にしがみつき、葵も続いて天根の胸の辺りを押さえる。手加減は最初の二秒で無駄だと知り、発熱した身体を全力で床に押さえつけた。全力を出さなければ逆に弾かれるのだ。木更津は右手で帽子を押さえ、身体全体を使って天根の身体を床に押し付けた。それをはねのけるほどの震え。震えと呼ぶにはいささか凶暴すぎる。これは熱によるものではない。木更津は知識の引き出しを手当たり次第に開けた。痙攣が起こるような病気……突発性てんかん、脳血管障害、熱痙攣、破傷風……
 一段と痙攣が強くなる。筋肉の収縮が変に作用したのか、天根は歯をがっちりと固めて、歯列の間からちらりと光る唾液を垂れ流していた。そして顔は苦しみではなくどうしてかひきつり笑い気味になっている。その顔が自身の唾液に濡れ、変に光っていた。彫りの深い顔立ちに苦しみのエッセンス、それはこの世にあるなにものよりも凄絶すぎた。
 断絶させられそうだった思考を現実に引き戻し、木更津は歯を食いしばって天根の身体を押さえつける。
 ひきつり笑い……筋肉に作用する病気……破傷風……でも調べないことには……
 そこまで思い当たった時、永遠にも思える時間が過ぎ、不意に天根の痙攣が弱まった。そして縦に長い身体を弛緩させ、反ったような姿勢でその場に長い手足を投げ出した。不気味なほどに引き攣った笑みも消え、目が閉じられる。荒い息をつき、葵は今にも泣き出しそうな表情で木更津を見た。まぶたとまぶたの間に、きらきら光るものが零れんばかりに光っている。
「亮さん、どうしよう……」
 その問いかけに、木更津はついに答えを返せなかった。
 葵は「息あるかな?」「心臓動いてるよね?」としきりに天根の口に指を当てたり脈を取ったりしている。天根は先刻の痙攣以外変わった様子は見られない。胸はゆっくりと膨らみへこみを繰り返している。苦しみに失神したか、そのまま眠りについたか、どちらかだろう。
「亮さん……」
 葵が縋るように視線を向けてくる。
 ある案が脳裏をかすめる。木更津にはこれしか思い浮かばなかった。脳裏に走る案の残像を捕まえ、木更津はそれを葵に遠まわしに告げた。
「ダビデ、最近なにか怪我とかしてない?」
「怪我ならしょっちゅうしてるよ! だいたい一ヶ月前も一週間前も、コートで転んでたよ。一週間前はあの場に来たよね。亮さん覚えてないの?」
「ごめん、覚えてないよ」
 怪我……破傷風の可能性がぐっと高まるのを感じて、思わず息を呑んだ。
 破傷風とは嫌気性のグラム陽性桿菌である破傷風菌が小さな傷口などから体内に侵入して発生する感染症だ。その症状には、代表的なものに反弓緊張、全身の筋肉の硬直、有痛性痙攣発作、発熱などがある。光や音、振動などに対する過剰反応によって痙攣発作が現れる可能性もある。罹患した場合の死亡率は非常に高く、新生児における死亡率は七十五パーセント、五十代以上では四十パーセント、全体で三十パーセントほどだ。しかしそれはちゃんとした治療を受けた場合だ。現在、医者はここにはいない。治療しようとしても、なにをどうすればいいのか分からない。そもそも一中学生に保健の授業で習った以外の医療知識を求める方が間違っている。頼りになるかもしれない養護教諭もこんな時刻だ、帰ったに決まっている。教師は本当に必要なときにいない!
 葵に両肩を掴まれて、力任せに前後に揺すられた。随分大きくなった手だ。その手に指を重ねる。葵は一語一語に涙を零しそうなほど必死に問いかけた。
「ねぇ、ダビデは大丈夫なの? 死なないよね? バネさんがなんとかしてくれるよね?」
 そうだ、バネ……
 木更津はそこで、久しぶりに黒羽の存在を思い出したような気がした。
 黒羽ならなんとかしてくれる。全員の信頼が置かれた大人物だ。しかしそれも自分には安心できない。片割れが聖ルドルフに転校していく時も、いなくなって初めて気づいたやつだ。そいつをもう一度信用しても大丈夫なのか? それならまだ佐伯のほうが少しは察してくれた。信じてくれた。佐伯は黒羽と違って頭が回る。黒羽は先に身体が動くタイプだ。より有用な案を出してくれそうな佐伯のほうが信頼における。
 木更津は葵の肩をがっしりと掴み返し、静かに言い聞かせた。
「不安なら、俺がサエを呼んでくる」
 不安で押し潰されそうなのは自分の方だ。それを仮面で覆い隠して、木更津は真夜中にはまだ早い暗闇の廊下へ走り出す。赤いランプの一つも点らない真の暗闇の中、手すり伝いに水に濡れた階段を駆け下りる。


 同時刻、完全に水が引き、土がまばらに水面上に露出し始めた。夜の静謐に溶け出すように、校舎に小さな子供の泣き声が近づいてきた。年端もいかぬ少年だ。齢は一桁の後半だろう。体格に合致した小さめのウッドラケットを引きずりながら、その男の子は泣き声に「お兄ちゃん」と混ぜながら、しゃっくりに肩を震わせてゆっくりと歩んでくる。
 その声を最初に聞きつけたのは、誰あろう樹だった。樹は「声、聞こえるのね」と呟いて、二階の窓から首を出した。
「声ぇ? 何処からだよ」
 黒羽が続いて窓を開けて、周辺をぐるりと見回した。声が聞こえたかどうかではなく、屋外の第一印象を口にして沈黙する。
「水は引いているみたいだな」
 その声には少しの安堵と、剥き出しの警戒心を含有していた。水が引いているということは、津波の第二波が近い頃合いだ。「警戒しとけよ」と押し殺すように呼びかけられる。
 佐伯は樹の横の窓を開けて、首をひょいと出した。すっかり夜に慣れた目で校庭の第二グラウンド側に視線を転がせる。その時だ。中学生と呼ぶには小さすぎる人の影を目の端に捉え、それに目を凝らした。小さい子供。ラケットを持っている。しかしそれ以外は夜に紛れてよく見えない。六角中の敷地は田舎ということもある無駄に広いので、ここからざっと二百メートルほどの距離はあるだろう。そして
「望なのね!」
 という、樹の驚嘆の叫びが一瞬で歓喜に染めあがった。心なしか、声まで明るくなったような気がする。樹は「連れてくるのね」と振り返った瞬間に佐伯に言い残し、階段下に滞る夜の闇へ飛び出した。段を降りていく樹の軽い足取りに、佐伯もまた明るくなれるような気がした。
 なんにせよ、地震と津波がほとんど同時に来たようなものなのだ。その災禍に遭って、生きているものがいるという安堵が警戒心を解いたのだろう。やってきてくれた人物が身内、しかも弟となれば樹が夜闇に駆け出すのも当然の帰結と納得できた。
 佐伯が「仕方ないな」、そう呟いて階段を下りようとした矢先、静寂を切り裂いて津波の襲来を告げる鳴子笛の音が轟いた。
 


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