がら、とドアが開いた音に呼応して、三度目の天根の痙攣が始まった。二度目は、海が襲いかかってきた瞬間に吹いた鳴子笛に過剰反応して痙攣が起こった。今ではドアが勢いよく開く音でも痙攣発作が発生するらしい。葵はその度に、どうやっても天根を押さえつけられない自分の情けなさをひしひしと実感していた。
 ドアを開けた人物に視線を向ける時間も惜しく、葵は天根の上半身を渾身の力で押さえつけ、それでも止められない痙攣に泣きそうな思いだった。
「ダ、ダビデ!」
 その瞬間、嵐のような狂乱に見舞われた。しかし黒羽は誰かを肩に抱いているのか、すぐに葵に加勢することができないようだった。
「おい、いったいぜんたいどうしたんだよ」
「それは僕が訊きたいよ!」
 ちっ、という舌打ちの後に、
「どうにかして押さえつけてろ!」
 と黒羽が叫んだ。
 その無責任な命令に反論するが、反抗した声は今にも泣きそうなほど頼りなかった。
「そんなの分かってるよ!」
 黒羽は樹をその場に寝かせ、葵の加勢に入った。すでに天根の痙攣は葵ひとりだけでは抑えきれないほどの頻度と力であり、鍛え上げられた筋肉の力というものを改めて実感させられる。その発作は永遠にも思えたが、時間にすれば三分ほどだったかもしれない。黒羽は冬場だというのに、破れた腕の生地の間から汗を光らせている。
 ため息をひとつつき、黒羽は椅子にどっかりと座り込んだ。しかしなにかを思い出したように落ち着きなく立ち上がると、床にうつぶせに寝かせているままの樹の横に膝を突いた。忙しく樹のあだ名を呼びながら、その背中に破った布を押し当てている。ときおり、大丈夫だ、しっかりしろ、と安心させる言葉を投げかけている。
 その樹に意識がないことに気づいた瞬間、葵は弾かれたように樹のもとに駆け寄り、顔の横に膝をついた。
「いっちゃん、いっちゃん!」
 しかし反応はない。揺り起こそうとして背中に手を当てた途端、右手首を黒羽に掴まれた。黒羽は唇を引き結び、顔を横に振る。そしてそのまま手当てに移った。決して少なくない量の血液が、床に徐々に黒い染みを広げていく。それが全て、そんなに大柄でもない樹の創傷部分から流出したものだとは考えたくもなかった。
「バネさん、いっちゃんは大丈夫なの?」
 ほとんど泣き声で葵は問う。その答えとして、黒羽は葵の坊主頭をくしゃっと掴み、子供にやるように優しく撫でた。
「俺に任せろ。絶対に死なせない」
 しかしその目に浮かんだのは、自分も誰かに助けを求めようとしているのにその気持ちを押さえつけている、我慢に我慢を上塗りした視線だった。
「ダビデは? ダビデも大丈夫なの?」
「それは俺が聞きてぇよ。なにがあった、言え」
「さっき、亮さんが伝えに行ったんだよ、聴いてないの?」
「質問に質問を返すんじゃねぇよ。聴いてねぇっつってんだろ」
「……さっきみたいに身体がびくびくなるの、もう三回目なんだよ。なにが原因なのか分かんない。亮さんが、最近ダビデが怪我とかしてないかってきいたけど、どんな病気なのか教えてくれなかったよ」
「病気?」
 葵は少し迷って、うん、とうなずいた。
「そうじゃなきゃ説明できないよ。多分、怪我したとこから病気が入る種類なんだと思う。亮さん、ダビデが怪我してたかどうか聞いてたから」
 でも僕は病気のこととかあんまり知らないから……。葵は傍から見ていて可哀想なほど肩を落とした。
 畜生。黒羽はその言葉を喉の奥でどうにか押さえつける。黒羽は病気については疎い。怪我の応急処置法なら保健の授業で習ったし、必要に迫られて勉強したから知ってはいる。しかしこと病気になると話は別だ。疾病は黒羽の専門外である。病気や人間の生理機能については、どちらかというと木更津の方が詳しい。
 しかしどうして今木更津や佐伯はいないのだろう。葵は恐る恐る尋ねた。
「バネさん、サエさんや亮さんはどうしたの?」
「しばらく黙ってろ。集中できねぇ」
「う、うん……」
 そうして葵はうなだれて、口をつぐんだ。
 どうして自分はいつもこうなんだろう。葵はひとりそう思う。
 黒羽はテニス部で一番信頼されていて、部長としての仕事はほとんど進んでやってくれた。今も樹の怪我の応急処置を、誰も指示していないのに進んでやっている。しかしその出血量から見て、どう考えても怪我は軽くない。それでも黒羽は樹にときどき声をかけながら、額に汗を浮かべて最低限の処置をしていた。
 そして自分はどうだろう。天根が罹患した病気の正体も掴めず、黒羽に頼ってばかりだ。自分でなにかをしようとしても、圧倒的に知識と経験が足りなさすぎて、頼ってばかりいる。プレッシャーに強いと自負し、どんな状況からでも必ずといっていいほど奇跡の逆転劇を演じてみせた葵剣太郎なのに、こんな必要なときに限ってなにもできていない。足を捻挫したし、津波から逃げるときは黒羽におぶってもらわなければ流されていて、今頃海の底でガードレールにぶつかったり木材の破片に身体を貫かれて死んでいただろう。必要なときに限って無能だなんて、生きている意味がないじゃないか。葵はその場で膝を抱え、両腕に顔をうずめた。
 そのとき、天根が小さく「剣太郎」と呼んだ。葵は布にくるまれて蓑虫状態の天根のそばに膝立ちをし、顔を覗き込んで「どうしたの」と尋ねた。
「釣竿持ってきて」
「釣竿? そんなの学校にないよ」
「つれない返事」
 そう言って、天根は力なく笑った。
 天根は自分を笑わせようとしている。なにか分からない、悲鳴を上げるぐらいひどい発作にたびたび襲われていて、一番辛い天根が、自分を気遣って駄洒落を言ってくれる。
 それに気づいたとき、目頭がかっと熱くなった。唇が震えて、しゃっくりが喉を突いた。
 黒羽が「どうした」と尋ねたが、溢れる涙は止まらなかった。葵は膝を抱えたまま、自分の腕の中で、涙を拭えなかった。
 


 廊下からは、一滴一滴の雫が時間を置いて落ちる、静かな音が幾重にも反響していた。潮臭さが嗅覚を支配しているのに、生魚のような異臭が大気に強く存在を主張していた。もう少し濃ければ、吐き気を催しそうなほどである。その空気の中に、遠慮するように樹から流出した血液の鉄錆染みた臭気が仄かに漂っている。
 視覚は利くはずだった。時計があるならば、もう午後の九時を過ぎているだろう。その間に幾度か余震に見舞われた。大きく考えても震度三程度の微弱な揺れだった。それは永遠のような時間を自戒に支配されて座り込む佐伯の身体を細かに揺らしている。
 その震えは寒さをしのぐ筋肉の無意識の働きによるものではない。佐伯には、木更津以外の仲間が全ていなくなった。その絶望が佐伯の肩に重くのしかかり、その過負荷に耐えられず細かく振動しているのだった。
 背中の布地越しに木更津の体温を感じる。
「ねぇ……サエ」
 物言わず佐伯の横に寄り添っていた木更津が、小さく尋ねる。佐伯は言葉もない。沈黙の返事に応じ、木更津はまた無言に戻る。
 木更津の考えも知らず、佐伯の脳裏にはずっと自戒が渦巻き、在りし日の追憶が記憶の小箱を手当たり次第にひっくり返していた。どれもこれも、佐伯の性格を強く形作ったトラウマに近い記憶ばかりだ。窓の外で雨の降る日に行われた、転入初日の自己紹介。知らない顔の軍勢が、自分を物珍しげにじろじろとした視線で舐め上げる。東京にいた頃は誰もそんな目で見なかったのに、自分だけが周囲と違うという理由のない恐怖が心を染める。お前だけが東京者、自分らは地元の民だとでもいうような、友好的に見せて本質が排他的な視線の群れ。
 まだ人を知らなかった佐伯にとって、その視線はなににも勝る拷問だった。東京で生まれた時から顔を知っている友達が誰一人いない、たった一人で知らない人のど真ん中に放り出される孤独は、子供心にとっては想像を絶する恐怖だった。友達を作り始めた自分はまだ社交性があった方だと思うが、それは単に自分の恐怖に追い立てられただけだ。看守の鞭に怯えて小屋に押し込まれる家畜と同じだ。
 どうして自分はこうして友達と仲良くできていたんだろう? 佐伯は、今まで空気のように自由にできていた「交友関係」が、重荷のようにのしかかってくるのを強く感じていた。どうしてこうなったんだろう。それは、自分が樹を刺したから? 殺そうとしたから? 自分はなんのために、今にも津波がくるかもわからない校庭に飛び出したのだろう。それさえも否定されて、自分はいったいどうすればよいのだろう。
 転入して最初の頃は、幾度もカルチャーショックに襲われた。その度に自分は、この地域でのならわしに沿って生きるようにしてきた。自分ひとりだけが外れないために、排他的な集団に迎合していた。時にはいじめも見て見ぬ振りをして、幼な心で友人をたばかってまで、孤独になるのを恐れた。そのしっぺ返しがこれなのだろうか。ひとりであることを恐れ、集団に馴染んで生きていくことの贖罪でもあるのだろうか。
 ひとりで生きていくことを選び、徐々に苛烈さを増していくいじめの中で自ら命を絶った同級生の顔もしっかりと覚えている。彼は佐伯に初めて声をかけた、大切なはずの人だった。それなのに佐伯は孤独になるのを恐れ、自分が加害者になるのも恐れて、彼を空気のように扱った。佐伯は今でも覚えている。小学五年生の夏、彼が校内で行方不明になったとき、佐伯がトイレを探していたときだ。偶然見つけたのだ。ドアの下から垣間見えた、ぶらさがる青い上靴の先を。その後は大変な事態になった。変死情報は、すぐに自殺騒ぎへと形を変えて、一瞬のうちに生徒の間に流布した。先生を校内全て探した末に見つけ、先生はトイレのドアをこじ開けて彼を引っ張り出した。佐伯は先生に止められたが、担がれていく彼を見て、放心したようにへたりこんだ。生きているようにしか見えない顔色なのに、目が開かず唇も全く動かない。座り込む頼りない背を支えてくれたのは樹の柔らかい手だった。
 それからだ。佐伯の中に、「ひとりでいること」に対する本能的とも呼べる恐怖心が根付いたのは。排他的な集団の中に属せずひとりで生きていくのは恐怖以外のなにものでもなかった。小学校の卒業写真に載らなかったのにも関わらず、佐伯は彼を忘れることができなくなっていた。
 それなのに、今はどうだ。あの時背中を支えてくれた樹に刃を突きたて、生きるか死ぬかの峠にさしかかっている樹に、なにもしてあげられない自分。死んじまえ。死んで詫びろ。生きている価値もない、迎合するだけの人間だ。ひとりぐらいいなくなっても、社会の歯車はなにごともなしに回っていくんだろう?
 自分はどうだ。知らない顔に恐怖して、その恐怖心が行き過ぎて樹を殺しかけた。いや、時間が経てば自分は殺人犯なのだろう。あれほどの深手を負って、人間がなんの治療もなく生きていけるわけがない。心臓か、肺を直撃した。もしくは、腎臓の片方だろう。内臓破裂かもしれない。今も樹が苦しんでいるかもしれないのに、自分は駆け寄ることさえ許されない。
 そう思うと、やりきれない気持ちが濁流となって深層心理の迷路を打ち砕いた。涙がぶわっと溢れた。それなのにやっぱり一筋も流れなかった。こぼれそうでこぼれないところで、必死に耐えていた。心臓のあたりの布地を掴んだ。いっそ心臓を掴んでその動きを止めてしまえればよかったのに。自分の指は肋骨に阻まれて皮膚の下に潜りこむことさえできない。
 生きたくない。孤独になってしまうなんて、死んでいるも同じだ。
 佐伯は体育座りをしている膝を、腕でぎゅっと抱きしめた。
「サエ……」
 背中で案ずるような声がする。
 悔しかった。木更津は情けで一緒にいてくれるのだ。しかし情けなんていらない。自分は孤独の前に震えながら許しを乞う乞食同然だ。
 許しを乞う? 誰に乞うというのだ。佐伯は自問する。樹か? 黒羽か? 樹には謝りきれていない。
 しかし黒羽にはどうだ。謝る理由はない。
 しかし謝らなければ仲間には入れてもらえない。またひとりになることうけあいだ。
 しかしどうして黒羽に謝る? 
 しかしその前に樹に謝らなければならないだろう。
 しかし……
 ……やっぱり、自分は駄目な子だ。一人ではなにも決められない。生きていこうという苦しい決断を下すことさえできない。
「サエ……俺にはさっぱり分からないよ」
 なにが? 佐伯は虚ろな口調で尋ね返す。木更津はひとつ身じろぎして、視線を上に向けて語りかけた。
「バネに嫌われたっていうだけでそんなにも頭を抱える理由」
「理由? はっ……簡単だろ。自分で考えれば良いだろ」
 佐伯は泣きそうな声で、平気な声色を出そうとした。その努力を否定するような口調で木更津は続ける。
「俺には分からないんだよ。なんだよ、その、バネに嫌われただけで、まるで世界が滅亡するかのような落ち込みよう。価値観はひとりひとり違うだろ? たった一人の人間に嫌われただけなんだよ、サエは。他にサエを好いてくれる人はたくさんいるのにさ」
「お前は分かってないな」
「最初から分からないって言っているんだから、外れていて当たり前だろ」
 声が震え始めた。かみ締めた唇から、生臭い鉄の味が滲み出した。
「……どうして、ひとりになるかもしれない可能性を簡単に選べるんだよ」
「ひとり……」
 途端、佐伯の中の血液が逆流した。カッと大きな熱が身体の中で暴走する。その暴走を、佐伯は止められない。沸点を超えた、すさまじい孤独の叫びが声帯から嵐のようにほとばしる。
 目の前に、死んだ同級生の顔がフラッシュバックした。人の輪から外れて生きることを子供心に選択し、挙句自殺に追い込まれて命を絶った同級生の顔を。涙の跡がうっすらと頬に刻みつけられ、絶望のうちで死を選んだ同級生の顔を。
「亮は怖くないのか!? 自分だけがたったひとり、人の輪から占めだされることが!」
 佐伯は木更津の両肩を掴んだ。指に力がこもる。ぎりぎりと爪が木更津の皮膚に食い込むが、木更津は眉一つ動かさない。ただ白い帽子のつばから、絶対零度にも似た視線を佐伯に投げかけてきただけだ。その瞳は、憎い肉親に向ける種類と同じ目つきでもあった。
 狂乱に駆られて、佐伯はなにもかも関係なくまくし立てる。
「俺は怖いんだよ! ひとりにされて、そのうち誰にも思い出されることなく野垂れ死ぬことが! もともとここに住んでいたから亮には分からないだろうさ。だけど俺は亮じゃない、怖いんだよ! たったひとりになることが!!」
「ひとり……ね」
 木更津の声音が徐々に刺々しさを増していく。その、まるでひとりで生きていってもへっちゃらだとでも言いそうな表情に、佐伯は吐き棄てた。
「亮、お前はいいよ。後から転入してきて、友達の輪に入らなければ生きていけなかった俺の気持ちなんか分かるわけない」
「分かったら超能力者だろ。サエの分からず屋」
「でもお前はいいよ。どうせ何処に行っても、双子というだけでみんな友達が輪の中に入れてくれるんだから」
「……サエの気持ちが俺に分からないように、俺もサエの気持ちは分からないな」
 木更津は佐伯の両手を穏やかに払いのけながら言った。その目つきが動作に整合しない。途方もない憎しみに燃えた目だった。
 その唇が闇の中、小さく蠢き、唾でも吐き出すような憎々しい口調で呟いた。
「双子として生まれたこと、俺は一度として嬉しいだなんて思ったことないよ」
 それだけを言い捨てて、木更津はゆっくりと立ち上がった。動きに合わせて長い髪が揺れる。濡れに濡れてところどころ水が溜まった廊下を踏みしめながら、木更津の背が遠ざかっていく。ぴしょ、ぴしょ、静寂の中に存外に響く足音を立てている。木更津の帽子が暗闇に白く浮かび上がっている。
 木更津の影が角を曲がって見えなくなった。まだ髪を掴んで引き戻せたはずなのに、佐伯は呆けたようにその場に座り込んでいた。そのうち、足音も聞こえなくなった。右にも左にも、永遠にさえ思える廊下が伸びているだけだ。人の姿はもうどこにもない。ここにある自分の身体と意識だけが、佐伯に残った全てのもの。
 佐伯は、ひとり、廊下にとり残される。雨はまだ静かに降り続き、蜘蛛の糸のように細く長く連なっている。せめてこの雨が糸となって自分を絡めとり死なせてくれと願うが、雫が人間ひとりを殺す力など持っていない。せめてノアの方舟のように、この雨が四十日四十夜続き、緩慢な死をもたらせと命じたい。水に溺れ、もがき苦しみ、生きていく気力も失うほどゆっくりとした死をもたらせ。どうせこんな命などいらない。ゴミ同然に流されて藻屑と消えるだろう。自分は神に選ばれなかったのだから。
 再び壁を背にして座り込む。どうして亮に当たっちまったんだろうな、という渇いた自嘲が口をついて出るが、それを聴くものは誰ひとりとしていない。


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