葵の涙は、数十分経ってもまだ止まる気配がなかった。現在、午後の九時を二十分ほど過ぎている。暗闇に時計の針が紛れて詳しいところまでは判別できないが、長針の位置から見て四のあたりを向いているのだろう。その間にも樹の出血は止まらず、黒羽が慣れない手つきで看ているときより多少穏やかになったものの、まだ予断を許さない状況だった。床に黒く広がる染みが、さほど体格の良いわけではない樹の背中から流れたものだとは、事実としては知っていても感情が認めたがらなかった。その間にも、黒羽が肩まで袖を破って樹の傷口に巻きつけた布がひたひたと血に染まっていくのが暗くても分かる。その痛みに比べれば、自分の痛みなんてボウリング球と羽ぐらいの差があるはずだ。葵はようやく泣くのをこらえて、床に腰を下ろしていた。
 静寂が続いていたからか、天根の容態も安定していた。数回地震があって、一番大きな揺れの時に痙攣を起こしたぐらいだ。それで、黒羽は「感覚刺激を与えると発作が発生する」という結論に達したのか、津波を知らせる鳴子笛を吹くのを禁じた。まだ戻ってこない佐伯と木更津にはどうやって知らせるのかと尋ねたが、黒羽は返事をしなかった。
 それと同時に、発作のとき万一舌を噛まないようにと、ブランケットの切れ端を三センチぐらいの円筒になるまで巻いて輪ゴムで縛り、天根に噛ませた。簡易的なものではあるが、それは天根の自由をひとつ奪った。猿轡だ。とっさのときに口に押し込めないという理由で、常に噛ませていなければならない。それは同時に、天根は命の代価として言葉を発することができなくなったということだ。それは普段から言葉も表情も少ない彼から、一切のコミュニケーション手段を絶つということだ。得意としている駄洒落さえ封じられた。
 しばらくして、葵は膝を抱えたまま「サエさんと亮さんは?」と、呟いた。その答えはもう聞いていたが、それでも口に出さずにはいられなかった。
 佐伯が樹を刺した。それを聞いたときは狼狽したが、今頭を冷やして考えると、やはり佐伯にも理由があったはずだ、と思う。考えるのではない。ただ「思う」。それに、黒羽の話から察するに(それでも黒羽はあまり喋ってくれなかったが)、佐伯が樹を刺したという一点以外で、黒羽には佐伯を追放する権利などないように見えた。佐伯が津波から樹を守ろうとしたのは事実らしい。そして葵が鳴らした鳴子笛に応じて、佐伯はなりふり構わず津波が押し寄せる直前の校庭に飛び出た。命知らずな行動で、黒羽は軽薄すぎると罵った。より確実に助けられる方法もなにも考えず飛び出すのは狂人のやることだと吐き棄てた。しかし葵は黒羽の考えには賛成ながらも、腑に落ちない点がいくつもあることに考えを巡らせていた。
 佐伯が、樹を理由もなしに刺すとは考えられない。現場を見ていない自分が言えることではないが、なにかが流れてきて、それを避けようとしているうちに誤って樹を傷つけてしまったのではないか。でも仮にそうだと決め付けるのは尚早すぎる。それでなければ、深い傷の説明がつかない。意図的に刺したものだとしか説明のつかない傷。ふさがる気配が全くなく、今も鮮血を垂れ流しつづけるほどの重い傷。果たして佐伯は本当に、意図して刺したのだろうか。
「ねえ、バネさん」
「サエと亮のこと言いてぇんだろ。知らねぇよあんなやつら」
 振り返ってさえもらえなかった。まだ意識を喪失している樹のそばにあぐらをかいて、彼らしくなく背中を丸めている。
「僕じゃ上手く言えないけど……サエさんには、きっと理由があったんだよ」
「いらねぇよそんなの」
「いらなくないよ。だって、」
「ここに戻ってこない、それが証拠だろうが」
 その反撃に、葵は思わず肩を跳ね上げた。そして再び教室は沈黙の澪に沈む。
 それでも葵は、怯みはしたもののまとまらない思考をどうにかして頭の中で言葉として連ねた。それを脳内で幾度となく反芻し、言い出す練習をする。時間が経てば経つほど言い出しづらくなるのが分かる。膝立ちになって、黒羽の背中の正面に回る。「サエさんは悪気があったわけじゃないよ」と、黒羽の剣幕に怯まないよう、一息に言えるよう、自分に言い聞かせる。
 しかし葵の口から出た言葉は、思い描く言葉とは全く別の言葉に変形していた。
「どうしてバネさんは人の話を聴いてくれないの?」
 言葉を練ることもなく、ただ口が勝手に言葉を発した。一度言ったら取り返しがつかなくなって、葵はそのまま続けた。黒羽はなにひとつ口にせず、ただ静かに背中で葵の言葉を聞いている。
「僕達みんな一緒だよ! 誰かひとりだけがひとりぼっちになっていいってわけじゃない。どうしてバネさんは簡単に人を切り捨てられるの? サエさんも亮さんも、今まで一緒にいた仲間なんだよ? どうして信じてあげられないの? 僕達、ひとりじゃ生きていけない。それはバネさんも分かってることじゃなかったの!?」
 相も変わらず黒羽は無言を貫いている。
「僕はサエさんを信じる。そして、どうしていっちゃんを刺したのか、ちゃんと話してもらいたい」
「……」
「バネさんはそう思わないの?」
 そのとき、今の今まで沈黙していた黒羽が、闇に融けるような声色で、小さく呟いた。
「サエだって所詮よそ者なんだよ」
 え……?
 よそ者、という単語だけがはっきりと聞こえた。それに反論する間も与えず、きっ、と振り返った黒羽は夜叉のような形相をして、一挙に声のボルテージを上げた。
「俺だって信じてえよ! でもあれ見たらそんなこと言えなくなる……剣太郎は見てねえからそういうこと言えんだよ」
 その剣幕に、葵は色を失って呆然と黒羽の激昂を眺めていた。
 声が、闇に満たされた学校に幾重にも反響して融解する。
 沈黙。
 感情の土石流を食い止めるような表情をして、黒羽は立ち上がった。ドアに手をかけ、押し殺すように「便所」とだけ残し、教室から消えた。天根を気遣ってかドアを閉める音は小さかったが、それが逆に黒羽の静かな怒りを滲み出させているようだった。
 葵は、膝立ちの状態からそのまま後ろに倒れこんだ。
 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。また涙が溢れてくるが、歯を食いしばって堪える。
 これなら自分も佐伯と一緒に離反してしまおうかと思う。しかしそれはできない。足は全く動かない。捻挫のせいでも比喩でもなく、足が震えてどうにもならなかった。あんなことを言ったところで、結局自分は、黒羽から離反することはできない。ばかじゃないか。自らを嘲笑うが、顔は泣くのを堪える人間のそれだろう。そしてそれ以外に足の震えの要因がなかった。
 そのとき、蚊の鳴くような息の隙間に、「剣太郎」という声が混じった。樹からだ。葵は涙を拭って樹のそばに寄り、「どうしたの?」と天根に話したようにデジャヴに返した。暗闇に感謝した。声さえ作れば、自分が泣いていると悟られないから。
「サエは……どこ行ったのね?」
 答えにくかった。
「亮も……ふたりとも、どこ、行ったのね?」
 樹は喋るのも苦しそうに、一語一語を区切って発音した。余計泣けてきた。それでも、泣いちゃいけないと自分を鼓舞して、わざと泣いていない声を出した。その努力が悟られなければいいのだが。
「ふたりは……」
 そこで言葉が急に失速した。
 言えなかった。佐伯が追放されたなど。そして自分が佐伯に駆け寄ることのできる足もないのだと。
 その中途半端な返事に、樹は半分ほど起き上がって葵の左肩を掴んだ。激痛に耐えられなかったのか、樹はまた横ざまに倒れる。葵は「駄目だよ無理しちゃ」とか、自分でも軽薄極まりない言葉をかけながら樹に呼びかけた。樹は葵の手を両手で握り、
「生きてるのね? サエは、無事なのね?」
 と、必死の形相で尋ねた。その言葉で葵の心のストッパーが外れる音が心の中に響いた。
「安心して。生きてるよ」
 自分の目で確認していないのに、なんという言い草だ。葵は偽りの笑顔と欺瞞の言葉に反吐を吐くような気持ちだった。
 それに安心したのか、樹は「よかったのね」と呟き、次の言葉をかけた。
「それで……どこ、行ったのね?」
 きた。これだけは答えられなかった。頭の中で嘘を白い欺瞞で糊塗し、その罪悪感を悟られないように「トイレだよ」と一言で返そうとしたその瞬間、
「正直に答えるのね」
 樹の釘が刺さった。釘は打ち込まれた場所から意志に反して血を流すように、欺瞞の通用しないものだった。
「サエさんは、……戻ってこれないよ」



 黒羽春風は「便所」と言った手前いまさらくつがえすこともできず、本当にトイレに立った。本物のトイレは水を流そうとすると逆流するから使えないが、隣のクラスのゴミ箱に用を足すように指示したのは自分なのでそれに倣った。しかしまだ誰もトイレに立っていないのか中身は空だ。流石にスカトロジーの塊が中に鎮座していてもそれはそれで困るが。
 ファスナーを下ろし、その中に用を足す。疲れたときと同じ真っ黄色の小便が出た。やはり疲れは無視できそうにない。地震が発生し、それ以降黒羽はずっと働きっぱなしだ。それも自分の仕事のひとつではあるからやらないわけにはいかないが、そろそろ交代で寝るかなにかで休息を取った方がいいだろう。
 用が終わり、ファスナーを元に戻す。
 それでもなんとなく、教室に戻りづらかった。あれだけ言われればある意味当然だ。
 しかし今考えてみると、葵の意見も尤もだ。あの時は樹が刺され、自分も激昂して忘我状態だった。その中で破門を告げたのだから、考えない行動も考え物だが、佐伯をいたく傷つけたことは想像に難くない。
 いまさら謝ることができるか? ……できない。しかし今はひとりでも多く集まらないと、朝まで生き抜くのは難しい。しかしできるか? 樹を刺した佐伯を許せるのか? 結論はひとつだ。できないに決まっている。
 それでも葵にああまで言われて自分がなにもせずにのこのこと帰ってこられるだろうか? 葵にも木更津にも、「お前は人の話を聞かない」と言われた。冗談交じりでも本音でも、それは自分の欠点のひとつなのだろう。もう一度、佐伯にチャンスを与えてみないか?
 行き先は決まった。踵を返し、黒羽は教室ではなく廊下を歩き始めた。



 樹は生きているのだろうか。そして佐伯を、最後まで残った自分までが見捨てて、果たして良かったのだろうか。
 木更津は、一階へ下りる途中の階段に腰かけ、徐々に下降していく水位を無為に眺めていた。今は佐伯からも黒羽からも距離を置きたいと思ったからには、ひとりになる場所と時間が必要だ。幸い、他のみんなは津波を恐れて降りてはこまい。その策は当たったようで、今のところ誰も来ていない。
 今頃、黒羽たちは樹の手当ても終わり、救助が来るのを待っていることだろう。しばらく沈思黙考していたら分かったこともある。天根が罹患した病は破傷風以外にありえないだろう。結果的に見捨てたような形になってしまった。全てを黒羽に任せて自分は逃げたとでも、勝手に罵っていればいい。ストレスを当てる場所のひとつになっても構いやしない。
 そして一番の心配事は佐伯だ。ひとりになることを過剰に恐れていつも無駄なまでに男前なスマイルを掲げていた人間を地獄のどん底に落としたのは自分なのだろう。佐伯はそのような重圧で押し潰されたら、可哀想だとは思わない。所詮それまでの男だったということか。子供が必ず通る時代、ギャングエイジ――排他的な友達の集団――を輪の外から見てしまった恐怖は自分には想像しがたい。自分は公園に入ったころから黒羽のグループの中にいたし、自分も双子のひとりだと知られればどのグループでも遊びに加えてくれたから、確かに佐伯の言うことに間違いはないだろう。それでもあの状況で錯乱するのは自殺行為だ。ひとりが嫌いだと宣言しておいて、勝手に激昂して勝手にひとりになるのはバカのやることだ。思っていたより、佐伯は黒羽以上にバカなのかもしれない。みんなバカだ。そんなバカの集まりに自分がいるのも、自分の意志なのだろう。
 木更津は唇の間から息を漏らした。夜闇に異常に白く浮き上がった吐息は、停滞した夜気に融けた。その霞のように融ける息に手を伸ばす。指先が凍るように冷たいことに気づき、指を頬に当てた。全く同じ顔が、同じ空の下にいるのだろう。生まれてからずっと同じツラを突き合わせてきた、吐き気がするほど同じ顔が空の下、土の上に、ふたつ。
 たまにはひとりにさせてほしい。生まれてからずっと一緒で、淳が聖ルドルフに転校してやっと見つけた、個を個として見てくれる環境。木更津はそれがなによりの望みだった。
 生まれてからずっと、自分達は、亮と淳でひとりとして見られていた。ひとりで歩いていても、「木更津兄弟のどっちだっけ?」と声をかけられる。説明しても、違う人に間違えられ、きりがなかった。親も親だ。双子だから性格も同じだと思っていたのだろう。顔も同じ、血液型も同じ、身長体重、誕生日も同じ。現在の科学ではDNAで一卵性双生児だと証明することはできるが、一卵性双生児を見分けることもできない。勉強机も、クリスマスプレゼントも、与えられるものはなにもかも色違いの同じもの。親戚も、亮にビリジアングリーンのミニ四駆を持たせて、淳はベージュのミニ四駆。違うものを与えて喧嘩するといけないからという安易な理由だったのだろう。その思惑通り、贈られるものについての喧嘩はしなかった。しかし着実に鬱憤は溜まっていた。
 自分達は二人で一人じゃない、二人だから二人だ。そう宣言するのも億劫で幼稚だ。だからやらなかった。自分は自分だ。既に周囲に認知されているし自身もそう思っているから、いまさら確立してどうするというのだろう。しかし自己が確立されていても、周囲の人間は自分を木更津兄弟の片割れとしか認知しないことだろう。亮は淳を恋い、淳は亮を厭う。久しぶりに会えば変わると思っていたが、結局淳の方が拒否して会えなかった。どうして会えなかったのだろう。その気持ちを無視して会えば、少しは関係も改善されていたはずなのに。はねつけているだけでは変わらない。そういえば佐伯はなにも知らず、双子だからいいよ、なんてぬかした。
「双子の気持ちなんて……誰にも分からないよ」
 声は雨の音に融ける。消えるのに時間はかからない。
 時間が思うより早く過ぎていく。水が一階の床まで下がったのはもうかなり後のことだ。五メートル以下の津波であれば鉄筋コンクリートの校舎は耐えられる。
 もしまた津波が来た時は階段を上って逃げればいい。自分は葵のように捻挫をしているわけでもなく、天根のように破傷風に侵されているわけでも、樹のように怪我をしているわけでもない。また、黒羽のように樹と天根を看ていなければならないわけでもない。佐伯は自戒が渦巻き、精神的な磔刑に処されているようなものだ。そんなに足に重りがついているわけでもない。いつでも逃げられるから、木更津はいまここにいる。
 牢のような手すりを右腕で掴む。少なくても冷たい。すぐに寒さを思い出す。凍死はしないだろうか、いや、してもおかしくはない。しかしもし死ぬなら、自分と同じ顔をひとつに減らしてから死ぬ方を選択しよう。凍死するのは美しいが、自分かもう片方の顔が残るのはいやだ。
 もしかしたら佐伯が自分たち兄弟と一緒にいるのを好んだのは、片方を知ればもう片方も知ったような気になるから、少しは知らない顔を減らすことができるということだったのだろうか。
 佐伯と別れた今では、それも関係ないことに分類される。
 はぁ。一息。
 雨脚が少しずつ弱まっているのか、窓の外から雨の音が漏れ聞こえている。そのとき、木更津は雨に紛れるような水の音を感じ取った。ぴちゃ、ぴちゃ――音から察するに誰かの足が水溜りを踏む音ではない。佐伯は一階にいなかったし、黒羽は待機室である一年A組にいるだろう。不規則で、それでいて生っぽい。生きた生魚が跳ねているようだ。その水音は階段下から聞こえてきている。
 木更津は重い腰を上げ、低い段を一歩一歩下り始めた。自分の足音と水音を頭の中で照合するが、足音ではないという結論の補強にしかならなかった。誰かが来てくれたらいいと思った自分が、誰を心待ちにしていたかについて考えると、反吐が出た。どうせ自分から離れたのだ。いまさら戻るのは賢明ではない。それに戻ってきてくれと言われても戻るつもりは毛頭なくなった。黒羽も片割れも佐伯も嫌いだ。
 一段、一段、最終段。静寂に沈んだ廊下には生の気配すら消え失せている。割れているガラスは異界への入り口に見えるし、天井からも水がしたたり、一滴ごとに反響音を幾重にも重ねている。そしてなによりも生臭い。磯辺の腐った苔のようなにおいと、生魚のようなにおいが混ざり、吐き気を催すような臭気に変質している。木更津は無駄な抵抗と知りつつも口を覆った。
 木更津は睨むような目つきで周囲を見回した。その水音の音源を探して視線を床に巡らせる。見えるところにないことに気づき、歩みを進めた。そしてそれは、身構えていた木更津が拍子抜けするほどあっけなく探し出すことができた。廊下の真ん中にあった一匹の魚である。まだ生きている。これを料理すれば、樹や天根も元気になってくれるかという考えが脳裏によぎったが、その魚をまじまじと見ると、それは普通の魚ではないことに気づいた。
 小振りのマグロほどもある図体に、長い六本のヒレ。生白い腹に、銀色の鱗。そして、人の顔。見たことがあるどころではない。時間はかなり経ったものの、今日見たばかりの怪魚。
 人魚だ。その奇怪な魚は、青白い顔を苦悶に歪ませ、水を求めてのた打ち回っていた。その光景のいかに凄絶なことか。人間と魚を交配したかのような悪夢的な産物である。ローレライの伝説にあるように女性的なまで美しい横顔は、呼吸のできない苦痛に醜く歪んでいる。
 驚いた瞬間思わず後ろに跳びのき、狭い廊下の壁に背中から衝突し、角度が悪かったのかそのまま斜めに倒れた。喉の奥がうめきを漏らした。
 なんだこれ。そう呟くより前に、その怪魚が、ぎろ、と瞳をずらした。目が合った。その苦悶の眼球には苦しみよりも痛みよりも強く、敵意を剥き出しにしていた。
 その刹那、どおお、と騎兵の軍勢が戦の始まりを告げる雄叫びのような重い音が窓の外から聞こえた。その音には聞き覚えがある。地震が起こって五分と経たない内に聞こえた、全てを海の下に沈める神の敵意だ。
 木更津はつるつる滑る壁に手を突き、転びそうになりながら立ちあがった。判断したのではなく、脊髄まで伝わって身体が脳より先に動く条件反射のようなものだった。一刻も早く上の階へ逃げないと海に呑まれる。それだけは避けねばならない。
 ほうほうの態で階段に足をかけた瞬間、助かった、と安堵した。後はこの階段をひたすら上っていくだけだ。
 ガラスの割れる音がした。振り返ると同時に、一挙に膝から下が滑り、身体全体が水の中に没した。ごぽ、と口から泡を吐き出す。手だけは手すりを握っていたのが功を奏してか、木更津は廊下には流れ出さなかった。それが唯一の幸いとはいえ、水位は見る間に上昇し、足がつかなくなった。右手で流されかけた帽子を押さえるが、それはまだ余裕があった証拠だろう。顔を水面に出し、息を吸う。呼吸するのが半年振りのようにさえ感じた。手すりを伝って上ろうとするが、水の圧力は半端なものではない。木更津は両手で手すりを掴み、さながらロッククライミングのように階段をあがっていった。踊り場まで上らない内に息が荒くなる。どうにか膝まで水位を下げた時、それは起こった。
 突然、まだ海に浸かっているふくらはぎに咬まれたような激痛を感じたのだ。痛みは咬みついているなにかが身じろぎし、食い破ろうとする度に塩水が傷に触れて更なる激痛を呼ぶ。その痛みが二箇所に増え、刹那、木更津は海の中に腰まで引きずり込まれた。頭を、ごっ! ごっ! ごっ! と段に打ちつける。その瞬間、「亮」であれば起こらない変化があった。階段に打ち据えられて帽子が階段に残されるのとほぼ同時に、長い髪が頭の形を半分保ちつつごっそりと波の中に揉まれて消えたのだ。そのウィッグの下から現れたのは、そんなに髪の短くもない木更津淳の、恐怖に震える表情だった。
 既に激痛を訴える場所は脚のほぼ広範囲に及んでいた。淳はその中の一匹を尾から掴むと、無我夢中で自分の皮膚ごと水面上に引きずりだした。そして階段に振りかぶって打ちつけると、怪魚はもんどりうって海に帰った。自分の周囲が傷口を中心に赤く染まった。淳の脚はまるで餌であるかのように人魚に食いつかれていた。海の中に引きずり込まれるのを暗に悟り、淳は必死で同じことを繰り返した。魚には階段で命尽き果てるものも命からがら水中に帰ったものもいた。そして人魚の群体と自分の力の不等号が逆転する最後の一匹を階段に叩きつけた瞬間、水面上である脇腹で今までよりもずっと大きな痛みが爆発した。深々と突き刺さった歯列は真皮をやすやすと食い破り、筋肉を千切り、内臓まで達した。今までポーカーフェイスを保っていた顔も喉も引き攣りきり、仮面をかなぐり捨てた。
「うっぐ! あ、うあああっ――!」
 叫んでも、反応するものはいない。淳は更なる恐慌に支配され、必死で水面から這い上がった。そして自分の脇腹に食いついた人魚の尾を掴むと、力任せに床に叩きつけた。頭蓋骨の割れるような音がした。淳はボロ布になったようなズボンを血に浸し、ずるずると立ちあがった。白い帽子を踏み、その帽子が白と赤のまだらに染まった。壁に背中を預けたまま、淳は脇腹の傷を押さえる。血は止まらない。
 助けて、助けて、でも誰に、黒羽は駄目だ。佐伯も駄目だ、かといって今から樹や天根に助けを乞うのも間違っている、自分は深手だ、このまま生きていることなんてできやしない、こんなに血が出ているんだ、もう下半身は傷だらけの血だらけでまともな皮膚はどこにも残っていない、自分の靴跡がそのまま血の筋になっている、いまさら生きたい、なにをぬかすんだ、さっきもし死ぬなら顔が残らないようにと願っただろう、それは双子である自分が一卵性双生児であることを拒否しながらも双子という存在に執着していることの証左じゃないか、いまさらなにを言う木更津淳、
 でも俺が死んだら亮はどうする? あれほど自分が転校していくのを拒否していた亮だ、自分の半身だと思っていた兄弟の別れに既に心を痛めていた片割れの心は自分だからこそよく分かる、もし俺が死んだら亮はどうなる? そういえばシャム双生児で片方が死んだら数時間後にもう片方も死んでしまったという話を聞いたことがある、亮も死んでしまうのではないか? それは断固として許さない、亮なら地獄までついてくる気だろう、それなら自分が生き抜くしか道はない。もうひとりにさせてくれ。死ねば同じところに行くのだろうが、生きていれば双子というレッテルは貼られるもののひとりになれる。
 心臓の鼓動に合わせて痛む左脇腹を右手で強く掴む。それでも血液は指の間から溢れ出して止まらない。このまま死ぬのだろうか。それは絶対に嫌だ。
 そのとき、ふと視界の端に、人魚の死体が掠めた。オジイの話してくれた八百比丘尼の物語を思い出した。人魚を食べて不老不死になった女性の話。人魚を口にすれば、永遠の命を得ることができる。今自分は死ぬかもしれない傷を負っている。それならば食べれば傷が治り、生き抜くことができるのではないか?
 淳は忘我のまま、人魚の死体に手を伸ばした。そして生白い腹に歯を立てる。身は軟らかく、生身でも甘美なる芳香が立ち上った。舌がその魔力に囚われる。これほどまで美味しい肉があっただろうか?
 そして淳は人魚の死体を貪るように胃に送っていった。海の迫る階段で静かに肉を咀嚼する音が反響していた。

 ――暗転。
 


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