どこをどう巡っていたかは分からない。佐伯が今いるのは、普通教室の延々と並ぶ南舎である。佐伯のいる階では上にも下にも階段が続いている。
 その廊下を一番奥まで脚の選ぶままに進み、その結果二年生の教室に居候せざるをえなくなった。壁の突き当たりにある教室のドアを開き、津波で倒された椅子と机をわざわざ起こして、倒れこむように座った。勢いは多少衰えたものの雨は依然止まない。水溜りに雨粒が自然落下して、すぐにごく少量のプラスとなって校庭の水没面積をいたずらに増加させているだけだろう。これだから雨は嫌いだ。なによりも嫌だ。この心さえ冷やす雨を止められるならてるてる坊主を千羽鶴のように連ねてやってもいい。それでも雨を止められるわけではない。時間だけが気まぐれに雲を払っていつか太陽を呼び寄せる。
 樹を刺し、黒羽に嫌われて、戻ってくるなというようなことを言われて、何時間が経過したのだろう。佐伯はびしょ濡れの机に、なにも起こらない授業中居眠りする時のように両腕で互いの両肘を抱いた。空いた空間に顔を横様に押し付ける。木目が冷たいのは最初だけだ。そのうち暖かくなるだろう。その前に自分が冷たくならなければの話だが。
 時間の感覚がない。あったとしても、それは客観的なものだ。朝の十分が昼の一時間に相当するように、時間は主観的なもので、遠い昔の学者や現在の電子時計とやらが主観の流れに規律を求めているだけなのだ。実際、佐伯には五時間も六時間も経過したように感じる。眠れない夜の罠に囚われたときの感覚だ。すっかりと目が冴えている丑三つ時のように、周囲になにか得体の知れぬ存在の種が芽を吹き伸び絡み合い繁茂しているのかもしれない。そう思わせる強制力を持つ夜は圧倒的な質量で佐伯の肺を押し潰す。
 樹を助けようとして、樹を刺し、黒羽に嫌われて、木更津とも喧嘩をしてしまった。バカのやらかすことだ。本当に自分はバカだ。磨耗しすぎてあらゆる感覚器官がすりへったような心でひとり思う。ひとりでどうしろというんだ。考えるしかないだろう。それは貴公子の仮面に隠していた自分の感情と向き合わねばならない時間だった。いろいろありすぎて、心がのっぺりとした皮膜で覆われているかのようだ。もう死にたいとすら思わない。かといって生きる決断も下せない。惰性に身を任せて生きているだけだ。それを生きているとみなせるかどうかは判然としないが、心臓も動くし肺組織も伸張と縮小を繰り返しているので、生きていると言わざるを得ない。
 どこの怪我も病気もしていない身体を樹にくれてやれたらどんなにかいいだろう。樹を包丁で背中から胸までを深々と突き通したのは他でもない自分だ。その苦痛を自分で知るべきだ。樹は今でも傷の痛みと苦しみに耐えているに違いない。自分が犯した罪を樹が償っているようなものだ。樹が助かってもこの身はいずれ独房に入る身だ。そうしたら確実に社会から抹殺される。人間がなにかをなそうとすれば人間が関わらないものはない。
 生きている意味はないけれど、確実に存在していることだけは事実だ。
 鏡を見たら、地獄に落とされることをたった今告げられた死者のような表情をしているのに違いない。はっ、下らない。人間の世界は世知辛い。それは昔から知っていて、あえて楽しい世界だけを見てきただけだ。
 佐伯は椅子を蹴って立ち上がると、スニーカーの底を引きずりつつベランダに向かった。ドアを横に滑らせるとちょっとした爆発のような大きな音がした。力を入れすぎたらしい。知ったことか。佐伯はそのままベランダの手すりに両手をかけ、下方に視線を向けた。先刻、少し大きめの津波がきたばかりで校舎の一階部分がほぼ全て沈没している。二階まで浸出して自分を呑み込めと己を呪ったが、こういうときに限ってカミサマという存在すらもあやふやな人格は意地が悪いらしい。
 三階か屋上ならなんの苦もなく死ねるのかな。生きていてもしかたのない命ならばくず同然だ。風前の灯というのはちょっと違うかな。破滅を望む願望が唇の端を緩やかに持ち上げる。
 生きていたくない。生きたくない。ひとりだなんて死ぬのと同じだ。生きて行きつく先が永劫の孤独なら、いま生きるのもすぐ死を選ぶのも同じことだ。佐伯はひとつ息をつくと、ベランダに足をかけ、重心を手すりの外に移動させ、手すりにどうにかして腰掛ける。後はこの先から飛び降りるだけ。
 しかし足の爪先からわずか五十センチほどしかない海へ飛び降りても、死ねるという保障はない。ぷかぷかと波に浮かんで最悪助かるだろう。それでどうしろというのだ。はっ。渇いた笑いが零れ落ちる。はっ、ははっ。オジイのように干からびた空笑いが止まらない。延々と口腔から発せられて、波の間に間に呑まれて消える。
 佐伯は再度ベランダに足を下ろし、雨に濡れた手すりを両手で掴んだ。ただひたすら寒かった。誰かひとりいれば、こうして冬の寒さをしのぐこともできただろうに。今後悔しても遅いのは分かりきっている。それでも、悔やまずにはいられない。冷たい金属の手すりに、ぎゅ、と力をこめる。指の関節が夜目にも白く変色する。津波に呑まれて海と化した茫洋たる景色は、わずかずつの時間差で押し寄せる波に漂い、時雨のように長く尾を引く雨があまねく水面に波紋を生んでは紛れて消える。
 そのとき、不意に意識が向かったズボンのポケットに、なにか紙のようなものが入っていたことに気づいた。おもむろにポケットを探る。水に濡れてズボンの生地に折れ目のところどころ擦り切れた、なにかが印刷された紙だった。表面に目を凝らすと、上段では天根と木更津の間に入った黒羽が両側に手を回し、下段ではオジイを中心に自分達がカメラにありったけの、それでもカッコつけた笑顔を向けていた。いつか撮った集合写真だ。地震が来て校舎に逃げようとしたとき、咄嗟にポケットに入れてそのまま忘れていた。
 男子にしては細い指で表面を拭った。明度が足りないせいでモノクロにしか見えないびしょ濡れの写真。それは佐伯が今の今まで世界と同等にしてきた、いや、世界そのものがそこに写っていた。寸分違わぬ幸福の象徴が、屈託もなく写真の奥から自分を覗き込んでいる。ウインクをしている黒羽に至っては、これから潮干狩りに行くぞとでも言いかねない表情をしていた。
 もう、黒羽のあのさばさばした笑顔はもう戻ってこない。
 戻らない。
 戻れない。
 懐かしき思い出は、もう過去のものとなり、幸せは幸せのまま埃をかぶり朽ちてゆく。理由もなく押し寄せる時間は、いずれ樹を殺すだろう。写真の中からひとり消え、ふたり消え、それでも黒羽の笑顔は変わらないのだろうか。サバサバした顔で、また潮干狩りに行こうと、樹を殺した自分に言ってくれるのだろうか。
 そのとき、視界に映る全てのものが輪郭を失い、モノトーンの景色が形を失った。頬に熱い筋が一筋、顎を伝って海にささやかな波紋を広げる。頬に指を当てると、既に冷やされた水が指紋に絡みついた。この雫はなんのために目から溢れて零れ落ちる。すっかり疲弊して、もうありとあらゆる感情が擦り切れて、もう悲しみも喜びもなにもかも感じないとばかり思っていたのに、どうして自分は未だに生に執着しているのだろう。いきたいと願う身体が、死を望んでやまない精神を持ち直させようとしているのか。
「ごめんなさい」
 ごめん。ごめんなさい。
 いっちゃん。バネさん。剣太郎。ダビデ。亮。首藤。オジイ。
 助けられず海に沈んだ樹の弟。何処にいるか分からない樹の両親。樹の姉。
 そして自分の父と母。
 ごめんなさい。ごめんなさい。こんな弱く育って。簡単に潰れるなんて思わなかった。
 今まで空笑いしかもたらさなかった声帯が、初めて声を発するようだった。声は誰ともなしに、しきりにごめんなさいと繰り返した。それは樹にも言えず、黒羽にも話せず、木更津に至っては呟き返せることもできなくなった、最後まで残った意地が本音を解放する言葉だった。
 佐伯はその場に崩れ落ちた。折った膝を冷たいコンクリートの表面に突き、剥き出しの床に爪を立てた。爪はやがて拳に変じ、その場でどんどんと何度も叩いた。血が滲むようだった。口唇の端が奇怪に吊りあがり、しゃっくりに震える。生きていられなくてもいい。だから誰でもいい、自分を許して。虫のよすぎる話でもいい。本当に誰でも構わない。今すぐにこの身を刃で刺し貫いてもいい。今すぐこの場で命を放棄してもいい。誰でもいいから。俺を――
 しゃっくり混じりにどうにか言葉を振り絞る。
「……ひとりにしないで……」
 言葉が途切れた。親を見失った子供のように、佐伯は泣いた。
 涙が枯れてもなお、佐伯は泣き続けた。しゃくりあげ、声を押し殺せぬまま、延々と涙を指の間から零した。
 ようやく泣く力もなくなった頃、佐伯はもう一度その写真を見た。写真の中は二度と戻れぬ夢の世界だった。ガラスのように透明だと思っていた夢が、現実への目覚めと同時に崩れ去る。アリスは白ウサギを追ってはきたものの目覚めれば全てはなくなってしまっている。今までは夢を見ていたのだ。なににも代えがたい夢を。生の価値に比べれば遥かに楽しく、そして代償も大きな夢を。どんなに楽しくても、二度と同じ夢路を辿れない。忘れはしない幸福の烙印を胸に抱いて生きていくことになる。
 枯れ果てたはずの雫が一滴、写真を濡らした。指が木更津のニヒルな笑顔を拭い、
 違和感。
 そのとき、佐伯は木更津に奇妙な感じを覚えた。変だ、と思うのは一瞬だったが、脳裏によぎって闇に葬られるはずだった可能性を思わず捕まえたら、その理由を探さずにはいられなかった。まるでトランプを何度数えても五十五枚あったときのような、言いようもない奇妙な感覚である。写真の中の木更津は、なんてことはない、赤い帽子をかぶっている。肩甲骨を隠せるほど長い髪にかぶさる、前方につばの伸びた帽子だ。木更津の常態である。それに何故か、違和感を覚えた。
 待て。今日見た木更津は、何色の帽子をかぶっていた?
 佐伯は思考を巡らせた。木更津の最後の後ろ姿。失望した眼差しさえくれなかった木更津の後姿。その最後に見た木更津で一番目立っていた色は?
 そうだ、思い出すんだ。何色の帽子を木更津はかぶっていた? 赤ではない。暗闇の中では赤やオレンジ系統の色は紛れて見えない。それでは紛れない色は? 黒は、暗黒に融けはしないが紛れて消えはしない。木更津は夜に目立つ帽子をかぶっていた。わずかな光でも反射する色は……
「白……」
 いてもたってもいられなくなった。佐伯はまだ乾かない袖で顔を一度拭うと、弾かれるように立ちあがった。開け放していたベランダの窓から教室に入り、廊下に飛び出て、壁に手を突いて衝撃を進行方向に転換し、スピードを上げた。走る途中、胸ポケットに写真を詰め込んだ。
 木更津亮はどんなことがあっても赤い帽子を手放さなかった。表向きには「ジャージに合わせるなら赤だろ」と言っていたがその実、血の色だからと前に答えたことがある。赤は双子の絆を表す色だと、六角メンバーのパーティーで、内緒で酒を飲んだときにうっかりこぼしていた。母体の出産の時、産道を通る嬰児は母の血を浴びて外に出るのだという。同じ血を共有し、同じ母の血を浴びた象徴だと、酔った拍子に口に出していた。
 何故今まで気づかなかったのか。木更津は、今日に限って白い生地の帽子をかぶってきていた。それだけで決め付けるのは尚早かもしれないが、真相には一番近いものと思える。
 どこに行けばいいのか分からなかったが、とにかく手前からひとつひとつの教室を見て回った。しかし二階のどの教室にも人影はない。そして一階は海に天井まで浸かっている。三階か屋上だろう。しかし屋上はこの季節では寒すぎていられたものではない。三階か。佐伯は階段に足をかけ、そのとき、徐々に一階へ下がっていく水面に無数の魚が浮いているのを見つけた。思わず足を止めた瞬間、その魚は普通の魚ではなく人面で、かつ腹の部分がごっそりと削ぎとられていた。よく見れば、腹をえぐられた魚は一匹だけではない。散らかっている物体は全てが魚の残骸で、顔だけが残されていると思えば尾びれだけが残っているのもある。周囲はまさしく血の海で、鉄錆のにおいと混ぜ合わされたように魚のにおいが充満し、胃の奥が締め上げられるような吐き気を感じた。
 佐伯は一階へ向かう階段へ向かい、同時に気づいた。足元に、白と赤のまだらに染まった帽子がひとつ、忘れ去られたように落ちていた。佐伯は血の海に靴を浸すのを一瞬だけためらったが、水面から数段上に置き去りにされた帽子を拾うためにかがんだ。血に染まり、水に濡れた帽子の色は間違いなく白だ。間違いない、木更津亮は普段、赤い帽子しかかぶらなかった。今の木更津は、
「サエ」
 背後からかけられた声は、木更津のものではなかった。
 佐伯は「亮」と呼びかけて反射的に振り返ったものの、階段の中ほどで手すりを片手に立ち往生していたのは、木更津よりも遥かに背の高い影だった。背が高く筋肉質、短い髪。見間違えようもない。数時間前に佐伯を追放し、その場を去った黒羽春風その人であった。
 もしかしたら許してくれたのかもしれない。ひとりになるのを恐れている佐伯に、再度チャンスを与えにきたのかもしれない。脊髄反射のように救いの道を思い浮かぶ。バネ、と呼びかけようとした矢先、黒羽の周辺にわだかまる空気は全く友好的とはいえない色をしていたのに気づく。佐伯は片手で帽子を持ったまま血の海に手を突いた。
「……それ、なんだよ」
 非友好的、という言葉だけでは説明できなかった。ひどく混乱している。そして怒りという炎が理性を煮沸しているかのような、そんな不安定さがあった。
 佐伯は自分の状況に、不意に理解が及んだ。自分は血の海にいて、血染めの帽子を持っていて、木更津はこの場にいない。黒羽の脳味噌の立場に立って考えてみろ。血染めの帽子、それだけで、現実とは全く違う物語が出来上がってしまう。そんな事実は毛頭存在しない。しかし黒羽はそう考えてもおかしくないだろう。
 予想通りというべきか、最悪の結果というべきか、黒羽は愛想を尽かしたようにくるりと背中を向けて階段に足をかけた。
「バ、バネっ」
「お前亮まで……」
「違うっ! 俺は亮を探しにきて、」
 その瞬間、佐伯は「本当に亮の方を探しにきたのか」という自問に捕われ、思わず口をつぐんだ。刹那の沈黙を見逃さず黒羽の静かな反撃が加わる。
「言い訳か。いっちゃんだけじゃなく亮まで手にかけやがって」
「違う、違うんだ!」
「そんな言葉はもう聞き飽きたぜ。お前が救いようもないやつだってのはもう分かった」
 佐伯は手すりに手をかけ、弾かれたように立ちあがった。黒羽の背中に佐伯は必死で否定の言葉をかける。
「バネ、」
「もう二度と俺達の前に姿を現すんじゃねえ。またお前の姿を見たら、俺がどんな行動に出るか分からねえ。命が惜しいならどっかに引っ込んでろ」
 命なんて惜しくない、だから、
「頼む、話を……」
 佐伯から黒羽の背中が見えなくなると同時に、言葉も返されなくなった。さよならの一言さえ、なかった。
 足音が遠ざかっていく。止められない。唯一の希望の糸が切れたかのようだ。蜘蛛の糸に取り縋って天国を望んだカンダタは今の自分のような心境だったのだろうか。
 口腔から、空笑いが漏れた。声帯が引き攣ったらこんな笑い方になるんだろうか。ひっ、ひひっ、と涙声未満の音が喉から零れて、佐伯は前髪に指を埋めてその場に膝を突いた。顔を掴む指の間から佐伯は発狂寸前の引き攣った笑顔をのぞかせた。
「はっ、ははっ……俺が亮を殺したってさ」
 誰に言おうとしたのかは分からない。自分に言ったのかもしれないし、何処に隠れているか分からない木更津に言ったのかもしれない。もしかしたら今の言葉には、伝える人など予め存在しなかったのかもしれない。
 まただ。この連鎖。どうしてこんなにも間が悪いのだろう。自分さえなにが起こったのか知る由もないというのに、黒羽は勝手に勘違いして去っていった。それも上等じゃないか。もう毒を食らわば皿までだ。徹底的に嫌われればいいのだろう。もう嫌われたのだ、愛想を尽かされるほど。それならばもう徹底して嫌われればこっちも気が済むというものだ。翌朝になって救助隊が来たとしても、黒羽の告発によって自分は囚人の巣に放り込まれることになるだろう。樹を刺し、木更津を殺したとして長い刑期を終えて戻ってきても、もう二度と黒羽の笑顔を見ることはできない。二度と、仲間に入れてくれない。
 もう普通の人間の中では生きていけない。佐伯の愛する普通が失われ、人として当たり前の生活も送れずに監獄の中で年老いて地獄に落とされるのだろう。それならば人に嫌われ続けて生きていこう。どうせ死ぬ覚悟もない。
 佐伯はふらりと立ちあがった。その場を見た人がいたとしたら幽霊と幻視するだろう。その姿は印象に一寸違わず鬼哭啾々然としたものだった。破滅の雨に晒されて、発狂すれば楽だというのに、それを残り少ない理性で繋ぎとめている。
 雨脚が強くなる。佐伯は足元も見えていないようにたどたどしく歩く。指先が氷のようだ。
 佐伯は階段を後にして角を曲がる。それと同時に黒羽ではない声が雨音に混じった。「サエ」と呼ぶ、声さえ出すのもやっとのようなか細い声だ。佐伯は緩慢たる動きで声の方向に首を向けた。髪が耳まで短くなっているのにも関わらず、木更津亮と全く同じ容貌の人間。それが木更津淳だと気づくには、現在の佐伯には少々の時間を要した。
「あ――つし?」
 名前を呼び合い、少々の沈黙が訪れた。雨は沈黙を埋めない。
「お前……どうして」
 ここにいるんだ。
 そう尋ねようとした瞬間、突然淳の膝が崩折れた。佐伯は反射的に淳の前に駆け寄ってその身体を支えた。世界が一気に明瞭度を取り戻した。目の前にいるのは亮ではなく淳。正面に佐伯も膝を突き、びしょ濡れのはずなのに何故か体温の高いその肩を掴む。淳はうつむいたままなんの言葉を発する気配もない。目はうつろに開いているので言葉は聞こえているようだ。
「淳、あつしっ!」
 佐伯は何度も呼びかける。大丈夫か、と言おうとした瞬間、淳が左の脇腹を強く押さえていることに気づいた。その手をどけさせると、その脇腹からは大量の血液が服を濡らし、更によく見れば歯の形に深くえぐられていた。待ってろ、と言いつつ佐伯は乾き始めている服の袖を破り、淳の傷口に当てた。手で払いのけられる。拒否された。
 駄目だ、手当てしないと。佐伯はそう言い聞かせると、淳の脇腹に強く布地を押し当てた。
 すると淳は、ふ、と顔を上げた。亮と全く同じ顔、それが佐伯の顔の目の前にあった。お互いの鼻先はちびた消しゴムひとつ分の距離もない。淳は温かいを通り越して熱い指を佐伯の頬に這わせ、そして一言返した。
「りょう、じゃ、ない」
 突然の物言いに、佐伯はその意味を理解しかねた。そうだよと淳の言葉を補強しようとした刹那、目の前の顔は不意に視線を落とした。
「ひとりにしてよ……」
 咄嗟に返せなかった。淳は誰の言葉も聞こえていないかのように、がらんどうな言葉で呟く。
「もうやだ……かおがまだひとつあるなんて」
「淳――?」
 淳は佐伯の心臓近くの布地に、縋りつくようにしがみついた。力なく首を振る淳に、長かった髪の面影はもうない。
「いやだ。いやだ。ひとりにして。ひとりになりたい。ひとりに……」
 瞬間、佐伯は淳が孕んでいた空気に、魚と臓物のにおいが強くこびりついていることに気づいた。その臭気と、階段近くに転がっていた魚の残骸が合わさり、像を結んだ。それはつまり――「淳が人魚の肉を食べた」こと。
 佐伯は淳の両肩を強く掴み、前後に振った。
「お前、もしかしてあの肉を」
 佐伯の言葉は、聞き入れられなかった。その言葉が、淳が淳でいる最後の言葉となったことに、佐伯は最後まで気づかなかった。
「りょうは、どこ――?」
 瞬間だった。自分に抱きついてきた、と思わせた淳の腕は佐伯を強く固定し、首と肩の付け根に、その歯を突然に食い込ませたのだ。激痛が爆発した。佐伯の喉が激痛に絶叫を発した。それと同時か、淳の肩を掴んでいた指が奇妙な感覚を覚えた。まるで皮膚の内側から沸騰しているかのような、ぼこぼことした感覚である。それは第一印象に違わず、そのまま爆発的に膨張し、背中から風船のように膨らんでいった。服が破け、足元でボロ布と化す。
 悪夢の産物だった。夜が悪夢の一人舞台だということを差し引いても、膨張していく淳はそれだけの畸形と成り果てていた。身体の半分ほどが肉の塊と成り果てたところで、淳の歯は佐伯の肩の皮膚を噛み切って、そのまま膨らんでいった。
 もはや人間とはいえまい。人間どころか生物の形すら逸脱した、醜い、肉の塊と成り果てていく光景。
 正視に堪えない化生の誕生が、正に目の前に広がっていた。佐伯は腰を抜かした状態で腕だけを使って後ろに退る。まだ腕や足の形だけを保っているのが、これが「元人間」だという、認めることもできない証拠にもなった。その肉塊が自分に向けて手を伸ばし、「サエ」と輪郭も崩れた低い声を廊下に響かせる。
 もう耐え切れなかった。佐伯は回れ右してそのまま駆け出した。あの化け物よりもずっと遠くの場所へ。離れられる場所へ。
 拙いながらも黒羽と会えないというだけの脳味噌は働かせて、北舎への渡り廊下を駆け抜けた。そして屋上への階段まで一気に駆け上る。
 そのとき、足元が不覚にも滑った。足裏にかかっていた負荷が忽然と消え、手すりを掴んでいなかった佐伯は、そのまま階段を転がり落ちた。こうべが一度、これで脳細胞が千個は死んだなというような衝撃を受けて、意識が暗黒に落ちた。
 意識を失う佐伯の真横に、胸ポケットから落ちてぐしゃぐしゃになった写真が一枚、寄り添っていた。その写真に、木更津淳の姿は既になかった。
 


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