「いっちゃん……俺、先にあの世に行っててもいいっすか」
 葵が黒羽を追ってトイレに行き、すぐ。葵は捻挫によって素早い行動ができず、本来なら一分で済む用事が何分にも長引いているからだ。一年A組の床には、天根と樹だけが力なく横たわっていた。オジイは窓際でなにも聞こえていないかのごとく外を眺めている。樹に至っては外傷のショックが長引いているのか息も荒く、さして暑くもないのに冷や汗が皮膚に浮いている。天根の、全てに疲労しつくしたかのような声は、雨音に融けるか融けまいかというほどのかすかな声だった。
 樹は首をどうにか天根に向けた。今の天根は口から猿轡を外し、発熱と繰り返す発作の恐怖に怯えた顔で樹を見ていた。
「なに、いってる、のね」
 そう答える樹の口調も、荒い息に混じってかすれていた。天根は更に、筋肉の硬直のせいでやや舌足らずに答えた。その口許は何度か起こした痙攣で噛んだ頬や舌からの出血で汚れている。
「もう俺、限界、す」
「だから、なに、いいたい、のね」
「先に、昇天、したいんす」
 もう一回笑天見たかったけど。天根はプッと噴き出したが、その笑い方にもいつもの覇気が跡形もなく消えうせていた。
 天根の発作は、樹も目の前で何度も見た。黒羽でも押さえきれない痙攣に襲われ、苦しみにのたうちまわり、なんどとなく絶叫を聞いていた。そのせいか、声もややかすれ気味に聴こえる。樹は思わず天根に這いずって近づいた。首を横に振りつつ樹は語勢を強める。
「だめ、なのね」
「どうして、すか、」
「ダビデが死んだら、バネが、」
「俺は……っ、」
 天根は苦しげにうめき、心情のひとかけらを吐露した。
「これ以上、バネさんに心配、かけたくないんっすよ」
「それは、俺も、同じなのね。バネだって、ダビデを、生かしたいと思う、はずなのね。だから、生きなきゃ、」
「……生きる理由って、なんなんすか」
 理由。
「人が生きる理由が、もし、他人を助けること、だとしたら、俺はみんなが生き残るための、妨げに、なるっす」
 天根は天井を仰いで、腕を額に置いた。彫りの深い顔に無理な笑顔が作られている。苦笑い気味の笑顔は、筋肉の硬直とも見えるが、明らかに苦しみを和らげる緩衝材の働きしか為さなくなっていた。
「俺なんて、もう、荷物に、すぎないんすよ。一時的に、みんなを、悲しませるけど、その分、俺のことを、考えずに、みんな、自分が生き残ることだけに、執着、できる。俺、分かる。もうすぐ死ぬんすよ、この身体」
 天根は引き攣りかけた笑顔を樹に向けた。
「だから、先に逝かせて下さい」
 もう痛いのも苦しいのも嫌だ。いっそこのまま、幸せだった中学生のまま、死なせてくれ。
 天根は痙攣の始まる直前のような、震える笑顔を浮かべた。
 椅子を倒すだけでもいい。それだけでも痙攣に繋がるから。俺はこの猿轡を外している。舌を噛んで死ねる。少し怖い。そして苦しそう。だけどこれからの苦しみに比べればずっとマシだ。俺を殺すんじゃなくて、この途方もない苦しみから救うって考えてくれればいい。天根はそんな感じのことを訥々と口走り、そして布製の猿轡を遠くへ放り投げた。
 早く。天根はがたがたと震え始めた手を樹に向けた。
 震えが止まらなかったのはむしろ樹のほうだった。天根に、殺してくれと頼まれて、今から椅子を倒して激しい音を出し痙攣を起こさせれば、天根は間違いなく痙攣のさなかに舌を噛んで死ぬだろう。それは天根の望むことだ。しかしそれを本当に実行してもいいものか? 間接的に人を殺すことになる、それでもいいのか? 佐伯は自分を刺したことで追放された。追放されてまで佐伯は自分を助けようとしていた。その佐伯を裏切ることになる。そしてなにより、自分達と何年もの間一緒にいた後輩を、この手で殺すことになる。
 いつも駄洒落を言っては場を凍らせたり和ませていた天根が、自ら死を望んでいる。
「早く、いっちゃん……」
 天根は樹に手を伸ばした。その手の痙攣が次第に強まり、指がびく、びく、と大きく引き攣る。なんどか見た、発作が始まる直前特有の現象だった。
「いっちゃん……」
 樹はがたがたと震える指で椅子の足を握った。天根は自分の胸ぐらを掴み、呼吸さえも困難なように息を吸い込んだ。その目は生きているものにはない、絶望の澪に沈没した船のような一縷の光もない表情をしていた。
「いっちゃ……」
 樹は机にすがって立ち上がろうとした瞬間、全くの不意打ちでその机が倒れた。がしゃあん、と金属の空洞が不快な音を響かせ、中に入っていた教科書やノートが散らばって倒れる。樹ももつれあって背中から床に倒れこんだ。最初の金属音を呼び水として、突如として天根の身体が弾かれたように弓なりに反った。瞬間、ぼぎ、とクレヨンを折る音の何十倍もの不吉な音が天根の脊椎から発された。言葉にならない絶叫が響き渡り、すぐに叫びは血泡をあわ立てたような音に変化した。激しい咳が血液を床と空気に撒き散らす。生臭い鉄錆じみたにおいが空気中に離散した。木製の床は血液に染まり、まるで地獄絵図のごとき凄惨さであった。床でブランケットを巻き込みつつのた打ち回る天根を、樹は恐怖の眼差しで凝視していた。全身の筋肉が細かく振動していた。それを止める術がない。
 苦しみに跳ね回る天根と瞳が合った瞬間、樹は逃げるように教室を出た。激痛でなんども壁にすがり、床に倒れ伏した。口に湧いた血の味を吐き出し、唇を拭い、それでもなお進むしかなかった。
 天根を殺した。殺してしまった。
 脳裏に巡る自己弁護の醜い言葉を、罪悪の処刑人が次々と斬り捨てていく。天根は、自分を助けるつもりで、と言った。しかし殺人は殺人だ、殺したのは紛れもなく自分なのだ。殺人犯となった自分が助けられる人は誰だ。黒羽? 葵? 亮? オジイ? いや、そのどれでもない。このままだと闇に葬り去られる可能性があるのは彼だ。自分は死ぬ直前でもある。その彼を唯一助けられる方法は……
 樹は絶望の中にたったひとつの希望を見つけ、階段をずるずると上った。樹が見つけた希望は、自らを破滅せしめん希望だったが、それしかなかった。ずる。ぺた。ずる。ぺた。血を吸った靴下が、暗黒に包まれるほど黒い足跡をつけ続ける。
 佐伯を助ける方法を見つけた。ただひとつしかないその方法。樹は、破滅の道へと、一歩ずつ確実に進んでいく。


 黒羽春風は階段をひたすら上っていた。一歩一歩に強く力を込めながら、自らも気づかぬうちに肩を怒らせて進んでいる。食いしばった歯の奥が、ぎりりと鳴った。
 まさか佐伯が本当に亮を刺したなんて。想像にすら及ばなかった。いや、樹を刺した時点で予想すべきことだったのだ。あの時自分が、引きずってでも亮を黒羽側に連れ込んでいたら、亮が殺され佐伯が罪を重ねることもなかったろうに。黒羽は歩みを止めないまま、爪が手のひらに食い込むほど強く握り締めていた。今ほど自分の無力を痛感したことは一度しかない。数年前のあの日以来、黒羽は新たな犠牲者を出さないように周囲に細心の注意を払って生活をしてきた。それを、佐伯の手によってこんなにも簡単に破られようとは悪夢の中でさえ思い浮かばなかっただろう。
 黒羽は三階に到着する。そのとき、今までに何度か聞いた天根の悲鳴と、葵の悲痛な叫び声が廊下にまで轟いた。叫びを聞いた瞬間、黒羽は考える前にA組の教室に飛び込んだ。案の定というべきか、またしても天根の痙攣が始まっていた。天根は声にならない絶叫を闇の中に迸らせており、葵はその天根に弾き飛ばされそうになりながら、必死で痙攣をする身体に上から覆いかぶさっていた。黒羽は葵を弾き飛ばして、たったひとりで天根を押さえにかかった。先刻までの痙攣より、かなり力が弱くなっている。何故だと自問自答する暇はなく、黒羽は泣きそうになっている葵を完全に無視したまま、天根の痙攣を押さえようとしていた。痙攣は数分続いた。
 しかしひとつ気にかかった。天根の喉の奥で、ごぽ、ごぽ、と血の絡んだ音が発されているのだ。すぐにそれもなくなった。天根の身体から力が抜けた。だらり、と一片の力もない身体の上半身を抱き上げると、背骨が変な形に折れ曲がっているのが分かった。そして天根の口の端から、黒い筋がたらりと線を描いた。血は顎を伝ってシャツに滲んだ。真っ白なまぶたは完全に落ちている。
「ダビ……?」
 反応はない。
 黒羽は慌てて天根の口許に指を当てた。しかし、天根は横倒しになった顔の口端から、つぅ、と血を垂らすだけで、なんら反応らしい反応はなかった。手首を握った。今にも止まりそうな弱々しい脈が伝わってきただけである。
 身体中の血が、す、と音もなく頭から落ちていく。同時、自分の手の中で半分ほど丸まっていた手が、ずるりと滑り落ちた。
 黒羽はなんどか天根のあだ名を叫び、それでも反応がないことを知ると天根の胸に耳を押し当てた。生きているものであれば存在するはずの、生命の音が聞こえない。黒羽は天根を床に寝かせて、その心臓を押した。どんなタイミングでやればいいのかわからない。とにかく首を上に逸らし、喉に手を突っ込んで血をかき出した。血にぬるついたままの手で数秒の間隔を置いて三十回心臓を押し、二回の人工呼吸を試みた。しかし息が入らない。唇についた唾液混じりの血の味が、余計に「手遅れだ」とでも囁いているかのようだ。しかしここで諦めることもできなかった。黒羽はなんども心肺蘇生法を繰り返すが、その度に絶望という二文字が胸に染み込むだけだった。
「ダビデ、戻ってこい、ダビデぇっ!」
 何分間も繰り返したのに、天根の指先は少しずつ温度を失っていった。黒羽もまた、次第に体温が冬に奪い取られていく天根の身体をひしひしと感じていた。それでも半分意地となって、人工呼吸を反復した。うめくようになんどとなく名を呼びかけたが、ついに天根の返事が返ってくることはなかった。
 戻って来い、戻ってこい。黒羽は幾度となく繰り返す。その頃、ようやく冷静さを取り戻した葵が天根の手をすっと取った。その手は冷たく固まっている。もう、黒羽の言葉も届かない。葵は黒羽の背中に倒れこむように抱きつき、「バネさん」と声を絞り出した。
「もうやめてよ、バネさん」
 しかし黒羽は葵の言葉も聞かず、心臓マッサージと人工呼吸を延々と続ける。葵は更に広い背中を強く抱きしめ、押さえにかかる。
「もう届かないよ、ダビデをもう楽にしてあげようよっ!! このままだと苦しいだけだよ……バネさんはもう充分やったよ。もうダビデを休ませてあげようよ!!」
 心臓を押していた手が止まった。そして、早くも固まりかけた顎を見、冷めた指に指を重ねる。もう遅い。指は氷のように冷え固っている。身体からはまだ熱が残留しているが、それもまた風前の灯だろう。ゆっくりと、天根が生きていた証は寒さに削られて消えうせていく。ほんの数分前までは温かかったのに、もう冷え行く。
 押し殺した声で「畜生」 と呟いて壁に背を預けた。掲示板に埋まったままの針が背中をちくちくと刺した。血塗れの両手で顔を掴むが、それで天根が黄泉から帰ってくるわけでもない。
 黒羽は、天根が自分を謀っているのではないか、という疑惑に取り憑かれた。なにもなかったかのようにむくりと起き上がって下手な駄洒落を言って自分を怒らせるに違いない。ジャングルジムから落ちて腕の骨を折っても、自家中毒を起こしてげーげー吐いても、寒空の下で鬼ごっこをした翌日に四十度を超す熱を出しても、いつもぴんぴんとした様子で駄洒落を言ってきた。どんなに強く蹴っても脳震盪のひとつも起こさなかった。あれだけ丈夫だった天根が、こんな場所で死ぬはずはない。
 しかし、この手で命の終焉を確認したのだ。鼓動しない心臓、膨らまない肺、大量に溢れ出し、体温を吐きだしていく天根の身体。それを嘘だと思いたがる自分が、今ここにいる。
「畜生……」
 黒羽は再び呟き、顔を強く掴んだ。こんな気持ちになるのは久しぶりだ。数年前に経験して以来だ。またしても無力だったとでもいうのか。みすみす天根を死なせた。手の届いた場所にいたはずなのに、まただ。手の届かない場所で大切なものを失うのは。
 教室の隅にいたオジイが、黒羽が心肺蘇生のために剥ぎ取ったブランケットを持ってきた。それを天根の顔にかける。横に膝を突いたオジイは黙って目を閉じ、両手を合わせた。
 そのとき、不意に葵が口にした「あれ? いっちゃんは?」というささやかな疑問で現実にかえった。教室を見回す。そこには、もう肺も膨らまない天根と、おたおたするばかりの葵と、窓際で物言わず佇むオジイの姿しかない。
 黒羽は天根の死を心の片隅に追いやり、教室から飛び出した。心が破裂しそうな苦しみに襲われるが、それを押し殺して駆け出そうとした。そのとき、廊下の血痕が点々と人の足跡の形をなして連なっているのを見つけた。しゃがんで血痕を指でなぞると、まだ完全には乾ききっていないことに気がついた。まだ遠くはない。そう判断して、その血痕を追った。葵の声が追ってきたが、黒羽はなにも聞かずひた走った。
 血の足跡は、屋上へ向かう階段へ向かっていた。黒羽は二段飛ばしで階段を駆け上がる。足元へ、そして階下へと冷たい空気が流れだしている。そして屋上のドアは、閉める余裕もなかったかのように開放されていた。ドアには血の手形がひとつついている。そして足元には血痕が大量に垂れ流されていた。
 全身の血が抜かれるかのような感覚を思い出した。屋上に出て十秒としないうちに服が雨水を吸って重くなる。周囲に視線を巡らせた。すると右手のフェンスに、誰か、そんなに大柄でもない人の影を見つけた。髪もそんなに短くはない。その人間はフェンスの外で、校舎の縁に腰掛けている。
「いっちゃん!」
 黒羽はその人物の後ろのフェンスに張り付いた。金網を前後にがしゃがしゃと揺らす。樹は緩慢な動きで後ろを振り向き、そして黒羽の目に視線を合わせた。
「いっちゃん、なんでこんなとこにいるんだ、戻ってこい!」
「バネ、なのね?」
 返された声は臨終間近の病人のように弱々しかった。肌も出血のために白く色が抜けて夜闇に浮かび上がり、その顔がぼんやりとした表情をしている。黒羽はフェンスの網目に手首を押し込み、樹に指を伸ばした。しかし数センチの差で届かない。
「止めようと、しないで、ほしいのね」
 樹の拳が両方とも、ぎゅ、と握られた。
「望と、ダビデと、一緒のとこ、行くのね」
「バカ言ってんじゃねぇっ! すぐこっちにこい!」
「もう、行けないのね。俺のせいで、サエが、ひとり、に、なっちゃった、から」
「それといっちゃんは関係ねぇだろ!」
「関係ある、のね」
「いいや関係ねぇ! サエはいっちゃんを刺したんだ。他の全員を守るためにはサエに出てってもらうしかねえんだよ!」
「だから、なのね!」
 樹の声が強く張り上げられ、そのせいでかすれが増した。背中を丸めて、痛みに耐えているようでもあった。
「もし俺が、このまま死んだら、サエは、殺人犯になっちゃうのね」
「当たり前だ! でもいっちゃんだけは絶対に死なせない。サエも殺人犯にはならねぇ。戻ってこい! そんなところにいたら本当に……」
 黒羽はその先の言葉を飲み込んだ。樹がその気になれば、すぐにでも虚空に身を投げられるだろう。黒羽は更に強く金網を握り締めた。掴んだ場所の網目が金属音を立てて歪んでいく。指の関節が白く変色する。
「分かるのね、俺には。もうすぐ、死んじゃうの。もう、分かってる、ことなのね」
「諦めるな、死なせない、絶対生かす!」
 黒羽はフェンスを強く握り締めた。しかし樹の叫びは、それよりも強く黒羽の言葉を遮った。
「でも、俺は……もこれ以上うサエをひとりにできないのねっ!」
 魂を吐くような叫びは、すぐに雨音がかき消して空に消えた。
 樹は雨に濡れた髪を頬に張り付かせたまま、黒羽を振り返った。眉を下げ、哀しみに濡れた顔なのに、どうしてか笑顔を浮かべている。その笑顔は黒羽を安心させるため、そして死の恐怖に怯える子供を宥めているかのような笑みだった。顔に流れる筋の何本が涙なのか分からなかった。
「俺が、ここで死ねば、証拠は残らない。サエは独房に入らなくても済むのね。ちょうど人魚が、下で口を開けて待ってるのね。俺が喰われれば、サエがつけた傷も隠滅されるのね。人魚は望を食べたから」
「だからといって死ねばサエを助けられるって思うなよ、まだ助けられる方法なんていくつでもあるだろ! だから戻れって、いっちゃん!」
 黒羽はフェンスの網目から必死に手を出して、樹を掴もうともがいていた。しかしやはり指先にいるのに届かない。
 不意に天根の死に顔がよぎった。苦しみの末に冷たくなって死んでいった、悶絶にのたうつ顔。
 樹は己の身体を、弱々しく抱きしめた。そして咳き込んだ拍子に口に当てた樹の手のひらは、大量の血液に染められていた。
「ゴメンなのね……俺は、弟すら守れなかった。でもサエは、そんな俺を助けようとした。今度は、俺が助ける番なのね」
「いっちゃん、頼む、戻ってくれ、俺がサエを守る、絶対守るから、だからいっちゃん、戻ってきてくれ!」
「でもこれしか手段がないのね。今まで、楽しかった。ありがとうなのね、バネ」
 ふっ。樹は黒羽から目を逸らし、一面鼠色の雲を一瞥した。
「いっちゃ……!」
 ――さよなら。
 その瞬間、目の前から樹の姿が消えた。風を切るような音。それがほんの短い時間で終わり、激しい水音が雨の夜に大きく響いた。それだけではない。まるで餌に群がる鯉の何倍もの吐き気を催すような音を立てて、樹は海の中に引きずり込まれた。大きな波紋の中心に、赤い大輪の花が咲いた。
「あ……あ……」
 その場にへたりこんだ。フェンスを握り締めたまま。
 雨が強く肩を打った。まだ春が遠いことを示す冷たく凍るような雨が、しとしとと地上の全てを濡らし、腐らせ、朽ちさせていく。校舎の下からは、今も水の音が響いている。悲鳴は聞こえない。雨脚がより強くなった。雫は線に変わり、肌を伝って滑り落ちていった。
 喪失感。一瞬の呆然を過ぎた直後、それは強い痛みとなって、容赦なく心を嬲った。
 この感覚だ。この感情を二度と思い出したくないがためだけに、自分がみなを守ろうと目を光らせていた理由を、思い出す。天根を亡くした時も、目の前だったのにも関わらず樹をみすみす飛び降りさせた今も。

 昔飼っていた犬のことだ。拾った雑種で、名前はもう覚えていない。毛並みが白いことだけを覚えている。幼い自分は、リードを引いてその仔犬を散歩に連れて行った。いつもの散歩コースである。小学校の周囲をくるりと回り、公園の中で一緒に走って、そして帰り道の途中だった。黒羽が転んだ拍子にリードが離れ、仔犬は喜び勇んで駆け出した。その犬の姿が、目の端からきたトラックと交錯した。
 犬は容易く跳ね飛ばされ、歩道に押し戻された。運転手の罵倒のひとつもなかった。トラックは煤煙を撒き散らして去っていく。犬は目を閉じて、その口の端から、つぅ、と黒い血をたらした。抱き起こしても、その身体はまだ温かかったのに、少しずつ体温が失われていくのがリアルに分かった。自分がこの手を離すと、最後に残っていた体温の残滓までがなくなってしまう。
 黒羽は泣いた。
 仔犬の死が引き金となって、誰も自分の手の届くところでは死なせない、守る、助ける、そう自分に誓った。黒羽はその誓いを一度として破ったことはない。
 それなのに、この状態はなんだ。
 
 感情が爆発した。
 苦しみが、悔恨が、嗚咽が、寂しさが、執着が、思い出が、無力感が、痛みが、息苦しさが、寂寞が、そして悲しみが悲しみが悲しみが――胸を張り裂かんばかりに暴発する。雨は全ての負の感情を洗い流すことはできず、逆に負の炎は火勢を増したようにも見えた。この身が焼け焦げるかのような苦しみ、痛み。
 どうして守りきれない? なによりも大事な友達を、どうしていつも目の前で失っていく? 目の前で手を伸ばせぬまま、命の最期を見届けてしまっている。
 何年もずっと一緒にいて、テニスで楽しみを得て、オジイのアスレチック場を全クリする時間の記録を競って、毎日のように海に出て、潮干狩りして、ダビデは駄洒落を言って、黒羽が回し蹴りを入れて、佐伯が無駄に男前なスマイルを浮かべていて、樹は黙々とハマグリを掘り出して、葵はアサリを次々とバケツに放り投げて、亮は淳とクスクス笑っていて、オジイはあんまり採りすぎないようにたしなめて、陽が暮れて、そしてまた翌日に部活でオジイの作ってくれたウッドラケットを振って、コートに跳ねる黄色いテニスボールを追って、全国大会を目指して、全国大会に行って、沖縄のやつらにはムカついたけど、それでもテニスが嫌いになったわけじゃない。そんな楽しい日々をテストや受験というささやかな悪魔から守り抜いて、今までやってきたというのに。
 それらを全て、守りきれずに失うのかよ。
「う――あああああああああああっ!!」
 黒羽は天に向けて叫んだ。言葉にすらならなかった。喉が使い物にならなくなるかと思った。残響は狼の遠吠えのように細く長く続いた。顔に数え切れない雨が当たった。その中に涙が何粒混じっていただろうか。もっと早く気づいたなら。もっと早く駆けつけることができたなら。助けられた命はいくらあるのだろう。
 天根をみすみす死なせた。樹も死んだ。あと残っているのは? 守れる人は? 葵、オジイ、亮、そして佐伯。もうそんな数まで減ったのか。ならば今度こそ、誓いを守ろう。誰も死なせない。なにがなんでも守り通す。誰ひとり、助けられない人を出さないように。遠き日々に誓おう。たとえこの身が死の淵に瀕しても。
 もう誰も見捨てない。もう誰も、手の届かない場所で死なせやしない。

 ようやく階段を上がってきた葵に、黒羽は強い調子で一言だけ宣言した。
「サエを、探しに行くぞ」


TOP > 小説目録 > ギャングエイジTOP > 次へ