――みんな、どこにいるんだろう。

 小さな山の上に建設された小型の公民館の中で、木更津亮は息を白く凍らせた。赤い帽子をかぶり直して再度ため息をつく。
 亮は今日一日、この施設でジュニアリーダーとしてクリスマスパーティーの手伝いをしており、その片付けの途中で最初の地震が発生した。運が良いのか必然か、何度か襲来した津波は山頂にある公民館までは届かなかった。指定避難所である公民館、正確には六角町町内会交流福祉施設とかいうらしいのだがこの際どうでもいい。まだ帰っていなかった子供達は地震でかなり怯えており、それを数時間かけてなんとか宥めていたのだ。泣き叫んだりしている子供はまだいいものの、外に出ようとする子供、家に帰ろうとする子供を引き止めておくことが一番難しかった。小山とは言え、頂上である。海が引いているのを見ては、子供達を家に帰したらその分犠牲者が増えることになる。案の定、数分もすれば近所の親達が避難してきて公民館内には毛布や日用品がこれでもかと広げられていた。避難してきた始めは、ぬいぐるみを忘れたことにめそめそする子供もいたし、家の思い出を語る老人もいて、一時間ほどトラップにかかった。今は夜も更けてきた時刻であり、子供やその家族達は毛布にくるまって落ち着いた寝息を立てている。
 本当は毎年開かれる部活でのパーティーに招かれなかったのが寂しかったが、入れ替わりのようにジュニアの仕事が入ったのだ。仕方がないだろう。数日前から淳が帰ってきているが、連絡を取る術がないので諦めている。こんな時に限って携帯電話を忘れてきたのだ。正確に言えば、家の中でなくしてそれきりだ。枕元に置いていた携帯電話が朝になったらなくなっていた。ただの記憶違いかもしれない。それに例え持ってきたとしても災害直後では回線が混乱している。明日の朝になれば大分落ち着くに相違ない。
 夜明けまであと六時間かそこらだろう。子供達はいい子で、みな眠っている。
 亮は玄関口の階段に腰かけ、ふう、とため息をついた。その凍った息はふわりと幽霊のように漂って、あやかしのように雨のなかに紛れた。すっかり夜の帳が下り、更け始めてきた頃合いだ。昨日までは空に満月未満の月が輝いていたのに、雲の下にいては星も見られない。しかし雨の勢いは確実に弱くなってきている。
 ふと思う。淳は今どこで、なにをしているのだろう。
 四日前、クリスマス礼拝も終わっていないだろう時期に突然淳は帰省してきた。大きな荷物を持って、冬物のコートを羽織って帰ってきた。亮は歓迎しようとしたが、即座に断わられて自室に閉じこもられた。淳の部屋の扉は死んだ貝のように閉じられたまま、食事、風呂、トイレのときぐらいしか部屋から出てこなかった。部屋に入って「最近流行りのひきこもりか」と冗談交じりに尋ねてみたらスリッパが飛んできた。しかし机の上にはいくつもの教科書や参考書が開かれているのを亮は見逃さなかった。こっちの高校を受験する気なのかと訊いたら、今度は英和辞書が飛んできた。
 部屋から出て、ドアを背に、亮はひとり思った。自分は千葉の高校を受験する。しかし淳は同じ高校に入ることをよしとしないだろう。淳はミッション系の、全寮制の高校に通うと豪語してはばからない。その高校はかなりレベルが高く、毎年早稲田や法大などの有名大学へ何人も送り出しているという進学校だ。六角中でトップクラスの成績を維持していて猛勉強を重ねても、入れる確立は五分五分らしい。だからひとりで勉強できる唯一の空間を求めて帰省してきたのではないだろうか。確か「ルームメイトがだーねだーねうるさい」とこぼしていたから亮はその考えを支持する。しかしもし落ちたら、学区の関係で千葉の高校を受験せねばならなくなる。この地域には高校は少なく、数も限られている。六角中の生徒の受け入れ先は九割が六角高校と決まっていて、全員が進級感覚で進学するという現状もある。現に亮を含むテニス部レギュラーは全員六角高校へ進学すると言い張っている。
 亮の成績は良いほうだが、東京の私立校に通うとなったら猛勉強せねばなるまい。それは遺伝子の形から同じである淳も猛勉強せねば入れないということでもある。そして薄々感づいてはいたが、淳は亮に勝ちたいと思っているのだろう。しかし六角高校に進むとなると、またテニス部のメンバーで一緒にいることになる。一度六角を離れた淳にとって、それは拷問のようなものだ。あの仮面的な面持ちにどんな気持ちを隠していようと、亮には見抜ける。
 ため息をつく。どうして自分はこんなにも淳に嫌われているのだろう。
 幼い頃はそうでもなかった。一緒にトンボを捕ったり、渚を走り回ったり、オジイ製のウッドラケットで一緒にテニスを楽しんでいた。すれ違い始めたのはいつからなのだろう。どんなに考えを巡らせても答えは出ない。ため息をつく回数がまた一回増えた。
 外の世界は冷たく凍っている。
 淳は無事なのだろうか。
 残念なことに公民館には電話が備え付けられておらず、誰かの携帯電話を使わせてもらっても自宅は水没しているので電話をかけても無駄で、淳の携帯に電話をかけようと思っても番号が携帯電話に全て記録されているので、正に八方塞りだった。
 避難してきた大人に寝なさいと言われても、肝心の亮は目が醒めていて布団の中でも眠りにつけない。この公民館には知り合いも多数避難している。確認できたのは、葵と佐伯と木更津の家族、そして名前も覚えていないクラスメイトの家族が身を寄せ合って一夜を明かそうとしている。
 みんながいないのであれば学校か部室か、オジイの家にいたに違いない。いっそ水が引いたら学校まで走っていこうか。泡のように浮かび上がった無茶な考えを否定する。そんなことをしたら子供達を引き止めた自分の立場がない。夜風に吹かれているのも身体を冷やすばかりだから、と亮は重い腰を上げた。
 そのとき、廊下から誰かの足音が聞こえた。夜中にトイレに行きたいときのような寝ぼけた足音ではない。なにか突然思い出して、起きた瞬間に走り出したような今にももつれそうな足音だった。そして避難民たちの寝起きする中ホールで、ざわざわと人の声がし始めた。いないよ、どこにいるの、ざわめきはいよいよ大きくなる。
「どうしたんだろ」
 亮が部屋に戻ろうとした瞬間、廊下の角でなにかと正面衝突して後ろに倒れこんだ。思い切り突いた尻餅が痛い。亮は落ちた帽子を拾い上げて頭にかぶせた瞬間、「キサラ?」と女生徒の声が名を呼んだ。木更津はジュニアでは「キサラ」という愛称で親しまれている。
 顔を上げると、目が合った。終業式の日に保健室でサボタージュしたとき、体育館から養護教諭によって運び込まれた肌の真っ青な女子生徒だった。亮同様にジュニアリーダーをしている。確か、あだ名は「ノン」だった。ノンは顔にかかった長い髪を払いのけながら、「キサラ、どうしよう」と亮にすがり付いてきた。
「どうかしたの?」
「望君がいないの。どうしよう、家に帰ってるとかないよね?」
 望がいない?
 亮はすぐに思考を巡らせた。
 望は樹家の末っ子だ。今日のクリスマスパーティーでは一番つまらなさそうな顔をしていた。後でテニスでもやるかと問いかけたら、その瞬間に笑顔を取り戻して「うん!」とうなずいた。そして兄が帰ってくるまでは帰らないと意地を張っていた。持参のオジイ製ウッドラケットをいじくりながら、ずっと公民館で待っていた。亮はしばらく片づけがあって望とテニスができずにいた。
 もしかして、という黒い悪寒が心臓を掴む。望は兄を探しに山を下りたのかもしれない。そうだとしたら一大事だ。望ひとりで山を下りたとなったら、いつ津波に呑み込まれるか分かったものではない。
 ノンはひたすらどうしようと繰り返す。見かねて、亮は涙さえ浮かべかけているノンの肩をがっしりと掴み、「君はここで、子供達と一緒にいてやって」と指示を出した。ノンは気が進まなさそうにひとつうなずいた。そして逆に問いかけられる。
「キサラはどうするの?」
「俺は山を下りる。そんなに不安そうな顔をしないでよ、いざというときは電柱によじ登ってやりすごすから」
「駄目よそんなの!」
 ノンは長い髪を振り乱して頭を横に振った。
「キサラまでいなくなったら子供達が心配するわ」
「みんなは今頃夢の中だよ。俺ひとりいなくなっても気づかない。それに、ノンはもうひとりでも大丈夫だろ? この前保健室に来たのは、人が怖いからじゃなく単に体調を崩していただけだったんだろ?」
「それはそうだけど、でもまだ人は……怖いよ。それにキサひとりに危険なまねをさせることはできないわ」
「地震も津波も、海沿いにいる限り危険に遭う確率はみな等しいよ。いつ来るかも分からない。それに望を見捨てるわけにもいかないよ。とにかく俺は山から下りる。止めても無駄だからね」
 亮は身をひるがえして玄関口に手をかけた。赤い帽子のつばが簡易的な傘となって視界を庇護してくれる。この際手ぶらでも構わない。余計なものはいらない。
「待って」
「なに」
 亮は再度振り返る。ノンは柔らかに膨らんだ胸に右の拳を当てて、顔を上げた。
「本当に……戻ってこられる?」
 雨の音が一段と減った。
 亮は、くす、と笑顔を細面に浮かべた。
「心配しないで」
 そして亮は雨夜に飛び出す。

 睦角山から学校までは、歩いて十五分ほどの距離がある。しかしそれは平地での場合だ。その間ずっと望の名を闇夜に響かせているが、言葉が返ってくる様子はない。すっかり水が引いているが、それは次の大波が近いということと同義だ。亮は地面に突っ立つ電柱沿いに進むが、地面は地面が見えないほどに家の残骸がひしめいている。
 目測で四半分ほどの距離まで進んだとき、案の定、海の方角から、どぉ、と騎馬の軍勢のような轟音が届いた。慌てて近くの家の残骸を踏みつけ、寄り添うように立つ電柱によじ登った。いつも無駄に思えて仕方のなかった、電柱の横から突き出す金属棒に腰を下ろし、数秒。先刻までいた場所で一番海抜の低い場所が波に呑まれ、徐々に水位を上げていった。間一髪だったのだと思った瞬間、総身の血が引くのを覚えた。
 亮はしばし、電柱の上で水が引くのを待った。泳いでいくには水の温度が足りなさ過ぎる。
 いとまを得る時間、脳裏によぎるのはやはり双子の片割れである淳のことだった。地震、津波、そして終わりの見えない寒さと暗闇。凍えてはいないだろうか。怖がってはいないだろうか。家の下敷きにされて、水に襲われていたらと思うと、心臓が鷲掴みにされるようだ。亮は自分の胸倉を掴み、ぐっ、と力を込めた。もし自分の知らないところで淳が苦しんでいたら? 亮はそれがなにより辛い。亮は淳のことをほとんど見抜けるつもりだが、淳が六角を離れてから変わった価値観までは共有できない。それは環境の違いというものだ。同じ遺伝子を共有していても、周囲の環境によって変わる部分は無数にある。指紋は双子の間でも違うものの代表格だが、それだけではない、性格も変わるだろう。転校して、伸び代はいかほどに増えたか。
 数分、波はなかなか引くことがない。十数分、少しは引いたが、それでもまだ腰まで水に浸かるだろう。
 テニス部のみんなはなにをしているのか、とも思う。避難しているのならば、葵や佐伯の姿もあるに違いない。家族が避難してきたのにその二人がいないとなれば、間違いなくどこかに外出している。そして経験則で考えるならば、開催が知らされなかったが本当はあったのかもしれないクリスマスパーティーに行っているのだろう。
 生きていてほしいな、と思う。無事でいてほしい、とはまた違う。
 この町のどこかにはいることを願い、ふう、と周囲を見回した。周辺にあるのは、半壊して水に半分ほど浸かった瓦礫の平原と、まばらに立ち、何本かは傾いて黒い紐を地面に垂らす電柱ぐらいのものだった。そして遠目に中学校の校舎が見える。場所の関係で北舎だけが見える。この壊れた町並みの中に、望がいるとは考えがたい。海抜の高い場所で逃げおおせていたらと思うが、子供の足では難しいだろう。
 本日何度目になるか分からないほどのため息をついた後、亮は視線を水に落とした。魚の一匹でもいたら、ひっ捕まえてみんなのお土産にしよう。ちょっとはみんなのおなかも満たせるかな。
 そのとき、タイミングがよいというべきか、一匹の魚影がちらと視線の端に映った。小ぶりのマグロほどもあるだろう。それが一匹二匹、連れ立って水の中をぐるぐると泳いでいる。可愛いなぁと微笑んだ。仲の良さそうな魚二匹が、自分達のようであればいいなと思った。魚影は電柱の周囲を何度か回って、亮が降りてこないことに痺れを切らしたかすぐに水没した家屋の隙間に入り込んで姿を消してしまった。
 電柱によじ登ってその場をしのいだが、この先は海に近いせいかまともに立っている電柱が少ない。亮は電柱の金属棒にしばらく腰を落ち着かせて、潮位が膝のあたりまで下がったらすぐに先を急いだ。ざぶざぶと水を蹴散らして進む。靴が水を吸って重いが、いつガラスや木片を踏むか分からないからそのまま進む。雨が少しずつ治まってきた。
 望が来る場所として考えられるのは、数年後入学予定である六角中学校だけだ。望はいつもオジイのアスレチック場に来たりテニスコートで黄色いボールを追ったりして一緒にテニスを楽しんでいたし、早く中学校に進学したいとさえ言っていた。兄である希彦を中学校まで探しにいくのは当然の帰結ともいえる。小学校はここよりも遥かに遠いので行く意味がなさそうだし、公園は水没しているに違いない。とすれば、兄のいる可能性がある六角中学校に行く。
 津波が来てから一時間ほど、水位が下がって更に半時間ほどして、悪路を乗り越えつつ、ようやく校庭まで来ることができた。既に水位は地面まで下がり、周辺には折れた松の木や家々の残骸がまばらに散らばり、押し流されたフェンスが何十メートルも斜めに延びていた。残っているのは鉄筋コンクリートで建てられた北舎と南舎だけであり、体育館があった辺りには数本の柱が残っているだけで、プレハブは姿かたちもなかった。
 亮はしばらく言葉もなく校庭を眺めていたが、なんにせよ一番近い北舎の周囲を回った。そして廊下にうがたれた直径五十センチメートルほどの穴に頭を押し込み、這いずるように腰まで出して進入に成功した。天井からは絶えずどこからか雫が落ち、それが机や椅子の金属部分に当たって鈍い音を発する。
「……惨状、というべきなのかな」
 独り言は存外に教室に響いた。教室ががらんどうだと思ったのは、机や椅子が廊下側にごちゃっと固められていたからだ。津波で流されたのだろう。
 亮は北舎一階の廊下を歩いた。そして階段を上り、二階へ、三階へ、各教室を順々に見ながら徐々に上がっていく。
 まさか屋上には誰もいないだろう。しかし可能性を全否定するわけにもいかず、目を通すだけ、という理由で屋上をさらっと見ようとした。
 佐伯が周囲を血の海にして階段下で倒れていたことを、亮は踊り場を曲がるまで気づくことはなかった。


 ぼんやりとした寒さが身体にひたりと寄り添っていた。首から背中にかけての布地がぬるぬるとしたものに濡れて気持ちが悪い。粘土のように重いまぶたを上げると、髪の長い誰かがすぐそばで膝を突いていて、自分の肩に手を回すさまがぼんやりと知覚できる。回された手は首と肩の付け根に触れた。その瞬間、神経と脳がやっと繋がれたかのように感覚が明瞭になって、佐伯は身を起こそうとし、同時に痛みが肩で爆発して、呻きつつその場にまた倒れこんだ。
「駄目だよ、サエ。じっとしてなきゃ」
 佐伯が意識を取り戻したことに気づいたのか、影は子供を起こす親に似た穏やかさで問いかけた。
「気がついたみたいだね」
 聞くのが数ヶ月ぶりのような声だ。その声の主はくすっと微笑み、そっと忠告した。
「肩、すごい怪我だよ。一応止血はしたけど、安静にしてないとまた出血するから気をつけて」
「あ、ああ……」
 佐伯は咄嗟に言葉も返せない。
 どうにか上半身を起こすと、やはり右の肩は燃えるような激痛に包まれている。鼓動に合わせて脈打つ痛みは無視できるほど弱くなく、だからといって泣き叫ぶほど子供ではない。佐伯はひとつうめきを漏らしたが、残りは奥歯を噛み締めて喉の奥に押し込める。
 亮は夜目にも赤い帽子をかぶり「そこまで動けるなら大丈夫だね」と艶やかに笑んだかと思うと、すぐに用事を思い出したらしく佐伯に真摯な眼差しで尋ねかけてきた。
「いっちゃんの弟、望君を知ってる?」
「望君?」
 反復した瞬間、その名前が鍵となって、佐伯の磨耗していた神経が、腹の奥に溜まっていた黒く忌まわしい記憶を呼び覚ました。
 突如校庭に姿を現した樹の弟、連れてこようと走り出した樹の後姿、押し寄せてきた津波の軍勢、餌のように魚に食いつかれ血の華を広げて波間に消えた樹の弟、樹に振り上げた包丁の切っ先――全てが怒涛のように意識に流れ込んできて、佐伯は思わず両の手で左右から頭を掴んだ。
「……サエ?」
 記憶に、手が震えた。髪に指が食い込んだ。流れ出る恐怖に、息遣いが次第に荒くなる。
 イヤだ、イヤだ……感情が拒否し、海馬がそれを許さない。
 樹を刺して、黒羽から追放宣告をされたこと。血染めの帽子を拾った現場を見られただけで黒羽に見捨てられたこと、亮だと思っていた人間が淳だったという驚愕、そして淳が人間の形を失い、肉の塊となって膨張していったこと――
 サエっ!
 強く呼ばれて、追憶の表層が消し飛ばされた。亮が佐伯の両肩を掴んでいる。その真摯な目線に圧倒されて、佐伯は頭を万力のような力で押し潰そうとしていた手をゆっくりと離した。残滓はいまだ佐伯を切り苛み続けるが、少しだけ――ほんの少しだけ――楽にはなれた。
「意識をしっかり保って」
 淳と同じ、そしてそれ以上の真剣さを帯びた声で呼びかけられる。
「教えて。望君はどうなったの?」
「望君は……」
 佐伯は心なしかうつむいて、望に関連する今までの経緯をあらかた話した。
 全て、というには淳の存在を抜かした話しを終えると、亮は小さく「そう」とだけ呟いた。それは単なる事実の確認として呟いただけであったが、それ以上の意味があるかまでは分からない。しかしその声音にはポーカーフェイスなりの諦めの表情があるらしく、かすかに沈んだような表情もしていた。双子の片割れがここにいなかったという落胆も含まれているのだろう。しかし、今までいた木更津が亮ではなく淳だったという事実をまだ認めきれていない佐伯にはなにも言えなかった。
 佐伯は傷ついた肩に左手を添えた。
「……守れなかった。望君も、いっちゃんも」
「サエが悩んでももう意味はないよ。津波はこの地域に、いっそ清々しいほど平等に襲ってきたんだからさ」
「仕方なくない。いっちゃんは俺が傷つけたようなもんなんだぞ」
「バネがあんなに怒ってたなら、俺はこれ以上言わないよ。足して二で割ればちょうどいいくらいだろ、バネの怒り方ってさ。バネは滅多にキレないけどね。それにさ、正当防衛だったんだろ?」
 亮は言い辛そうに頬を人差し指で掻き、視線を逸らして「えっとその……人魚からの」と付け加えた。
「信じないならそれでいいよ」
「誰が信じないって言ったんだよ。早とちりもいいとこだよ、サエ」
 その言葉に佐伯は言葉を絶やし、その場にしばしの沈黙の帳が下りた。静寂に耐え切れなくなったのか亮は「とにかくみんなは校舎にいるんだね」と確認をした。
「……ああ。南舎にいるよ。一年A組にみんないる。行くといいよ。みんな亮を待ってる」
「サエは行かないの?」
「俺が行ってもバネが怒るだけだよ」
「なんだよ水臭いな。俺たちは一緒だろ?」
「バネはそう思わないだろうな」
「思う」
「思わない」
 そんな問答が何度かしつこく続いた挙句、亮はそっぽを向き、遂には「サエが行きたいって言わない限り俺も行かないから」と言い放った。
「なんだよそれ」
「そのまんまの意味」
「行きたいなら行けばいいだろ」
「行きたくないって主張してんの」
「お前だけでも行けって!」
「絶・対・ヤダ」
 亮は胡坐をかいて腕組みをした。半眼になって佐伯を睨みつける表情は子供のようにも見える。思い出せば、いつでも淳より亮の方がややコミカルに動き回っていた。ビーチバレー大会で事故とはいえ相方の短パンをトランクスごとずり降ろしたり、焼肉大会で罰ゲームのジョッキを突き出したりしていた。今まで亮だと思っていた淳は嫣然と微笑みはするものの、少しもこんな問答はしなかった。こっちが木更津亮その人だ。
 しばらく続いた言い合いが、突如馬鹿らしくなった。佐伯は後ろ髪を掻いて、ほんの少しだけの笑顔に戻した。
「ははっ、やっぱりお前が亮なんだな」
「当たり前だよ。頭打って思考回路が変になったっていう言い訳は聞かないよ」
「分かってるって。じゃ、行こうか」
「どこに?」
 佐伯は立ち上がって、
「さっき、俺が絶対に行かないって言い張っていた場所」
 亮はしばしぽかんとしていたが、追って立ち上がり、「うん」とだけ短く答えた。
 佐伯は段を下り始めた。存外に自分の血が階段を汚していることに気づき、心の中で階段掃除の見知らぬ一年生に詫びた。


TOP > 小説目録 > ギャングエイジTOP > 次へ