しかし踊り場を曲がった瞬間、その考えは水泡に帰した。全身の血が、毛細管現象を無視して重力に従ったかのように、頭がさっと冷たくなった。亮が背中にぶつかって「どうしたの」と少しむくれたような声を出した。佐伯は左腕を横に出して、亮の動きを制止した。すぐに、それを視界に入れた亮の動きがなくなった。
 手が廊下の角から伸びていたのだ。なにかはよく分からない。白いなにかが、まるでイカの触腕のように伸びている。
 その長いものが白い、ということに気づいて数秒が経過した。
 白い腕だが、奇妙なことと言えば手足の長い天根でも真似できそうにない長さであることだ。優に二メートルはある腕は、関節がないかのように不自然に伸長し、胸の高さで位置を保っている。それがふらふらと海草のようにゆっくりと揺れている。まるで誰かを探しているかのような、空気を探る手つき。
 刹那、佐伯の記憶にある光景がよみがえった。腹から下と口元を血まみれにして、幽鬼のようにおぼつかない足取りで壁にすがる木更津淳。咄嗟に支えた身体には熱があり、その熱に冒された息が「りょうはどこ」とどこか浮ついた口調で尋ねかける。そして突如噛み千切らんかという力で首の皮を剥ぎ取られ、そのまま膨張していく化生の姿。
 突如、最悪の予想が脳裏によぎった。
 淳がうわごとのように呟いた「ひとりにしてよ」というメッセージ、亮の行方を訊いた事実、そして佐伯の皮膚を一部分食い千切って頭も腕も胴体も関係ないとでもいうかのように膨張し、時にありえない場所から腕や脚が生えたという符号が、頭の中でジグソーパズルのように像を結んだ。
 先刻、淳は佐伯の皮膚を食った。そして「ひとりになりたい」という言葉が、あまりにもくっきりとした輪郭をもって、おぞましい考えを後押しした。
 ――淳は、亮を喰いたがっているのではないか。
 それは明晰すぎるヴィジョンとして脳に映像として浮かんだ。しかし、あまりに不可思議な景色と、思いついた考えの突飛さから、佐伯はその場を動けずにいた。
 声帯が麻痺したかのような感覚に襲われた。そして身体は骨が鉄骨でできているかのように動かない。
 凍っているかのような静謐。空気が止まっているかのような景色の中で唯一動く、細く長く伸びる腕。廊下の角から、ずる、ずる、と肉を引きずるような重い音。
 卒然、佐伯の耳元で、亮の、不可思議なものを見る恐怖に浸された音が漏れた。
「なんだ、あれ……」
 たったそれだけの言葉が、静止した空間に致命的な楔を打ち込んだ。ガラス細工が砕けるように、空間は瞬時にして動きを取り戻した。廊下から伸びた手が弾かれたようにこちらを向くと、手のひらの真ん中に穿たれた穴で煌々とぎょろつく眼球と目が合った。そして腕は鞭のような動きで風を切り、あろうことか亮へ手を伸ばしてきたではないか。
 景色が、動いた。
 佐伯は目前に迫った腕を横殴りに打ちのめすと、それと同時に回れ右して亮の背中を屋上へと押した。
「走れ、早く!」
 背後で、肉がリノリウムに叩きつけられる音がする。
 亮は「なんなんだよあれ」と目を見張っていたが、すぐに階段を上り終えると同時に屋上のドアに体当たりをした。冷たい解放的な潮のにおいが鼻腔に進入する。佐伯も追って屋上のコンクリートを蹴った。それでも手は追ってくる。佐伯はいまだ混乱に包まれている亮の背を押しながら奥まで走った。手が追う。亮の長い髪を掠めて、腕は限りないかのようにひたすら伸びた。
 屋上の端まで追い詰められたとき、その腕の伸長が止まった。その長さは二十メートルを優に超えているだろう。宙に浮かせているのがよほどの負担なのか、ふらふらと前後左右に揺れている。亮は真っ青な顔で開放されたままのドアを見つめていた。亮がフェンスに背中を押しつける中途半端な金属音が耳元でリアルに聞こえる。扉の開かれた空間は黒い闇に呑まれ、その中心から眼を持つ腕が生えてきていた。
 腕に飛びつこうとした佐伯の両目の前に、二本の爪が伸ばされた。その指が肘から先ほどの長さに、腕ほどの長さに、更には両腕を広げたほどの長さにまで長く伸びた。爪の尖端が近づくにつれて大きく見え、像がぼやけた。もし進んだらその場で眼球を刳り抜かれる恐怖が、佐伯をフェンスに磔にした。
 佐伯の動きを封じた後、腕は恐怖に動けない亮の長髪を三本の指に絡め、ついで頬に、耳に触れた。その度に亮がそろそろと横に退く。しかし腕は執拗に亮の身体に触れて探りを入れている。愛玩しているペットの毛並みを確かめるように、亮が亮だと確認できる場所を撫でる。顔、髪、肌……まるで、そこにいる人間が本当の亮なのかと確認せんばかりの念の入れようだ。指を亮の私服の中に入れ、生肌を白い指がまさぐる。亮の奥歯が鳴るかちかちとした音、限界まで見開いた目玉までもが、静かに自身の恐怖を煽り立てるものにすぎない。亮の握るフェンスがぎしぎしと鳴動する。
 そして隙を見て、佐伯は横に跳び、亮の五感を陵辱する腕にその生白い皮膚に歯列を食い込ませた。これでも神経が通っているのだろう、筋肉質のくせにぶよぶよとした腕は一度痙攣し、佐伯の身体を横に薙ぎ放った。それでも佐伯は腕を噛んだまま離れない。引きずられながらも口の中に血の味が広がり始めた。何度か横に振られ、背中を床に叩きつけられた。歯が皮膚から離れると腕は階段の闇へとすすりこまれ、コンクリートに擦らせながらその長さを徐々に減らしていった。
 完全に手が見えなくなったとき、亮はへたりこむようにしてその場に膝を突いた。
「……っはぁ、」
 しばらく亮は荒い息をついていたが、息も落ち着かないうちに佐伯へと問いがかけられた。
「大丈夫か、亮」
「わかんない……でもサエ、あれなんなんだよっ」
 それは佐伯自身も答えられなかった。証拠がない。憶測に基づいた推論だけである。目の前で見たことではない。淳が肉の塊になったことを除けば。
「俺もわからない。だけどひとつだけわかる」
「なにが? なにがわかるって言うんだよ、あんな化け物相手に」
「ああ、そうだろうな……でも気をつけてくれ。あいつは、亮……お前を狙ってる」
 そう話しながらも、佐伯の瞳は凝然と、腕の消えた影に向かっている。四角く切り取られた暗闇はなんの動きもなく、コンクリートの下でわだかまっている。
 息を落ち着かせるほどの瑣末な時間が経過してから、佐伯は「とにかく、あれがまた来ないか見てくる」と言って立ち上がった。亮にはここにいるようにと目で合図した。亮は不服そうにひとつうなずいた後は、立ち上がりかけた腰をその場にもう一度下ろした。
 佐伯はおっかなびっくりという表現が適切なぐらいに、そろそろと階段へ向かった。しかし近づくたびに、また引きずるような肉の音が聞こえないことに気づき、一気に手すりを握るところにまで行くことができた。一度外に出てしまったことで目は仄かな大気光に慣れてしまったのか、階段は本当の闇に沈んでいた。屋上から降りる階段が十三段だったとしても納得できる不気味さが、空気に混じって漂っている。
 手すり越しに階段下を除いた。静寂ばかりで音という音はない。耳を澄ますも、耳鳴りがキィーンと鼓膜を破壊せんばかりに聞こえるだけだ。
 なにも、ない。
 どこにも、いない。
 ふぅ、と息をついた。やはり今の腕は幻視だったのか、と無理矢理に理性を言い含める。
 佐伯は踵を返した。屋上の向かい側には、不安げに立ち上がった亮が、まるで女のように胸に拳を当てている。佐伯は亮の姿に向かって手を振り、大声を出そうとした。「なにもなかったよ」と。
 しかしその言葉は途中で失速したばかりか、全身が一挙に凍りつくような感覚に襲われた。
 亮の背後、フェンスの向こうにある虚空から、生白い腕が、ふわり……
「亮!」と叫んだ次の瞬間爬虫類の舌にも似た素早さで、振り向きかけた亮の腰をむんずと掴み、空中へ持ち上げたのだ。
 一瞬遅れて、亮の悲鳴が夜闇を割った。帽子がふぁさりと落ちた。
「亮!」
 佐伯は地面を蹴り、亮の元へ急いだ。腕はその細さのどこにそんな力を有しているのか、六十キロ近い人間をぐにょぐにょと持ち上げていた。やはり腕一本ではさすがに無理があるのだろう。佐伯が追いついた頃には、身体をよじり腕に噛み付き皮膚を殴りつけて暴れ回る亮はフェンスの向こう側の中空に浮き、運よく逃れられたとしても確実に墜落死するような場所にまで持ち上げられている。
 佐伯はフェンスに取り付き、前後にがしゃがしゃと揺らした。何度も亮の名を呼ぶが、恐慌状態に陥った亮に届くはずもなく、かといって腕にこの場で手を放させるわけにもいかない。腕は亮を中空に持ち上げたままであり、ゆっくりと下降しているかのように思える。腕が生えている場所を探した方が早い。そう判断した佐伯は咄嗟に回れ右をして、その場を駆け出した。亮が自分を呼んでいる。もしかしたらこの場で見るのが最後になるかもしれない、しかしそれしか方法がなかった。
 目測でしかないが、腕が伸びていた場所は、南舎の二階の窓。おそらくは、その場所に化け物の――淳の――本体があるのかもしれなかった。佐伯は渡り廊下を走りぬけた。
「おい!」
 背後から聞きなれた人間の声が追ってきた。そして声は足音を追尾してやってくる。
「サエ、どうした!?」
「バネ?」
 半分後ろを振り向きつつ尋ねると、続けて「どうしたんだ」とことの状況についていけない黒羽の困惑がついてきた。
「とにかくついてきてくれ。なんか変なやつが亮を、」
 黒羽は焦りの強い調子で再び問うた。
「亮はどうしたんだ」
「だから今から助けに行くんだって!」
 角を曲がり、階段を下りて廊下を疾駆した。亮が佐伯を呼ぶ声が絶え、佐伯は足を酷使する。そして突き当たりの教室のスライドドアを横に叩きつけると、そこには、天井から半分ほどの高さを持つ餅のように白く丸い肉が、触手のようにした肉の鞭で亮の身体を縛り、口を塞いでいたのが見えた。長い髪が亮の顔を隠しているが、束のような長髪の合間に見える顔色は蒼白である。みじろぎすらしない亮の様子と、亮をそのようにした肉塊の所業に、佐伯は全身総毛だった。
 小さめのテントほどの大きさを持つ肉の塊は、表面に閉じられたまぶたを蠢かせた。ぎょろ、と見開かれた目は拳ほどの大きさで、佐伯と黒羽を睨みつけた。
 先に行動したのは佐伯のほうだった。佐伯は手近にあった椅子を持ち上げると、肉塊の真ん中に向けて突如振り下ろしたのだ。粘土を泥の山に叩きつけたかのような鈍い音と感触。椅子を再度持ち上げようと力を込める、しかし肉の白い皮膚は椅子を内部に取り込み、みちみちと音を立てて椅子を引きずり込む。
「くっそぉ!」
 やむなく椅子を手放し、亮に突進した。太さも様々な肉の紐をかき分ける、なかなかうまくいかない、それどころか近づけば近づくたびに亮が遠のいていく。焦燥が胸を焼く。
 そのとき、佐伯の手に細いプラスティックの柄が押し付けられた。
「これ使え、サエ!」
 瞬時にそのプラスティックが内包しているものに気づき、太い刃を押し出した。じきじきじきという音。仄かに光る刃を頭上に振りかざした。
 今度は友人を傷つける刃ではない――護り抜く刃だ。
 体重を込めた刃を肉の束に突き刺した。生肉を刺す、樹を刺した時と同じ手ごたえ。フラッシュバックした樹の表情さえも亮を助けるための名目だと変換し、佐伯は勢いに任せて横に薙ぎ払う。肉塊はとかく形容しがたい音を響かせた。高さも音量もでたらめに組み合わせたような叫び声だ。一瞬遅れて、深く抉れた肉の隙間から血が噴水のように噴きあがった。続いて、黒羽が幅広の刃を肉塊に押し込み、直後、皮膚を千切り取った。肉塊の皮膚は不気味に血をてらめかせ、ひくひくと蠢いている。

 ――死ノウ……

 そのとき、言葉としての輪郭を保たず垂れ流されていた声の中に、ふと人の声のような音が届いた。まるで錬金術の秘儀が描き出された難解極まりない寓意画の意味が突然理解できたかのような、ひらめきにも近いほど突然声が理解できた。亮の声でも、黒羽の声でもない。黒羽がいまだ手を亮に伸ばしていることからしても、どちらの声でもないことは明らかだった。亮は蒼白な顔のままで、肉の束に口を塞がれている。

 ――イッショニ死ノウ、リョウ……

「淳……?」
 佐伯は肉塊に目を凝らした。見えた、というのは錯覚だったのかもしれない。生白い皮膚を透かして、肉の中央に淳の身体が浮いていたことが、優れていたとしても見えるはずのない視力をもってして見えたのだから。
 そしてその今にも消えそうな似姿は、視線に気づいたかのように佐伯に視線を移すと、ふっと微笑んで、今からどうしようもできないことをしようとしているかのような表情で、亮にその透明な腕を伸ばした。
「うぐっ」
 その瞬間、亮の頭部が後ろに九十度近く、急激に傾けられた。肉の塊は亮の長い髪を強く引っ張って、皮膚に引っ張られたまぶたがうすぼんやりと開いた。
 開いた眼は、肉塊の表面に直接生えている眼と、全く同じ表情をしていた。悲しくも直観が全てを告げた。やはりあれは、淳に他ならないのだと。そして、どうやっても助けることは叶わないほど暴走してしまった帰結、人魚の肉を食べた者の末路なのだ。
「もうやめろ淳っ!」
 佐伯はカッターナイフを放り棄て、素手で肉の森に分け入った。すぐに薙ぎ払われるか、首を絞められるか、食われるか、数ある予想はことごとく外れた。佐伯が名を呼んだ瞬間から肉塊はとんと動かなくなり、大人しくなった。佐伯は力に任せて亮の身体を奪い取った。口が解放されて亮が一気に空気を吸ったのを確認する。そのまま黒羽と共に廊下へ出て、階段を駆け上がった。息が火照った喉を冷やす。
 一年A組の教室が見えるところになると、背におぶっていた亮がもぞもぞと動き始めた。黒羽が焦り気味に亮の名を連呼する。その努力が実を結んだころ、亮は佐伯の耳元で、ねえ下ろしてと囁いた。教室を目前にしたところで、亮は立ち上がった。白い頸には紫色の痣が巻きついており、見るに痛々しい。亮は頸の周辺をぐるりと撫で、
「剣太郎には見せられないよね」
 そう仕方なさそうに呟いて、廊下のフックを漁る。
 黒羽は亮の肩を掴んで振り向かせた。
「お、おい亮。お前、頸は?」
 亮は首に誰かが忘れていったマフラーを巻きつつ、黒羽の言葉に答えた。
「バネ、サエ……俺は大丈夫だよ。ありがとう。……ごめんな。こんなことにつきあわせてさ」
「『こんなこと』じゃねぇよ! お前一歩遅かったらあの化け物に殺されるとこだったんだぞ!」
 痣の巻きついた頸の皮膚に触れつつ、黒羽と対照的なほど淡白な言葉を亮は返す。
「うん、そうだね。下手すれば死んでた。ありがとう、バネ、サエ。助けてくれて」
「なにあっさりと自分が死んでたかもしれないこと言うんだよバカ! 俺たちは一心同体だ、誰かひとりが欠けてもいいってわけじゃねぇんだよ。だから……もう誰も、俺の手の届かないところには置かねぇ。どこにも行くな」
 佐伯に、黒い光のように戻ってきた記憶がある。樹を刺してしまった、それに関する全ての出来事。
 先んじて黒羽に背を向けた。そして階段を下り始める。案の定、黒羽の問いがかけられる。足こそ止めたが、振り返らずに背中で聞いた。
「サエ、どこ行くんだ」
「良かったなバネ、亮を連れ戻すことができてさ」
 声の震えを押し殺す。自分は黒羽に追放された、もう二度とみんなのもとには戻れない。ならばもう二度と会わないように自分から姿を消そう。さすれば、黒羽のグループからは永遠に関わらない。
 階段を下り始める足を止めたのは、黒羽の声だった。
「待てよ」
「バネ、俺はまた誰かを傷つけるかもしれない。だから友達じゃないなんて言ったんだろ?」
 みんなを助けるためにはそれしかなかったんだろ? 人を刺した前科者にはそれがお似合いだ。そう言いたいんだろう、バネ。
「どいつもこいつもなに考えてんだよ」
 その言葉で、佐伯は一瞬動きを止めた。
 振り返った先には、黒羽のいつもの表情が戻っていた。少なくても敵意がない、その顔。
 いま、黒羽はなんと言った?
「もう誰も俺の手の届かない場所には置かない。俺はさっきそう言ったばかりだぜ」
「バネ?」
 グループのリーダー。爽快に汗を流すスポーツマン。みんなを助ける力を持ったスーパーマン。意識せずともみんなが従う、天性のリーダーシップを誇る男。表現する言葉はいくらでもある。黒羽春風の昨日まで残存していた笑顔が、そのがっしりとした骨格の顔に蘇っていた。写真上段の中央で浮かべていた顔に、少しだけはにかみを加えたように。
 黒羽は手を差し出して、また笑みを強くした。
「もうどこにも行くな。戻って来い、サエ」
 佐伯はおずおずと右手を差し出した。黒羽はサービスエースを共に喜ぶような勢いで佐伯の手を取ると、そのまま強く握った。
 どこよりも誰よりも温かい手の平だった。


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