雨が止んでいて、葵の声がやけに元気に聴こえていた。それは教室のドアを開けたと同時だ。ひょこひょことした足取りで(確か捻挫してたんだっけ)近づいてきた葵は教室に入った佐伯の目の前までやってきたところでバランスを崩した。それを慌てて支える。葵は、ぱっと明らめた顔を上げた。
「おかえりサエさん、戻ってきてくれたんだね!」
 抑えつけられていた元気が解放されたかのような声だった。
「亮さんもおかえり!」
「うん、ただいま。いい子にしてた?」
 亮は帽子の位置を少しだけずらし、その口許に微かに笑みを浮かべた。
「うん、僕いい子にしてたよ! ね、バネさん」
「ああ、よくやってくれてたぜ。な、剣太郎」
 黒羽は葵の坊主頭をぐりぐりと力任せに押した。佐伯はその二人を微笑ましい目で見て、次に教室の中を見回した。ブランケットを顔までかぶせている大きな図体と、窓際で枯れ木のように佇むオジイがいる。樹の姿が見えない。
「ところでバネ、いっちゃんは? いっちゃんは無事?」
 黒羽が葵の頭をぐりぐりする手が止まり、その場でうつむいた。葵がなにごとか分からないとでもいうように黒羽と佐伯と亮の間に視線を移していたが、なにを話しているかについて一気に思考が回ったらしくあらゆる動作が失速し、その場でうなだれた。
 樹は死の魔の手から逃れられなかった。そして、手を下したのは自分だということまで、理解した。心の底に黒い雪が降り注いだ。雪国の書き出しのように、視界が開けたと思った瞬間に雪が見えたと思ったら黒い雪化粧を施した景色。魂が、冷たい手に、刃の冷たさに、温度を奪われていくようだった。
 佐伯は自分の両手を見つめ、そして指をすべて丸めた。この手が押しつけた死、それを心の奥に刻印するかのようにじっと見つめる。黒羽、葵、亮、天根、オジイの口から出る言葉は、樹を殺した自分に罵倒の限りを尽くすためにあるのだろう。それでも構わない。殺したのは紛れもない自分なのだ。罰を受けるのは当然のことだ。
「サエ、」
 黒羽の声があだ名を呼んだ。ほらきた。佐伯は唇を噛みしめる。
「先手打って言っとくけど、サエのせいじゃねぇからな」
「――え?」
 思わぬ言葉に佐伯は顔を上げた。黒羽は頬をかきながらで、まっすぐな視線を向けてくれない。その目は床を泳いでいる。
「おい、ちょっと待てよ。それじゃあいっちゃんは」
「死んだ。でもそれはお前が刺したからじゃない。多分な」
「『多分』ってなんだよ。それに俺が刺したからじゃないってなら、どうしていっちゃんはどうして、」
「飛び降りたんだよ、学校の奥上から」
「……なんだよそれ……っ!」
 黒羽は顔を上げないままだった。佐伯はその黒羽のがっしりとした肩を両腕で掴み、前後にゆすった。
「ダビデでもないんだから冗談よせよ! 自殺? いっちゃんがそんなに弱いって言いたいのか!?」
「弱かねぇよ。あれはいっちゃんなりの考えがあったんだよ」
「考えってなんだよ。いっちゃんは死ぬことでなんでも解決できるとか思うようなやつじゃないの、バネも知らないはずがないだろ!」
「知ってるに決まってんだろ! あいつは自分から死を選んだんだよ!! お前が牢屋に入らないように願いながらな」
 その瞬間、黒羽の顔色が明らかに変わった。失態を犯したときの苦い顔だ。舌打ちをして、黒羽は佐伯の腕をほどいた。しかし佐伯はなおも黒羽の肩を掴み、強く問いただした。
「ちょっと待てよ、それじゃ、」
「もういい。今のは忘れろ」
 黒羽は佐伯の手を振り払って話題を両断した。
「それに言いづれぇけど、ダビデも……」
 佐伯は、ばっと視線をブランケットの小山に移した。駆け出して天根の真横で急停止し、膝を突いた。ブランケットの端から出た左手を握ったが、その指に体温は残っていない。氷のようであり、もしくはぎんぎんに冷やしたゴムを鉄骨に巻きつけたかのように固まっていた。明らかに生きている人間の体温ではなかった。
「ダビデ……」
 そこで、佐伯はやっと空気に充満する異臭が鉄錆じみた生臭さということに気付いた。目の前に体温を失った身体が横たわっているという事実が余計に、大切な二人の死をまざまざと見せつけた。手を強く握っても、自分の体温が表面だけに留まっている。
 亮が帽子の下で尋ねた。
「破傷風?」
「多分そうだ。痙攣してたところで舌噛んでな」
 黒羽の声は心なしか暗い。感情が拒む事実を、理性が無理やりに抑えつけて説明しているという感じの短い説明だった。
 わずかに見出され始めていた希望が闇に落ち込んでいくような寒さを感じた。樹が死んだ。天根が死んだ。それは自分がいないときに起こった。
 止められたかもしれないのに。樹に至っては、なにか話すことができたのかもしれないのに。たとい苦しい思いをしていても、なにかをできたのかも知れないのに。死神なんていうものがいたら殴り飛ばしてやるのに。三途の川の渡し守に連れて行かれそうになったら、その舟を現世に向けて逆走させてやりたいのに。オジイは言っていた、親より先に死んだ子供は賽の河原で九千年もの間、石を積まなければならないって。
 自殺? 破傷風? なんでそんな簡単に死ねるんだよ。
 佐伯は窓際の壁に寄りかかり、顔に手を当てた。冷えた指が冷たい額を掴み、指の合間から燃え上がる熱い苦しみが胸を焼いた。前のように取り乱すことがないように、最低限の理性を残して。しかし貴公子のペルソナの奥で、佐伯は涙なく泣いていた。ぽっかりとあいた空洞が、涙によって埋められていくことを願った。
 樹も、天根も、安らかに死ねたようには思えない。ならば、昔オジイが話してくれた死後の世界で、せめて苦しみなく生きていてほしいと思う。普陀楽浄土、山中他界、どこでもいいから魂だけは生き続けてほしい。
 す、と肩に手が当てられた。「サエ」と同情したような声がかかる。そして「行こ」と腕を取られた。佐伯はマリオネットのように消極的に立ち上がった。
「ごめんバネ、席外すね。ちょっと落ち着かせてくるよ。こんなの、ショックだろうし」
「……ワリィ」
「ちょっとぐらい休ませてもいいよね。大丈夫、どこかには行かないよ」
「ああ、頼む。それと、化け物には気をつけろよ、亮」
 亮は、大丈夫、あれはここにはこないよ、とひとつ頷いて、佐伯の腕を引っ張った。また頼るのが情けなくて自分から手を振り払った。教室を出て、そのまま亮の背中を追った。亮のスニーカーが水を含んで、一歩ごとに染み出す音が虚空に幾重にも響いた。
 行った場所はひとつの教室を素通りした一年C組だった。B組はトイレに使われているのでそれに配慮した結果だろう。亮は佐伯に席を勧め、しかし断わって床に座り込んだ。なんでもかんでも拒否したい気分だった。事実を全て拒否して生きていれば、いつか樹と天根が死んだという事実さえも否定されて帰ってくるのだという根拠のない希望に縋りついた。それはあくまでも気持ちの問題だったが、佐伯はそれでも拒否を続けたがった。子供染みていると思った。反吐が出る。そんなことをしても樹と天根は帰ってこないというのに。
 いくら無言のまま壁際でへたりこもうと、死んだ人間は死んだ。戻ってこない。しかしそれは理性に納得させようとしても感情は強く反対する。認めればもう二度と樹も天根も戻ってこないのだと、自分で証明しているような気分になる。
 かなりの時間が経ったのだと思う。亮は飽きずにずっと待っていてくれた。なにも言わないでいてくれたことがありがたかった。ときたま髪をいじったり窓の外を眺めたりしてはいるが、それは佐伯が落ち着くまでの時間稼ぎだった。一度黒羽が葵を連れて様子を見に来てくれたが、亮は人差し指を唇に当てて、静かに追い返した。
「なぁ」
 そんなささやかな言葉が出るようになったのは、別室に隔離されて一時間ほど経過した頃合いだった。
「ふたりとも、バネと共謀して俺を騙していて、後でドッキリでしたなんてオチないのかな」
「言わないんじゃない? ダビデならやりそうだけど、こんな状況じゃタチ悪すぎてやらないんじゃないかな」
「いっちゃんは?」
「バネの話しを信じるも信じないも自由だけど、バネが嘘言えるような人間だと思う? ついたほうが良い嘘を言わなかったせいで、バネがどれだけいらない喧嘩をしてきたか、思い出せる?」
 沈黙が下りた。今までの静寂よりもずっと気まずい。亮はそれだけいうと、帽子をかぶりなおしてひとつため息をついた。
 樹が自分達をドッキリ目的で騙したことは一度としてない。むしろいつも引っかかる方で、バレた時は怒って鼻息を荒くしても、根底に他者への信頼があるため、毎回懲りずに引っかかっていた。
 天根も、なんど黒羽の回し蹴りを食らっても、嬉々として駄洒落やイタズラを繰り返した。幼いころは下手だったが、学年が上がるに従って駄洒落のレベルも上がってきた。
 樹の料理も同じだ。最初は簡単なカレーや味噌汁程度だったものが、少しずつ腕を上げて、今では何十種類もの料理を皿に盛る料理人と相成っていた。パスタを茹でる時は佐伯の好きなアルデンテになっていて、海鮮チャーハンもべとつかずぱらぱらとしていて、おにぎりの中に入れる梅は大きすぎず小さすぎずを選び、カレーは葵が絶賛するほどの出来だった。
 しかしこれ以上、上達することはない。
 今まで天根が言った下らない駄洒落を、樹が作った料理の滋養を、思い出した。
 史上最高と自負する駄洒落が思いついたときに見せた、無表情の中の笑顔。樹の、料理をしているときの真剣な目つき。
 あさりの味噌汁に入れた隠し味を当てる約束が、脳裏によぎった。
 永久に知ることがなくなってしまった、樹との些細なクイズを思い出しながら、佐伯はもういなくなってしまった仲間の料理のあたたかさを、思い出した。


 佐伯の精神状態が落ち着きを見せ始めたのは、それから更に数十分ほど経過したころだった。もう精神の荒波を乗り越え、凪に入ろうとしていた。もはや慟哭することはない。不思議と精神が落ち着いていた。おそらく、哀しみが尽きたゆえの安定だったのだろう。寒さはほとんど感じない。ひょっとしたら一時間ほど早くに皆の元に戻れたかもしれないが、今はこの気まずいとも言える沈黙が神経を鎮めている。淳は追ってこない。
 このところろくに時計を見なかったせいか、時計の針の進み具合がやけに早く感じる。のっそりと首をもたげると、短針は三の字を過ぎていた。窓の外は、夜闇なりの快晴である。窓の外にはひときわくっきりと見えるオリオン座が輝いている。目を凝らせばオリオン座の中でかすかに光る星雲さえ見えた。
「あのさ……サエはあの化け物、どう思う?」
 訊かれているのは、亮を拉致し、下手をすれば殺そうとしたかもしれない、あの途方もない大きさの肉塊のことだった。もう少しマシな冗談言えればよかったのに、と後悔が先立つものの、精神の磨耗が思索を遮った。
「淳なんじゃないかな」
 なにをバカなことを、と罵られることを想像したが、亮は思いがけず「そうだろうね」となんの感慨もなさそうに返答した。
「どうしてそう思うんだい」
「ちょっと信じられない話になると思うけど、あいつ、俺に話しかけてきたんだよ。声にならない声でさ。小さくて聞き取りにくい声で『りょう、りょう』って、ずっと呟いていた。不気味だと思うだろうけど」
「いや、思わないよ」
「ありがと。……でさ、思ったんだ。どうしてこんなことになったんだって。俺はあのとき口を塞がれて首を絞められて頭がくらくらしてたけど、不思議にそう考えられた。そして淳は教えてくれたよ。全ての顛末を」
 佐伯はのっそりと首を持ち上げた。帽子を外して、亮は机の上に腰を下ろした。テスト中に誰かが椅子を動かしたような音がした。
「あいつ、人魚の肉を食べたんだってね。オジイに、人魚の肉を食べた村が祟りによって滅ぼされたという話しを聞いたばかりなのに、それでも生きることにすがりついていた。これからは俺の推測になるんだろうけど、聞いてくれる?」
 佐伯は右膝を抱えたまま、うん、とひとつ頷いた。亮はどこか遠くを見るような目をして、静かに息を吸い込んだ。
「人魚の肉で不老不死になるという話しは日本に限らず、世界各地に存在するみたいだね。不老不死は人類にとって不滅の夢だ。でも現実には老いで死なない生き物なんて、ものすごく弱くて子孫を存続できなくて何度も再生することによって個体数を保とうとするベニクラゲぐらいだ。
 秦の始皇帝は身体が弱かった反動で不老不死を求めて水銀中毒になって死んだけど、その時期には水銀が不老長寿の霊薬とされて多くの錬丹術師が飲み、命を落としたんだって。散歩っていう言葉は水銀中毒で火照った身体を冷やすためにやったのが語源らしいね。不老不死にまつわる物語は錬金術師が賢者の石を求めて研究を重ねてきて現在の化学の基礎になったぐらい、強い魅力だったんだ。よって不老不死を手に入れようとした人間の逸話は少なくない。現代の健康ブームは、不老不死が存在しないことを知ってしまってすれた現代人なりの、長寿志向の片鱗と見ていいね。
 かの桃太郎の話だって、今では桃太郎は桃から生まれたとされるけど、原典では桃を食べて若返ったおじいさんとおばあさんとの子供だったから、ここにもかすかに長寿への憧れが透けて見える。アンデルセンの人魚姫だって、人魚は死んだら泡になって消えるものの、基本的に三百年もの長い間生きる。琉球王国では捕らえられたジュゴンは不老長寿の食べ物として王族への献上品とされたし、北海道のアイヌソッキにも不老不死のことが伝えられている。これは全ての生き物が死ぬことへのせめてもの反発なんだろうね。
 普通の動物はいつか自分が死ぬということを知らない。でも捕食者から必死に逃げるのは、ただ危険だという生存本能に突き動かされているだけだからだ。でも人間は、生きとし生けるものがいつか死ぬことを知っており、そして自分も例外ではないことを教えられる。下手に頭脳があるから余計に死を恐れるんだ。人間もネアンデルタール人に進化を遂げたあたりから葬式の習慣が出来始めたからね。つまりそれから前までは死を恐ろしいとも思わなかったはずで、動物同然だったといってもいい。人間は命が欲しいんじゃなくて、時間が欲しいんだよ。時間があれば身の丈レベルで出来ることはいくらでもある。でもその時間がありすぎることを苦にした人物は伝説の中に存在する。人魚の肉を食べて不老不死になった八百比丘尼だ。でも彼女のラストだって、なんだかんだ言ったって若狭の国の洞穴に入っての自決だった。
 ほぼ百パーセントの生物はたとえ食物連鎖のピラミッドのてっぺんまで上り詰めても、細胞分裂の末に死んでしまう。人間には六十兆もの細胞があり、いくつかの種類の細胞を除けばだいたい二十〜六十回の細胞分裂を経た後に死ぬ。老化は、これ以上分裂できない細胞が増えることによって起こるものとされている。
 でもさ、その細胞分裂が永遠に起こるとしたらどうかな。細胞の染色体の端にはテロメアという酵素があって、分裂がなされるたびに長さを減らしていく。細胞にとっての命の回数券っていうところだ。でもその回数券を脳の命令に反して引き伸ばして半永久的に増殖していく細胞を、サエは知ってる?」
 そのとき海馬の深みから、数日前に手に入れた知識を引きずり出した。終業式をサボタージュして保健室に居候していたときに偶然見た子供向けの本。子供受けを狙ったクマのキャラクターが指した小見出し。
「――癌細胞……!」
「そう、当たり。癌細胞は宿主の栄養を吸い取り、延々と増殖し、転移し、臓器を機能不全に陥れて最終的に死に至らせる。一九五六年、ヘンリエッタ・ラックスという子宮頸癌の女性から摘出された癌細胞は宿主が死んでも試験管から試験管へ増殖を重ねて現在でも生きている不死の細胞だ。その細胞は彼女の頭文字をとってヒーラ細胞と呼ばれている。そこで考えてみて。もし、宿主の身体を生かしたまま増殖できれば、これほど最高の居候先はないんだよ」
「……」
「細胞のテロメアを伸長させるのは、テロメアーゼという酵素なんだって。これこそが回数券の不法印刷機だ。それがあれば、細胞は分裂し続けるから、うまくコントロールして癌化を防げば何百年、何千年と生きることになる。ただし脳細胞や神経細胞は分裂しないから、何百年後に脳がどうなっているかは分からない。だけど、分裂しない細胞を増やすぐらいの働きはしてもおかしくないと思う。記憶と引き換えにね。
 これもやっぱり推測なんだけど、淳のあの姿、思い出せる? 真っ白な肉の塊になって、一目見ても分かるぐらい完璧に人間の形を逸脱していた。人魚の肉には、癌を誘発するか、さもなくば細胞分裂を促すなにかがあるとしか思えない。テロメアーゼの乱用とでも言っておこうかな。いくらでも細胞分裂を繰り返すから、皮膚も氷嚢持ってきたいぐらい熱かったしね。新陳代謝の活発な子供は平均的に体温が高いけれど、それと同じようなものだろうね。新陳代謝が活発ということは細胞分裂も活発に行われているのとイコールだから」
 佐伯は淳の肩の異様なまでの熱さを思い出した。亮と同じように成長して、それでも少しだけ感触の違う、すべすべした手の甲の感触を。淳の触れた肩の肉を撫で、そして首の布キレまで触れた。
 亮が言っていることは、淳が人魚の肉を食べて不老不死になったこと。そしてその不老不死の原因は、人魚の肉による全細胞の中途半端な癌化。
 無限に細胞分裂を続けるなら鼠算式に細胞が増え続けることになる。おそらく生きた細胞の一片があれば、それを元手としていくらでも細胞は増え続けて再生するだろう。全身の癌化による多臓器不全で死ぬのか、それとも校舎を潰すのが先か。亮は結論の外堀を埋めることに徹している。
 どちらにせよ、淳は人の目に触れる目に始末しなければならない。黒羽には、全員をあの化け物の魔の手から救い出すと言えば進んで雑用もこなすだろう。葵はなにも知らないでいるのが一番いい。あの瞳が曇るのは惜しい。もともと口数の少ないオジイは口止めしておけばバレる心配はない。もし大人の目に触れたら、このまま肥大膨張していくよりもずっと悲惨な結末が待っているだろう。
 そして細胞が無限に増殖する生物を殺す、一番の方法と題して、亮は青みががりはじめた空を背に、静かに一言だけ言った。
 その目は逆光で見えないはずなのに、声の孕む色が明らかな覚悟を帯びていた。
「あいつを、火の海に沈めよう」
 亮は鋭い目つきで、一語一語をくっきりと喋った。
「ギリシャ神話の英雄ヘラクレスは、十二の武勇伝を立てるために行ったことのひとつとして、ヒュドラ退治があったんだ。でもそのヒュドラは頭が七本あって、一本を切り落とされたとしてもまたすぐに同じ場所から頭が生えてくる。それに苦心したヘラクレスは、松明を片手に退治を行ったんだ。切り落とした頭の傷口を焼いて、再生させないようにした。再生は細胞分裂のひとつの形態だ。火傷したらその細胞中の蛋白質は熱で凝固して二度と戻すことはできない。ちょうど、ステーキを生肉に戻せないようにね」
 魔女の助力を得たものは全て火刑の炎で焼かれるように。まがいものでも不老不死を得たものは、魔女裁判にかけられて火で炙られるように。
「いやだと思っても、俺が実行するよ。もう淳のあんな姿、見るに忍びないから」
 その声には断固とした決意が秘められていた。亮は髪をひるがえして廊下への扉を開き、赤い帽子を頭にかぶせた。四角い、それでも光を取り戻しつつある廊下で、亮は横顔を見せた。深く降ろした帽子のつばが、表情を曖昧にさせた。
「分かったなら、教室に戻ってきて。バネに話してくるから。少しでも人員を確保して潰さなきゃ、ヤツを――殺せない」
 俺の手で幕を下ろす。覚悟のないやつは黙って目を塞いで耳を押さえていればいい。
 独り言のようにそれだけを言い残し、亮は廊下の朝ぼらけに姿を紛れさせた。開け放たれた廊下の窓からは少しずつ遠ざかっていく足音が聞こえていた。
 佐伯は立ちあがった。身体の感覚がやけに遠いように思えるのを寒さのせいだと転嫁すると、幾分か落ち着きを取り戻してきた。
 覚悟を決めろ。腹をくくれ。どんなにむごい結果になっても後悔はするな。淳を助ける方法はそれしかないのだから。
 樹を刺し、天根をみすみす死なせた、償いに。罪の、あがないに。またこの手を血に染めようとも、それが今現在考えられる最大限のハッピーエンドになる可能性が一片でもあるのなら、どんなことでもやってやろう。どちらにせよ淳をこのままにしておくわけにはいかない。
 そうして佐伯は廊下の仄かな明かりの中に立った。廊下の窓から、向かいにある北校舎のひとつ下の階に白く巨大化した大福餅のような肉塊が表面をぬらぬらと蠕動させているのが見える。どうやら追ってこずに、傷つけられた組織の修復をしているのだろう。もしかしたら、亮が好きな北校舎に留まっていたいというそれだけの理由なのかもしれない。
 腹は、決まった。樹を刺した左手の指を全て握りこんで、歩きだした。
 

 もう誰一人、最悪の結末を辿ることのないように。
 もう誰一人、苦しい結果に陥ることのないように。
 そのためなら、自分の手がいくら血にまみれ、黒く染まっても、構わない。


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