「淳! 俺はここだ、追ってこい!」
 階段の頂点から、踊り場まで這いあがった真っ白な肉塊に向け、亮は声帯が壊れるほどの大声で淳の名を呼んだ。肉塊は数時間前に見たときより、明らかに一回りから二回りは巨大化している。やはり人魚の肉には細胞分裂を促す物質があるのだろう。ここまで巨大化して生きている生物というのが不思議だ。心臓のポンプ機能やあらゆる内内臓の働きはまだ失われていないようだ。しかし筋肉の力は自重を支えることができないらしい。動きは徐々に緩慢になり、転がって移動できない分は次々と腕や足を作り、百足のように這いずるたびに骨が折れる音がする。
 屋上に飛び出ると、清浄な朝が広がっていた。空の端はオレンジ色なのに、上空はもう昼間の空の色を取り戻している。水平線の端から天球のてっぺんまでは柔らかに色が繋がりあっていた。ただ普通の朝と違うのは、足元を埋め尽くすように教科書や本が巻かれ、その上に大量の灯油がぶちまけられていることだ。隣にある校舎の屋上の半分以下の広さしかない小さな屋上は足の踏み場もない。揮発性の油が生理的な嫌悪を覚える臭気を海風にこびりつかせている。肉塊を先導するように亮は給水塔からじりじりと離れて、肉塊から距離をとる。縦横二メートルもない開け放した扉は、どう考えても巨大な肉塊の通れる大きさではなかった。
 しかし通れる。亮はそう信じていた。その確信を裏切らず、肉塊は皮膚の一部を扉の穴に押しつけると、中身がこちらがわに流動してくるかのように、肉の袋が膨脹してくる。それが目の前でみるみるうちに元の姿を取り戻し、シュールすぎる大福餅が目の前に現れた。それに自分とまったく同じだった面影は、どこにもない。
「もうどこも似てないよ……淳」
 亮は意識ある肉塊を給水塔から充分に離れるのを確認し、ドアに走った。ノブを思い切り回して閉じる。しっかりと閉まったのを確認する。そのとき、海の方角で、大量の水が防波堤を乗り越える轟音が響いた。おそらくこの津波が最後のチャンス。波の中には無数の人魚がいるのに違いない。ここから飛び降りても死、大人しく焼け死ぬという死もある。
 足もとにあった適当な絵本を拾い、脇に挟んでポケットからマッチ箱を取り出した。中身を抜き取り、箱の側面に擦らせた瞬間に炎が膨らむ。絵本の角を炎の先端で炙ったら容易く火が燃え移る。よく見れば表紙には半人半魚の美女が小さな小瓶を持っている絵があった。火のついた絵本を投げた。肉塊の前に落ちた本は灯油に燃え移った。周囲にあるあらゆる可燃物に引火していく。炎は空気を求めて龍のように噴きあがり、それでも酸欠に喘いで苦悶に乱れ舞っていた。
 まさに、火の海。
 十数秒とかからずに、小さな屋上は焦熱地獄の炎に埋め尽くされた。炎の赤い舌に舐められる淳の表面は極熱に焼かれる罪人のごとく苦悶に蠢いた。抵抗も虚しく、炎の撫ぜる先から皮膚が泡立ち、ぷつぷつと炎症を起こし、炭化する。黒く変色した場所はひび割れ、中の赤い組織を露出させた。傷は悶絶する度に広がり、血を流す渓流と成り果てた。
 炎は淳を焼くだけでなく、亮へも迫っていた。冷え切った指が熱に晒される。それは芯へと沁み込む暖かさではなく、表面だけを焼く性急な熱だった。炎が袖に触れかけ、すんでのところで引き寄せる、その最低限の行動はしたが、亮はその場から微動だにせず、彫刻作品のように地獄絵図を凝視していた。しかしその無表情は感情を殺しての無ではない。ありとあらゆる嘆き、哀しみ、罪咎、混乱が混じり合い、衝突し、変質し、沸騰しては冷えていく末に生まれた蒸留物。
 ――俺は、正しいことをやっているんだよな?
 そうだ。このまま淳を野放しにしておけば、正気を失っている淳は見境なしに人を殺して回る。生きとし生けるものの肉を食って回る。血こそ潮と色を変じ、屍の肉が断片となって浮き、沈み、揺られ、ついばまれ、咀嚼され、その肉が新たな惨劇を呼ぶ。累々と白骨が折り重なり、恨みがましげなされこうべの眼窩が凝然と己が骨を見つめる。
 そんなことを起こしたくないからこうして殺そうとしているのに。どうしてこんなに痛い? 苦しい?
 ――俺は、正しいことをやっているんだよな?
 ――俺は……俺は……?
 その刹那だった。肉塊の、まだ炎に触れていない皮膚から一本、手首ほどの太さを持った棒が生えたのだ。それは、ずず、ずず、と伸長したが、ある長さを超えた瞬間、槍のような速さで伸びた。
 殴られたかのような衝撃。肩に爆発的な激痛を感じた。背後のドアに背中から叩きつけられる。喉の奥からこみあげた液体が口腔に溢れた。咳と共に吐き出されたものは肩に刺さったものを血の紅に染めた。詳しく見れば右の鎖骨の下、そこから白骨のような色をした固い棒が突き刺さって貫通していたのだ。身体をよじり、あがき、暴れるが、縫い留められた身体はその場所から動けずにいた。見る間に衣が血に染まり、背中が熱い液体にぬるつく。
 まさか。夢? 明け方に見る夢なんて笑えないよ。悪夢なんて夜中にうなされるもんだろ?
 しかし傷口を中心に全身へ迸るこの痛みは? 背中まで刺し通されたこの痛みは? 口に滲む生臭い鉄の味はどこから? まさか淳が本当に――狂って?
 あつし? と呟くことさえできなかった。喉は、ごぽ、ごぽ、と血を吐きだすだけだった。両手でその棒を掴み、抜こうとする。血で滑ってなかなか抜けない。それだけではない、腕を突っ張った瞬間、全身の筋肉が硬直して傷口を締めつけたのだ。どぴゅ、と血が溢れ流れる。うぐ、と口の中で呻くが、声よりも血の流れ出る量が圧倒的に多かった。
 第二撃が加わった。とても太い爪のようなものが、心臓の真横、肋骨をへし折って左の肺を直撃した。噛みしめた歯がぎりぎりと鳴った。空気を思い切り吸い込んだ瞬間、息が肺に吸収されないような息苦しさを覚えた。固い爪が肺を貫通しているだけでなく、折れ砕けた骨が内側に陥没し、更に肺を刺している。息を吸っても吸っても、左肺だけが冷たい。
 まさか、まさか、そんなことをおれにするわけが。そこまで考えて、ふと自分の立場に思い当たる。
 同じなのだ。この状況が。淳が亮の身体を串刺しにしている間に、亮は奥上に火を放って淳を死に至らせんとしている。ここでもやっぱり双子か。同じ考えをするのは避けられない、生まれてからずっと必然だった帰結だというのか。
 また一本。大腿。足の力が抜けるが、上半身が留められているので倒れることさえ許されない。脇腹へ。胃へ。帽子が落ちて火に巻かれる。傷口が焼けるように熱く、熱は液体になって服を濡らし、手足からは体温が抜けていく。咳をするのもままならない。自分のこの姿が、虫ピンで留められた昆虫標本のようにさえ思えてくる。考えてみれば下らない。そんな無駄な実験をするよりも、もっと虫とか植物を標本にしていればいいんだ。
 そういえば、むかし淳と一緒に昆虫採集したっけか。もう一度、やりたかったな。一緒にアキアカネを、ギンヤンマを、シオカラトンボを、イトトンボを、オニヤンマを、捕まえようとして、淳はいつも捕まえられなくて泣いていたっけ。ヤゴから育てようとして死んでしまって、悔しくて泣いてしまったとき、淳はまだ時期にしては少ないアキアカネを手に押しつけて、二人分の虫取り網とカゴを持ってきて、手を引いてくれたっけ。
 もう一度あの頃に戻れたのならな。またみんなで、テニスできたらな。
 もっと早く、淳の気持ちに気づいたなら。双子だから分かり合えると思っていたから、双子だからと自分に言い訳して、淳の気持ちなんて本当はちっとも理解しようとしていなかった。
 意識が遠くなる。霞が世界を白く染め上げていく。風の音が遠い。それなのに空は明け方で、なんとなく滲んで歪んでいるのに、夕方のようで、ただひたすらに、泣きそうなぐらい、透明なオレンジ色だった。
 放課後にみんなで遊ぶ、アスレチック場を思い出した。みんなで遊具にチャレンジしていって、オジイにラケットを作ってもらって、テニスコートで遊んで、オジイに昔話をしてもらった。
 オジイは、人間はなんどでも生まれ変わることができるって語っていた。うそかほんとうかわからない。だけど、オジイはずっと語り続けていた。
 でももしまた生まれ変わることができたら――
 また生まれ変わっても、淳と仲良く暮らせることを願って。
 また生まれ変わっても、いままでとおなじように六角のみんなとテニスをすることを願って。
 そのどちらにも、希望を感じて。
 本当に楽しそうに、クス、と笑って――

 心臓を、爪の槍が貫き通す。
 淳へ伸ばしていた手から、ぱたり、と力が抜けたとき、木更津亮の意識は既になかった。



 淳は、亮を串刺しにしていた無数の腕を引き抜いた。ずちゅ、と血肉の立てる水音が微かに聞こえた。最後まで残った、心臓を貫き通した爪を抜くと、亮はおもちゃのようにくたりとその場に倒れた。炎に炙られて、服が燃え、皮膚が焼け、髪が融けていく。自分の分身が音もなく燃えていく。
 穏やかな死に顔だった。夢を見ているかのようだった。昨日の夜に携帯電話を盗みに部屋へ忍び込んだときに見た、楽しい夢を見ているときと、まったく同じ表情だった。血にまみれ、煤に汚れ、今も炎に焼かれていくだけなのに、どうしてこんなに穏やかになれるのかと逆に問いかけたくなるくらいの顔だった。
 殺した。
 自分と同じ顔は、ひとつだけになった。
 誰にも間違われない。もう、ふたりでひとりだなんて、誰も思わない。
 それなのに、この痛みは? 身が焼かれる痛みだけではない。自分の半身が死んだ。空洞が、ひしひしと痛んでいる。
 なぜ? 目の前の人間が死んだということが、空洞であるわけがない。淳は淳。亮は亮。まったく違う人間なのに。同じ細胞を持っただけの他人なのに。どうしてこんなにも息苦しい。
 幽かに残っているはずの人の心さえ、人魚の囁きにかき消されそうなのに。
 でもこの意識だけは、自分のものだ。誰が死なせるものか。
 両手を見つめる。しかし腕の造作は根本的に人間の生物の構造を理解しておらず、ただ粘土工作のように人の形を目指しているだけだった。歪な人間の断片が大福のような肉から直接飛び出ているだけの、醜い塊だ。こんな形のものが木更津淳だと? 本物の木更津淳はどこにいる? 間違いなく自分なのに、自分とはかけはなれた存在にさえ思えてくる。
 なぜこうなった? 生き延びようと人魚の肉を食べたのは自分。そして、醜い肉の塊と成り果てたのも自分。しかし今さらどう顔向けできよう。いくらでも再生と変異を続ける身体は、いつしか記憶や理性まで食い荒らし、最後には人間とは似ても似つかぬ怪物へと変貌するだろう。淳は今まで自分は本当に人間だったのか、という疑問さえ湧くようになった今、すぐにでもこの不死の肉体を手放さなければ、そう遠くもないうちにあらゆる知能、理性を霧散させ、ただ食欲のためだけに暴走する化け物になるだろう。
 それならば、本物の怪物になる前に、もう一度死のう。どうせ一度死んだ命。また死んでもおかしくはない。それでも、また、生きている亮に、もう一度会いたかった。
 熱によって多くの細胞が壊れ、再生能力が限界にきつつある細胞をさらに増殖させ、腕をじりじりと海に伸ばした。人魚の一匹が、餌に一番乗りとでも言うように水面を蹴り、飛びついてきた。その人魚の背中を抉ると、その人魚の死体に人魚が群がり、数十秒とかからないうちに骨が水面下に沈んだ。淳は小指の先ほどの人魚の肉を、亮の口に含ませた。舌が動かない。柔らかく指を伸ばして、生ぬるい食道を通り、胃へと運ぶ。ずるり、と引き抜く。血の気のない、半分ほど焼けただれた顔に、さっと赤みがさした。
 そして淳は顔のない顔でうっすらと笑い、表面を蠕動させた。真っ白な肉から腕ほどの太さをした肉が突き出、五本に分かれる。肩が、胸が、そして頭がいまにも生まれそうな赤ちゃんのように、ずず、ずず、と巨大な塊から分離し始める。
 足の爪先まで出たころ、淳は自らの顔をぺたぺたと触った。全く同じ顔があった。
 最も嫌いだと自覚していた故に自分の顔をより鮮明に覚えていたことは、皮肉でもなく、ただ純粋に嬉しかった。



 木更津亮は、薄くまぶたを開いた。淳が笑っていた。比喩ではなく、人間の形を模した木更津淳が、片膝をついて亮の顔を覗きこんでいた。
「おはよ」
 その淳も満身創痍である。首から下、そして顔の左がほぼ全て炭となり、表面に肉の亀裂を網の目のように見せて血液を流出させながら、淳は子供のように無邪気に笑った。
 亮は唇を、ゆっくりと動かした。喉に血が絡んでうまく発声できない。
「あつし……?」
 やっと逢えたね。と淳は目を細める。
「逢いたかった。おかえり、亮。そして、ただいま」
 その声は平時の淳の声とは異なっていたが、素直さが戻った表情は紛れもない木更津淳そのものだった。
 淳は、最後の再生能力を使って、自らの分身を作りだしたのだ。それでも再生できなかった部分は、焼け焦げた皮膚を使った。へそから生命維持の臍帯が伸びているから、ちょっとへんてこになった。服もないから、まるで赤ちゃんみたいだね。でもやっと元の姿に戻ることができた。今の亮も、顔の半分をやけどしてる。鏡みたいだ。そうからかって、淳はクスクスと笑みをこぼした。
 ようやく逢えたね、あつし。亮は淳の頬に手を添える。
 そうだね、りょう。淳もまた、亮の頬に手を添えた。
 お互いに顔の輪郭に触れ、確かめあう。
 どうしておれは生きてるの?
 人魚のにくを、ひとかけらだけくちにふくませたんだ。
 そうか。そうなるとおれも、あつしとおなじになったんだね。
 しなないわけじゃないよ。だからおれは、さいごにりょうと逢うためだけにこのすがたにもどったんだ。
 さいご? 亮は尋ねる。淳は紅い炎に舐められながら、くす、と笑み返す。
 もうおれはにんげんには戻れないから。このいしきが人のものとして残っているうちに、うみに身をなげるよ。
 亮は、そうだね、と呟き、困った子をなだめるときのような笑みを送った。淳の焼かれつくした頬に手を這わせ、鼻と鼻が触れ合いそうな距離にまで近づく。無事な瞳の端から、一筋だけ、光をこぼした。
 ひとりでそんなことはさせないよ。おれたちはふたごだろ? だから……

「帰ろう? 羊水うみの中へ」

 淳は微笑して、うん、と迷いなくうなずいた。
 淳のへそから伸びた臍帯に食いつき、力をこめて噛みちぎる。ほとんどが炭になるまで焼けたためか、呆気ないほど簡単に肉の紐は途切れた。同時に、淳の移し身は操り人形の糸が切れたようにくたりと倒れた。抱きかかえたその背中を支えながら、亮はフェンスの穴に向かった。熱で脆くなったフェンスは肉塊となった淳が暴れたせいで、ところどころに大きな穴が開かれていた。
 洪水のようになった世界。昇った太陽が水面をぎらぎらと照らしている。太陽の反射を受けるのは波だけではなくて、獲物を狙う魚の背にも当たり、ぬらぬらとしたてらめきが水面で泳ぎまわっていた。
 淳の本体である巨大な肉塊が苦しげに自分の後を追ってくるのを確認して、微笑みかける。
 移し身を抱いて、虚空に身を委ねた。天と地が入れ替わる。ひゅう、と耳元で風が鳴った。風は、自分たちが小さいころから流れていた空気で、千回でも万回でも風になって流れていく。この風のように、ずっと生きていたい、と願った。
 たしか原作の人魚姫では、人魚姫は死後、風の聖霊になって戻ってきた。人魚姫になりたかった。王子様と一緒になれなくてもいい。海の泡となって消えてしまう運命でもいい。ただ願いがひとつだけ叶うなら、これだけを望もう。淳と一緒にいられれば――それだけでいい。
 指が、亮の指にそっと絡められた。
 水面に叩きつけられ、沈む身体めがけて一斉に人魚が群がる。この身が海の一部になっていく。それでも固く結んだ指は離れなかった。


 ――さっきのお願いの続きです。
    もし生まれ変わることができたのなら、
    もう二度と、ふたつに分かれることがないように――



   *



 ――儂は、かれこれ四百年もの間、似た人間には何度も会うてきた。
 長く生きていると、死んだものに似ているという子供には、よく逢うものじゃ。単純に顔形が似ているといだけではなくての。性格、趣味、更には癖まで一緒という子供もおったぐらいじゃ。それは生きている人間への慰めでしかないと言われるのが常じゃったがの。儂はよく似ている子供を見て、よく慰められた。少し前に生きていた人間が世代を超え生きているという考えが、長く生きておると人には言わんでも心に根付くものじゃ。
 しかし、どんなに長く生きていても、あの不死の少女にだけは逢えなんだ。どんなに諸国を巡っても、永劫とも思える時間を経ても、どうしてもあの少女ともう一度逢うことは叶わなんだのじゃ。それは、不死の命を手に入れたものはそれ以外の生を得ることができないからじゃないかとも思うての。八百比丘尼の少女の話は、昔話で黄泉路へ逝ったことを伝えられた。逢うことは、結局最後まで叶わなんだ。
 あのふたりは、もう一度逢うことはできるかのう――

 オジイの声が聞こえた。
 首筋だけが暖かかった。まだ強い眠気の中で起き上がる。妙にくらくらした。手で髪型構わず頭を押さえる。そのまま指を首まで持っていくと、マフラーが巻かれていた。誰が巻きつけてくれたのだろう。そう思ってマフラーの端を見たら、全体が白いことに気づいた。亮は、佐伯の記憶にある最後まで、首の痣を隠すためにマフラーを巻いていた。それがいま、佐伯の首にある。
 時計を見る。七時五十六分。太陽は東の空で、夕焼けより強い光を放っている。いつも登校する時間とあまり変わらない。
 亮はどこにいったのだろう。葵は、黒羽は、今どこにいるのだろう。海馬からふっと湧いてきた記憶が意識に流れ込む。教室の隅に葵が倒れていた。気絶しているだけだと言っていた。それでは黒羽は? 疑問未満の意識に急かされ、まだ覚醒しきらない足取りで教室を出た。黒羽は理科室に亮を迎えに行くと言っていた。案の定、理科室のある棟の廊下で、うつ伏せに倒れている黒羽を発見した。赤い六角のジャージが背中にかけられている。亮がかけたものだろう。それではその亮はどこへ。
 奥上へ向かった。階段を上り、ドアを開く。誰もいない。なにもない。ただ、そこら全てに黒い炭が散乱し、つい数十分ほど前まで炎が乱舞していた痕跡を見受けるだけになっている。フェンスのところどころに穴が開き、ドアにははけを叩きつけたかのように血が付着し、さらに茶褐色に変じている。
 そして奥上に肉の塊となった淳の姿もない。フェンスの穴から飛び降りたのだろうか。それならば亮はどこに。
 淳を、追ったのかもしれない。
 盛られた薬のせいだと断定できるぐらい意識がぼんやりとしている。もしかしたら、睡眠薬だけではなく意識をぼうっとさせる薬も混ぜ込まれていたのかもしれないが、不思議と怒りは湧いてこない。理由がほとんど考えられない。そのまま死んだように佐伯はまったくの無言で階段を下り、外に出た。最初からスニーカーで校内を歩き回っていたから、そのまま水の引いた校庭に出る。しかし玄関から十メートルも離れていない場所に、血の跡を見つけた。濃くはっきりとしたものではなく、薄くまんべんなく広がっている程度のごく薄いものだ。ところどころに黒い断片が見える。それは焼き尽くされた淳の、もう分裂しない死んだ断片なのだろう。
 そして、見つけた。
 真っ赤に染まった広場の中心に、ふたつの頭蓋骨が、額をくっつけあうようにして転がっているのを。
 そばに寄って、膝を突いて見てみた。片方は普通の頭骨で顎がない。もう片方は本当に人間の頭蓋骨なのかと疑うほど歪み、ぼこぼこした表面をさらしていた。
 亮と、淳だ。直感でしかない。しかし、仲良く額を寄せ合う白骨に、お互いに微笑み交わす兄弟の面影が重なって見えた。
「亮……淳……」
 名を呼ぶだけで力が尽きた。佐伯はそのふたりの頭蓋骨の横に倒れた。頬が潮臭く冷たい地面に触れた。身体が重い、動かない。しかし太陽は昇っていく。
 夕暮れのように濃い黄昏の色をした太陽が、朝を運んでくる。
 


 それでもいつか出会えると、信じながら。
 たとえこの魂の叫びが、君たちに届かなくても。











2008/11/22 改訂


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