本棚の前で少し進む。止まって、手を迷わし、結局手を下ろす。少し悩んで、また進んで。一体何度このような動作を繰り返したかは数えていない。しかし、少なくとも一時間近くはこうしている。小説を読みたいのだ。だが手に取って、買おうと思う本はなかなか見つからず、忍足侑士は長い時間、このように本屋で徘徊しくさっているのだ。
 冬用のコートに付いた雪は既に店内の活気に消え失せ、髪は少々の水玉を含ませている。落ちて本を濡らすほど大量の水分は含んでいないが、気持ちがいいとは決して思えない。濡れた髪が頬にこめかみに張り付き、皮膚と取り巻く空気の湿度を上昇させているのだ。蒸し暑いことこの上ない。忍足は雪で濡れた前髪をかき上げ、その拍子に視界へ割り込んだ暖房に恨めしげな視線を送った。でも暖房は無機物だ。意思があるわけじゃなし。いくら忍足が暑い暑いと思っても、天井の暖房は悪意なしに吹きつけて灯油を無駄な炎に費やす愚行を毎年続ける。しかも良い事だと確信しているのが厄介だ。このように善い行いだと確信する輩の事を確信犯だと聞く。しかしここまで暑くされると、ウォームビズもなにもない。その代わりに屋外ではいくらウォームビズをした所でも冷酷なブリザードによって無意味にされるのだ。何たる無意味。しかし無ければ凍死は確実なので、黙って防寒具のお世話になる他はない。
 先刻まで着用していたコートを片手に、忍足は暖房直下の棚に赴く事になった。あんまり行きたくない場所ではあったが、そこには恋愛小説が密集しているのだ。ハーレクインのペーパーブックを手に取り、適当にぱらぱら捲ってみる。あらすじに目を通してみたが、何か予定調和すぎそうで、棚に戻した。恋愛というジャンルの小説は、だいたい物語がパターン化する傾向がある。王道ばかりを読んでいたら、徐々につまらなくなってしまうのが人の性。故に忍足は恋愛小説を見る目も厳しくなっていた。
 数冊手に取って、あらすじを目で追う。そして手に取った分だけ戻す。最近のヒット作も散々読み倒したし、いま特に読みたい本はない。しかし、今日ばかりはそうもいかなかった。
 今日は、十二月二十四日であり、雪菜の誕生日でもあったからだ。現在床に伏している雪菜が望むプレゼントは本なのだ。あまり外出できない雪菜としては最善の選択だったが、本だけを選ぶのも、忍足としては少々物足りないと感じていた。しかし余命いくばくも無い彼女の望むものだ。少しでも望みを叶えてやりたいというのは、忍足の性だったのだ。
 忍足の想いに反比例して、忍足の認める恋愛小説は極僅かでもあった。かといって妥協するなんてことはしたくない。妥協しても自分では決して満足は出来かねない。だが読ませたい本は見つからず。小説を求める量と認める小説の数は反比例の関係にある。大人しく恋愛小説から離れて、何らかのライトノベルに走るのも考えられなくはないが、恋愛よりアクションが多くて、忍足の趣味にも雪菜の趣味にも合わないのが実情だ。まあ、行って見てから考えよう。
 忍足は踵を返し、児童書の隣接する棚の横を通り、背表紙が鮮やかなライトノベルの棚に向かった。同じ色の背表紙が何冊か並べられ、違う色のライトノベルが棚の端まで続き、美麗イラストは平積みにされて鎮座している。絵には刀を構える女の子、喪に服しているような色合いの少年、中世ヨーロッパ風のいでたちをした青年、釘バットを構える天使の図があったが、どれも趣味には合いそうにない。面白そうには面白そうだが、恋愛系統は無さそうだ。だがあらすじを見ないのは癪だから、適当な小説を手に取った。表紙では薄紫色の髪をした少女が背中を向けている。表紙の折り返しに目を移した。数行の紹介文には、ちょっと変な現代の夏に繰り広げられるボーイ・ミーツ・ガールストーリーだとあった。中学生の時に持っていた筈の初々しい気持ちはもう遠い昔にすら思えて、忍足は少々の懐かしさを覚えた。
 なんや、面白そうやん、と忍足は本文に目を通す。
 暫く読んでいる内に、文体が独特の味を出しているな、とか考えた。最初のインパクトこそ強くないものの、文体の味が読者を先へと読み進ませる。自分と彼女の出会いはどうだったかな、と記憶の糸を芋蔓式に引っ張り出す。色褪せた筈の記憶が断片的に思い出される。セピア色の思い出が一枚一枚、浮かび上がっては消えていく。
 懐かしい。なのに十年前に持っていた筈の中学生の気持ちは封印されたまま、意識の底に沈んでいる。
 そういえば、と思い出す。確か、彼女と会ったのは、中等部編入直後の教室で。
 一番のきっかけは、小説で。
 無意識に本を閉じた。
 思い出すのも久しい記憶が不意に脳裏へ蘇る。
 ……決定。この本にしよう。
 忍足は本を閉じ、バッグの中にいれてある財布を取って、レジに向かった。
 最後尾の中学生を前に、忍足はふと笑みを浮かべ、すぐにそれを隠そうと努めた。初々しいなとか、あれは女子生徒だろうかなど、わけの分からん事を考えた。
 思案中に、隣の列から本の予約やらでぐずぐずしていた男性が抜けた。空いたレジで女性店員が営業スマイルを掲げ、「お客様、こちらへどうぞ」と透き通った声で忍足に言った。忍足は今並んでいるレジの店員と空いているレジの店員を見比べて、すかさず空いた方のレジに移った。
 ライトノベルを店員に渡す。その時初めて裏表紙にUFOの絵が見えた。
 店員がメンバーズカードの有無を確認し、500円毎のお買い上げで1ポイントが溜まり、50ポイント溜まったら500円分の図書券を進呈します、とごたくを並べていた。何が500円分の図書券だ。その頃には既に2万5000円を使っているではないか。
「577円になります。カバーはおかけしますか?」
 忍足は肯き、女性店員はいそいそとクリスマスバージョンのカバーを掛け始めた。忍足はその内に財布から500円玉1枚、50円玉1枚、10円玉2枚、5円玉1枚、1円玉2枚を何とか探し当てた。それら全てを一度にトレイに乗せると、忍足は女性店員の目を眺めた。そしてめろめろになる事間違い無しの甘い声で訊ねる。
「なあ、綺麗な店員さん。ちょっとでええから、まけてくれへんか?」
 しかし店員も強者で、営業スマイルを掲げて返答をする。
「申し訳ありません。当店では一切、料金の引き下げは行っておりません。ご了承下さいませ」
 直後に感熱紙のレシートを渡されて、店員はマニュアル通りの礼をして、次の客を促した。忍足は仕方あらへんなあ、という感じにレジを後にした。
 土気色のバッグのファスナーを一気に下ろし、ぽっかりと開いた口に文庫本と財布を一緒くたに放り込んだ。そして理由もなくゆっくりとバッグを閉める。
 するとバッグの中から振動音が聞こえてきた。細かい振動に気付いて、忍足は何の覚悟も持たず、ただ鳴ったからとりあえずといった感じに携帯を取り出した。片手で携帯を開くと、画面には向日岳人の文字がある。忍足は通話ボタンを押し、耳に当てた。
「もしもし?」
 瞬間、やってきたのは向日の激しい怒号だった。
『さっさと出ろバカバカ侑士! おせーんだよ!』
 余りの声の大きさに、忍足は携帯を耳から離した。向日の声が電話越しに捲くし立てる。
『ったく早く出ろってんだ! んで、出てるの侑士だよな? あの子以外の女だったらマジ怒るぞ。つーかまーいーけど、とにかく返事しろバカ侑士!』
「が、岳人? どないしたん? 今お前仕事中やろ?」
 向日が口を尖らせているのが想像できる。
『あーそーだよ俺は仕事中ですーっ! とにかくお前出んの遅い! 何回かけたんだと思ってんだ』
「何回やて?」
『あーもう何か数えるのも面倒になってきた。お前マナーモードとかにしてただろ。映画見てたんじゃねえのか? って、俺が言いたいのはそれじゃねえーっ! ええっと、何だっけ?』
 支離滅裂な言葉をようやく理解して、忍足は首を傾げる。小さな唸り声の後、向日が電話の奥で指を鳴らした。
『思い出した。えっと、あれ。雪菜んの事なんだけどよ』
 雪菜の名前が出て、忍足は弾かれるように訊ね返した。
「雪菜? 雪菜がどないしたんか?」
 向日は言いにくそうに、しかし急いでいるように答える。
『あのさ、あの子、今ヤバイんだって。発作が起こったんだってさ。ついさっきICU(集中治療室)に入れられたらしいけど、危篤状態らしい。だけど正直……駄目っぽい』
 心臓が氷になったかのような錯覚を感じた。向日の言葉は、早く伝えたいのだけれども言葉を上手くまとめられないような、感情のみが先行する言葉だった。
『あのな、言っておくけど、病院の人が侑士の携帯に何度も電話したんだぜ。でもその様子じゃあ伝わってねえよな』
 生まれて初めての重さが圧し掛かった。
 携帯を持つ手が力を失ったが、床に落ちるなんてベタな事にはならなかった。
 その場に崩れ落ちるなんて事もなかった。足がただの棒になり、体重を支えるだけの存在に成り果てている。たださらさらと足へ血液が落ちていく感覚だけが残った。
 危篤? ICU? 駄目? ……死ぬ?
 電話の声が聞こえない。世界が無音になって、色も景色も頭の中に入らなくなる。息が止まる。瞼も下りず、眼球がちりちりと痛む。そんな中で鎚を打つような心臓の鼓動だけが増幅して聴覚に訴えかける。
 どつ、どつ、どっ、どっ、どっ、ど、ど、どど、どど、どどどどど……
 世界が白くなる。目の前が暗くなるとは、このような状態なのか、と僅かに残った思考が見当違いな考えをする。
 電話が何かを叫んでいる。それすらも何を言っているのか分からない。
 瞬間、忍足は無意識に通話を切っていた。携帯電話をポケットに捻じ込む余裕もなかった。体当たりするように自動ドアを抜け、雪舞う屋外に出た。産業道路の斜向かいには忍足が乗ってきた駅がある。あれは忍足の勤める氷聖病院まで一直線のルートを辿る。忍足は迷うことなく駅に向かって、駐車場を駆け抜けた。
 靴が雪を踏みにじり、蹴散らした。全てを白に穢された世界が、忍足のダッシュを阻む。横断歩道も関係ない。忍足はいま、思考すら消えていた。いや、麻痺していたのだろう。
 止まらずに左を見て、車列の切れを確認した。そして足の筋肉を全力で動かした。大学で医療系の勉強ばかりしていて久しく動かしていない足は、全盛期の力まで持ってはいなかった。自分の足にプレッシャーをかけて、もっと速く、と命令した。しかし足はこれ以上速くは動かない。もどかしい。速く動け、元氷帝テニス部レギュラーやったんやろ、俺。
 手の中の携帯電話が再び震え始める。忍足は携帯に出もせずに、ポケットに入れるのも忘れて、ただすぐ横の横断歩道を斜めに駆け抜けようと、次の足をひたすらに前へと押し出した。
 土色をしたシャーベット状態の雪が足元で飛び散る。水っぽいぐちゃぐちゃした音が足元で弾ける。
 顔に雪が当たった。雪の結晶は水にまで溶け、涙のように頬を流れる。息で伊達眼鏡が曇り、更に視界が白濁する。大きくもないバッグがゆさゆさ揺れる。
 何も考えていなかった。考えようともしていなかった。
 その瞬間、目の前で白いミニバンが水を跳ね飛ばしながら走り抜けた。接触する寸前で何とか立ち止まり、バランスを崩してたたらを踏んだ。すぐに背後を車が走り抜けた。風圧が雪の粉を撒き散らし、髪を乱して頬を叩く。
 そしてとにかく前に進む。足を酷使してでも進む。
 また一つの車線を走り抜けた刹那、猛烈なクラクションの音が聴覚を塗りつぶした。
 世界が、反転した。
 身体の左側に猛烈な衝撃が叩きつけられ、脛がナンバープレートに衝突。左腕も音を立てて砕けた。肋骨も何本か折れたような感覚がする。視界が円を描き、身体が重力から解放された。全てがスローモーションのように視覚が遅れる。
 汚れきった雪が目の前で壁になっている。それが少しずつ近づき、背中からアスファルトに落下していく。そこへもう一度衝撃。背中から大地のコーティングに叩きつけられ、息が詰まった。そこへ猛烈なクラクションの音と共に、タイヤが身体を巻き込んで乗り越えていった。クレヨンを折ったような嫌な音が数本一気に聞こえた。
 眼鏡が飛んで、後続の車に潰された。ガラスが破片か粉と化し、フレームが一本斜めに飛び出した。
 朦朧とした意識の中で、頬に雪の冷たさを感じる。現実感と共に時間が戻ってきた。瞼が急激に重くなる。痛みは不思議と感じない。ただ身体中が重くてだるくて、動くのも面倒だった。まるで全身に土嚢を詰められたように、動かない。呼吸も浅く遅くなる。身体の節々に熱が集まる。腹が奇妙な感覚を覚えた。多分内臓破裂。動けない。腹が今頃どす黒く変色しているのだろうな、と、まるで他人事のように考えている自分がいた。それなのに現実的な鉄の味が舌を包む。何処かでクラクションが鳴り響く。何処かで携帯の録音音声が届いている。
 ――侑士! 侑士、今何処にいんだよぉ! 電話出ろよ、さっさと連絡取れ! 侑士のバカヤロ! 早く行かないと雪菜が……雪菜が死んじまうだろうがよう! ……傍に居てやれよ、侑士……
 向日の怒号が聞こえる。
 朦朧とした意識の中では、考えることすらままならない。ただ『こりゃ死ぬなぁ』と他人事のようにぼんやりと思った。手を伸ばそうとして、動くのは僅かに指の先だけだった。
 ――早く出ろ! 俺も病院行くから……ああ、うるせえ宍戸、黙ってろ! 大事な話しなんだ。まあとにかく俺もすぐ病院行くから! お前は傍にいて――ピー……
 向日の声が途切れる。
 血の味が口の端から零れた。それは汚れた雪に滲み、徐々に赤い領域を広げていった。
 重い瞼が視界をアーモンド型に区切る。横転した世界の中に、人の影が靴が続々と入ってくる。何処か遠い場所で、男の声が叫んでいる。必死に自分を肯定し、『この男』を否定する声が聞こえる。悪いのはこいつだ、だから自分は悪くないと、支離滅裂に半狂乱になって叫んでいる。
 そうだ。あの男は悪くない。勝手に飛び出して人身事故を誘発した自分が悪いのだ。だから、あいつは悪くない。
 忍足は瞼を下ろした。雪菜がもし死ぬのなら、自分が死んでも悪くはない。共に三途の川を渡って祝杯を挙げようではないか。鈍い赤色の闇の中で投げやりに毒づいた。
 忍足の意識は闇の底へ沈んでいった。
 木の葉が沈むように暗い世界に堕ちていった。
 苦しみは何も、感じない。
 頬を濡らす水が氷の冷たさで、意識を奪っていった。

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