波の寄せ引く渚。遠目にも際立ち、黒い海に映える白波。繰り返す海鳴り。
 場違いに草いきれを感じながら、子供の甲斐は草むらに立ち尽くしていた。今の姿ではない。今よりも10歳近くは違う、小学校入学した頃の甲斐だ。まだ過分数の体格で、胸には比嘉小の名札がついてある。大きく平仮名で書かれた名札は一年生だけに与えられる物であり、それからもこの姿は子供だと認識できた。
 潮風が頬を嬲る。風の振る舞いは夜の浜辺に不要な者を追い返す番人を思わせる。
 浜辺に自生した背の高い草が夜風になびく。刃のように鋭い葉が青田のように波を作り出す。鈴の音のような葉と葉の擦れ合う音は、浜辺には不要な存在として、風が吹き飛ばそうとしていた。
 その風に、白く長い髪が揺らぐ。ぼさぼさの長髪は顔を隠し、夜の草むらに独り座り込んでいた少年の感情を隠していた。
 甲斐は蝉の音がする玩具を無意識に握り締めた。
 そして白い髪の少年に問う。
「……やぁー、たーが?」
 誰だと訊ねるが、少年は膝を抱える腕に力を込める。少年の着た青いTシャツの袖から伸びた腕は夜目でも白い。アカングァーのような肌だ。しかしその表面には無数の切傷や擦り傷があって、血に汚れている。どれも遊んでいてつきそうな浅い傷だったが、それにしては数が多すぎた。その中にもかさぶたになった傷も少数はあった。
 原因は何だろうと純粋に考え込んだ。しかし子供の想像力はそんなにたくましいものではない。結局分からずに子供らしい陳腐な質問をする。
「怪我してんの?」
 沈黙が続く。
「大丈夫?」
 無言。
 やりづらい。
 何とか話題を繋ごうと思って、少年の隣に寄った。少年は不思議そうに視線を上げて、甲斐の視線と重なった。が、すぐに目を逸らされた。控えめに場所を退かれ、甲斐は遠慮なく隣にしゃがみ込んだ。
 一瞬だけ少年は大きく目を見開いた。その感情の動きも一瞬で消沈し、また砂に目線を移される。
 少年の顔を覗きこむ。一瞬思いっきり引かれた。気にせず訊ねた。
「たーやが、って。言葉通じない? キミ誰?」
 うちなーぐちが通用しない可能性もあって、標準語で話す。テレビとかで見る欧米人は髪が金色だったり銀色だったり、時には赤や茶髪だったりもするから、外国人かもしれないと思った。肌も皆と比べて白いし、髪だって銀色と金色を混ぜたようだからだ。それでも容貌は日本人のそれであり、ハーフかもしれないという考えが脳裏に過ぎる。それだったら言葉が通じないのも理解出来る。
 しかし次に句を続けたのは少年の方だった。
「たーやがって、わんのことやが?」
 子供が出せるとは思えない、虚ろな声だった。その暗鬱さに、甲斐は逆に息が止まった。虫のように悪寒が背中へと這い上がる。触れれば、ひやり、と冷気を感じそうな、声、言葉、その振る舞い。
 少年の目に、今までで見たことがないほど、光が無かったのだ。
 眼球の構造は万人が同じはずなのに、そこに宿る光の違いが如実に出ている。光のスペクトルがどうこういう問題ではない。少年の目は不信の全てを世界に向けているような、または深淵の全てをその目で見てきたような、光の無い目付きだった。
 少年はまた俯く。しかし逃げはしない。
「なあ」
「ぬぅーやが」
「何してんの?」
「待ってる」
「何を?」
 返答がない。少年は更に俯いて、殊更に膝を強く抱いた。
 嫌われているのだと甲斐は感じた。
 それなら、仲良くなるまでだ。少年の顔を覗きこんで、甲斐は遊びを持ちかけた。
「遊ぼ?」
 瞬間少年は顔を上げ、ビンタでも食らったような顔をして、甲斐を見つめた。
「遊ぶって?」
 少年は目を大きく開けた。
 話題に見事に釣られてくれたのが純粋に嬉しくて、甲斐は殊更に子供っぽく肯いた。
い〜うん。んじゃ、行か?」
 少年の手を半ば強引に掴んで引っ張り上げて立ち上がらせる。まるでスーパーロボットの人形のように少年はぎこちなく立ち上がった。甲斐はその手を迷わず引っ張る。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「何で?」
 少年は足を突っ張って、甲斐の手を振り払った。
「何でじゃない! 何ではこっちの台詞どー。わんは、やぁーと遊んじゃいけないのに」
いいじゃんいいやし、別に。わんが遊びたいだけさぁ。な? ここで独りでいるよか楽しいだろ? 海にいるのは、俺達わったーだけ。さあ。二人だけで行こうたいびけーん、いか?」
 手を引いて海へ走る。いや、行く場所は水の中ではない。大人にとっては小さいが、子供にとっては世界の全てであるような浜辺へだ。
 少年はぎこちなく甲斐に引き摺られて、波打ち際まで来た。甲斐は満面の笑みを向けて、首を傾ける。
「何して遊ぶ?」
 少年は俯いて、視線を海に泳がす。一向に提案は出ない。イラつきが頂点に達した甲斐は、前触れもなく渚に入った。振り向いて足元を一撃、水をぶっかけた。
 驚いたような声を出して、少年は顔を庇う。しかし遅かったようで、少年は暫く、泣いているような格好で顔を拭った。
 予想以上に痛かったのだろうか?
「ご、ごめん。大丈夫?」
 少年は両腕に顔を埋めながら、何回も肯く。その度に長い前髪が視線を遮ってばらばらになびいた。
 仮にも海の水だ。目にしみるのは分かりきった事だ。
 甲斐はとりあえず少年の背中をばんばんと叩いた。喉が詰まったときはこうするから、効くんじゃないかと思った。
 そのとき甲斐は気付いた。波にさらわれるような声が耳に届いたのだ。甲斐の耳には、微かに嗚咽が聞こえていた。それは紛れもなく、少年が発していた泣き声だった。
 慌てて顔を覗きこむが、暗すぎてよく見えない。そのうえすぐに首をふいっと横に向けられた。
 甲斐は更に慌てて、意味不明な文字を言葉として羅列させた。早口になって、手を無意味に動かした。
 口から迸る言葉は、どれも「ごめん」とか「泣くなよ」とか、そんな言葉の連続に過ぎなかった。
 だが、少年はしゃっくり混じりの泣き声で囁いた。
 ――ごめん。
 ――嬉しい。
 ――ありがとう。
 どれも、先刻の暗鬱な問いからは想像出来ない、年相応の言葉だった。しゃっくりに邪魔されてまともに発音できずに日本語の形態すらもとっていなかった。だが、言葉に表せない感情が、コップに開いた穴から流れ出す水のように、滔々と溢れ出していた。
 くしゃくしゃにした顔を不器用に何度も拭い、少年は肯く。
「ね、水かけてしんけんごめん。だから、ほら、泣くなって」
 少年は肩を小刻みに震わせながら、細い声を出した。
「……違う」
「へ?」
 間抜けな声で応対してしまった。
 少年はしゃっくりを飲み込んで、伝えようとした。
「嬉しかった」
「……何で?」
 しゃっくり混じりの声は、どうやらこの言葉を伝えたいらしかった。
 わんと一緒に遊んでくれる子はいなかったから。遊びたかった。君が一番最初に、遊んでくれる友達。ありがとう。
 どれも甲斐にとっては珍しい。甲斐は小学校でも人気者で、遊ばない休み時間はほど皆無な子供だからだ。
 少年の嗚咽が止んだり、始まったりと忙しい。甲斐は涙を拭う少年の腕を掴むと、自分の方に引き寄せた。半開きになった指に、持っていたおもちゃを握らせる。
 木の棒の先から伸びたタコ糸に、蝉の形を模したフィルムケースが結ばれている。棒を回すと蝉の声が鳴るおもちゃだ。
 少年の視線は甲斐とおもちゃを往復した。戸惑った表情に、甲斐は笑って話しかける。
「これ、あげる」
「え?」
「わんと遊びたいとき、これ鳴らして。いつでも飛んでくよ。いままで遊べなかった分、たくさん遊ぼうね」
 ねぼすけの蝉が、夜の中で1小節だけ鳴く。
「じゃ……何して遊ぶ?」
 少年は唇を噛み締めて、一回、大きく肯いた。


 しばらくして、人の騒ぐ声が届いてきた。甲斐はそれに気付いて、防波堤を振り向いた。その顔に突然、懐中電灯の黄ばんだ光が当てられた。眩しくて目を細め、手を翳した。
砂を蹴る音が2人分近づいてくる。目の前で見れば大人だということが歴然だった。片方は甲斐の祖父だ。あのハゲ具合からよくわかる。
 もう片方は見た事が無い女性だ。背が細くてスタイルがいい。白皙の美貌をもった人だ。何となく少年に似ている。少年と同じ、異端なまでに真っ白な髪が月の光に映えていた。
 甲斐の名前ではない、おそらく少年の事であろう名を呼んだ。
「凛! 凛、ああ、よかった!」
 女性は名を呼ぶなり、少年を抱きしめた。その手が微妙に震えている。
 感動の再会かと思った瞬間、カミナリのような拳骨と共に、祖父の激昂が吐き出された。
「あさきみよー、裕次郎! やぁー、後でしなさりんどぉー! 」
 金属の塊を脳天に落下させたような激痛だ。甲斐は派手にすっころび、足元の砂に頬をぶつけた。歯の間で砂がざらついた。
「何するんやが、じーちゃん!」
 甲斐は飛んだ帽子を左手で探り当てる。
かしまさいそーがさい! 夜中までほっつき歩いて。後でたっぷり油絞るから覚悟しれ」
 祖父の言葉が終わるか終わらないかの内にTシャツの背中をむんずと掴まれ、無理やりに立ち上がらせられる。
 そのまま横に立たされ、髪が砂に着くぐらい頭を押し下げられた。身体が柔らかかったため、向こう脛に額が触れた。足の間から広がる世界が逆さまになった。
「すんませんでした! こんの馬鹿孫がお宅の凛君連れてきて、あまつさえ夜中まで遊びくさっていて。本当すんませんでした!」
 祖父が「ほらお前も謝れ」と小声で促す。甲斐は不服だったが、とりあえず謝った。何も言わないと祖父の怒りが増すだろうと、子供の思考ながらぼんやりと考えていた。
 しかし女性の声も自分の子供の非を詫びているばかりだ。二人して何回も頭を下げている姿が何故か滑稽に思えて、甲斐は思わず噴きだした。
 ……殴られた。
「とにかくこの馬鹿には後でよっく言っておきますから。この度は本当にすみませんでした!」
 甲斐はじんじんと痛む脳天を両手で押さえて、祖父と、女性と、白い髪の少年の目に、視線を往復させた。
 少年は女性のシャツの裾を掴んでいる。その顎が一度だけ、小さく肯いた。
 突然服の背中を押される。
「ほら、行か!」
 促されるまま浜辺に背を向け歩き出す。少年の事が気になって何回か振り向こうとしたが、その度に祖父が背中を押した。
 少し行って、防波堤を乗り越えようと身体を乗り出す。
 そのとき、少年の声が追いかけてきた。
「また……また遊べるよね?」
 小さい身体を精一杯使って伝えようとした言葉に、甲斐は満面の笑顔で親指を上げた。

 夏の始まり。いつか終わるはずの夏の日々は、全てここから始まった。と、思う。


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