ふと意識が戻る。瞼は相変わらず重く、その裏が鈍い赤に侵されている。まだはっきりしない聴覚の外で声がしている。人前で話す事に慣れた堂々とした声だ。それらは大抵教師の専売特許であり、他に考えられるならば俳優やナレーターなど、その道を突き詰める専門職に就く方々が持つ能力だ。生憎甲斐の周りにそんな人物は教師しかおらず、つまらない授業を方言混じりの大声で捲くし立てる。今聞こえているのは日本史らしく、所々に薩摩藩がどうたら、琉球の尚氏が何たらという単語が混じっている。その声に聞き覚えはあるのだが、残念ながらそれに思い至るまでの気力を持っていないのが難点だ。
 日差しが熱い。浅黒い肌が光を吸収するからもっと暑い。長い夏の中で過ぎ行くある一日の午前。まだ10時頃だと思う。午前の教室でこの気温は反則だ。午後2時における気温を想像して、うだるような暑さだろうなと諦めた。
 すると背後から、何か小さい物が後頭部に当たった。まだ起ききれていない腕を緩慢に動かして後頭部を探る。髪の中には、小さく切り取られた白い消しゴムが埋まっていた。
「消しゴム……」
 何故か呟いた。幼児が目の前にある物の名を率直に口に出してしまうようなものだ。
 すると、二つ後ろの席から、大声で無声音が届いてきた。
「お、き、れ、ゆ〜じろ〜」
 大声といっても、無声音では音量は限られる。その声は、眠たげな甲斐を起こそうと頑張る同級生の図だった。続いて第二波の消しゴム射撃が後頭部に命中する。
 瞬間、いきなり自分の机が誰かの教科書に叩きつけられた。全身が何かの小動物のようにびくりと跳ね上がり、その拍子に筆記用具がばらばらとリノリウムの床に落下する。
「甲斐! 聴いていたのか?」
 バンガラ声が頭上から降りかかり、甲斐は思わず顔を上げた。頭上には、頭皮で第二の太陽を輝かせるテニス部スパルタ顧問の顔が見下ろしていた。顔を凶悪なまで笑みの形に歪ませ、肩に乗せた竹刀をバウンドさせる。その度に竹刀が不吉に軋む。
 日本史専攻及びテニス部スパルタ顧問、通称『監督』、別称『鬼コーチ』、蔑称『ハゲダルマ』とはこの男の事である。苗字を早乙女、名を晴美という。苗字も名前も女々しいが、現実的には頑固一徹悪人面、良くも悪くも何処にでもいそうなオヤジである。頭に生えるべき毛が全身へ平均的にちりばめられたような人間だ。厳しい性格には定評があり、賛否両論が決定的に分かれる教師でもある(ちなみに生徒の95パーセント以上は否であり、賛の生徒は選択を誤っていると甲斐は思う)。
 早乙女は眉を片方上げて、プリントを覗き込む。しかし夢に没していた甲斐のプリントは太陽の光を眩しいまでに反射している。もちろん、括弧の間は空蝉だ。
 早乙女は「むぅ?」と唸って、そのプリントを高く頭上に持ち上げた。
「ああっ!」
 手を伸ばすのが決定的に遅く、プリントはクラスメイトの目に晒される。
「何だ、この白紙は」
「け、けえせっ!」
 甲斐は立ち上がって、プリントに向かって飛び跳ねた。しかし甲斐が届かないと見るやいなや、大人げなく早乙女は図に乗ってプリントをひらつかせる。
「返せんなあ。せっかくの課外なのに、堂々と居眠りをするとはな。せっかく夏休みに集中講習を設けているのに何てザマだ。貴様このままじゃどの高校にも進めんぞ」
 早乙女はプリントを机に叩きつけ、教卓に戻った。
 ペン先で机を叩く音が戻ってくる。斜め前の席で木手が黙々とシャープペンを動かしている。本来ここにいる必要の無い人間がすらすら解いているのは、傍目から見ても妬ましい。木手が成績は良いのに補習に出ている理由は、単に甲斐の部活逃亡を防ぐためと、高校受験に備えての再確認だろうか。まだまだ時間はあるのに、木手は準備が早すぎる。陰険メガネのゴーヤー星人めが。お前はゴーヤー畑でゴーヤー汁でも作っていればいいんだ。
 そこまで考えて、馬鹿らしい事に気付いた。時計を見れば、もう十時二十八分。後二分でチャイムが鳴る。
 仕方なく甲斐は手元に置いてあったシャープペンを手に取った。銀色の地が陽光を反射して眩しい。常々買い換えようと思っているのに買い換えられない品の一つだ。ヘッドを押して芯を出す。0.5ミリの芯が出てきて、甲斐はそれで空欄に適当な文字を書き殴った。ひどく下手な文字で、自分でも何語か判別できない。一応日本語で答えたつもりだ。回収して丸をつけるだろう早乙女に対する仕打ちだ。日本語を前に唸ってろ。あとで思いっきり笑ってやる。
 将来何の役にも立ちやしないプリントに没頭しているうちに、古びたスピーカーがノイズを巻き込んで鐘を鳴らした。一気に教室の雰囲気が弛緩する。疲れた、眠いなどの呟きが漏れ、何人かがあからさまに背筋を伸ばす。目に見える場所では、さっさと木手が筆記用具を筆箱に仕舞い、机の横に掛けたテニスバッグに押し込んでいた。デキる奴はすぐ退散か。さっさと行けバーカ。悪態をつきながら、甲斐はやりかけのプリントを机に滑り込ませる。
 竹刀を打ち鳴らしながら早乙女が声を張り上げた。
「お前ら、そのプリントは明日の講習で提出だ。忘れるな」
 早乙女は乱暴にドアを閉めて、教室から出て行った。教室はぐでんぐでんに弛緩しきって、ついにはそのまま眠り出す輩まで現れた。そんな空気の中で、木手が真っ先に席を立ち、テニスバッグを担いで教室を出て行った。
「やっぱりはえーなー、永四郎は」
 後ろから声が降りかかり、甲斐は顔を上げた。平古場が不服そうな顔立ちで立っている。その視線は、たったいま木手が出て行ったスライドドアの方角だった。
「あいつは何かにつけ、はえーからなー」
 甲斐は机にびったりと頬をつけて呟く。平古場が、ま、仕方ねーけど、といった感じにポケットに両手を突っ込む。
 ふと思いついて、甲斐は目線を平古場に向けた。
「平古場」
「ぬーが?」
 首も向けずに平古場は答える。
「決めた?」
「何が」
「行く高校」
「んん、まあ」
 その曖昧な返事を聞いて、甲斐は隠さずに盛大な溜息をついた。
「やっぱりなー」
「やっぱりって何さぁ」
「裏切り者ぉ」
「何でそうなるんだよ」
「やぁーもかよ。同じように遊んでるとばっか思ってたのに」
「遊んでるさぁ。真面目なのは永四郎だけだって」
 そこまで言って、平古場は机の上にジャンプして腰かけた。天井を苦々しい表情で睨みつけている。
「わんが何か逆らえばいつもゴーヤーゴーヤー。勉強だぁ? わったーはあにひゃーと違うのによぉ。さっさと高校決めとけって、耳にたこできそうやっしー」
「だーなー。そういや、木手は入学したときから決めてるんだろ?」
「そうらしーな」
「あいつ進学校選んでるし、もうやぁーだって、皆だって、何処(まー)行くか決めてる。わんだけさぁ。決まってないの」
 机に顔をひっつけたまま、甲斐はぐりんと反対方向を向く。
「で、何処?」
慶田城けだしろにすっかなぁて」
「ふーん。ぬぅーやするかなぁ……」
「屋嘉比とかは? 金武きん城とかもあるじゃん。近ぇし。遠いけど、知念商業は?」
「どれもテニス弱ぇ。知念商業なんて行ったら、真っ先にあにひゃー思い出す」
「あっそ」
 やれやれと肩を竦めて平古場が席に戻っていく。
 甲斐は半分方落ちた瞼の下で、木手と平古場に不機嫌な視線を送る。

  *

 太陽が剥き出しのコンクリートをじりじりと炙り、陽炎を揺らめかせる。いっそ清々しいまでに晴れ渡った上空では南中を過ぎた太陽が唯一神のように君臨していて、地上の全てに容赦ない夏の洗礼を強制している。沖縄が暑いのは十五年の間ずっと経験しているが、ここまで暑いのは数年ぶりだと、ブラウン管で虹色の浮遊霊を背負う気象予報士が言っていたぐらいだ。屋上より高い木の頂上から蝉時雨が降ってくる。蝉の叫びの間に間に、グラウンドから木手の声が伸び上がる。
「甲斐君! 早く出てきなさい!」
 木手、残念でした。甲斐裕次郎はそう言って、顔に被せた帽子をひらつかせた。給水塔の影は秋より涼しく、影から一歩足を踏み出せば地獄が釜を開けて待っている。
 本来ならば、今頃甲斐は数多の部員に混じって草むしりをしているべき人間だ。沖縄ではよくハブに噛まれる人間がいて、毎年何人かが医務室なり病院なりに担ぎこまれる。草むらによくハブがいるから、という事で草むしりは慣行されているのだ。いや、敢行か。それで効果があるのかどうかは興味がないが、とかく草むらはハブの為に駆逐される運命にある。
 しかし、こんな日にわざわざやらなくても、と甲斐は思う。ハブの脅威よりも、こっちにとっては熱中症や日射病の方が恐ろしいのだ。草むしりの所為で、医務室に担ぎ込まれる生徒は後を絶たない。時には教師も倒れる。何か言え、小うるさいPTA諸君。クレームはあなた方の十八番でしょう。絶対ハブの脅威を越すだろ、熱中症だり何だりは。
 考えている内に叫び声が上がった。平古場、平古場と皆が叫んでいる。一番倒れそうにない奴が倒れたもんだ。平古場ですら倒れるような過酷な状況にある皆を尻目に、自分は涼を取りながら惰眠を貪る事にするか。
 校舎の屋上。甲斐は給水塔の影で、顔に帽子を置いた。視界が布に覆われた。重い瞼を下ろした。視界は鈍く赤い光を少し感じた。
 背中のコンクリートは冷たい。頭から踵までべったりとコンクリートにつけて、腹に手を置いた。
 豪雨のような蝉時雨が聴覚を支配する。ジー、ジー、ジー、と沖縄の蝉が大合唱する。うるさいのは嫌いじゃないから、そんな環境でもストレスにはならない。
 熱い風が皮膚を取り巻く空気の層を一掃する。
 冷たいコンクリート。熱風であるはずなのに冷涼な潮風。蝉に潮騒、部員の笑い声……どれもこれもだらけきった身体が感じるには充分すぎる環境だ。
 次第に眠気が湧いてくる。甲斐は無駄な抵抗も無しに、そのまま午睡に身を委ねた。
 暫くそうしていると、空の果てから戦闘機の唸り声が近づいてきた。緩慢に腕を持ち上げ、帽子を顔からずり落とした。視界一杯に広がる空に戦闘機の影が一機、空を従える。夏の大気を揺るがす大音響が空を真一文字に裂く。戦闘機を目で追った。その間に蝉が合唱を止め、後には戦闘機の音が徐々に小さくなり、やがて空の果てに戻っていった。海の果て、でもあった。水平線が縦になっている。海は数軒の民家を過ぎた場所に見えた。
 その時、右手側にあった立方体のばかでかいコンクリート塊の中から、足音がした。小さい足音だ。寝返りを打って、横向きになった。耳朶が冷えた。だが音も感知する。誰だろうか。疑問が浮かび、目を瞑って、狸寝入りを敢行した。
 開け放していたドアを誰かの手が更に押し、蝶番が軋んだ。少しの間を置いて、男の声がする。
「ようし、誰もいないさぁー」
 やけに聞き覚えのある声だと思ったら、すぐに思い当たった。平古場だ。熱中症は治ったのだろうか。
 ばれないように注意を払って甲斐は右目を細く開けた。平古場がくそ暑い中ご丁寧に長袖ジャージを着ている。熱風にジャージと長い金髪をはためかせ、周囲を見回している。すぐに甲斐へ視線が送られた。甲斐はゆっくりと目を閉じた。しかし足音は容赦無しに近づいてくる。眼前で砂利を踏む音がした。出来るだけ表情も動かさないように気を払う。平古場は暫く無言だった。しかし甲斐は口を引き結び、笑い出しそうなのを必死でこらえていた。これは勝手な感じ方だが、ずっと表情を動かさないのはにらめっこに通じていると思ったのだ。甲斐は「むにゃ」と呟いて、寝返りを打った。ばれただろうか?
 足音が向きを変えた。「ふっ」という声と同時にジャンプの音。連続して靴底が金属棒を叩く。大規模な貯水タンクが設置されたコンクリートの立方体には、身長より少し高い所に梯子がある。登っているのか。甲斐は片目を開けた。光を背負う給水塔の影で、平古場は貯水タンクに手を伸ばし、指先で何やら操作した。そして何かを開けようとするように、タンクの蓋の隙間に指を挿し込んだ。
「よっこらせ、と」
 大き目の蓋を横に置き、それが落ちかけ、平古場は慌てて押さえにかかる。間一髪で引っ張り上げられた蓋は、明らかに貯水タンクの蓋だった。
 平古場は右ポケットから細い何かを取り出した。ちきちきちき、と耳慣れた音がそれから伸びる。銀色の刃が白日の下で鋭利に光る。おいおいおいおいちょっと待て、と甲斐は心の中で叫んだ。しかし平古場には心の声など届くはずもなく、その行動を止めなかった。平古場の左手と右手が、蓋のあった場所へと伸ばされていく。最後の一伸び、と言う風にカッターナイフが音を立てる。
 口の端が上に吊り上げられた嗤いの横顔が太陽の影になる。一瞬だけ照らされた虹彩が空色に青みがかって見えた。
「り、凛?」
 名を呼んだが、素知らぬ風で奇行は続いた。元々少々の汗はかいているが、額で汗がそれ以上にじっとりと滲んだ。背筋には冷たいものが伝った。半袖シャツに吸収された汗は、日差しによって陽炎へ帰した。
 甲斐は飛び起きて声を張り上げた。
「凛! ぬーしてるんやが!」
「たーやがっ!」
 それと同時に平古場の肩が跳ね上がり、甲斐に目を落とした。目が驚愕に見開いている。
「裕次郎! ……やぁー、起きてたのかよ」
「それより、何しようとしてたんだ」
 思い出したように平古場は左手をポケットに突っ込んだ。目を宙に泳がせている。
「な、なーんでも? 気にーすな。な!」
 蝉の合唱が戻ってくる。平古場は思い出したように訊ねかけた。
「それよりさぁ。やぁー、サボリか?」
「まあ、そんな所さ。死にたくねーからやー。ほら、暑いしよ」
「そういや、凛、やぁー倒れてなかったのかよ。さっき皆が騒いでたんやー」
「ああ、あれか? 水欲しかっただけさぁ。何つったっけ、エスケープってやつ。仮病仮病」
「同罪だろ。つか、降りてこいよ。首が痛い」
「わぁーった、わぁーった。ほっ」
 平古場は優に二メートルはある高さから飛び降り、数メートル横に着地した。すっくと立ち上がると、珍しい金髪の髪が潮風に揺れた。
「なあ、訊いていいか?」
 平古場がこちらを振り返り、気軽に返答をする。
ぬーが?」
「さっきのって、リスカ?」
 平古場の表情が強張った。しかし顔は瞬時に貴公子の笑顔に塗り潰され、右手を横に振って否定した。
「違う違う。あれやー、テスト。粉々にしたかっただけ」
「テストぉ? 悪い点取ったんだ、やぁー」
「ああ、そうさぁ。珍しく、赤点さぁ」
 本当かぁ? とは言わなかった。
「……ぬーやが、その疑いの目付き」
 悟られた。平古場は地べたに胡坐をかき、甲斐の目を真っ直ぐに見つめた。真ん丸い瞳孔が真剣な色を放っていた。
「言っておくけどな、俺にはリスカするような切羽詰った悩みなんてないぜ?」
 気楽に生きているように見えるから、そう言うのかもしれないと、心の中で呟く。
「だからさぁ、見間違いだろ」
 平古場は何でもないという風に、両手をポケットに突っ込んだ。
「だからな、気にーすな。な! ……じゃあ、わん、部活に行ってくる」
 その時最悪なタイミングで屋上のドアが乱暴に軋み、静かに怒り心頭の木手の声が乱入してきた。
「甲斐君! 出てきなさい!」
「うおあっ! 凛、シィーッ!」
 甲斐は口に人差し指を当て、立方体の後ろに身を隠した。まだ平古場が戸惑った目付きを送ってくる。片目を強く瞑って、「シィーッ!」と念押ししてから、平古場は無理やり納得したように視線を外した。甲斐はコンクリートに背を預けた。冷たさが布地をものともせずに染み込んでくる。
 会話が聞こえた。耳を凝らして内容を把握しようとするのはスパイまがいの行為だが、そんな行為に多少のわくわく感を持つのは若い証拠だな、とか考えた。何も15歳で一気に老け込む事はないだろう、と自嘲した。夏の学校らしい喧騒で聞き取るのが難しいが、焦点を合わせると蝉のノイズが遠のいて、案外簡単に何を喋っているのか判別できた。本腰を入れて諜報活動に勤しむ。
「なあ、永四郎、」
 平古場の台詞を遮り、木手は訊ねる。
「甲斐君を見かけませんでしたか」
「い〜い、見てねーどー」
 相も変らぬ慇懃無礼なですます口調の木手の声。
「隠してたら、分かりますね?」
 先手を打つ平古場。
「ゴーヤーだけは勘弁な」
「では、ゴーヤーはあなたに効果があるという事ですね」
「い゛い゛っ? そ、それはやめって。そんなのなし!」
「では甲斐君。出てきなさい!」
 つーか、バレてるし! 
 つか、つか、つかと靴底が真っ平らな屋上を叩きつけ、近づいてくる。捕まったらゴーヤーの刑だけで済む……筈はない。甲斐は落ちた帽子を引っ掴み、そろそろと影から抜け出した。熱い太陽が右腕の肌を焼く。頬を焼き、足を焼き、左手まで紫外線含有太陽光線の洗礼を受ける。足音が近づく。心臓が小動物のように小刻みに動く。足音が、影へ曲が、
「え、永四郎! ちょっと待ってくれ!」
 足音が止まった。
「なんです」
「ええっと、あれだ。何っつったっけ、あれ。あれだって、宿題! 宿題手伝え!」
「……ゴーヤーを口に突っ込まれたいですか? しかも、生で」
「だっかーらー、それは勘弁だっつってんだろ」
「どの教師方も、少々の遅れなら許してくれるでしょう。沖縄人には独特の時間感覚があるんです。ウチナータイムという造語を知らないんですか?」
「知らね。でもあれ監督の宿題なんだ。いくら俺でも殺されるって!」
「大人しく死になさい。終わらせていない君が悪いんです」
「薄情な……」
「それに、君と甲斐君の点数は、教師陣の内でも問題になっています。このままではどの高校にも行けませんね。全国前だというのに、部活停止が発令されるかもしれませんよ?」
 甲斐は忍び足でドアに近づいた。平古場がドアの方へ親指を突き出す。早く行け、という暗黙のサインに頷いて手刀を切り、開放されていたドアに駆け込んだ。
 木手の「待ちなさい!」という声を背中に、甲斐は一段飛ばしで階段を駆け下りた。最後の六段は盛大なジャンプをして、踊り場に派手な音を立てて着地する。後ろから木手の足音と、名を呼ぶ声が追ってくる。甲斐は画鋲の剥がれかけた入部希望の藁半紙が張られた掲示板を左手で押し、速度をつけた。風でプリントが剥がれそうになる。しかし気にする余裕はなかった。今度は二段飛ばしで、斜面を転がるように駆け下りる。
 一階まで走りぬけ、廊下をダッシュした。教室に残った何人かの女子生徒に怪訝な目付きを向けられた。目的の教室――つまり自分の教室に――辿り着くと、後ろの席にある自分のテニスバッグのベルトを肩に引っ掛けた。いつもは軽いが、こんな時に限って重い。中に入れておいた飲みかけのペットボトルがぽこぽこ鳴る。
 教室の窓に張り付き、鍵を上に押し上げた。かち、と希望の音でロックが外れる。ガラス窓を勢いに任せて乱暴に横へ滑らせると、夏の潮風が頬をぶつ。開いた窓のサッシに足を掛け、よじ登って跳び越える。上履きのまま大地を蹴りつけ、校庭を駆けた。機械のように黙々と草を毟る生徒で埋め尽くされた景色が後ろに流れていく。夏風が背中を追い越してゆく。防犯の為か人一人ぎりぎり通れるか通れないかの広さに開けられて、足元を鎖で繋がれた校門(ちなみに田仁志は通れない)の上からテニスバッグを投げ、門の間をすり抜けた。テニスバッグを拾い上げ、迷路みたいなブーゲンビリアの生垣の間を縫って走った。薄茶色の画用紙をもみくちゃにしたような老人が「若いっていいねぇ」なんて目付きでこちらを見た事が印象に残った。
 少し走って、もう追いかけてこない事を確認した。甲斐はそこでやっとスピードを落とし、それでも勢いが有り余って、少し速歩きになった。やがて止まる。足の筋肉が乳酸をためているのだろう。いつもであればこの程度で音を上げる事などなかったが、この気温では体力の消耗が激しすぎる。周りに視線を泳がせたら、椅子にするのに丁度いい大きさの岩があった。ご老人どもの休憩所に使われているのが明白だ。また老け込む事になるが、仕方がない。
 ついに道端の岩に腰を下ろして、額を腕で拭った。止まった所為で追い風でなくなった風が、首筋を吹き抜けていく。気化熱が火照った身体を冷やしていく。蝉が命の声を張り上げている。聴覚全てを埋め尽くす蝉が、他の色んな事を考えるのを妨害する。今は何も考えたくないから、このうるささは逆に良かった。
 静かだなぁ、と考えたのは、今は自分が何も喋っていないからだと気付いた。本当は音がないからじゃない。自分が何も聞いてないから、代わりに夏が騒いでいる。一週間で死ぬ蝉の鳴き声。海の果てから浜辺に打ち寄せる潮騒の音。風が吹き抜け、ブーゲンビリアの葉がざわついている。大気そのものが太陽に熱されているようで、それでも体温よりは低いから、涼しく感じるのだろう。背後のブーゲンビリアから、僅かな草いきれが鼻腔に侵入した。
 暫く涼感を怠惰に貪っていると、不意に平古場の血が脳裏をよぎった。カッターナイフの鋭利な輝きと、名を呼んだ事による過剰な反応が妙に気にかかる。紫色のストライプを挟む無地に滲む、血液の滲んだ赤。あれは一体何だったのだろうと、少々の時間を慣れない思考に費やす。しかし血液中の酸素が微妙に減っている今、深い思案は無駄に思えた。ぼんやりしていて、今日はどのアイスクリンを買い食いするか、という即物的な話題が首をもたげるのだ。腹で虫が食べ物を要求している現実が、平古場のリストカットよりも大事になっていた。今現在、心配するエゴと自己嫌悪する感情と今日の買い食いを一緒くたに考えるぐらい甲斐の脳内メモリは多くない。
 そんなこんなで、甲斐は立ち上がった。腕を高い空へ伸ばし、猫がするように思いっきり伸びをする。背筋が精一杯伸びきったのを感じて、テニスバッグを担ぎなおす。取りあえず家に帰って、扇風機の前で「ああああ」て言いながら涼しい風に当たりたかった。
 背の低い生垣と生垣の間にある白っぽい歩道は、砂利代わりに珊瑚が撒かれている。勿論乾燥しきってからからのやつだ。防犯なんかじゃなくて、単に景観の問題だ。付近の住宅地は村の景観保護条例に基づいて、現代人にとって大昔の姿を島上に留めている。無論本土からは遠く離れているのも要因の一つだ。沖縄戦を逃れた幸運な島だから、今でも百歳を越す元気な老人が多いのかもしれない。最近の沖縄でも珍しいぐらい方言が強いのもそれがあるのだろう。時代に置き去りにされている、と前に平古場が嘆いていた。
 まただ。平古場が脳裏をよぎる。先刻の自傷行為を見た事がどれだけトラウマになっているのか、それともただの好奇心とか探究心とか同情とか、そんなエゴを持っているだけなのか。でも、同情はされたくない、って平古場は小学校の頃から口癖のように言っていた。染めてもいないのに髪が白くて、虹彩は青色で、いつでも好奇の目に晒されていた。考えれば、甲斐も幼い頃から言い聞かせられていた言葉がある。「平古場さんちの凛君とは遊ぶな」って。悪い奴ではなかったのに、やけにしょっちゅう聞かされていた。でも甲斐にとっては面白い遊び相手だった。なのに平古場自身はそれを望んでいなかった。だから「関わらないでくれ」と大声で怒鳴られた事もあって、それ以来話す事はなくなった。暫くしてまともに喋ったのは、木手が武術をする奴を集めてテニス部に入部させた時からだ。その時は結構静かだったが、去年ぐらいから今のように気さくな奴になった。急な変化ではなく、移ろう季節のようにゆっくりとした変化だった。皆は概ね彼を受け入れた。甲斐もその内の一人だった。一番仲が良い親友だと思っている。
 写真で見るハワイの空の色に似た沖縄の空。遠くに見える雲の峰は遥か遠い。その下にある全てを日差しは今日も焼き尽くしている。それは何もかも、太陽の思うがままに。
 


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