リストカットを見た翌日。その日はつまり旧盆の一日目であり、比嘉島を含む沖縄ではお迎えウンケーの日とされている。夏休み中盤、本来はお盆休みが入る筈だが、全国大会行きと生徒全員の高校合格を狙う早乙女晴美(41)にとってそんな事は蟻よりも矮小な事柄らしい。
 いとも簡単に休みを蹴散らされて、甲斐裕次郎は不満の境地に達していた。
 甲斐は今、校舎にいる。しかし教室にも部活にもおらず、図書室に籠城していた。
 一階にある図書室の閲覧席は教室ぐらいの広さで、長方形の机が生真面目に並べられている。人影が全くといっていいほどない部屋だった。屋外で運動部が張り上げる声はガラスに遮られ、クーラーの作動音だけが静かに空気を振動させている。クーラーは図書室に設置されている為に、絶好の避暑地となる訳だ。
 陽の当たらない席で、漫画の伝記を何の面白げもなく捲る。司書が真新たしい分類票を新書の背に貼る音がたまに届く。そんな穏やかな時間を過ごせる。
 すると、廊下の方から男子の怒鳴り声が響いてきた。早乙女の怒鳴りも追って届いてくる。行くぞ、とか、るっせぇんだよ、という叫びが聞こえてきている。時間を忘れていたが改めて時計に目をやった。もう夏期講習の二時限目を終えた辺りだ。丁度休み時間である。
 司書も何事かと、本を片手にカウンターから身を乗り出した。甲斐は司書の目線につられてドアの方を見た。本来白かったのであろうドアは、生徒のよく触れる位置が汚れている。
 本を閉じ、席を立った。これから図書室を出る事は野次馬以外の何者でもないが、気になる事は知りたいのが本音だ。
 瞬間、早乙女の声が明確な意味を伴って聞こえた。廊下で反響し、ドアを抜けようとして大方が消えた、音に近い声だった。
「平古場ぁっ!」
 激しい足音が近づき、それが二つに増えた。廊下を真っ直ぐに進んでくる音だ。更に気になり、ドアノブに手を掛ける。
 開けようとする甲斐と同時に、何者かがドアを乱暴に開いた。「どけっ!」と怒鳴られて横をすり抜けられる。金の髪が擦れ違いざまに頬を掠った。その影は窓へダッシュし、鍵をかちゃかちゃと操作し始める。そこで初めて、その男が平古場だという事に気付いた。苛々した風に平古場は鍵を開けようとするが、中々開けられないようで地団太を踏んでいた。
 もう一つの足音が開けっ放しのドアから駆け込んだ。禿げ頭ハギチブルが蛍光灯に映える。早乙女晴美は中年体形の出っ張った腹を揺らし、咆哮を上げながら平古場のいる窓へと走った。机も椅子も関係なしに早乙女は突っ込んでいく。
「げっ! やべ……」
 振り向いた刹那、平古場の視点が甲斐に止まった。
「裕次郎! おっさんとめれっ!」
 早乙女が手を伸ばし、平古場が横に逃げた。図書室の窓の鍵は錆び付いており、そう簡単に開けられる代物ではない。早乙女が追い詰め、平古場が後に引く膠着状態が暫し続いた。話しかけていいものか、何よりもこの状況は一体何なのか。説明してくれる状態にない。
 沈黙を破り、平古場が叫んだ。
「わんは絶対に行かねえって! 何度言ったら分かるんやが!」
「そんな訳にもいかん。逃げるな、平古場。逃げても意味がないのを分かれと言っているんだ」
 早乙女の視線が平古場の手首に向かう。
「リストカッターにはカウンセリングが必要だ」
「いらねえ、そんなの!」
「全国前に不安になる気持ちは分かる。しかしな、そんな状況で切る奴にこそカウンセリングが必要だと言っているんだ。今日ならカウンセラーもいる。ほら、行くぞ」
「だから、行かんって言っているばぁ!」
 平古場が地を蹴り、角を急角度で曲がって、図書室から走り出た。早乙女も追って、図書室を去った。

  *

 図書室で平古場の逃走劇を目撃した後、甲斐は屋上に繋がる階段を上っていた。たった14段の階段が踊り場に折り曲げられて、空を望む為の屋上へ繋がっているのだ。出入りを禁止されておらず、ドアの鍵は終始開けっ放しとなっている。その利を生かそうと甲斐は狙っていた。チェイスする2つの足音が一階下の廊下から届いてくる。半分ほど階段を上った所で甲斐は手摺から身を乗り出し、力の限り叫んだ。
「こっちだ、凛!」
 その声を聞きつけたか、足音の向きが急に階段へ向いた。見る見るうちに近づく足音に、甲斐は瞬く間に階段を駆け上がり、ドアノブを回した。ぎぎ、と軋む音がして、赤茶けた錆が足元へふりかけのように落下する。力を込めてノブを押すと、むっと海風が吹き込み、晴れ渡る空が扉の形に開けた。
「屋上だ!」
 後ろを振り返って再度空気を震わすと、一段飛ばしで上がってくる金色のロングヘアーが視界に飛び込んだ。甲斐は限界までドアを開けると同時に、屋上の空気へ体当たりする平古場の姿を確認する。踊り場を曲がったばかりの早乙女に甲斐は軽蔑の視線を向けて、直後に扉をばたんと閉めた。扉に遮られて、早乙女の阿呆面はおろか階段まで見えなくなる。ノブを両手で掴み、全体重をかけてドアを押した。がたがたと軋む破滅の音に危機を感じて、平古場に応援を要請した。平古場は頷く間もなくドアに背中を押し付け、両足を突っ張った。
 二人の全力によって、やがてドアを開けようとする脅威は弱まった。扉越しに聞こえる大袈裟な舌打ちの後に乱暴な足音を聞きながら、平古場はそのまま床に座り込み、深くゆっくりとした息を吐いた。
「危なかったぁ……」 
 うんうんと頷き、甲斐も深く空気を吐き出した。
「流石にここまでは追ってこないだろ」
 その返事に続けて平古場が弾んだ呼吸を抑えるように喋りだす。
「疲れた……ったく、晴美の野郎、後でたたっくるす。何だよあにひゃー、全く」
 左足を折り曲げ、その上に平古場は腕を乗せる。しかしその手首には青いリストバンドがはめられており、端から僅かに白い布切れが覗いている。甲斐は見てしまい、思わず自分の左手首を押さえた。
 ん? と平古場が首を傾ける。その目を見て、急に包帯を見てしまった罪悪感に襲われて、目を逸らさざるを得なかった。
 ふと見た影線が濃く、陽炎に揺れる。蝉が静謐を奪い、言葉の無い沈黙が降りる。視線の端で平古場が口を開けて何かを言いかけた。しかしそれは声となる前に蝉に掻き消され、消えて言った。
 リストカットは痛いのだろうかと思った。痛いのだろうな、とも思った。想像が目の前で再現される。鋭利な刃を皮膚に埋め込み、横に引いて血を流す。ぱっくり開いた脂肪と肉は白く、すぐに溢れ出た血液が傷口を染める。流れる血が指を、腕を伝って落ちていく。拍動に合わせて熱く痛む傷。手首にだって神経は通っている筈だ。なぜ痛みをわざわざ自分の手首に起こさせるのか。その神経が分からない。どうしてそんなに自分の体を傷つけるような真似をするのか。甲斐は昨日初めて本物のリストカットを見た。しかもそれは目の前にいる人物だ。目の前で自分の事を心配そうに見ている奴だ。平古場凛その人だ。
 いつも部活で一緒にボールを追っていた平古場が、突然理解出来なくなってくる。
「止めたらいいのに」
 その一言を言えたらどんなにか楽だろう。大切な仲間が傷ついていくのを見たくはない。早乙女だって平古場を追いかけていたのはリストカットの心配をするが故だ。
「……リスカの事やが?」
 うん。
 そこまで言って甲斐はばっと顔を上げた。平古場は折った膝の上で、力が籠もる指が白くなるまで左手首を掴んでいた。あからさまに目を逸らされて、どうしてか手首を見遣るのも憚られた。
 それとなく身体の方向を変えて両手をポケットの中に差し入れる。しかし何も行動しないというのは逆に思案を募らせる行為で、やはりじっとしてはおられずにこめかみを掻いた。
「えっと、何つーかさ、わんは」
「ん、別にいいけどさぁ。やぁーもあのおっさんと同じかよ」
 正直ムカっときた。
 反論の言葉も許さず拒絶するように立ち上がる平古場の顔を髪が隠す。喉の奥まで出かかった怒りが失速する前に立ち消え、甲斐はそのまま口をつぐむほかない。平古場は平古場で何ら言葉を発さず、甲斐のすぐ横を通り過ぎる。その先には屋上の切れ目――フェンスがある。フェンスの奥には虚空があり、もしそれを上ろうとするならば……
 平古場はリストカッターだ。テレビでは飽きもせず毎日のように少年少女の自殺問題が報道されている。甲斐の思考回路が拙いなりにも手首の傷と屋上という場所を掛け算して、とんでもない想像が脳裏を支配し、慌てて平古場の腕を掴んで引き戻した。
 平古場の瞳孔が収縮し、当惑を帯びる。甲斐は唇を引き結び、黙って首を横に振る。
 駄目だ。フェンスを上らせちゃ。
 甲斐の喉がごくりと鳴る。しかし相も変わらず、微妙にアクアマリンの色味がかった虹彩がこちらを戸惑った目付きで見返し、すぐに苦笑いへと変わった。
「やぁー、何考えたばぁ?」
 平古場は甲斐の手首を掴んで振り解くと、そのままフェンスへ足を進めた。甲斐が現実感と共に足を踏み出した時には、平古場の姿はマントのように翻り、フェンスにがしゃんと背を預けた。所々赤茶けたフェンスが軋み、平古場の体重によって僅かにたわむ。平古場はそのまま上空を見上げ、思いっきり二酸化炭素を集めた息を吐いた。
このバカくぬふらー。わんがここから飛ぶかとでも思った?」
 平古場が親指で背後に広がる虚空を指す。
 当たっていたから否定のしようもなく、渋々頷く。
「翼があるなら別にいいやっしー。やんどぉー、まだ死にたくねー。やぁーは?」
「……わんも」
「だろ? 同じさぁ。気にーすな。手首なんていつか治るむんやさ」
 どうしてだろう。からっと笑う平古場に形のない罪悪感が募った。
 悩みがあるなら言えばいい。平古場が何の事で苦しむのかは分からないが、少なくても話す事で良くなるという場合は沢山あるに違いない。これは単なる自分のエゴかもしれないが、傷ついて欲しくないというのが本音といえた。だって怪我したら痛いじゃないか。サーブする為のトスだって上げられない。それの何処に得になる事なんてあるんだ。
 暫くすると平古場が不審げに訊ねた。
「裕次郎、そういえばいつもの元気何処に行ったんやが?」
「……やぁーが手首切るからだろ」
「えっとまあそれは……勘定に入れない」
 あっさりと否定され、それが同時に「手首は切り続ける」という考えをまとめたように感じる。止められないのかもしれなかった。
「とりあえず死ぬなよ」
「何度も言ってるだろ。死にたくねー」
「あっそ」
 蝉時雨の合い間を縫うように米軍籍の戦闘機が空を突っ切って轟音を残していく。その先には雲の一欠片もない瑠璃色の海と空が延々と広がっていた。
 平古場が口を開き、何かを呟いた。しかしそれはボリュームを上げ始めた蝉と、戦闘機の爆音に掻き消されて消えた。何? と訊ねたが、肩を竦められただけだった。諦めて視線を味気ないコンクリートに戻して無為に泳がせていると、不意に平古場が訊ねた。戦闘機はすでに上空を過ぎ、水平線に向かって飛行機雲を直線に伸ばしていた。
「そういえばや、昨日訊いたっけ」
「昨日? 何だったけさぁ」
 甲斐は首を捻った。
「ふらー。忘れるなって。進路やし」
「あい? ああ、確かそんな事もあったっけかやぁ」
「まあな」
「そういう凛は?」
「わんの?」
 平古場は笑いかけるとフェンスから背中を離し、そのまま屋上を歩いた。太陽の洗礼をまともに浴びるコンクリートの屋上は表面に陽炎を揺らめかせ、平古場の影法師をモノクロ絵画のようにくっきりと抜き出している。何をするべきか悩みながらも平古場の行く先を追うと、突然平古場は屋上の中央で空を仰ぎ、両手を一杯に広げた。
「わんは高校行きたい。何処でもいいんだけどさ、高校行って、卒業して、海を渡ってアメリカ行きたい! こんな狭い島なんて飛び出してさ、もっと広い世界があるんだって、わん自身の目で確かめてみたいんやさ!」
 この広い空を抱き締めるように宣言すると、平古場が甲斐を向いた。軽い笑顔の奥に、夢を語る時特有の瞳に映る光がある。そうだろ、と問い掛けるような目で。
 甲斐はからかいを交えて言った。
「高校なんてどうにかすれば入れるだろ」
「だってさぁ、わんは……」
 平古場はそこで言葉を一度切り、こめかみを掻いた。
「ぬーやが、言えって」
 迷った末、成績という悪魔の単語が死刑宣告のようにひそやかに発せられた。
 甲斐の全ての動きが硬直する。何よりも重要な事柄を思い出させられた。これは甲斐自身にも直結する問題でもある。公立高校に行かねば親に殺される事必至だ。普通の汗か冷や汗か、水の流れる感じが顎まで一気に伝った。
「で、でもさ、勉強すればなんとかなんだろ?」
 腕で汗を拭い確認する。むしろ自分への焦りの方が強い。その様子を見やって、平古場が疑いの目付きで訊ねた。
「……ウェンズデー(水曜日)の綴りは?」
「あい? Wensdeyじゃねえの?」
「やっぱり、やぁーもわんと同じやっさー」
 溜息混じりで平古場が肩を竦める。嫌に様になっているのが癇に障る。自分にも分からない問題を出すな。
「あのおっさんの所為で勉強も何もかも嫌になってきたばぁ。一言目には全国だ、二言目には受験だ、勉強だ。何やしあいつ、出世したいようにしか見えねえよ」
「同感」
「大人になりたくねえよ。でもその内、あんな大人になっちまうんだろうな」
 返答を言いたくなかった。子供はどう足掻いても、歳を経ると必然的に大人になる。その内時間が過ぎて早乙女の歳にまで成長してあんなのになるなんて事は避けられない事実だ。子供でいたいのは結構だが、それは我侭でしかない。
 その時風が大気を震わせたかのように、風が吹いた。甲斐は沈黙の中で帽子を押さえた。
 平古場の金の髪が大きく風に弄ばれ、半端に隠された顔の中央で微かに唇が動いた。音こそ伴わなかったが、上下の唇は音の形を作り、無意識にそれを繋ぎ合わせた。

 ――――お、と、な、に、な、れ、る、の、か、な……?

 瞬間、知念の声が校庭から伸び上がった。
「平古場ー! 何処まーやがー!」
 風が止み、平古場がフェンスに歩み寄って下を覗き込む。大きく手を振っているのが、いつになく虚ろな景色に見える。「すぐ行くさぁ!」と平古場がグラウンドに向かって叫び、「わかった」という知念の答えが響いてくる。金網の外へ笑みを返してから平古場は踵を返した。
 擦れ違いざま、平古場は甲斐の耳にそっと囁いた。
「部活でな」
 平古場がドアを開けて屋上から降りていく。
 甲斐は一人、コンクリートの屋上に取り残される。

 甲斐は結局、蝉の声がひぐらしに変わるまで、ずっと屋上に座っていた。


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