沖縄の夏というのは、日本の中でも赤道に近いから暑いとか、海に囲まれてるから湿気が高いとか色々と言われている。確かに平均気温が20度を切る月は4ヶ月ぐらいしかないし、そのどれもが本土での冬だ。今は夏の盛りと言えるのは十数年も生きてきたから身体から分かっている。
 でもこの暑さは尋常じゃない。
 朝のニュース番組で好みの女性気象予報士が言っていた天気は災厄としか思えない。
 8月14日、比嘉島の天気――――最高気温37度、最低気温31度。午前中の降水確率0パーセント、午後からは所によって暴風を伴うにわか雨が降るでしょう。お出かけの際はレインコートを忘れずに。
 予報の出された日付は、丁度今日に合致する。
「レギュラー集合!」
 早乙女のバンガラ声と共に竹刀が打ち鳴らされ、木手がやれやれと眼鏡を押し上げた。額が汗に塗れている上に乱れた髪が今日の練習のハードさを物語っている。顔をタオルに埋めながら、甲斐は恨めしそうに木手を睨んだ。木手の髪が乱れるくらい暑い日であっても、あの表情は崩れない。それに対してこっちはどうだ。意図せずカールした髪が首筋の熱放散を妨げており、暑いことこの上ない。ヘアゴムを忘れたのが運の尽きだ。しかし諦めきれない自分が未練がましい。
超暑ぃちゃーあちさん……」
 誰に言っているのか自分でも判断に困る。コートに戻ろうとしていた木手が振り向いた。呆れた表情が無駄に癇に障る。
「何いってるんですか。早く行かないとまた監督キレるよ?」
「分かとぉーさぁ。やしが……」
 遮るように早乙女の竹刀が唸り、木手は不満げな表情をコートに向け、小走りで早乙女のベンチ前へと向かった。
 甲斐も渋々木手の後ろに着き、コートに走った。
 早乙女はベンチにどっかりと腰を下ろし、竹刀を一定のリズムでコートに叩きつけている。その行為には勿論威圧の意味が付属されているのだ。ああしてでもおかないと早乙女は生徒になめられかねない。それに加えて、早乙女は今、非常に機嫌が悪い事が傍目から見ても一目瞭然だった。
 甲斐はとにかく、早乙女から一番遠い位置にいた田仁志の隣に並んだ。あの巨体で自分を隠してくれたらと願ってのものだ。無駄だとは分かりきったことだった。
「監督。午後の練習メニューを」
 慇懃無礼も甚だしく木手が訊ねる。早乙女は竹刀を杖代わりに重い腰を上げた。レギュラーの人数を確認するように早乙女の目線が並んだレギュラーを蹂躙する。最後の甲斐まで来て、その時に早乙女は不審そうに眉を顰めた。
「知念と平古場はどうした」
 甲斐も今気付いて、少し前屈みになってレギュラーの数と顔を確認した。右端から、木手、不知火、新垣、田仁志、そして甲斐となっている。何処にいても平古場の金髪は目立つ筈だ。入学当初から一目を引いたのだ(それによって平古場は目をつけられて、早乙女のするしごきの格好のターゲットとなったわけだが)。知念だってあの前髪とギスギスした容姿で、常に人目を引いていた。勝手にいなくなっても、どちらかなら必ず気付ける筈だった。ましてや元気のある平古場なら、いつ何処かへ行っても結果的に誰かが知ることになる。
 誰もいないコートの外を見回し、早乙女は平古場を呼ぼうと口を開く。「ひらこば」の「ひ」の字を言う前に、木手が早乙女の問いに答えた。
「平古場君も知念君もいませんよ。帰ったんじゃないんですか?」
「何だと。なら何故直接ワシに言わんかったんだ、あいつらは」
「知りませんよ。明日にでも直接訊いてください」
 そんな実の無いやりとりをしながら、早乙女は何にしろ部活を再開した。しかし不機嫌は解消されることなく、怒りの矛先は容赦なくレギュラーへのしごきへと変質していった。

 手始めにランニング一時間、基礎体力をつけるための腹筋背筋腕立て伏せスクワットをそれぞれ200回ずつ。更に学校の校舎を使っての階段昇降を一時間近く。これらを全て終えた後にやっとコートで打てるのだ。休みは殆どなし。どれもこれも部員2名不在による早乙女の不機嫌が引き起こした結果だ。いつもであれば平古場の髪に向けられていた怒りが、今はレギュラーに向けられている。何で戻ってこないんだと恨みもした。しかしそれは部員いびりの的が戻ってきてほしい事と同義で、結局平古場に早乙女の怒りを引き受けてもらいたいだけなのだと気付き、自己嫌悪に陥った。これでは平古場をモルモットだと考えているのと同じだ。本人はないと言っていたが、平古場はリストカットするような悩みを持っている。それならば平古場に出来るだけ気を使ってあげるのが筋ではないのだろうか。それとも何か話しでもすればいいのだろうか。でももしそれで更に自分を追い詰めたら? そうなったら自分に何か出来る事はあるのか? よく考えろ。そして何か、何でもいいから行動に移せ。行動しないと何も出来ない。昔に木手が小難しい本を読んでいただろ、行動心理学とかっての。まあ木手は多趣味だからただでさえ俺の知らないような事を知るために沢山の本を読んでいるんだけどさ。貸しつけられただろ、読まされたろ。思い出せ、本文を。確か、表面上に現れる心理の中で一番分かりやすいのは行動だ、とかあった。他にも、何かの哲学の本にもあった。行動しなければ思考していないと同じなんだという考えもあった。……ああ、どれもこれも木手の本だ、畜生。木手の知識以外に何も知らないのかよ、情けねえ。
「甲斐君?」
 どうしたら平古場を助けられる。その為に出来る事は何だ? 考えろ。暫く使われてなくて蜘蛛の巣張ってる脳味噌の中の"にゅーろん"振り絞って考えるんだ、甲斐裕次郎。でも"にゅーろん"って何だ? その前に蜘蛛の巣のように張ってある"しなぷす"ってのも何だっけか?
「甲斐君っ!」
「……っわっ!」
 ふいに意識の上層へ乱入してきた木手の声に、甲斐は情けないと自覚するほど跳びあがった。本日二回目の木手の不機嫌を拝む事になったのは、物思いに沈んでいたからと解釈する。
 木手は腕を組み、顎で甲斐を使う。視線の先にいたのは今にもトスを上げようとする田仁志の巨体だった。あれが田仁志だと認識するやいなや、その手からボールが空へと放たれる。
 慌ててリターンの位置に着くが、ほぼ同時に襲ってきた剛球を、甲斐は受け損ねた。スイートスポットを外れた為に、ラケット全体に不快な振動が走り、その瞬間にラケットが宙を舞っていた。一呼吸置いて、遥か後方にラケットが落ちる音を聞く。対角線側のベースラインでは田仁志が勝ち誇ったような表情をしている。木手の溜息が聞こえた。
 一撃必殺サーブ、ビッグバンだ。いつものことながら、あれはとんでもない。しかし、今のサーブはファーストサーブだ。サーブ&ラリー練習では、セカンドサーブに期待を持てる。
 ラリーならば甲斐に分がある。田仁志は紛うことなきパワープレイヤーだから、コントロールをおろそかにしがちだ。自分が出来るだけミスをしないように攻撃を仕掛ければ、やがて田仁志はミスをするだろう。その時こそ甲斐の勝利となる。
 横から差し出されたラケットを無言で受け取り、裏手で持つ。呼吸を落ち着けて、ネットの向こうへ視線を据える。巨体が飛ぶ。
 クレーコートに突き刺さったサーブは強烈だった。セカンドサーブと言えど威力は全く衰えていない。網目のガットにボールがぎりぎりと食い込む。
「っらぁ!」
 小柄な体格を生かし、遠心力をプラスして力任せにラケットを振った。ボールはダブルスの狭いアレーで弾け飛んだ。シングルスなら確実にアウトだ。しかし田仁志は打ち返す。
 縮地法を存分に発揮して、ベースライン上のボールを返す。田仁志も縮地法で追いつき、ラリーが始まる。視野狭窄を起こす世界は逆に好都合だ。ボールだけに集中できる。それはボールの軌道を正確にする為にはボールをよく見る必要があるからだ。スイートスポットに当てれば、軌道を操ることは比較的たやすい。
 あまりにラリーが続きすぎて田仁志の後ろに2人は並んで、その2人も空いているコートに行ってしまった頃、ラリーは田仁志のミスで終わった。木手と場所を交換する瞬間、視線の擦れ違いざまに、甲斐は田仁志に向かって「俺の勝ち」と笑って見せた。
 木手のラリーをぼんやりと眺めながら、剥き出しの腕で額を拭う。汗がべったりと腕の皮膚を覆う。微かな潮風が吹き、汗が少しだけ冷えた。しかし体内から止めどなく湧き出る暑さと翳らぬ太陽によって、風の恩恵はたちまちゼロになった。今更ながら、コートにタオルを持ってこなかったのを後悔した。ラリーが終わったからか、汗がどっと吹き出る。汗の玉が他の汗の玉とくっつき、液体として皮膚を流れていく。クレーコートに落ちた汗の染みは灼熱の太陽によってすぐに色を失くした。
 比嘉中のテニスコートは3面並んでおり、緑色のフェンスで囲われている。フェンスの外にはデイゴの木が立ち並び、花が咲き、木陰を部員達に提供している。しかし普段なら憩いの場であるはずの夏木立は、今日に限って地獄の様相を呈していた。何しろ熱中症や日射病寸前の部員達がごろごろしており、とても休めるような状態ではないからだ。地獄と言い換えても、さほど語弊はない。木陰に入りきれない部員は熱された地面に直接寝転んで、終わらぬ暑さに喘いでいる。太陽は下界の都合に関係なく、間近で火が燃えるような暑さを提供している。雲の都合によって終わるセルフサービスだが、あいにく雲の峰は遥か遠くで足踏みするだけだった。頭の中で、あめあめふれふれもっとふれ、というフレーズが音程とリズム込みで流れ始めた。壊れてきたなぁと半分ぐらい残った意識の外で考えた。
 ラリーの音が不意に終わり、木手がコートに背を向けた。顎でコートに入れと指図される。木手の不遜な態度にも無意味な反抗心を覚える。どれもこれも夏の所為だと考えるのは脳味噌が太陽に煮られた結果だろう。
 とりあえず木手に逆らうと後が怖いからコートに入った。左の裏手に持ち替えるか右で打つか一瞬悩み、結局裏手にした。田仁志の時よりも余裕を持ってコートに立つ。
 ネットを挟んだベースラインには、平古場がいた。午後の練習が始まったときは確かにいなかった。思わず木手を振り返った。木手は「飯匙倩は禁止」と平古場に指示を出していた。コートに向き直ると、平古場が本気でつまらなさそうな表情をしていた。戻ってきたのだろうと納得した。
 平古場はボールを2回ほどつき、サーブの姿勢に入った。左手が青空に向かって差し伸べられ、指先からボールが垂直に放たれる。スイートスポットに当たる音、ラケットヘッドが空を斬る。
 ボールは微かにネットを擦り、サービスエリアで弾けた。確実にレットだ。それでもラリーをしたいから力いっぱい打ち返す。田仁志のセカンドサーブのビッグバンよりも楽に打ち返せた(当たり前だ)。両足で軽く跳び、次の返球に備える。
 お待ちかねの平古場の返球。海賊の角笛を使ってやろう。甲斐は口の端を微かに持ち上げた。右足を前に出し、右手でコートに軽く触れ、前屈みになってボールを見据える。平古場の笑みが焦点の端を横切った。楽しそうな笑みだというのは、暗黙の了解だった。
 平古場の打った、トップスピンがかかったボールはコートに突き刺さるように高く飛ぶ。少しやりにくいが、そんなのは関係ない。今は平古場から点を取るのが最優先だ。
 懐に飛び込んできたボールを、力任せに打ちつける。ラケットヘッドは弧を、ネットを越えたボールは弓なりの軌道を描き、平古場の死角を突いた。
 甲斐はひょいと姿勢を戻し、わざと平古場に勝利の笑みを浮かべた。コートに残っている部員達が歓声に沸いた。こうなると気分がいい。
 歓声の中、木手が背後で溜息を吐いた。あんだよ、そう言おうと振り返る。呆れた声が「今のボールはレットでしょう」と呟いた。
 レットとはネットにかかりながらもボールがサービスエリアに入ったことをいう。その時は1球余計にサーブを打たせてもらうのだ。レットとなったボールはないものと見なされる。
「あー、そりゃ分かっていたさぁ」
「もし本番でラリーが続いていたらどうするのですか。もしアウトのボール返してラリーが続いて、キミがミスした後に『今のサーブはレットでした』なんておめおめ言えるの?」
 小言を言われるのはいつもの事だ。木手はテニスについて何かと干渉してくる。部の権益に繋がる場合は特に。
 木手の小言を早々に受け流し、平古場に次を促した。木手が後ろから「海賊の角笛もダメ」と呼びかけた。舌打ちして、海賊の角笛でリターンしようとしていた体勢を直した。急いで打ち方を変えたからかボールはへろへろのロブとなってクロスに向かった。正直、入るかどうか微妙だった。ベースラインに下がる間じゅう、無意識に「はいでぇ(入れ)」と呟いていた。
 平古場は左手を掲げて、スマッシュの体勢に入っている。飯匙倩が来るおそれはないはずだ。ただ、木手の指示に素直に従うかは平古場に懸かっている。
 狙いを定める一瞬の沈黙の後、やってきたのは普通のスマッシュだった。縮地法を使ってベースラインで弾けるボールを打ち返す。軽くジャンプ、縮地で瞬く間にネットへつく。平古場が楽しそうな声で「上等」と叫ぶ。そのどてっぱらを狙ってボレーする。
 後は普通のボレー&ストロークが続いた。平古場の後ろに待機していた部員達がてんでばらばらに散らばり始める。
 平古場は飯匙倩を使わなければ、あまり点を得られない。対して甲斐は木手のお墨付きだ。平古場が飯匙倩を打ち、甲斐が縮地法を使えば、それだけで対等になる。しかししばらく本気でラリーをしていると、互いに体力の差が開けてくる。
 最初のミスは平古場だった。しかしそのミスはレットの分で、まだ1球残っている。
 甲斐は額を拭った。太陽に焼かれ尽くした腕がべったりと汗を張り付かせる。息が上がっている。肩が大きく上下する。唾を飲み込んで喉を潤す。身体が猛烈に水分を欲している。その為には、平古場に勝たねばならない。ただのサーブ&ラリー練習ではない。男と男の戦いだ。これに勝った者が休み時間中の栄光――つまりジュース――を得る。そんなストーリーが頭の中で作り上げられているのが不思議に面白い。
 今度こそセカンドサーブがやってくる。甲斐はそれを夢中で返した。喉が渇きすぎて、これが終わらせる事しか考えられない。相手コートの金髪ロン毛の暑苦しい長袖に向かって、体重を乗せたショットを打ち込んだ。
 終わりはあっけなかった。平古場のラケット面が狂い、ネットにボールが叩きつけられた。平古場がやれやれと息を吐き、ベースラインから離れた。空いたスペースに田仁志が割り込んだ。
 地区大会、県大会、九州大会を乗り越えて来て、甲斐はある事を知っていた。それは、マッチポイントは以外にあっさりと終わることが多いという事だ。負けている側が諦めてミスをするのと、勝っている側がさっさと終わらせようとする為に決めるのと、2パターンある。テニスの四大大会が開催されている時期に早起きすると、たまにプロの試合の中継が放送されている事がある。甲斐が全部見るのは稀だが、朝食の時間帯に決勝戦が終わるパターンが多い。その時にマッチポイントが決まる瞬間があるのだ。だから憶えているのと、実際に経験を積み重ねたのもある。
 やはり、アニメや漫画にあるような、白熱したマッチポイントにおける逆転劇というのはほとんどない。
 このラリーの終わり方もそうだったんだろう。
 木手に促されて、甲斐はベースラインから下がり、フェンスを背にして座り込んだ。緑色に塗られて、粉を吹いたようなフェンスだ。所々にペンキの剥げた跡があって、錆は其処から広がっている。Tシャツは濃い紫色だから、寄りかかって錆がついても大丈夫だろう。甲斐はフェンスに寄りかかった。ぎしぎしとフェンスが軋んだ。
 荒い息を深く大きくゆっくりと吐く。ふっと瞼を下ろした。赤い闇の中で額に陽光を感じる。
 喉が猛烈に水を欲しがっている。汗がぼとぼとと落ちる。脱水症状になりそうだ。半分乾いた唾を無理やり嚥下する。喉の潤いにならないのがつまらない。
 しばし考えるのを止めた。酸素は脳で五分の一は使われるから、疲れたときは何も考えないのが一番だ。それも木手の知識だった。
 しかし思考を止めてすぐに、強い調子の声が甲斐を呼んだ。
「甲斐君!」
「あい? もう次?」
 顔を上げた。木手が仕方なさそうな表情をして、乱れた前髪をかき上げる。
 休む時間も無い。甲斐はまた立ち上がり、足をコートまで引き摺った。ラケットを構えて前を見据える。知念のラケットが、獲物を見つけた蟷螂のように伸び上がる。

 結局、甲斐は延々30分、まともな休みを取れないまま、ひたすらテニスボールを追っていた。
 休憩のタイミングは早乙女の気分によって変わるのだろう。いつもより少々長い時間コートに立たされて、甲斐はへろへろになっていた。重心が先に進むような歩き方をして自身のテニスバッグへと歩み寄る。乞食のようにバッグを漁った。
「水〜水〜み〜ず〜」
「そういう言い方やめなさいよ甲斐君。喉が渇いているのは誰だって同じなんですから」
 木手の言葉の合い間にペットボトルを見つけて引きずり出した。
「やんだ〜疲れたさ〜。木手だって疲れたんなら正直に言い。……うわ、運ねえ」
「どうしたんです」
「何かキャップ上手く閉めてなかったみたいやし。こぼしてるっぽい」
「はあ?」
 木手の間抜けな声を、甲斐は初めて聞いたと自負出来る。肩に掛けていたタオルを外してテニスバッグの中に突っ込んだ。濡れている部分を拭う。幸い零れたのは少量だった。さっとひと拭きして、タオルを中に放置した。
「何でキミはキャップすらちゃんと閉められないんですかね」
「しっかり閉めたつもりだったさぁ。ま、零れてんのは事実やしさぁ」
 漂う海藻のようにゆらゆらと身体を揺らして受け流した。
 ペットボトルの白いキャップを親指で回す。そしてコインのように上へ弾く。跳ね上がったキャップはテニスバッグの中へ落ちた。
 少し顎を傾けて口を開ける。その口にペットボトルの口をつけようとして、
 思わず硬直した。
 もう一度ペットボトルの口を見て、確信する。普段であれば真っ白な口が、微かに薄い赤色を帯びている。濃淡があり、液体だという事が分かる。少し傾ける。薄赤い液体は重力に従って、下の方に雫を溜める。
 考えるいとまもなく、甲斐は直感的に思いついた。昨日、平古場がやったリストカットの赤を無意識に連想したのだろう。意識はその考えをほとんど無意識の内に否定しようとする。しかし一度思いついた考えは、暗記して憶えた日本史よりも、頭から離れなかった。
 それはつまり、これは血液ではないのかと。
「甲斐君、早くしなさい」
 ラケットを持って立ち上がった木手に曖昧な返事をした。しかし甲斐はそのペットボトルをひたすら凝視していた。
 世界が徐々に音を失くしていく。その代わりとでもいうように動悸が激しくなってくる。心臓がまるで孵化寸前の幼虫のようにさえ感じる。鼓動は自分の意思では動かせない。それがまた別生物らしさを加速する。胸の中でその幼虫は地上に出たいと蠢くのだ。規則的ながらも有機的に、生々しいリズムでのたうちながら。
 思いつかなければ良かった。後悔は既に遅い。
 口腔は渇きによって粘つき、水分を求めている。目の前にあるペットボトルの口に吸い付けば欲求は満たされる。しかし出来ない。脳髄の奥底から生ぬるい恐怖が湧き上がる。カニバリズムへの忌避だ。このまま口をつければ吸血鬼にでもなってしまうのではないかという、根拠の無い拒絶だった。
 それをよく調べれば、これが何かという事が分かっていたかもしれない。トマトジュースなのかもしれないし、あるいは自分が知らないうちに口内炎になっていて、前回飲んだ拍子に血が付着したのかもしれない。ついているのは血液ではないかもしれない。逆に問えば、これが血液である証拠は何処にある。大丈夫、飲める飲める。甲斐は唾を食道に押し付けて反芻した。それでも、駄目だった。
 甲斐はキャップを閉め、周囲に視線を巡らせた。水道があればいい。しかし見えるのは果てしない夏木立だけだ。その下で暑さに喘ぐ部員達は、水道が近くにないからこそ倒れているのだ。付近に水道がないのは推察をしなくても分かった。
 甲斐は跳ぶように立ち上がった。とにかく水を飲まなければ身体が持たない。
 テニスコートを囲むフェンスの切れ目へ向け、駆け出す。
 瞬間、冷徹な声が甲斐を呼び戻した。
「何処に行くのですか、甲斐君」
 木手の声に、甲斐は思わず動きを止めた。
 声色は酷く冷たかった。氷で出来たナイフを首に突きつけられているようだ。透明な殺気を感じる。それは木手の口元に浮かべられた冷厳な笑みと関係があるのだろう。
 陰険な眼鏡を手の甲で押し上げながら、木手は更に冷たく言い放った。
「もう休みは終わりですよ。逃げたら……わかりますね?」
 最後の言葉は暗にゴーヤーの刑を仄めかす。ゴーヤーの刑はいつも徹底的だ。甲斐裕次郎(14)は経験者である平古場凛(14)と「反ゴーヤー同盟」を暗黙の了解で締結している。
 そんなゴーヤーの刑に晒されるぐらいならば、今ここで逃げずに部活を受けねばならないだろう。とうにゆだった脳味噌でも、それぐらいの事は判別出来るということを学んだ。
「何ぼさっとしてるんですか。ほら、ラケット持って。行きますよ」
 木手が仕方なさそうに近づいてきて、後ろ首を掴まれた。悪戯をした猫はこうされる。

「さあ、コートに立ちなさい、甲斐君」
 甲斐は言われるがままにボールを追った。実際、コートに立つ理由はテニスをする為であって休む為ではない。休むのはコートの外に出てからだ。しかし甲斐はろくに休憩も水分もとっておらず、疲労が刻々と溜まっていた。1球打つ度に足が悲鳴を上げ、追いつくボールも追いつかない。その上ミスをしたら余計に打たなければならないのだ。今の甲斐に、ミスをするなという要求は不可能に近かった。この練習には木手のサディスティックな面が全面に出ている。
 だが甲斐だって、全国行きを決めた比嘉中テニス部のレギュラーだ。意地とプライドがある。そうそう簡単に木手の思惑に乗るつもりはない。だから甲斐は無心にボールを追った。
 5人連続でロングラリーをし、わずか十五分ほどの間に、甲斐は何も考えられなくなっていた。次の木手に交換する時にコート脇に座り込んだ。噴出す汗を感じながら荒い息を絶え間なくつく。ひとときの休みは息を静めることはない。木手がすぐにラリーを終わらせる。もちろん木手のミスではない。まるで甲斐を休ませないとでもいうように、強打を繰り返すのだ。
 このサド、と甲斐は心中で毒づいた。その声を木手が聞いているはずはない。しかも甲斐は荒い呼吸に邪魔されて、ほとんど言葉を発することも出来なくなっていた。
 休んでいる途中で木手に襟首を掴まれて立たされる。そしてテニスをさせられる。誰も止めるものはいなかった。それよりも、周りは誰一人、甲斐の疲労に気付いてもいないようだった。皆が木手の思惑に乗っているかのような被害妄想が思考を塗り潰す。
 田仁志のビッグバンを返そうとしてラケットを吹き飛ばされ、知念に海賊の角笛を使っても易々と返され、平古場の飯匙倩でいつもはしないミスをする。持久力もなくなってきた。ラリーが長くなると、それだけで大幅に体力を消耗し、動けなくなる。持久力の語源のような不知火と当たった時は、最悪だ。
 木手のコールに突き動かされ、甲斐は人形のようにコートへ立つ。ネットの先だと視点が集まらない。誰かがいるとしか分からない。それが誰かという事にまで興味が及ぶのは余裕がある奴だけだ。今の甲斐にはボールを追って返す以外、何も出来なくなっていた。
「ほら、甲斐君」
 視界がぼやけ、滲んで映るテニスコート。やってくるボールだけを見ながら、甲斐はラケットを振る。フォームも軌道も関係ない。ボールの先には黒髪ではない奴がいる。妙にふらふらした足取りでボールをトスする。くねくねしたサーブがやってくる。打つ。ボールが飛ぶ。構える。走る。打つ。ネットに当たってボールが落ちる。後ろで木手が何かを言ったが耳に入らない。再度構える。ボールが来る。しかし待つボールはネットに当たってコートに弾む。
 遠くのベースラインで何かが膝をついた。それが誰で何かという事までは理解が及ばない。テニスコートが静寂に包まれる。部員の雰囲気は何故か驚きと混乱が入り混じり、それが一箇所に集約していく。視線は視線を束ねる。磁石が自然に南を指すように。甲斐も無意識に視線を移していった。
 一瞬遅れて、知念が絶叫した。
「平古場ぁっ!」
 
 
 もうボールを追わなくともいいんだ。
 足元が消失する感覚と共に、空とコートがかき混ぜられて横転する。膝を強く打ちつけて皮膚が剥けるのが分かる。横様に倒れる身体は頭部を激しく打ちつけて、大きな音と共に視界が暗転する。痛みはあまり感じない。
 ふっと襲い来る眠気に、甲斐の意識は沈みゆく。
 眠気の闇は、孤独の発露。


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