夜が始まった。
 知念と、倒れた平古場と、昏倒したまま目を覚まさない甲斐とが、保健室に缶詰にされていた。窓の外には濃密な闇が満ち、景色を濡らすように雨が窓ガラスを叩いている。
 雨に降り込められて、知念は小さな溜息をついた。そう狭くもない保健室は、寿命が尽きかけた扇風機が必死に風を供給しているだけで、雨音を除いて他の音はない。背後にはカーテンで仕切られたベッドがあり、そこで甲斐が寝ている。横では平古場がソファに寝転んで、腕を目に当てている。相当に疲れているのだろうか、微動だにせず寝入っている。胸が上下に動いていなければ人形と錯覚するだろう。
 その時平古場がやっと寝返りらしい寝返りを打って、夏掛け代わりのジャージがずり落ちた。仕方ない、と再びジャージを拾って掛けてあげると、寝言のように「サンキュ」と聞こえた。本人の意識の外における感謝でも、知念はふと頬を緩めた。しかし腕に巻きつけられた包帯が視界に入り、気分は一気に消沈した。
 平古場の使命、といえば格好はつく。それでも実体は大義名分を携えた自傷行為であり、それが使命に入るというだけの種類であった。何十にも巻いた包帯は、所々が消毒液や鉄錆色に汚れて、本来の白さを孤島のように残しているだけだ。実際4時間ほど前に血を絞り出したばかりだ。最近の失血量は献血を上回っているに違いない。増血剤、つまり鉄剤を木手に支給されたがそれでもまだ足りない。血が何としても必要だった。平古場が苦しむのに比べたら、自分の血でいいなら幾らでも捧げてもいいと思っていた。それなのに、平古場以外の血ではいけないのだ。自分を責め立てるが、それでどうなるといった種類の問題ではない。気の短い性質が自分を針で刺すように非難し始める。
 知念は更に溜め込んだ息を吐き、パイプ椅子を軋らせて腰を上げた。動いていれば忘れられると思ったが、本音はなかなか未練がましい。シンクの前に立ち、蛇口を捻った。生温い水が乾いた底に円く広がり、排水溝に向かって形を変形させていく。手を濡らし、水を止めた。液体石鹸のポンプを押して、ぬめるクリーム色の石鹸を手に馴染ませる。泡立たない液体石鹸を手の甲、手の平に塗りたくり、指を組んだ。自分の左腕には、一本の傷跡もない。平古場は嫌なのに敢えて自身を切り刻み、自分は代わりを務めたくとも役不足で、切る必要がない。その罪悪感が更に知念を押し潰す。
「……くそっ」
 歯を食いしばり、手首に爪を埋め込んだ。切れたらいいと倒錯した観念が爪に力を込める。肌を包む泡はその衝動を防ぐ。手首には赤い跡が残るのみ。
 さっさと流してしまいたかった。平古場のポケットにならカッターはあった筈だ。せめてそれで償えれば……
 流れに合わせて温度を下げていく水で泡を全て流す。ぬめりまで排水溝に捨て、Tシャツで水を拭い取った。大股でソファの前に座り、平古場のジャージを探った。細長いプラスチックの感触、それを抜き取る。パイプ椅子に腰掛けて、無意識に猫背になって、カッターを見つめる。青い柄のカッターは先端だけが錆つき、凝固した血液なのか否かの境界を曖昧にしていた。
 平古場の手首を切り刻んできた罪深いカッターが、今知念の腕に向かう。ちき、と刃を一度だけ伸ばした。切るには役不足な長さになっている。さらに2回押し上げると、銀色の刃が蛍光灯を跳ね返す。恐る恐る先端を内側の手首の端に埋め込んだ。浅いのは分かっていたが、ゆっくりと横に引く。痛みはあまり感じない。3センチぐらいのみみず腫れが出来た程度で、血も痛みもない。せいぜい皮膚を引っ掻いた痛みだ。切れる痛みとはまた違う。初心者だから浅いのか。深く切れないのか。
 平古場は血を流す為に、もっと深く切り刻んできた。痛みと傷を理解する為には、更に深く抉らなければいけない。そうでないと知る術も資格もない。
 舌の裏に湧いてきた不味い唾液を嚥下する。喉がごくりと鳴る。
 再度刃を近づけた。今度こそは皮膚の奥まで抉り出す。手首の外側、出っ張った尺骨に刃を潜りこませる。力を入れて、ぐりぐりと横へ引く。悪寒はない。傷を引き終わると、意外に痛みは少なかったのに気付いた。顔を近づける。一ミリぐらいの深さで皮膚がVの字に割れていた。血はすぐに出るのではなかった。所々から滲み出るように玉が膨らみ、毛細管作用によって玉が隣の玉と結びついて傷口を赤い線に変えた。
 傷口を暫しの間見つめていると、痛みが脈打ってきた。やけに遅い心臓の鼓動に合わせて、傷の周りの皮膚が熱と血色を帯び、盛り上がってきた。
 動かない感情の中で、不思議と罪悪を感じた。どうして切ったのだろうと後悔の念が滲み出してくる。自分からやった事なのに悔いるのは、覚悟が足らなかったのだと責める。こんなのは平古場の痛みに比べたら何でもないのに、それに潰されかけている自分がいる。心が弱くなっているのかもしれない。強くあれと、自分に銘じたのはいつの日か。
 それを忘れるとは、何故だろう。
 雨が終わらない。

 放心しながら色々と考えていたつもりだった。葛藤が平古場の将来を憐憫し、憐憫する自分に裏の自分が嘲笑を向け、嘲笑は表の自分との葛藤を生み、連鎖するばかりだった。
 それでも何かしないわけにはいかないので、救急セットを開けた。消毒液を取り出して雑に振り掛けると、切った時よりも強い痛みが走った。血から細かに泡が湧いた。滲みるような痛みで、透明な液と血が混ざり合い、用意したティッシュにドリッピングの安っぽい絵画を描いた。ふざけている。乱暴に傷口を拭って捨てると、真新しい包帯で手首を縛りつけた。正規の巻き方は知らないがどうでもいい。圧迫する事で痛みが和らいだ。
 安堵かそれに近い感情が、溜息を強制した。
 ノックの音がした。ふとドアの方に視線を向ける。
「知念君、平古場君。いいですか?」
 木手の声だ。ああ、と頷きつつ応対すると、木手が横にドアを滑らせた。いつものワイシャツ姿で、テニスバッグを肩にかけている。それだけだと普通の姿だが奇妙な事に、片手にはラップをかけた大皿が乗せられていた。制服と皿の関係は、足を踏み外した料理人のようだった。
 その大皿をテーブルに置くと、木手は丁寧に被されたラップを剥がした。上昇気流に乗って料理の匂いが漂ってきた。豆腐や人参の細切りの中に、半月形で緑色をしたものが沢山混じっている。ゴーヤーチャンプルだ。知念も好きというわけではないが、平古場が絶対拒否するほど嫌ってはいない。
「食べませんか?」
 首を横に振って答えるが、木手は知念の前に割り箸を差し出した。
「だから、いらんって言っているばぁ」
「君、部活の後何も食べてないでしょう。何でもいいから少し何か食べておきなさい。体が持たないのは分かっているでしょう」
「構わない」
「駄目ですよ。ここ最近何も食べていないのは分かっています。こちらとしても全国大会に支障が出るのは避けておきたいのですよ。平古場君を助けるとか宣言しておいて、本人がその調子では助けられるものも助けられませんよ」
 そんなのは分かっていた。しかし最近は体が食べ物を受け付けない。食べても吐くような状況が続いていた。ストレスの所為だとわかっている。体重も大幅に減少していた。
「平古場君もそれを望んでいない筈。心配をかけるような真似をすると、死ぬよ、あの人」
「……」
「平古場君を助けられないのは、君も数年前から覚悟していたでしょう」
 反論も出来なかった。
 知念にとって、平古場はダブルスパートナーという以上に大切な幼馴染だ。木手や甲斐、田仁志がこの島に渡ってくるまでは、知念と平古場だけが比嘉島の住人だった。2人だけの幼いながらも平和な関係、それが何年も続いていた。小学生の頃には既に、平古場から全ての話しを聴いていた。覚悟は昔からついている。だから知念はどんな事が起ころうとも平古場の手助けをする、そう自分に課していた。
 それなのに今はどうだ。任務だ、使命だと言って、結局苦しんでいるのは平古場一人、自分は何も出来ていやしない。
 知念は一人、左手首に巻いた包帯を掴んだ。切傷の痛みよりも悔しさと焦燥が知念を、刃以上に深く切り刻む。
 包帯を見て、木手が小さく肩を竦めた。「君もですか」と呆れたような独白が扇風機に揉み消された。
 木手は周囲を見回すと、茶渋のついた湯飲みを見つけ、手に取った。先刻知念が手を洗っていた水道に近づき、蛇口を捻る。特に何でもないが、シンクにはまだ泡が残っていたかもしれない。
「所で、ですが」
「ぬーが」
 知念は湯飲みに水を注ぐ木手に、座ったまま鋭く視線を投げ掛けた。怯む様子は一切ない。
「……そうイラつかないで下さい。いいですか。期限は明後日の日の出にまで迫っているのですよ。今日はお盆のナカヌヒー(中の日)じゃないですか。ウークイ(お送り)の日は分かっているんでしょうね?」 
 視線を逸らして、平古場の腕を見た。包帯が巻かれた一切動きのない手が逆に見る人の心を蝕む。
「平古場君には時間がないのを知っていて、ぐずぐずするのですか?」
 容赦なく言葉が正気を抉り取った。
「君にとって、平古場君は甲斐君よりも大事ではないのですか。幼い頃から平古場君の境遇を誰よりも理解しようとし、最後まで護ると誓った仲ではないのですか? それなのにこの状況はどうです。どうも甘ったれているようにしか見えませんね」
 俯いたまま目を剥き、息が止まりかけた。手の甲に爪を立て、爆発しそうな感情を押し留めた。いつもだったらとっくに激昂して、一発殴るぐらいしている。それをやっていないのは平古場が今眠っているからだ。抑えろと命令する自己抑制が麻痺しそうな矛盾すらも押し止める。歯の奥を、がり、と鳴らす。沸騰しかけた心に、冷却された大量の理性を注ぎ込む。理性すらも煮え立つ事態に、知念は惑いながらも感情を抑えていた。
 沈黙が過ぎ、知念はやっと言葉を発するぐらいに自身を落ち着かせた。目を合わせるのも同じ場所を見続けるのも何となく辛く、視線を床に逃がした。
「……分かっているさぁ」
「それなら早くしなさい」
にべもなく言われた。それでも胸倉に掴みかからなかったのは、ひとえに木手永四郎という人物だったからだろう。この人物に逆らう事は上手く出来ない。
「食べますか?」
 葛藤を察知されたのか、袋に包まれたジャムパンが差し出された。胃袋は空腹を訴えていないが、最近はそんな調子が続いていた。「ほら」と、木手らしくない優しげな言葉で押し付けられたから受け取らざるを得なかった。
 非常に緩慢な手付きでビニールの端から裂く。丸めて近くのゴミ箱に投げ捨てて、端に齧りついた。そのまま咀嚼する。歯がバネで固定されているかのように動きづらい。
 木手も向かいの席に湯飲みを置いて座り、別のパンを開け始めた。木手のパンは蒸しパンのようだ。そこで初めて、自分に宛がわれたのは苺のジャムがたっぷりと入っているのに気付いた。甘いのは好きでも嫌いでもないが、甘ったるいのは苦手だ。恐らく木手は、「糖分でも摂って落ち着きなさい」とでも言いたかったのだろう。食欲など生理的な欲求を満たしてやれば話しをしやすくなるというのは、昔木手に借りた本に書いてあった。
 思惑に乗ってしまった自分が情けないと思う。相も変わらず食欲は湧かないが、落ち着きは取り戻せた。
「……すまんな」
「何を今更」
 短い会話をした後だった。
 突然嫌な味の唾液と、内腑が絞り上げられるような不快感が喉の奥から湧き、知念は口を押さえた。焼けるような灼熱が食道を逆流してくる。またか、と焦る自分の奥底で冷めた理性が嘲笑う。
 椅子を蹴って立ち上がり、そのまま保健室から飛び出した。木手が名を呼ぶが、知念は止まれない。
 電灯も点けずに男子トイレに飛び込んで、個室の閂を横に引いた。和式便座の横に膝を突き、喉の奥から押し出される吐き気に任せて、胃の内容物を吐き出した。胃酸に塗れた吐瀉物が糸を引いて、ぼとぼとと落ちていく。焼け付くような酸の味がして、その味を中和するかのように唾液が舌の裏から流れた。
 あらかた吐くと、嘔吐感は過ぎ去った。便所特有の臭いに酸の味が強く混じった。激しく咳をし、唾を吐いた。額に浮いた脂汗を拭う。荒い息を吐いて、よろけながら立ち上がった。個室の壁に背を当てて、天井を仰ぐ。水を流すレバーを踏みつけると、蛍光灯が瞬いた。両端が黒く変色しているので光は安っぽい。ブゥー……ン、と蝿の飛ぶような音が蛍光灯の光と共に、沈黙を満たす。水が流れ終わったのを確認して、閂を開けた。
 木手がいた。
「ストレスですね」
 と、木手は言う。
 壁に縋りながら、知念は手洗い台に向かった。濡らす程度に手を洗い、水気を切って服になすりつけた。鏡の奥にいる自分は、自分とは思えない程痩せ衰えていた。二週間ほど前よりも明らかに頬がこけ、頬骨が出っ張っている。もともと痩身だが、病人のような肌の色は隠し難い。目の下に出来た隈が色濃かった。
 鏡越しに、木手が哀れむような眼差しで知念を見る。
「どうしてですか」
 微かに泣きそうな声だった。
「君が苦しむ必要なんて、何処にもないのですよ」
 木手の言う事なんか聴けなかった。
 平古場が苦しみ足掻いているのならば、自分も苦しみを背負わねばならない。自分に重く課していた。今更その決心を放棄するなど出来ない。それでどうなるという根拠はないが、一度決めた事だ。絶対だ。共有する事で少しでも楽になれるのなら、知念はどんな苦しみでも負うつもりでいた。それは所詮『つもり』でしかなかったが、今の知念にはそれ以外の選択肢は存在しなかった。自分が潰れてはいけないとも、強く課していた。
「どうしてです」
 何度でも木手は繰り返す。
 目頭が熱くなり、あっという間に視界が滲んだ。床のタイルから洗面台まで、幾つもの色が融合して揺れている。瞬きをすると下に、新しい染みが出来ていった。小さな嗚咽が見る見るうちに呼吸を圧迫するほど大きくなり、自由に息を吸う事も吐く事も難しくなった。知念はずっと咽び泣いた。 
 何も見えない、見たくない。ドアが開く音がして、足音が去った。気付くのも億劫なぐらい、涙に暮れた。

 平古場を助けたい。
 何も出来ていない。
 どうすればいい。
 最期まで看取るには力不足だなんて。
 認めたくなかったのに。

 ――――雨は生き物のようにのたうつ。

   *

 保健室に戻ると、もう8時を過ぎていた。扇風機が飽きもせず首振りを続けている。タイマー設定もしていないから当たり前と言えるが、その根性は見上げたものだ。外の景色は変わらない。
 へばっていた平古場が緩慢に、首を知念に向けた。
「おう……お帰りけーたんなー
 平古場がソファに身を委ねたまま右手を上げる。
「ああ。……ただいまなま、ちゃん
 出来るだけ視線を合わさないようにして、蹴飛ばしてそのままにしていたパイプ椅子を起き上がらせた。倒れるように座る。目の前では冷めたゴーヤーチャンプルがラップを掛け戻されていた。雑にされている具合から見て、木手がやったのではないだろう。消去法で行くと平古場だ。
「これはどうした?」
 ゴーヤーチャンプルを指差して平古場が問う。
「木手が……やぁーの見舞いだって」
 嘘だ。これは木手が知念の身を案じて持ってきてくれたものだ。
 平古場はあからさまに眉を顰めて天井を仰ぐ。
「あにひゃー……後でたっくるす」
「死なすな」
「そんなん、わかっとぉーさぁ。本気にすな。冗談やっしー」
 カラッとした楽しげな笑みが弱々しく返される。その笑顔に救われると同時に、名状し難い罪悪感が湧き上がる。
 苦しみを早く終わらせる為に、甲斐に今から血を飲ませようと考える自分が情けない。しかし、やるしかない。この『儀式』がなくて苦しむのは、平古場でもあり甲斐自身でもあるのだ。
 左腕に巻いた包帯を握り締め、知念は意を決した。させるしか、ない。
「甲斐の件だが……」

 知念には、もうこれしかない。



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