甲斐がぼんやりと覚醒した時、ベッドの上で寝ていることに気付いた。目の前には同じパターンで繰り返される天井がある。茶色い芋虫が這ったような紋様だ。日に焼けて黄ばんだカーテンが、天井を四角く切り取っている。
 少しずつ戻ってくる感覚の中で、重力がかかる先は足の裏ではなく、背中全体へかかっているのを感じる。
 身体に掛けられたタオルケットが妙に暑い。もぞもぞと動くと、埃っぽい空気に薄いエタノールの匂いが混ざっていたのに気付いた。幼い頃、酷い怪我を負った時に行ったきりの、病院の匂いを薄めたような空気だ。
 カーテンの奥から人の声が漏れてくる。
「……だってよ」
「ならさっさと終えた方がいい。なま、あにひゃー寝てるさぁ」
「やんどぉー……」
「あれだけ逃げられてきたんだ。絶好のチャンスだろ。それともきついのか?」
「まあ、な」
「あまり無理をさせたくもないしな。ま、休み。あにひゃーが起きたら起こすさ」
「……サンキュ」
 意識の奥で誰かが話している。眠たくて切れ切れにしか言葉を判別できない。はっきりと断言できないが、あの凶悪な声は知念だと思う。外見も声も佇まいも、小さい頃から骸骨だフランケンだと散々言われてきた知念だ。幼い頃から道場で一緒に武術を習っているので忘れるはずがない。
 その知念と誰が話しているのかは分からない。聞き覚えはあるはずなのに、喉元で突っ掛かって出てこない咳のようでもどかしい。
 会話が成立しているところから見て、この部屋にいるのは最低でも二人だと認識する。知念は一人で会話するような器用さもおふざけもないから、まず会話する相手が必要となる。
 沈黙の中へ、突然スライドドアの開閉音が割り込んだ。
「知念、いるかやー」
 太めで低い声。田仁志だ。その後に何か言葉が続いたが、甲斐にはそれを理解する気力はなかった。
 再びスライドドアが叩きつけられるように閉まり、部屋には田仁志出の喧騒が満ちた。ビニール袋をべりべりと剥がす音が混じっているのも確かだった。また食うのかと内心呆れた。
 甲斐はタオルケットの中でぼんやりと思考を始めた。脳はまだ早くも上手くも働かない。そんな中での思考は不正確で曖昧だが、何もしないよりはましだった。
 思い出せ。
 思い出す。甲斐に残っているのは、テニスコートで倒れた記憶だ。炎天下のクレーコート上で、監督にしごかれまくって、ほとんど休むこともできずに、甲斐はその場に昏倒したのだ。熱中症か、日射病だと思う。というかそれらしか知らない。どちらにしろその所為でここに運ばれてきたというのは紛れもない事実だと勝手に結論付ける。何か抜けてると気付いた。暫く考えて、結局何も出なかった。暑さの所為で海馬がやられたとかいう設定はなしだ。単に忘れているだけ、あとは勝手に思い出すだろうと言い訳代わりしておいた。
 雨が降っている。
 何かを頬張っているような声で田仁志が問う。
「なあ、終わったかや」
 ビニールの袋を潰す音。投げ捨てる音。
「ぬーやが?」
「血ぃ。飲ませただばぁ?」
 一気に覚醒した。危うく跳び起きるところだった。いま跳び起きるのは危険だ。気付かれる虞が皆無ではない。
 その問いに知念が答える。
「ああ。それでなま話してたんだがな。平古場さぁ、なかなかしようとしないんやさぁ」
「はぁ? さっさと終わらせたらいいだばぁよ。ちょっと切るだけ」
「やしがぬーが気が乗らないんだわけさぁ」
 田仁志が深い溜息をつく。すぐに咀嚼の音に変わる。
「それでもさっさと終わらせれぇ。絶対、絶好のチャンスやっしー」
「慧クン、待てぃ。平古場の体調を考慮しないと死ぬぞ。今日も貧血起こして倒れたんだ」
「貧血ぅ? 女かよ」
 田仁志の短いツッコミの後、パンを引き千切るもっさりした音がした。
 雨脚が強くなる。
 甲斐は出来るだけ動きを忍ばせて、肘をマットレスに突いた。肘に体重を掛け、出来る限り動きを忍ばせ、身体を反転させて、上半身を起こす。はみでたタオルケットがカーテンを揺らした。枕の反対側にカーテンの切れ目がある。紐のような隙間から外の様子が見えた。甲斐はそこに目を近づける。
 細い隙間から見えたのは、田仁志の巨大な背中だった。諜報活動に邪魔が入るのは当たり前の事なのかと、殺した息を吐いた。
「やんどぉー、どちらにしろ平古場が決定しないといけないんだろ?」
 田仁志のやや太い声に知念が気落ちした様子で答える。
「決定だけじゃねえさぁ。血ぃ飲ますんは平古場でないといけない。明後日までだ。それまでに終わらせないと、平古場はもっと苦しむことになる」
 甲斐の脳裏に疑問符が浮かぶ。耳を澄ました。雨の音が果てしなく五月蝿い。
「わんは平古場にこれ以上苦しんでほしくねーらん。だから、先の苦しみの元は、早く断っておきたい」
 咀嚼半分会話半分、それに一振りの冗談っぽさを加えて、田仁志が応じる。
「それなら早くすればいいやし。悩む必要なんてまあーにある?」
 空っぽのジュースのパックをストローで吸う音が混じった。
「しかし……今も苦しんで欲しくないのもある」
「どっちやが」
「だから……わんでも考えがまとまらない」
「は? 平古場の事ちゃんと考えてんなら、さっさと終わらせる方が絶対いいやっしぇー。何度言ったら分かるんやが」
「やしが……今、平古場は弱ってる。血を使いすぎてるんだ。今もそこで寝てる。甲斐があんまりちょろちょろ動くから、何度飲ませようとしても毎回失敗するんやさ。その度に平古場は少なくなった血を振り絞ってる。甲斐だってテストの点数は悪いけど、なま起こってる事を察知できないほど馬鹿じゃない」
 場違いに甲斐は勝ち誇った。
「あれだけ異常イジャーな事続いてたら、わったーを警戒するのは自然さぁ」
「ふーん。だから上手くいかない責任を甲斐に押し付けてるんやが?」
「ぬぅーが?」
 知念の声色が一瞬にして変わったのを、空気ごと察知できた。
「甲斐に血を飲ませられない責任を甲斐自身に押し付けて、やぁー自身の責任は水に流そうって魂胆だろ」
「……もう一回言ってみれ」
「言ってやるさぁ。平古場のサポートを買って出たやぁーが何も出来ないのを、甲斐の危機管理能力に押し付けてる。それだけが、しに分かる。能無しが」
 ビニールをぐしゃぐしゃにして、投げつけるような音がした。
 甲斐は慌ててカーテンの隙間から部屋の中を覗いた。相も変わらず田仁志の巨体が見えるだけだ。ちゃんと見るべきだったと、今更ながらに後悔した。
 一瞬の沈黙に微かな怒気が混じっている。パイプ椅子を軋ませ、田仁志は立ち上がった。その脇から、足を組んで俯く知念が見える。その頬に微かな青筋が確認できた。
「おい。わんはチリ箱じゃあらん」
 知念は大きな目玉をギョロリと動かし、座ったまま田仁志を見上げた。使い古された知念の上履きが16ビートのリズムを刻む。
 この後の展開が容易に想像できた。
 止めなければと思い、しかし現実にはベッドの上以外に出られる場所はなく、結果として傍観するしかできなくなる。無意識にシーツを掴んだ。ぐしゃぐしゃに潰れていくシーツの感触がやけに生々しい。
 田仁志の方はというと、背中しか見えなかった。しかしその背中は小刻みに震えていた。
 知念が椅子を蹴飛ばして立ち上がった。弾かれたパイプ椅子は派手な音を立てて倒れ、一瞬の内に畳まった。
 雨音が保健室の沈黙を包む。熱湯を限界まで注いだコップのようだった。何か他の物音が立てばどちらかが殴りかかってもおかしくない。それは本当に些細な事でも、二人にとって引き金になるのではないか。
 甲斐は生唾を嚥下した。存外に大きな音が過ぎ去った。
 意地が無言でぶつかりあう喧嘩だった。
 沈黙が意地に組み込まれる喧嘩だった。
 二人は何処までも動かなかった。動いた者が負けとでもいうように。
 心臓に悪い時間が通り過ぎ、ついに田仁志が動いた。しかし負けを認める動作ではなかった。
「ぬぅーやん、こらぁ」
 田仁志は知念の胸ぐらへ手を伸ばし、薄い半袖を絞り上げた。知念も負けず劣らず田仁志の胸倉を掴みあげた。額がくっつくほど近づき、互いに睨みを利かせている。
 やばいことになりそうだった。
 甲斐は慌ててカーテンの端を掴んだ。勢いに任せてカーテンを引きあけた。二人の名前を呼ぼうとした瞬間、田仁志が先行した。
「平古場の事、どう思ってんやがっ!」
 遠くにいて耳を聾する声量で、田仁志は吠えた。
「あにひゃーがどれだけ辛いか、分かって言ってんだろうな! え! 言い、言ってみろ、知念!」
「それはこっちの台詞さぁ!」
 知念も負けじと大声で怒鳴りたてた。
「わんだって考えてるさぁ! ダブルスも組んでない奴に言われたくねーらん! わんは平古場に今も未来も苦しんで欲しくねーさぁ」
「だからって苦しみが伸びるのは見たくねえ! 何迷ってる、優柔不断の骸骨んちゅが!」
 知念の脳から何か繊維が断絶されたような音を聞いたのは、甲斐の幻想ではあるまい。
 幼い頃からフランケンだ骸骨だと言われてきた人物にとっての禁句だった。しかし田仁志は辺り構わず怒鳴り散らした。
「さっさと終わらせればいい! それだけの話だばぁ!」
 知念の真っ白な顔がみるみるうちに紅潮していく。薄い瞼が限界まで見開かれ、目付きは更に鋭さと怒りの度合いを増していった。
 張り詰めた沈黙が過ぎ行く。カーテンを握り締めたまま、甲斐は身動きも出来ずに硬直していた。逃げるべきは今だ、と甲斐の本能が告げている。足が動かないのは幻想だ、幻想だと足に言い聞かせる。しかし足だけでなく身体全体が思うように動かないと感じたのもすぐだった。二人の怒りに濃縮された空気は、甲斐をその場に釘付けにしていた。
 雨がガラスを叩く。
 起きそうで起きなさそうな寝息がタイミングも関係なしに割り込んだ。
 単品であれば、甲斐にとってそれはさしてどうでもない事だった。しかしその声にもならないような寝息に、知念が負けの覚悟で反応した。甲斐もその方向を振り向いた。視線の先にはぼろぼろのソファがある。合成皮革を使った普通のソファだが、公共の場所に置いてあるものは大抵何処かしら壊れているものだ。そのソファは例に漏れず表皮が所々破れて、綿なり何なりが飛び出ている。そんな年代モノのソファに寝転んで、平古場が眠ったまま眉をしかめていた。血の気を失って白くなった唇が微かに動いた。
「……黙らさんけー……そーが……さい……」
 寝言にまで「うるさい」と言われて、知念は仕方なくといった感じに田仁志を離した。知念は苦虫を噛み潰したような表情で床に視線を泳がせている。田仁志は未だ怒りも冷めやらんといったように鼻息も荒く、両手を腰に当てた。
 知念が幽霊か骸骨かのようにゆらりと田仁志を見遣る。
「この件は保留やさ」
 いつもは藪睨みのような田仁志の目が丸く見開かれた。
「は? 何で、」
 続く田仁志の言葉を知念が引き取る。
「平古場が起きる」
 寝かせてやれ。知念はそう言った。平古場が寝返りを打ち、その拍子にソファから左腕がずり落ちた。補正しに知念がソファへ歩み寄った。
 甲斐は溜めに溜めていた息を吐いた。とりあえず窮地を脱した安堵の息だ。音は抑えていたつもりだった。だが隠そうとするものほど隠せないもので、その音に田仁志が全身で振り向き、甲斐を見て再び目を皿にした。
「起きてたんやが?」
 田仁志は驚いているのだろう。今更すぎる。
 甲斐は頭に手をやって、その場しのぎの笑顔を浮かべた。口が勝手に喋り出す。どうすればいいのか正直分からなかった。この期に及んでも無力な自分がいる。
「あ、えっとさ。何つったらいいんだろ……気まず。んじゃとにかく、わん行くな」
 二人の視線が痛かった。今すぐここから逃げてしまいたかった。こっそりと帰るのはもう不可能だ。それなら居直るしかない。
 ベッドから足を出して、靴を探した。目測では見つからない。下りて、しゃがみ、ベッドの下を覗き込んだ。埃だらけの空間を覗き込み、靴の影を探す。実際、半分ぐらいは本気で探してはいない。どんな会話をしているのか探りを入れたいのもあった。血を飲ませるとか言うキレた奴らには無駄かもしれないが、気まずさと些細な恐怖に侵された感情の中にも好奇心が残留しているのだ。出来るだけゆっくりと探し、上靴を見つけた事に安堵とがっかりを覚えた。
 ベッドを椅子代わりに、指を靴べら代わりに、踵を上履きに突っ込む。立ち上がって爪先で床を叩く。マットレスが無駄に軋んだ。
 すると再び、むにゃ、と寝息が起き上がった。知念が狼狽した声を上げる。
「ね、寝てていいんだぞ。やぁーは疲れて……」
 思わず平古場を振り返った。上半身を起こして、ぼさぼさの金髪を掻き毟り、平古場は知念の言葉を遮った。
「いい」
 その声が孕む色に、思わず身が竦んだ。暗鬱の塊ともいえるその声は間髪いれず、平古場とは思えない声で命令した。
 気配が満ちた。平古場は一瞬で圧倒的な存在感を発していた。早乙女の威厳でも木手の独裁政治とも違う。見るものの背筋へと蛇のように悪寒と恐怖を這い上がらせる、得体の知れない恐怖を放っていた。
 海の匂いが場違いに香る。
 平古場は田仁志に向かって、顎をクイと上げた。
「そこのデブ。あにひゃーを押さえろ」
「え?」
「いいから。獲物が逃げる」
 "獲物"という言葉を理解する前に、田仁志が命令に従うままに、右腕が捕まった。大きな太い指が筋繊維を丸ごと鷲掴みにし、半端じゃない握力に潰される。痛みが走る。引っ張られて足がたたらを踏む。
 これしかない、甲斐は左の指を全て伸ばし、小指の方から力任せに手首へと叩きつけた。祖父に習った手刀だ。確実に決めたはずなのに田仁志の手首はビクともしない。
 瞬間視界が反転した。蛍光灯が斜めに光の筋を引く。甲斐は何も理解する暇もなく、勢い良く顔が叩きつけられた。床の冷たさを頬に感じた。歯が折れるかと思った。舌を噛んだようで、口内に鉄の味が広がった。
 背中にどんと重さが来た。脊髄がぼきぼきと鳴った。息を吸えない。吐けない。両手両足をばたつかせるが、それでも背中の重量を退かせるのは無理に思えた。腕は掴まれていない。しかし背には田仁志が跨っているようで、どう足掻いても呼吸するのにぎりぎりの空間を作れるだけだ。
 両肘を突いて、見上げる。仁王立ちの平古場が嫌に大きく見える。
 保健室のリノリウムの床に押さえつけられて、甲斐は平古場を見上げるしか出来なかった。いくら武術を嗜んでいるといえど、体重差の激しい田仁志の椅子にされては、逃げ場は無い。その田仁志だって武術の心得があるのだ。
 知念が唇を噛んでいる。目線の先は哀れな獲物ではない。平古場の腕だ。長袖ジャージを着ているものの、袖からは汚れた包帯が溢れ出していた。
 その腕が動く。ポケットに差し込み、平古場が不遜に顎を上げる。口端だけが歪む不敵な笑みが、その細面に浮かぶ。
「助けを呼んでも無駄だぜ」
 日曜日の朝にやる特撮ドラマの悪役みたいな台詞だ。甲斐は目付きを尖らせて平古場を睨んだ。
「わんの支配は島中に及んでる。なま、お前を除いて全員が"導き神"の手駒やし」
「凛……やぁーもか」
 押し殺した呟きに、平古場が不快そうに片眉を顰める。
「語弊があるぜ、その言葉は。わんは支配されるだけじゃない」
 平古場の親指が立ち、心臓を指す。
「神の"依り代"だ。八百万の神々の中でも唯一、人の血の中に棲み、あらゆる魂を導く役を担う"神"。わんはその神の御心に従っているだけさぁ。……わんは皆に血を飲ますんが役割だ。お前が最後の一人……どうだ? 気分は」
 狂ってる。こんな事、普通の平古場が平然と言えるはずがない。いつもの平古場ならここらへんで笑って、「なーんてな」とか言うに決まってる。知念と田仁志を巻き込んだドッキリだから、多分そこで木手がカメラ構えているよ、ごーぐちはーぐち(不平不満)言いながらさ。晴美には許可とってあるから。ほら、騙したお詫びにさ、このパン食おうぜ。どうせ誰も止めやしないからよ。ほら、食えって。ジャムパン。イチゴのだからよ。嫌いか? ならいいや、わんが食う。なーに、気にすんなって、騙した詫びだからさ。
 そんな事、言ってくれない。カメラの音もせず、聴覚を塗りつぶす雨音に聞こえるかどうかの呼吸音が混じるだけだ。
 胃がムカついてくる。木手に騙されてゴーヤーを食わされた時のように吐き捨てる。気分だと?
「しんけん悪い」
「だろーな」
 妙に同情的な表情をされて、何となくムカついた。気にもかけない様子で平古場は続ける。
「それでも、すぐに終わる。……デブ。逃がさないように押さえとけよ、ちゃんと」
「わかってる。それと、デブ呼ぶな」
 平古場は答えなかった。
 答えないまま左の長袖を捲り上げて、その拍子に包帯が長く零れ落ちた。吸った血液が乾き、鉄錆の色を晒す包帯は乾いた消毒液によってうっすらと黄色く変色している。知念が厳しい目付きのまま、平古場の包帯の端を拾った。サンキュ、と平古場は力なく笑んだ。
 するすると包帯が解かれる。蛇のように。
 知念がそれを丁寧に巻いて円筒にしていく。血塗れた包帯の円筒だ。
 傍観する以外に、甲斐の為すべき行動に選択肢はなかった。
 長くも短い時間が過ぎ去り、平古場の左手首から包帯が無くなった。知念が思いつめたような表情で押し黙っている。その視線も甲斐の視線も、共に同じ場所へと注がれていた。
 平古場の手首には無数の傷跡があった。 瘡蓋(かさぶた)と生傷が目盛りのように刻まれた、醜く変わった傷跡が。切り過ぎてぎざぎざになった跡が微かに盛り上がり、生乾きの血液が張り付いて蛍光灯に光っている。小さな頃から見ていたが、こんなに傷ついた手首は見たことがなかった。例えどんなに酷い自傷癖の子がいても、この傷を見れば言葉を失うのではないか。甲斐にはそう思えた。
 傷口に目を取られて、平古場が顔を顰めたのを、甲斐は見る事は無かった。
 平古場の右手がポケットを探った。ほどなくして中からはカッターナイフが抜き出された。折り刃式の脆弱なカッターだ。錆か返り血かは判断できないが、一見して鉄錆の色に染まった刃は光を鋭く跳ね返す。ちきちきちき、と刃を出す。皮膚を切れて刃が折れないぐらいに短く出した長さは、良くも悪くも傷の戦績を表している。
 嚥下の音がした。甲斐のでも知念のでも田仁志のでもない。それは、平古場の喉から発されていた。
 思いつめたような顔をしたのは平古場の方だった。表情が傍目から見ても硬かった。端正な顔立ちの中にある眼球が刃先を見つめている。生唾を再び飲み込む音がする。つられて、甲斐も湧き出した唾を飲み込んだ。存外に大きな音が食道を落ちていった。
 平古場はしばらく彫像のように傷口を見つめていたが、やがてそろそろと右手が動いた。細かに震える刃先が傷口に触れる。電流を流されたかのように平古場の身体が折れ曲がった。くの字を作って、ろくに切っていない手首を抱き込んだ。出血はない。傷口は触れただけで激痛を伴うぐらい、肉が乾いていない。笑って傷つけるまでになっていなかったのが唯一の救いだった。もしそうなっていたら、甲斐は止める方法を見つける自信がなかった。
 知念が動く。平古場の肩に手を置き、何やら話している。平古場が肯き、カッターナイフを渡す。知念は平古場の腕を掴んだ。
 一瞬の間が開く。直後、知念の腕が素早く動いた。
「がっ!」
 咄嗟に平古場が手を振り払い、膝をついた。背を向けられてしまって何が起こっているのか分からない。肩は小刻みに痙攣しているように見え、長い髪は顔を隠そうと垂れている。震えた呼吸音が擦れていた。
 知念は目に入ったゴミ箱にカッターナイフを叩きつけると、慌てて平古場の横に立ち膝をついた。震える背に手を当てる。しかし平古場は抵抗も協調もしない。それよりも知念が横にいる事すら気付いていない様子だ。手首を押さえているのか、身体を折り曲げて呻いていた。
 背中の田仁志が動こうとして隙間が生じた。甲斐はその瞬間を狙って身体を抜き出そうとした。再び田仁志の体重が落下し、背骨がびきびきと軋んだ。蛙のように消化器官を吐き出しそうだった。素直に吐き出せないのは胃に何も入っていない証拠だ。火傷しそうな酸が食道を逆流しかけた。
 吐き気の波が過ぎ、甲斐はその場にへばった。無理にでも呼吸しようとして、喉が擦れた音を立てた。
「……死んだか?」
 頭上からの問い掛けに、甲斐は吐き捨てた。発声器官が圧迫されて上手く喋れなかった。
「……ざけんな」
 爪がぎりぎりと手の平の皮膚に食い込んだ。
 呼吸は静まらない。乗っているのが他の人物であればまだ呼吸は楽だったろう。ただし早乙女は対象外だ。
 横になった視界に影が割り込んだ。ゆらり。蛍光灯を背にし、平古場の目線が片方だけ、甲斐へと落ちている。その瞳に底冷えするような悪寒を感じた。
 片方の目が赤かった・・・・のだ。
 虹彩と白目の境が霞む程に赤く塗り潰された無感情な眼球と、痛みを訴える正常な眼球が、それぞれ甲斐を見下ろしている。二つの目のアンバランスさが、何とも言えぬ悪魔らしさを醸し出す。まるで身体の半分を憑依されたかのような、
 その顔が甲斐の目の前に迫った。鼻と鼻がくっつくぐらいの至近距離に平古場の顔がある。恐怖が不快感に勝った。右の頬には幾筋もの涙が流れては光っている。しかし左の目はあくまでも無感情だ。樹液を探る虫のような目つきで、甲斐の顔を隅々まで舐め回していく。不思議に呼吸をしていない。右手はすぐに離れようと床に触れているが、左腕がその動きを静止していた。逃げるなとでもいうように。右腕のジャージには血の手形がべったりと残される。染みは徐々に滲んで広がっていく。
「違う」
 平古場は囁くように呟き、顔が離れた。平古場は片膝をついて左手を伸ばした。血塗れの指先が徐々に口唇に迫る。甲斐は顔を逸らし、唇を引き結んだ。
「田仁志。顔(ちら)、押さえれ」
 虚ろな声が田仁志に促した。甲斐の抵抗空しく、強力に頭を捕らえられて正面を向かせられた。血は、酸素の足らない赤黒さを屍のようにさらしている。
 それは突然だった。表面張力が破れた水のように、恐怖が理性の器から一斉に溢れ出した。世界が真っ白になり、そのスクリーンに過去の映像が次々と弾けとんだ。蒼い蝶。追う自分。振り回す虫取り網。走り抜ける草むら。足元が消失する感覚。音を立てて転がり落ちる小柄な身体。横転する空と土。岩に打ちつけられる打撲の痛み。擦過傷の痛み。脚が折れて動けない絶望。頭から流れ出して周囲を染めてゆく血液の、途方もない紅。その時と同じ恐怖が身体を竦ませる。死の恐怖と孤独の恐怖が混乱によって攪拌されて、意識の外へ流出して行く。土石流のように意識をごちゃ混ぜにしながら四肢へと流れ込んで、動きを鈍らせる。大量の血液……甲斐が幼い頃に植えつけられたトラウマの、劣化された再現だった。
 本能から直接感情に訴える恐怖に耐えられなかった。甲斐は叫んだ。子供のように絶叫した。何語なのかも判断しかねる。拳を、靴を、床に叩きつけた。暴れまわった。死ぬかもしれない恐怖が年齢退行を強制した。息を使い果たしてもなお、甲斐は叫んだ。涙が流れた。涙を振り乱した。喉が嗚咽を要求する。それでも叫んだ。
 叫び続ける口に指が突っ込まれた。声がくぐもった。血の味がした。それを吐き出した。流れ込み続ける血液にむせた。それでも飲み込むまいと必死に抵抗した。血の霧が飛び散った。零れた唾液が血と混じって異様な斑を形成した。指を何度も舌で拒絶し、それでも割り込んでくる指に必死で噛みついた。鉄錆の生臭さと温さが、更に記憶から恐怖を引きずり出した。誰も助けてくれない。助けを呼んでも誰も来ない。幼い頃に崖から転落してたった一人、怪我をしたまま泣き叫んでいる。昔の事故に酷似しすぎたトラウマは、表の性格を蜻蛉の羽のように毟り取った。
 平古場もムキになって血を飲ませようとしている。逆ヴァンパイアだ。半面だけは異様に無表情で、もう片方は激痛に咽び泣く人間の顔で。身体の半分だけを乗り移らせた神人(カミンチュ)のように。
 どのくらい時間が経ったかわからない頃に、やっと平古場は指を抜き出した。血と唾液に濡れて、今も指先から雫が落ちている。だがそれは透明な唾液で、出血は止まっているようだった。甲斐は咳をしながら平古場を見上げた。
 瞬間、平古場の瞼が急に落ち、そのまま体勢が横に傾いでいった。知念の叫びがいやに遠く聞こえる。とさ、と控えめな音を立てて、平古場の身体が床に投げ出された。遅れた髪の一束が、閉じられた目にかかった。甲斐はこの時初めて、平古場の顔をまともに見た。月明かりに晒せば透き通るほどに、頬に色がない。涙の跡を辿る。睫はまだ涙を含み、蛍光灯に光っていた。整った顔立ちに伸ばされた金髪は、何処か外国人の風格を思わせる。微かに胸が上下するのが分からなければ、屍と呼んでも差し支えない。
 知念が平古場の肩の下に腕を通し、上体を持ち上げた。ぐったりと力の抜けた腕が垂れ下がる。知念は必死の形相で名前を連呼した。全く応答がない。平古場の身体を抱き締め、知念は涙混じりで、判別がつかないほどぐしゃぐしゃの声を訥々と呟いた。しゃっくりも混じった。言葉が懺悔だと気付くのに暫しの時間がかかった。白い床に次々と透明な染みが穿たれた。
 死んでいるのではないか、と思う。呆然としか考えられない意識の中、それだけははっきりとした推測が脳裏をよぎる。自分が血塗れなのも、田仁志に押さえつけられているのも、平古場がぶっ倒れた事も、知念が子供のように泣いているのも、何処か遠い場所で起こっているように奇妙な感覚がある。
 時計の秒針が世界を押し流していく。
 間があり、その間の時間の感覚はなかったが、不意に背中から重力が消失した。田仁志が横に立っても、すぐには状況を判断できなかった。甲斐は床に伏せたまま、田仁志を見上げていた。
「もう立ってぃいい」
 脳内で何度かその言葉を反芻してから、甲斐はのろのろと片膝をつき、立ち上がった。剥き出しの腕で口を拭った。流し込まれた血を全て吐いていた為か、怪我をしたようにべったりと腕が染まった。鉄錆の味が未だに生臭い。その血液を見て更に恐怖が増し……甲斐はほとんど無意識の状態で、その場から駆け出した。知念の咽び泣きを背に、スライドドアを力任せに横へ叩きつけ、緑の常夜灯が点々と配置された闇の廊下へと走り出た。涙が気道を塞いだ。脚が自由に動かなかった。それでも疾走した。何処へ行くのかも考えなかった。ただただ行く当てもなく逃げ出して、それで……
 ……それで、何をするつもりだったんだろう。
 上靴のまま外に出て、冷たい雨に打たれて、瞬く間に全身濡れ鼠になって、靴の中に水が入って、雨が痛くて、疲れて、走ろうとしても動けなくて。逃げ出した自分が急に惨めになって。罰のように冷たい雨に打たれながら、近くの木陰に入った。闇の所為で黒く見えるフェンスの奥には、医務室の明かりに照らされるコートがある。湖と化したコートは一面が波紋に覆われている。次から次へと波紋が現れては消え、消えては生まれ、ただ激しい音を立てて、雨は降る。
 倒れるように幹の根元にへたりこみ、無人のテニスコートを見回す。
 俺は一体何なんだろう。
 平古場は一体何なんだろう。
 疑わなかった日常は、何処に行ってしまったんだろう。

 雨は何も答えずに、ただただ激しく降るばかり。



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