傘の影がよぎる。甲斐は顔も上げずに、膝を抱き締める腕に力を込める。誰も信じないつもりだった。誰かに心を許したらその時点で負けだと悟っていた。もう誰一人、この島に信頼できる人はいない。信頼するつもりもない。皆が操られているのなら、自分は絶対にそうならない。傀儡になどなるものか。
 人影がしゃがむ。逃げはしない。どんな奴にだって立ち向かって、必ず敗北を味わわせてやる。甲斐裕次郎は絶対に負けない。負けない為に今まで頑張ってきた。武術でもテニスでも負けない。
「甲斐君」
 嫌味ったらしい声。木手だ。こいつも傀儡か。
 甲斐は闇の中から、ぎろり、と木手を見上げた。暗闇の影になって顔はよく見えない。眼鏡のフレームが微かに光る。刺客を差し向けてきたのだろう。それも面白い。返り討ちに遭わせてやる。
 飛び跳ねるように立ち上がり、木手の胸倉を掴み上げ、自分よりも高い位置に吊るし上げる。不思議なことに木手は抵抗すらしない。闇の中から鋭い目がこちらを覗いているだけだ。小柄な自分から出た力とは思えない力で、木手の足を地面から離す。傘が手から落ち、雨の中で杯になる。視線だけで射殺せる力で睨みつける。唇を引き結んだ。無表情なのが分かっていた。
「どうするんです?」
 唐突な問いがかけられる。甲斐は無言で胸倉を掴む手に力を込める。
「だからどうするんだと言っているんです」
 殴るのか。殺すのか。木手の目がそう言っている。殺し屋の渾名は伊達ではない。連続殺人鬼のような冷徹さで甲斐の瞳の奥を抉りこむ。
 互いに沈黙を守ったまま、数秒の時が過ぎる。
「殴りたいのなら殴りなさい。その時に、俺は君を殺します」
 嚥下もしない。
「平古場君が傷だらけになったのは君の所為です。君さえ従順であれば、平古場君はああまで傷つかなかった。恨みますよ。たかが血を飲むだけじゃないですか。それをどうしてそこまで拒否するんです?」
「……」
「そんなに嫌ならこの島を離れればいいじゃないですか。平古場君が怖いのなら、本島にでも台湾にでも逃げなさい。今の俺には、君を止める権利などないのですからね」
 答えなどしたくなかった。静かな憤怒が無表情の裏を焼き、拳が激しく震えながら硬度を増していく。爪が手の平の皮膚を破り、熱い痛みから流れる液体が落ちていった。
 木手が苛つき気味の溜息を吐く。
「いい加減にしなさい。いつまでもいつまでもこんな調子じゃ子供のままですよ。何の解決にもならない。それは君でも分かっている筈でしょう」
 子供だと言われても仕方がないのは分かっている。何も知らないから足掻くのだ。例えそれが自分の手に負えない事であろうと、子供は何でもやりたがる。蝶が飛べるなら自分も飛べる筈だと無意識に信じていた所為で崖から転げ落ちたのは何処のどいつだ。今の甲斐にだってそれが当てはまる。逃げられないのに敢えて抵抗しようとするのは、まさしく幼児染みた万能感の結晶ではないか。
 今の甲斐は無力だった。今の甲斐には、木手をぶん殴るだけしか出来ない。そしてそれが解決に繋がるとは決して考えられない。無意味だ。そして今、殴ろうと胸倉を掴みあげているのもまた、無意味という事に気付いた。木手の顔に拳を何発食らわせても、それがどうなるというのだ。木手の顔に青タンを残しても、果たして意味があるのだろうか。
 沸騰した筈の思考は、いつの間にか雨によって冷やされていたのかもしれない。
 身体を伝い落ちる雨の雫を感じながら、胸倉を掴んだ手をゆっくりと離した。木手がワイシャツの乱れを直して、少し咳き込む。甲斐は全くの無言で、また幹に背を預けた。大きく息を吸ったものの、泣きかけで震えていた。そのままずるずるとしゃがみこみ、さっきまでと同じように片膝を抱えた。泣くまいとありもしない唾を呑み込んだ。
 また理詰めで負けた。涙で目が熱かったが、頬にまでは流れてこなかった。
 木の葉の合い間から落ちる雨と共に、木手の声が頭上から降ってくる。
「確かに君一人では、この一件は解決出来ない種類でしょう。誰にも邪魔できない、時間と同じく流されるしかできない事です。こればかりは理詰めも無意味なんですがね。教えても無駄です。その上で訊きます」
 その瞬間、木手の置いた一瞬の間が、一生のように長く感じた。
「……君は、平古場君の明日を背負えますか?」
 雨が、降っていた。
 顔すらも上げられなかった。
 木手は嫌味な口調を改めて、真摯に訊ねた。
「俺の話を真剣に聴いて、信じてくれるなら、平古場君の明日を任せましょう。聴いても信じてくれないなら、それはそれで構いません。しかし俺は、何も知らない君に手段を与えて、どうにかしたいと思っています。だから、俺は君に、全てのあらましを伝えたい。……俺の我侭を、聴いてくれますか?」

 知りたいと思った。
 どうにかしたいと思った。
 だから肯いた。
 全てのことを知るために。

    *

 木手は、「少々長くなりますよ」と前置きして、小さく息を吸い込んだ。
「沖縄という土地はね、内地(日本)とは文化を異にした世界なんですよ。言葉が違えば衣服も違っていました。今は日本政府や企業進出のお陰で大分内地と同じになりましたがね。それでも根本的な部分は未だに違う所が残っているんですよ。かなり廃れましたが、例えば文化や思想……つまり、昔の沖縄人が作り上げたものです。その一つに死生観があります。人の魂は、死んだらいずれ"ニライカナイ"という浄土へ行くとされています。死人の魂はニライカナイへと還り、子供の魂はニライカナイから訪れる、といった感じですかね。ニライとは、"根源がある方"という意味があります。『ニ』は"根"、中心を表し、『ラ』は地理的空間を表す為の接続詞です。そして『イ』は方角を表す、これもまた接続詞です。南島に多く伝わる、カーゴ・カルト(積荷信仰)に似ていますね。しかしカーゴ・カルトは幸福のみを持ってくるという考え方であって、ニライカナイは禍福共々運んでくる場所とされています。病魔に対して『ニライカナイへ帰れ』という事もあります。その場所は村落によって様々な方角にあるとされており、かなりのばらつきがあります。一般的には海の彼方にあるとされていますが、海の底や空など、村落や考え方の違いによって星の数ほどあるのでしょうね。そして沖縄の人々の考え方では、ニライカナイの彼方より来る数多の神々……アニミズムを土台に、神々が持ってくる幸福を持続し、凶事を払って生きよう、というものです」
 木手が一通り"ニライカナイ"について語り終えると、ふと思いだしたように、アニミズムについての説明を始めた。
「アニミズムについて説明していませんでしたね。ここでもう一つ、信仰の話をしておきましょう。元来、魔術というのは物神崇拝(フェティシズム)でした。その考えが少し進むと、司祭など儀礼を統率する役割の人が現れました。こちらでいうユタ(カミンチュ)やノロがその典型的な例です。司祭はひとくくりに『シャーマン』と呼ばれます。シャーマンを中心に据えた信仰の形態をシャーマニズムと呼びます。そして最後に汎神論(アニミズム)に移りました。沖縄の考え方はシャーマニズムとアニミズムがあります。内地では言う八百万の神、というでしょう? 全てのものには魂や神が宿るという考え方です。つまり、神は物事の数だけいるんですよ。ミシゲーマジムンという妖怪を知っていますか? あれもアニミズムの結果として存在するんですよ。ミシゲーマジムンとは、長い年月を経てしゃもじに魂が宿った魔物です。九十九神の一種、全てに魂があるという信仰の証明です。
 さっき言ったように、魂はニライカナイへ行くと話しましたよね。ですがこの島の周辺海域は荒れやすいんです。だから魂が迷わぬように、カミが現れました。魂を導く神(・)、守(・)護するカミ。それは、導き神と呼ばれました。先に言っておきますが、導き神は他の島には存在しないんです。この島独特なんですよ。そしてニライカナイと導き神は、切っても切れない関係にあります。死人の魂と、幼子の魂が海を行くのに必要な橋渡しなんですよ。それがいなければ、今頃俺達はこの島に生きている必然性がなくなるでしょうね。
 そしてこの集落(シマ)には、その導き神と意思の伝達をする役目があります。それは、ユタ、カミンチュ、ノロなど、様々に呼ばれているシャーマンです。そしてそれらは女性しかいません。そして結婚もしない、処女ばかりです。神は穢れを嫌うのかもしれませんね。何しろ、その身体を神や死者の霊魂に貸して、意思の疎通を図るのですから。これを憑依型シャーマンと呼びます。恐山のイタコと同じですね。ですが憑依型シャーマンはとても危険で、霊魂が身体から離れない場合はそのまま廃人となります。
 ここまでくれば半分ぐらいは分かったと思いますが、はっきりさせましょう。平古場君もまた、憑依型シャーマンです。彼はその身の内、血に導き神を宿しています。ですが取り憑かれたのは平古場凛君本人ではありません。先祖代々、カミを身の内に宿しているんですよ。ただ、平古場君はとても特殊だったんです。だって、男でしょう? 彼は突然変異種でありながら、先天性のシャーマンなのですよ。どうやら平古場家では、体毛に色素がない人にカミが憑いているようです。ですが、突然変異は突然変異なりに宿命を背負いました。女性のユタは新たな命を生み育てるという、生命を増やす役目も担っている。妊娠したらユタではなくなります。対して平古場君は男性です。女になどなれません。命を生み育てるなどという事はできないんですよ。だから、導き神は違う宿命を与えました。それは、幼い導き神の依坐(よりまし)となり、依坐としてのみ生きろというさだめでした。導き神が成長するまでの蛹なのです。そして蛹は羽化したら用済みとなり、捨てられます。捨てられたら最後、平古場君の身体は存在意義を失い、消滅します」
 濡れ鼠になりながら、ただ雨の冷たさだけを感じている。フェンスに張った蜘蛛の巣が水滴を湛え、それでもなお空からの雨を受け続ける。いつか壊れるかもしれない危うい均衡を保ちながら、日常に張った巣は何事も無く雫に揺れている。女郎蜘蛛は既に何処かへ消えていた。
「……訊いていいか?」
 もう何ヶ月も喉を使っていないような気がしていた。
「"羽化"って、いつやが」
「明後日の日の出です」
 8月16日の朝。
「その日に全てが終わります。君はもう、血を飲まされる恐怖に耐える必要もなくなります。このシマの人々も、平古場君に味方して、君を追うなどはしません。今までと何ら変わりのない、普通に生きてきた筈の日常が戻ってきます。平古場君の消滅と引き換えにね」
 消滅は死だと、気付いたのはいつだろう。
 終わらないと信じていた日々が突然終わるのはどんな気持ちなんだろう。毎日毎日、"また明日"を交わしていたのに、その明日がなくなるなんて。考えるだけでも身震いがする。今ここにある身体が死体になるのを想像するのも恐怖なのに。
 一緒にテニスして、赤点とって、早乙女に怒鳴られて、馬鹿やって、木手にゴーヤー食わされそうになって、魚釣って、虫取り網を振り回して、漫才して、ボケて、突っ込まれて、滑って、白けて、買い食いして、アイス落として、奢ってもらって、奢り返して、喧嘩して、キレて、キレられて、絶交して、それでも翌日になると何ら変わりのない友人関係に戻っていて、謝って、謝り返されて、そのお詫びにテニスして、負けたり勝ったりして、今のボールはフォルトかどうかで揉めて、どうでもいいから次のサーブを打って、ラリーが続いて、日が暮れて、「また明日」と明日があると疑わない約束をして、家路について、それでもまた会えて。
 そんな日々が手の届かない場所に行ってしまうのだなんて。人の一人消えるのが、こんなにも恐ろしい事だなんて。
 今まで簡単に「死なさりんどぉー」とか「たたっくるさりんどぉー」って凄んでいた。死なんて、こんな身近にあるなんて思わなかった。老いた人々にやがて訪れる、静かな死ばかりを想像していた。数年前、大量に喀血して死んだ曽々祖父の時は、幼すぎて悲しみも湧かなかった。血を吐いたら死ぬのだと思っていた。血への恐怖心が一層増しただけだった。死については全く考えていなかった。それぐらい遠いものだと思っていた。
 それなのに、どうして平古場だけが死んでしまうのだろう。思い描いていた未来があったはずなのに、どうしてなのだろう。
「言っておきましょう。平古場君の中に棲む"カミ"の羽化は避けられません。彼だって生きたいと思う筈です。しかし、相手はカミです。抗うことは不可能といっていいでしょう。そして……その事を踏まえての頼みがあります」
 木手はここで初めて、真摯に甲斐と向き直った。
「……平古場君に、最後の思い出を作ってやって下さいませんか?」
 木手の手も、目の前にある手も、いつの間にか拳の形になっていた。
「このままでは平古場君には何も残りません。最後の最後まで苦しんだ記憶だけを残し、消滅するでしょう。俺の主観に過ぎませんが、それは惨めです。哀れです。このまま消滅させたくはありません。ですから……平古場君をこの島から連れ出して、精一杯の思い出を作ってやって下さい」
 俺には出来ない事だから。木手はそう呟いて、雨を溜めた傘を拾った。内側に溜まった水を簡単に払いながら肩に柄をつける。振り向きざまに微笑まれて、すぐにその姿は闇めがけて駆け出し、消えた。水溜りを蹴散らす足音を聞くともなしに聞きながら、甲斐は無為に思案に暮れていた。
 少し遠くに見える保健室の光が、コートの水溜りに長い光柱を落としている。次から次へと波紋が落ちて像が乱れるものの、それはついさっきよりも格段に弱くなっている。
 膝を抱えていた時間はそう長くはなかったが、その間にも雨はますます弱まり、やがて晴れ間が訪れた。
 終わらない夏。切れ間に覗くのは満天の星である。



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