木手に全てを打ち明けられた後、甲斐はそのまま保健室へと向かっていた。全身ずぶ濡れで、歩こうとも歩かずとも髪の先やら服の端から水滴が落ちている。それでも仕方がないと思っていた。とりあえず荷物を持っていかないと明日の用意も出来やしない。
 保健室の扉をそっと横に滑らせると、まず先にうたた寝をする知念の姿が目に入った。パイプ椅子に座って、その状態のままこっくりこっくりと舟を漕いでいる。部活で激しく動いた後だし、あんな事もあったから眠るのも必然だろう。今は寝かせてやりたかった。
 部屋の隅で扇風機が首を回している。おんぼろすぎていつ壊れるか心配になる。プロペラが回る音が静かに保健室を満たしている。時たま知念の寝息が聞こえてくるばかりだ。
 扉を閉め、中に入る。平古場はソファに寝かされていて、手首に包帯が巻かれた左腕には点滴のチューブが繋がっていた。その真ん中あたりに見える透明のカプセルの中で、錆びたように赤い液体が一滴ずつ落ちている。鉄剤のようだ。増血剤なのだろう。あれを施したのは知念だろうかと想像する。いくら考えても答えはでないだろうが、何も考えないよりはましだった。
 二人を起こさないように足音を忍ばせる。ここに荷物がなければ、その他の当ては部室しかない。それでも運良くカーテンの下から覗く自分のテニスバッグを見つけ出し、取っ手を引き上げた。背中に担いだ。早々にここを立ち去るつもりだったが、ふと足を止めた。
「裕次郎……?」
 蜘蛛の巣が張ったような声帯を無理矢理動かしたような声が背中にかけられた。振り向けば平古場が無事な右腕をだらんと下げ、薄目で甲斐に視線を向けていた。体調が思わしくないのだろう。それでも顔色は、昏倒した時よりも僅かにだが良くなっていた。
 甲斐はそのままドアを水平に滑らせ、一歩を踏み出した。
「待てって。話し、聴けぇって」
 衣擦れの音がして、錆だらけの点滴台が軋んで、平古場が動いたのを背中で感じる。
「謝るから。だぁ、謝るって。……ごめん。何つーか、真剣に、本当、マジで、えっと……」
 平古場の言葉は次の句が継ぎ足されるたびに先細りとなり、やがては言葉の意味も取れないほどに小さくなった。普段からは考えられない内気さが漏出している。今ここにいる平古場にカミが憑いているのか否かも判断しかねた。
 何も聞きたくないのが本音だった。木手に教えられた知識が平古場という同級生に強烈なイメージを与え、遠慮が平古場を拒絶する。しかし木手の言葉も同時に蘇って、何をすべきか判断がつかなくなった。"いつまで経っても子供のまま"。本音と建前を使い分けるのが大人だとしたら、今の甲斐はどちらなのだろう。
 ここに留まって平古場の話を聴く、冷静な大人になるべきか。全てを、もしくは平古場の苦しみを知る為に居残るべきか。
 今すぐ逃げて誰の言葉にも耳を貸さない子供であるべきか。全てを、もしくは平古場の明日を背負う為の約束を契るべきか。
 扇風機に負ける音量で平古場の懺悔が繰り返されている。全く聴いていない甲斐の心中では葛藤と煩悶が渦巻く。
 結論がまとまらない内に、甲斐は感情に任せてバッグを保健室の床に置いた。平古場が腰掛けるソファの前に仁王立ちした。直後左手で、びしっ、と平古場に指を突きつける。当然の反応、平古場の瞠目を拝む。赤くもない正常な虹彩の真ん中へ、甲斐はありったけの真剣さを向ける。
 扇風機が支配する静寂へ、保健室が沈む。思案に伴う暫しの沈黙の後、甲斐はようやく口を開いた。
「明日の朝7時、そこの港に遊べる金持って集合。同伴者は認めねえ。いいな?」
 有無を言わせるつもりはない。甲斐は颯爽と身を翻して保健室から出た。平古場が引き止める声が届いているが、それはあくまでも「止めようとする声」であって、「止めさせる声」ではない。本気で止めるつもりがあるならば、追いかけてでも肩を掴む筈だ。本気でないなら歩みを止めるつもりはない。
 夜闇の下駄箱が壁のように林立している。手探りで自分のスペースを見つけ、ぐしょ濡れの上靴をロッカーに突っ込んだ。靴下まで濡れていたから脱いで、同じく上履きの横に押し入れた。裸足がすのこをぺたぺたと踏む。擦り切れた木の感触が、水分を含んで柔らかくなった足の裏には心地よい。そして、明日那覇の地を踏む予定の靴に足を、はめた。
 やはり平古場には、止める気持ちはなかったらしい。追跡者なしに、さして広くもないくせにテニスコートばかりが三面もある敷地まで出られた。
 一面が鏡のようになったグラウンドでは、数万光年先にある星の営みが連綿と受け継がれている。

 終わらせない。
 平古場の夏は、俺が守る。
 最後まで、平古場と友達でいる。
 それが、友達になった時の、最初の契りだから。


   *


 絶望の夜が明け、朝が来た。
 不思議にすっきりと目が覚めていて、顔まで引き上げていた夏掛けを横にどかした。電気の通っていない環状蛍光灯が外の薄明を映し、白い線を光らせている。そのままむっくりと起き上がると、午前6時24分。当分電池交換をしておらず、針の遅れた時計に13分を継ぎ足した結果だ。
 早起きの蝉がさんざめく。窓を開けて眠っていた所為で空気がなんとなく湿気っていた。
 瞬間枕元に置いてあった時計が、流行曲のメロディを流しながら震え始めた。覚めきった目で携帯を見遣り、起き抜けの手で取った。ボタンを押して、改めて時間を確認する。ゴシック体の数字が、先刻より二分遅い時刻を表示している。いつの間に時間が経っていたのかを漠然と考えていたが、また時計の時刻が遅れていたと解釈した。欠伸をして、携帯を尻ポケットに入れた。
 布団から立ち上がり、習慣のように畳みながら、船の時刻を思い出していた。
 比嘉島からの船は、朝の5時40分、6時43分、7時23分と、9時36分の計4本が出る。本島までは30分以上はかかり、相応の値段が必要になる。船賃だけでとりあえず1000円は必要と考えると、一日遊びまわるには少々余裕がない。お金はあるだけいいだろう。
 昨日は疲れて、シャワーを浴びたらすぐに寝てしまった。今更用意するのは小学生のやる事だ。中学三年生がするのは何だが、小学生から上がって2年と少しと考えれば精神的な負担は軽くなったように思える。それに、甲斐は未成年であって、大人ではない。間違っても早乙女のような大人にはなりたくなかった。早乙女の存在で思い出した。今日は部活がある。木手にメールを送っておいたほうがいい。
 甲斐は一度閉めた携帯を開け、「今日の部活休む。平古場も。知念には言うな」とだけ打った。送信した時のメッセージ画面を飛ばして、携帯を後ろのポケットに仕舞った。
 吸っていた息を吐く。五臓から空気が抜けきるまで。それで心の中に残っていた寝起き特有のわだかまりが、一挙に吐き出されたような気がした。
「……っし!」
 両手の平で自分にビンタを食らわすと、周囲の景色にかかっていた靄が晴れた。湿気た空気に涼風を感じ取り、甲斐は覚醒した。
 片紐だけのリュックサックに財布、携帯、制汗スプレー、忘れる所だったがぎりぎりでタオルを放りこんだ。最低限の物だけでいい。
 部屋を出て、今度は洗面所に向かった。やる事は一つだけだ。廊下の奥にある洗面所で顔に水をぶっかけた。
 朝食など摂っている暇はない。そんな時間も惜しいのだ。こんな事をやっている間に、平古場に少しでも多くの想い出を作ってやる為に。時間はいくらあっても足りない。それならば自分の時間を削るほかないだろう。
 自転車の鍵をポケットに入れ、甲斐は朝の道に走り出た。長年修理していない自転車で、ブレーキを掛ける度に首を絞められた猿のような音を上げるから、少々心配ではある。軽いペダルを漕ぎながら、太陽が刻々と上昇していく空気を肌で感じ取る。朝も早いのに太陽光はセルフサービスで、大気に絶え間なく熱を加えていくのだ。港への道を進んで景色が変わる度、服内の湿度が上がり、リュックを背負った背中にTシャツが引っ付く。蝉の少年合唱団が母なる太陽と暗黙の同盟を結んでいる被害妄想が浮かんでくる。額に浮かぶ汗をリストバンドで拭い拭い、甲斐は港へと近づいていった。
 緑溢れる港を臨む最後の下り坂を、重力に任せて駆け下りた。靡く髪が耳を打ち、風になれば涼しい空気が首筋を撫でていく。徐々に視点が低くなる。漁師の釣り船があらかた消えた港には、元気な老人三人組が釣り糸を垂らしてうたた寝を始めている。白と言うには色褪せたコンクリートの港は固められて久しいと思えた。漁港はコの字型をしており、東には船着場がある。幸いにして平古場の姿は見えない。それどころか老人以外、人の姿さえ見られない。
 お盆期間という事で、誰一人本島へは行かないのだ。行くとしても既に帰郷しているし、今日は比嘉島最大の催しもの、エイサーがある。エイサーとは旧盆の最終日に行われる、盆踊りのようなものだ。ウンケー(お迎え)の日に訪れた祖霊を、ウークイ(お送り)の日に送り出す踊りである。本場のエイサーを見に、観光客がごまんと押しかけるので、本島行きの船よりも比嘉島行きの特別便の方が格段に多いのだ。比嘉島の住人は、お盆期間は仕事でも他の島には渡らない。
 自転車を茂みに停める。周囲に人はほとんどいない。
 おんぼろの桟橋の先に行き、リュックを下ろして胡坐を掻いた。携帯電話を取り出し、電話をかける。もちろん平古場宛だ。ボタンを操作し、耳に当てるとメロディが流れ出す。長いコール音の後に、微かなノイズが混じった。直後、声が届く。
『裕次郎やが?』
「凛、おはよううきてぃー
ああ、おはようやーん、うきてぃー
 元気そうで安心した。簡単な挨拶を交わし合い、「なま何処やが?」と簡潔に訪ねる。対して返答はあっさりとしたものであり、また待機要請はなかった。
 今さっき甲斐が下りてきた坂に視線を移すと、丁度平古場らしき人物が自転車に乗って滑り降りてくる所であった。甲斐は通話を切り、 
「こっちやっしー!」
 と左手を大きく振った。平古場の自転車が更にスピードを上げた。
 平古場が近くの茂みに自転車を停めると、甲斐がいる桟橋の方へ歩いてきた。黄色い長袖パーカーの中に黒いシャツを着込んでおり、更に長ズボンを穿いている。さぞかし暑かろう。長髪が原因かもしれないが、軽い色なのでそれほど暑苦しくはない。不良っぽいが実際そうだ。むしろどんな服装をしていても見ていて暑いのは田仁志の方だ。平古場は涼しい顔で迷彩のショルダーバッグを揺らしている。
 桟橋の先まで来させてから、そろそろ来るぞと船を待った。無言の沈黙が二人の間に流れるが、蝉に助けられた。

 想定範囲内の遅れで、船がやってきた。人懐っこい顔をした女性乗務員から券を買い、そう大きくもない船に乗り込んだ。古い船であちこちが錆びで赤くなっている。座席のシートは一部擦り切れて、変色した綿が覗いていた。日焼けしたカーテンがいくつかだけ窓にかけられたままになっている。席ではぽつぽつと人が眠かけをしている程度で、比較的空いている。窓際にある一番見晴らしが良い場所に二人は座った。
 早速平古場が窓を開けた。爽やかな海風が鼻腔をくすぐった。そのまま平古場は盛大な欠伸をし、窓枠に腕を乗せ、頬杖を突いて瞳を閉じた。
 船内にアナウンスが流れる。那覇行きの船だ。 
 足元が揺れる感覚を残し、周囲の景色がゆっくりと右へ流れ始めた。どうせ雲や島がなければ場所の特定など無意味なのだ。一片の雲も浮かばぬ晴天が、限りなく透明な海との境を明確にしている。
 あの水平線の向こうには何があるのだろう。
 答えのない問いで真剣に悩めるのは、甲斐が「子供わらび」と評される所以だった。
 平古場がうたた寝を始めた頃、そのポケットの中にある携帯電話が音を立てて震え始めた。起こさないようにそっと抜き取った。誰だろうと当たり前の疑念を抱き、発光するプライベート・ウィンドウを確認する。
 知念寛。
 何となく出るのが憚られて、甲斐は通話ボタンを押さなかった。不在着信のアイコンを無視して電源を切った。これで時刻も関係なくなった。

 後は何にも邪魔されず、今日という一日を余さず遊び尽くすだけ。


 那覇に着いたのは7時58分。
 これから遊ぶ為だけの一日を始める。
 今日が終わらない内に。


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