到着して一番に気付いたのは街の匂いだった。嗅覚で感じる匂いとはまた違う。敢えて表現するならば、人々の活気の強さと言えた。始終香る海の匂いは同じだが、比嘉島の港よりも微かに薄く漂っている。カメラを提げた観光客が、たった今向かいの港に着いた船の口から、怒涛のように流れ出る。誰も彼もが笑顔か好奇心か、それに類似する朗らかな色を浮かべて周囲に首を巡らせていた。
 桟橋の中ほどまで歩いたとき、平古場が両腕を空に伸ばし、大きく伸びをした。そして脱力。楽しそうな観光客に釣られて、平古場の頬も自然に緩んでいる。
「ここに来るのも久しぶりさぁ」
 甲斐は「まあな」と曖昧な返事をする。頭の後ろで腕を組んで平古場が歩き始め、甲斐もその横に並んだ。
「永四郎に連れられて、ラケット買いに来させられた時以来だっけか」
「違ぇよ、流石にそこまで本島に来てないわけねーらん。最後に来たのは……あい? いつだろ」
 詳しい上陸記録を忘れて、甲斐は首を傾げた。背中に衝撃が来て、平古場が、
「忘れてんじゃねぇよ、ふらー。もう地区大会とか県大会とか忘れたのかよ?」
「忘れてねーらん。あくまでも部活以外でやっしぇー。去年だったっけか? 来ただろ、部活抜け出してさぁ」
 一度だが、甲斐は平古場と田仁志を連れて、本島に来た覚えがある。その日は勿論部活があり、ずる休みをしたのだ。本当は風邪が伝染したと言い含めていたが、帰りに海が荒れた。船で翌々日まで帰れなかった事でずるが発覚したのだ。3人仲良くゴーヤーの刑に処されたのは言うまでもない。
 桟橋の古びた木目から降りて、靴の裏がコンクリートを踏む。
「ああ、思い出した。永四郎に、遊びに行きてえって言っても、すぐあれだ。眼鏡をキランって光らせてさ」
 甲斐は眼鏡のブリッヂを上げるようなしぐさをして、わざと声を低くする。
「『ゴーヤー食わすよ』?」
「うっわ、似てねえありえねえ!」
 平古場はからからと爽快に笑い、甲斐の背中をばんばんと叩いた。
 全くいつもの平古場だった。
 手首を切り刻むような真似はしない、快活に笑って悩みなど何もなさそうな平古場凛。甲斐の記憶の中にある平古場の、あるべき姿だった。
「それにさ、永四郎の眼鏡の上げ方ってそうじゃねえさぁ」
 突然間違いを指摘されて、甲斐は記憶を辿った。しかし眼鏡を上げる動作は、漫画やアニメで見るように、レンズとレンズを繋ぐブリッジを押し上げる以外思いつかない。クラスに於ける眼鏡人口が少ないのも影響して、脳裏には何のイメージも思いつかない。どちらかといえば、ドラマに出てくる美人看護師がカルテに視線を走らせながらブリッジを押し上げるイメージばかりが浮かぶ。
 結局考え付かなくて、平古場の顔を見上げながら尋ねた。
「んじゃどんなんやが」
「手ぃの甲で、こうやって……」
 平古場は右手を左目の辺りに持っていき、手の甲でレンズの下にあたる所を押し上げた。甲斐は「ああ!」と指を差した。これが木手の上げ方だ。
「な? こっちの方が永四郎らしいだろ?」
 勝ち誇ったような顔をして、平古場がもう一度、眼鏡を上げる振りをする。もちろん「ゴーヤー食わすよ」のおまけ付きだ。しかしせっかくの真似も表情ばかりは似させる事が出来ず、木手の顔には滅多に浮かばないような、楽しげな笑みをその端正な顔に湛えている。そしてそれこそが平古場であった。
 瞬間、狙いすましたようなあタイミングで流行曲が電気的なノイズを織り交ぜながら、甲斐のポケットの中で震え始めた。彼女か、と平古場が茶化すが、プライベート・ウィンドウには、メールのアイコンと共に「木手永四郎」と表示されている。もし彼女だったら冗談じゃない。見る間に女をさらっていくあの顔の時点で絶交確定だ。木手に彼女を取られた経験は一度や二度じゃない。片手で開き、画面上のアイコンにカーソルを合わせて決定ボタンを押す。

 20xx/8/15 08:02
 From 木手永四郎
 Sub 無題
 俺が知念君を引き止めておく。
 心置きなく遊んできなさい。
 楽しんでこないとゴーヤー喰わすよ。

 最後の一文に、思わず笑いが込み上げてきた。
 もし木手が女だとしても、そんなサディスティックな彼女はいらない。むしろ木手だという時点で嫌だ。つか、気持ち悪い。一瞬で女装している姿を想像し、それが女物であるという時点で抑えきれない笑いが口唇から飛び出した。
 腹を抱えて笑い出すと、どさくさに紛れて平古場に携帯を奪われかけ、揉み合いになった。甲斐はその場にしゃがみ込んで、未だ笑いにひくつく腹へ携帯を抱え込んだ。すかさず平古場が手首を掴み、強く引っ張られた。大笑いに弛緩する筋肉は抵抗も弱まる。僅かに空いた空間に手を突っ込まれ、携帯の外装をかりかりと引っ掻き始めた。
「壊れる壊れる、壊れるからやめれやめれ、やーめーれっ」
「じゃあ見せれ!」
「……死んでもやだー!」
 そんなやりとりが数十秒に亘って交わされた。平古場はついに諦めて「わぁーった、わぁーった」と、長い髪をかきあげた。
 その髪が太陽の光を受け、さらりと輝く。ろくに手入れもしていないから多少ぼさぼさではあるが、太陽は有り余る光で繊維の一本一本までを煌かせた。髪の綺麗さは生気の象徴。そう思うのに充分な光の束が海風に靡いた。
 こいつが明日の朝にはもういないんだと考えると、足を踏み外したように思考がどぶに沈んだ。
 突然心配そうな声色に変わった平古場の声が背中越しにかけられる。
「……どした?」
「何でも」
 生返事。
 今、沈んだ考えを持つべきではないのに、どうして不意に甦ってくるのだろう。この考えは、最低でも今日の間は封印しておかねばならない種類なのに。
 平古場の声がやけに遠く聞こえる。肩を叩かれる。揺らされて、やっと現実感が戻ってきた。思考の世界から帰ってくると同時に、甲斐の中には平古場についての現実感がぶり返した。目の前で首を傾げている平古場が消えると言う事を改めて現実のものとして認識してしまった。本人が知っているのかどうかは分からない。知っているような素振りは全く見せていない。しかし、知っていてもおかしくなく、それについての落胆も諦めも、それに纏わる数多の諦観も、今の平古場からは微塵も感じられないのだ。知っているのかもしれないし、知らないのかもしれない。いつもであれば全ては預かり知らぬ所だが、今の甲斐は平古場と全く無関係であっていいはずではないのだ。
「なあ」
 もう一度生返事をする。平古場が子供のように問う。
「わんの顔に何かついてたりするのかよ」
「別に」
「見てねえだろー」
「そんなわけ……」
 一瞬の硬直。
 指で下瞼の裏を露出させた目、横にぐいと引き伸ばされた頬。舌苔で僅かに白さを被った舌をべろりと出し、あまつさえれろれろと上下に動かす平古場のファニーフェイス。
 これで笑わない奴にはノーベル賞くれてやる。
「……ぶあっはっはっ!」
 激しく噴出すと周りの観光客が変な顔をしたが、それを見ていられる状況になかった。もしこの場所が自分の部屋だったらのた打ち回っていたに違いない。さっきより笑い過ぎて喉がひーひー悲鳴を上げた。目尻に涙が浮かんだ。腹筋がひくひく痙攣して、呼吸困難になった。でも笑って呼吸困難になるなら死んでもいいと思えた。
「ほーら」
 勝ち誇ったように平古場が笑う。これには負けたよ正直。悔しさより何よりも、今は生理的に笑う機能を鎮めねばならなかった。
 笑いがなかなか落ち着かない内に、背中から平古場の声がかけられた。
「さっき何落ち込んでたんだよ、ふらーやー。笑ってる方が楽しいに決まってるだろ。何だって楽しい方が良いだろ。だから、さぁ。今日は思いっきり楽しんで過ごそうぜ?」
 今日は、と、思いっきり、の言葉が強調されている事に気付かざるを得なかった。
「な!」
 念押しのように肩を叩かれて、いつの間にか、腹から笑いの痙攣が去っていた事を覚えた。
 最後の日ならば、楽しんで過ごすのが平古場なりの、甲斐なりの、そして木手なりの考えだった。平古場の身を考える余り平古場から離れたがらない知念を引き止めてくれる役を木手が担ってくれたのがありがたい。その貴重な時間を潰すわけにはいかなかった。せっかく皆が作ってくれた時間なのだから。
 想い出を残す為の時間なのだから。無駄になんてするものか。
「ああ!」
 勢いよく返事をした。その言葉はやがて雑踏に揉み消される。しかしその言葉を守る。絶対に守ってみせる。
 誓ってやる。

 街の何処かで、エイサーの掛け声が響き渡っていた。


   *


 誓いの後。
 街並みを放浪していると、商店街の一角に一軒のゲームセンターがあった。派手なアクセサリーを着けた若い男女がそこそこ出入りしていて、活気があった。時折英語混じりの野太い歓声上がるのは、米軍基地が近くにあると言えば納得されるだろう。ゲームなんて久しぶりだ。頭上を仰いで太陽のご機嫌を伺うが、どうやら羽振りがいいらしい。
「どうする?」
 甲斐が問い掛けた瞬間、平古場の背中が丁度入り口の先へ消えようとしていた。勿論横には人一人分の空間があるばかりで、同時にゴス調のミニスカートを穿いた若い女が甲斐の肩にぶつかってきて、謝りもせずにゲームセンターの中に消えて行った。
 入るしかない。いや、女を追うのじゃなくて、だ。
 すると、中にはちょっとした人垣があった。
 店内はさほど広くもなく、かといって小さいとは言えない。その割りに台数の多い遊び道具たちは、場所があればそこに身を寄せ合って、遊んでくれる人に呼びかけていた。派手なライトを点滅させたり、デモムービーを流したりして、楽しげに客引きをしている。
 小さめの広場として設計されたのか、中央には人が集える。ただでさえ音楽が飛び交っており、中の様子はよく分からない。
 平古場が興味を示し、人の頭を越そうとして数回ほど跳び上がった。こういうときこそ知念の身長が羨ましいとつくづく思う。いくら牛乳を飲んでも背が伸びなかった記憶は今も新しい。知念が今いたら、と考えに耽ろうと視線を落とした時、何故か不意に知念の左手に巻かれた白い布が鮮明に思い出された。
 甲斐はその景色を振り払うように周囲に視線を巡らせ、次に使えそうなゲーム機と財布の中身を天秤にかけた。
 一ブロックほど右にある太鼓のゲーム画面にはデモムービーと共に、歴代高得点者のランキングが流れている。ポケットに手を突っ込み、中の小銭を漁りながら歩き出そうと踏み出した。淵がギザギザの百円玉は、と……
「っと、何処行くんやが」
 一歩も踏み出す暇もなく、肩を掴まれてバランスを崩した。何するんだ、と文句を遮り、平古場が視線を人垣に向ける。
「あっちの人垣さ、見れ。真ん中でやってんの、どうやらダンスみたいやし」
「ダンレボ? それが?」
 平古場の目付きが、途端に挑戦的な色に変わった。口の端がニヤリ、と持ち上がる。血沸き肉躍る。そんな心中が口元から察する事が出来た。
「でもさぁ、やぁー、体調は?」
「そんなの関係ないさぁ」
 瞬間人垣が、爆発したような大歓声を上げた。割って入る英語訛の雄叫びが、観衆を更に沸き立たせ、決まってもいない次の挑戦者に怖気を振るわせる。声質、言語から見て、基地に駐屯する米兵だと推察した。
 平古場は肩から手を離し、その手を人垣に割り込ませて進んでいった。こういうときは止めても無駄だ、と甲斐は溜息をついた。元気になるとすぐにこうなる。船の中で見せた具合の悪さは嘘ではないかと怪しんだが、この位置からでは判断できない。中の様子が窺えるのは、人垣を越えて届いてくる怒鳴り声だ。
 割れ鐘のような「ブリング・イット・オン(かかってこい)!」の雄叫びに続いて、負けじと平古場も同じ言葉で吠えた。恐らく意味は分かっていまい。
 ざわつきが残る沈黙の中、人々の空気が一度に興奮へと上り詰める。
 ミュージック……スタート。
 録音されたディスクジョッキーが、試合の始まりを告げた。


 たった四百円でたっぷりとダンスを堪能したであろう。平古場は興奮冷めやらぬ人の壁から抜け出すなり、近くのメダルゲームの椅子に、倒れるように腰を下ろした。髪が乱れ、息が荒い。肩で大きく息をして、ぜろぜろと変な呼吸になっていた。無理はないだろう。一番運動量が多く、難易度が高い音楽で三十分もコンティニューを繰り返したからだ。メダルを増やす目的のゲーム機が銀貨の乱雑に投げ出された小さな棚を前後に動かし、遊べと無言でせっついている。
 そんなゲーム機の努力を無視し、平古場は目を閉じて額に右手をやり、前髪に指を埋めている。
「……大丈夫か?」
 陳腐極まりない言葉しかかけられない。しかし平古場は聞こえているのかも分からず、ただ変な呼吸を直そうとしているばかりだった。納得出来る様な理由が見つかって、いたたまれなくなって視線を逸らした。増血剤の投与があったからといって、完全に体調が回復するわけではないのだ。昨日の傷はまだ痛むだろうし、貧血もひどいだろう。自分みたいにこいつも馬鹿だから、子供だから、後先考えずにダンスゲームという疲れるゲームに飛び込んで対決をするのだ。
 腰に手を当て、周囲に視線を巡らせた。少し遠くに、休憩用としか思えないスペースを見つけた。円卓が三つと、自販機が二台ある。自販機の片方はジュースで、隣がアイスだ。「あっちの方行くか?」と訊ねたが、俯く平古場に反応はない。
 甲斐はそっと平古場の横を離れ、自販機に向かった。
 二枚のコインを入れて、押しボタンが一斉に点灯する。甲斐の指はチョコミントへと伸びていたが、ボタンの中ほどでは、上から潰されたようにひしゃげた「売り切れ」という文字が赤く光っているだけだ。舌打ちし、違うアイスを、と指を迷わせた。次のアイスを、で赤い文字に止められ、次のでもまた、その隣も赤い。よく見れば好きな味はほとんどがあの赤い文字に占領されていた。どれだけ怠惰な店員なのだろう。
 釣り銭のレバーを下げて、さっき入れた百十円を隣にあるジュースの自販機に入れた。さらに十円玉を差し込んで、コーラのボタンを押した。数秒の間の後、音を立てて缶が取り出し口の内側へ落ちた。続け様に、今度も同じコーラを買う。二本を一度に取り出して、片方をポケットに押し込んだ。
 平古場の元へ戻る。予想外な事に、平古場の隣には米兵が立っていた。よく見ればさっき、ダンス対決をした兵士だった。田仁志とは違った意味で体格の良い男だ。どこかしら週に一度だけ船でやってくるALTの米国人に似ていた。迷彩服がゲームセンターの絨毯の色に溶け込んでおり、一瞬足が見えずに幽霊かと錯覚した。その兵士は片膝を折って平古場の背中に手を当てていた。それでも平古場より頭一つ分大きいのが気に障る。
 甲斐は歩む速度を速めて平古場の元へ向かった。何をするつもりかは分からないが、あの米国兵士はあくまでも知らない人だ。
 するとその大柄な兵士が甲斐に気付き、金色の髭で覆われた顔を、ぱっと明るくさせた。そして甲斐に向かって、いっぱいに両手を広げた。アメリカ式の挨拶だろうか、それでも抱きつきはされたくない。悟られないように縮地法で避けると、まだぼーっとしている平古場の手にコーラを握らせた。そこで平古場がゆっくりと顔を上げる。
「あい? ……うきてぃー」
 まだ眠気の為か、焦点が合っていない。
「遅えよ、ふらー」
 甲斐はそこで、自分のコーラのプルトップを上げた。
 すると背後で太った米兵が英語で話しかけてきた。
「Oh! You are kind! Is she sick?」
 木手がいたら訳してくれただろう。しかし、どんなスポンジ頭でも「she」という単語は理解できるようだった。
 甲斐はコーラを噴き出し、平古場が身を乗り出して真っ先に叫んだ。
「た……たーがうぃなぐやが(誰が女だ)!」
 激しく咽ながら、甲斐はそのままげらげらと笑い出した。腹が痛くなってしゃがみ込んで、呼吸にひーひー言った。平古場が「笑うなってーの!」といきなり元気になって背中を叩いたが、それでも笑いまくった。
 平古場が女顔だからといって、こうまで間違われるのは久しぶりだった。甲斐の記憶の中で平古場が最初に女だと間違われたのは小学一年生の入学式で、頭に太陽を背負いかけたバーコード校長が、あのテンプレートな声で「一年一組、平古場凛ちゃん」と淀みなく点呼したのが最初だ。あの時も「誰が女だ」と、さっきと全く同じ台詞を叫んだ。それで平古場の存在を知ったようなものだ。中学校まで進んで、木手の誘いでテニス部に入ったときも、早乙女にも「どうして男子テニス部でマネージャーがテニスしているんだ」と真顔で間違われていた。それがコンプレックスとなって更に男物の服を着るようになったようだ。平古場の家は女が多いから、手ごろな服が押し並べて女々しかったのだろう。
 甲斐は散々笑い転げた後に、ひくひくと堪えながらもようやく立ち上がった。瞬間、平古場に足を蹴られて前のめりに転倒し、コーラの缶が宙を舞う。その様子を見て米兵が豪傑笑いをし、せりでた腹を太鼓のように叩いた。
 ちゃんと勉強していれば米兵達の言葉も理解できただろう。後悔はもう遅い。英語が飛び交い、甲斐の勉強面で足りない脳味噌はフル回転を要求されたのにも関わらず、英語は単なる音声の羅列として脳内処理された。リスニングテストをちゃんと受けていれば良かった。一通り兵士は猛スピードで英語を喋り終えると、「Sorry」と話しかけて平古場の背に手をやった。平古場は睨みつけたが、兵士の屈強な愛嬌とでもいうものか、人懐こい笑顔にほだされて視線を床に戻した。
 すると兵士は「OK,OK」と、何がOKなのかわからないままにOKサインを出した。その姿がさっきの自販機の場所へ向かった。
 嵐から取り残されて、甲斐は呆然と訊ねた。
「あにひゃー、たーやが?」
「さぁ? っつーか、さっきダンス対決したデブじゃねえ?」
「ああ、それはわかってる」
 またしても会話が頓挫する。平古場は言葉を続ける気力もなく、深呼吸をして後ろのゲーム機に背中を預けた。目を瞑るその姿がいやに網膜へ焼きつく。大丈夫なのかという心配はもう何度もしていたが、今度はそれに、自分が平古場を止めなかったから今平古場の体調が悪化している事実に引き摺られて罪悪感が湧いてくる。しかし何度もコンティニューしたのは平古場ではないか。自業自得と言うべきだ。
 沈黙が過ぎ、甲斐の興味が他のゲーム機に向かおうとしていたその刹那、またさっきの米兵が割り込んだ。
「Hey,boys」
 米兵はドアも入りそうな腹ポケットから二本の缶ジュースを抜き出すと、片方を平古場の首筋に、もう片方を甲斐の手のひらに、それぞれぐっと押し付けた。平古場が「うわっ!」と叫んで飛び退く姿がいやに子供染みて見え、自然に笑いが込み上げてきた。こらえるにこらえきれずに、身体ごと視線を逸らして、腹の底から大笑いした。
「笑うなって!」
 平古場が首に手を当てて必死に一喝するが、笑いを止められるのは時間だけということを知らないのだ。甲斐は「最高!」と、ひくつく腹を押さえた。米兵の豪快な笑い声がゲームセンターの喧騒より大きく聞こえた。缶を手に不満そうな表情の平古場は、もう怒る気力もないのか、何も言わずただ怒りのオーラを発している。
 米兵は甲斐の笑いが収まると、座ったままの平古場の肩と、甲斐の肩に腕を回し、「We are トモダチ」と下手な日本語を交えた英語で甲斐らに笑いかけた。
 その後、米兵は向日葵の笑顔を残して、台風のように去った。
「……一体何だったんだ、あにひゃー」
 知るわけがなかった。
 ただ確実なのは、手の平に残る缶ジュースの汗だけだった。


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