「くそっ……」
 知念は一人唇を噛み締める。
 携帯電話を尻ポケットに押し込み、平古場の姉に頭を下げて玄関から飛び出したのは、ほんの数秒前。

  *

「えっと、次、何処行くばぁ?」
 ゲームセンターから出ると同時に甲斐は携帯電話を取り出して時刻を確認した。10時半を少し過ぎた辺りだ。まだまだ正午には時間がある証拠に、太陽光はまだ斜に照りつけている。平古場はパーカーを全開にし、中に着た黒いTシャツをぱたぱた煽いだ。甲斐も背中にTシャツが張り付いている感触を不快に思い、リュックの位置をずらした。路上駐車してある車のボンネットからうっすらと陽炎が見えるという事実を黙殺し、甲斐はロードマップを開く。
 那覇の中心街から少し外れた所まで、賑々しい場所をわざと選んで歩いてきた。自転車がやけに多い裏道は、テレビとかでよく見る東京の下町のような風情がある。しかし決定的に違うのが看板に書かれた文字の数々だった。一言で言えば、「琉球」やら「沖縄ガラス」やら「紅型」等の、観光客目当てだという事がありありと分かる看板群が所狭しと自己主張している。鮮やかに彩色された看板にはシーサーやチャンプルーの絵が垣間見えるのが沖縄らしいと言えば沖縄らしいと言えた。
 しかし甲斐が求めるような、ゲームやファーストフードの施設はここにはない。コンビニがあれば腹の足しにはなるのだが、平古場の体力を見ると遠出が出来ないのは明らかだった。強がって甲斐の先を歩こうとはしているが、唇の色が青くなるのを通り越して白くなっている。貧血気味なのにダンスゲームをして体調悪くなったなんて馬鹿だ。でも後先考えない所も少しは嫌いじゃなかった。人の事を言えないからかもしれない。
 甲斐はロードマップを見てこめかみを掻き、やがて手を下ろして溜息を吐いた。
「何処行く?」
 平古場の顔を見上げると、狙いすましたようなタイミングで甲斐の腹が鳴った。平古場も手を腹にやり、
「……まず腹減った。何か食おうさぁ」
 と周囲を見回した。
「近くにねえか? コンビニよぉ。ホッパーとかエンダーとか。中心街ならあるだろ」
 そうかもしれない。もう一度マップを見返すと、確かにエンダーが、現在地から2センチの所にあった。しかし簡単な計算をしてみたが、歩いて着くには平古場の今の体力が持ちそうにない。
「遠いなぁ……」
「遠いだろ」
「……やっぱり遠いか?」
「やっぱり遠いさぁ」
 地図を横から覗き込んだ平古場が輪唱する。
「んじゃ、こっちはどうやが?」
 まめだらけの指で差された先には何ともない普通のファミリーレストランがあった。これならさほど高くはないし、中学生のお小遣いでも充分腹は満たせる。何せ全財産である、樋口一葉2人と夏目漱石3人を財布の中に押し込んできたからだ。少しぐらい高いメニューでも田仁志がいないので大丈夫だろうと踏める。来年の春に発売される最新ゲーム機を買うために少しずつ貯蓄してきたかいがあるというものだ。
 悩む暇もなく平古場は「そこでいいか」と適当に返事をして、通る道を目でなぞった。レストランは隣ブロックに隣接した車線にあり、横道を見つければすぐに見つかる所にあるようだ。
 2人は手前の細い横道を通り、広くはない道路に出た。横断歩道を渡った先に目的のファミリーレストランが看板をくるくる回している。臙脂色で煉瓦調の建物だが、屋根にシーサーが置いてあるのは相も変わらず。ポケットにロードマップを詰め込みながら、信号が青になるのを待った。車用の信号が赤になり、すぐに歩行者信号が青く色を変えた。
 レストランの中に入ると、涼やかにカウベルが鳴った。天井に備え付けられた四角い冷房から冷やされた空気が落ちてきた。平古場は長袖で額を拭うと、やってきた店員に「2人やさ」と答えた。広い所為か静かな店内には大小50ほどの卓が並び、まだ人はまばらだ。昼とはいえまだ昼休みに相当する時間ではない、中途半端な時間の所為もある。それに観光客ならこんな全国チェーン店ではなく、沖縄料理を楽しもうとするはずだ。入り口近くに設置された玩具売り場の棚の横に見える隠しがたい埃は、この店が赤字経営という事を暗に証明している。
 店員は「こちらにどうぞ」と、まるで埃を見られたくないように急いて案内した。しかしこんなに空いていては案内された後にも自由に席を移動できる。ドリンクバーの一番近くに陣取り、渡されたメニュー表を広げながら、甲斐は両手で頬杖を突いた。
 今日の日替わりメニューから始まり、デミグラスソース付きハンバーグ、ふわふわオムレツセット、海の幸ドリアやご当地自慢のゴーヤーチャンプルまで、西洋料理中心に代わり映えしないメニューばかりだが食欲をそそる料理がさも美味しそうに並べられている。どれにしようか。
「決ーまった」
「それじゃ、わんやー……これ」
 平古場が「何々?」と覗き込んできて、甲斐はメニューを指差した。デミグラスソースをふんだんにかけたオムレツの写真だ。
「わんはこれ」
「『三色から選べるパン&カレーセット』? 少なくねえ?」
「その前にオートミールも付きで」
 平古場が笑う。
 2人分を計算したが、2000円も超えない。
「ついでに奢りな」
たーの」
お前やーの」
「何で」
「元はと言えば、やぁーが誘ったからやし」
 あっそ。甲斐は諦めた。ゲーム機を買うのはもう少し先になりそうだ。今日だけな、今日だけ! そう考えて無理矢理自分を納得させた。
 テーブルの横にちんまりと置かれた呼び出しベルに人差し指を伸ばした。しかし同じ人差し指がベルのボタンに伸びた。
 平古場が言う。
「わんが押す」
「いや、わんが押す」
「絶対わんが押すさぁ」
「いーや、わんが」
「押させれ」
「やだ」
「押、さ、せ、れ!」
「い、や、だ!」
 一本しかない骨を争う犬のように睨みあっていると、女性店員が「ご注文はありませんか?」とのほほんとした声で訊ねた。一気に興を削がれて、甲斐は平古場を一瞥してからオムレツを注文した。ついでにお子様セットを注文してやった。
「おいおいおいおいちょーと待て!」
「そーがさい」
「お子様ランチなんて食わねえ。むしろお前が喰え、お前が!」
「そーがさいからお子様ランチ食え。わんが奢るんだからありがたく喰え、くにひゃー」
「お、横暴……」
 しかし店員が平古場を見かねてやんわりと争いをいさめて注文を聞き、危うい所でお子様ランチの危機が去った。いや、むしろ残念だった。
 店員が店の奥に消えた後、平古場は卓に肘を突いて額に手を当てた。
「危なかったぁ……」
「残念だったぁ……」
「……喧嘩売ってるばぁ?」
「喧嘩売るほど油は売ってないばぁよ」
「あっそ……」
 平古場はそう言ったきり無言になった。
 店員がドリンクバーのカップを持ってきてコーラを注いだ後、ふと窓の外に目を向けた。冷房の空調の音が空気を静かに震わせているが、窓の外から懐かしいメロディーが混じってきたのが分かる。立ち上がって5メートルほど背後にある幅広のガラスに視線を移すと、外では何人もの男女が琉球衣装を着て踊っているのが見えた。
 そうだ。今日はエイサーの日だった。エイサーとはお盆の最終日に踊られるが、場所を移動していく盆踊りのようなものだ。今日は盆の終わり、ウークイ(お送り)の日である。お盆に帰ってきた先祖の霊を送り出す為に踊られるのがエイサーというものだ。観光客の姿も見え、バーランクーや三線が鳴らされ、とても楽しそうに踊っている。踊る青年団の振りに合わせて小さな子供がたどたどしく踊る姿がやけに微笑ましい。
 そういえば、平古場とは一緒にエイサーを踊ったり、祭りに行ったりなんて事はなかった。今更そう思う。エイサーを見る人が多いから、道の周辺には出店や行商が焼き蕎麦やらホットドッグを売り始めて、自然にお祭りになるのだ。その祭りにすら、甲斐は平古場と一緒に行った覚えはない。行けばよかったな、と後悔するにはもう遅いかもしれない。
「なぁ、凛。あれ見れよ、エイサー……」
「ワリい、ちょっと便所行ってくる」
 話題を振ろうとした瞬間、平古場は逃げるようにその場を立ち去った。そして場所が少し離れているのにも関わらず扉を閉める大きな音がした。
「……ぬーやるばーがー?」
 しかしそんな事も知らず、時間と、そんなに長くもないエイサーの行列は刻々と過ぎていった。そしてまだ熱い料理を持ってきた店員に、新たにゴーヤーバーガーを追加注文した。そして外側のバンズだけを食べて、、肝心のゴーヤー入りミートパティをあたかも運ばれてきた料理のように、そっと皿に盛り付けた。

 平古場が戻ってくる頃には既にエイサーの音楽は遠くに消えていた。
「何やってたばぁ? もうエイサー行ったんやさ」
「何でもないさぁ。さ、食べようかま? お子様ランチは来てないよな」
「ああ、まあな」
 席に腰掛けながら平古場は食パンに冷めかけのカレーをどっちゃりと流した。そして本のように閉じてかぶりつき、大きく咀嚼する。あえてゴーヤーバーガーの事は言わなかった。甲斐は既に自分の分を半分ほど食べ終えていた。少々ゆっくり食べても平古場に追いつかれはしないだろう。
 残った人参のグラッセを食べ終えた後、甲斐は席を立った。
 最後の一口を咀嚼したまま平古場が「便所か?」と問う。
「ジュース。おかわり要るか?」
 勿論おかわりをしに行くのだ。
 平古場からコップを貰い、まず自分のコップにコーラを注いだ。平古場の分にはメロンソーダだ。
 ドリンクバーの機械、ジュースのボタンを押してコップになみなみと注ぐと、二つを器用に持ってテーブルに戻った。
「ほらよ」
「サーンキュ」
 すると平古場はバッグから黒いピルケースを無造作に取り出し、その中から圧縮成型の錠剤をざっと5錠取り出して口に放りこみ、メロンソーダで胃に流し込んだ。思わず硬直し、その様子を見た平古場が困った様子で笑みを浮かべた。
「ああこれ? びびんなって、只のビタミン剤。気にーすな」
「……鉄?」
 平古場は視線を逸らして、うーん、とこめかみを掻いた。図星のようだった。
「永四郎に貰って、さ。飲めって言われたんやし」
 あいつは医者か。
「ゆ、ゆくしじゃねえって!」
 別に嘘つかれてどうという訳じゃないだろ?
 甲斐はわざとどっかりと腰を下ろすと、ジュースを啜る静寂が不意に訪れた。気まずくなって、無為に頭を掻いたりフォークとスプーンをかちかち鳴らしたり紙ナフキンを折り紙代わりに使って失敗してくしゃくしゃにして投げ捨てたり、色々した。やがてする事がなくなって携帯電話の電源を入れてみて、センター問い合わせをしてみた。着信メロディーを流して震える携帯電話、そのディスプレイは8件のメールが来た事を通知していた。メール来たのかと詮索されつつも開いてみる。
 知念寛、知念寛、知念寛、木手永四郎、知念寛、田仁志慧、知念寛、知念寛。恐ろしいほどに知念の数が多い。内容を読むと、『平古場は何処だ』という問いだが、時間が今に近づくに連れ、刺々しさを増していった。つい5分ほど前にも送られていたようで、言葉を交わせば血を吐くような怒りの叫びが綴られていた内容だった。『平古場を殺す気か』と。『平古場の体力と時間を考えろ』と。大切が故に、毒を吐いてでも身を案じる言葉ばかりを。
 追われているのかもしれない。勿論根拠はない。それなのにそう思った瞬間、甲斐は電源を切るボタンを長押ししていた。画面が真っ暗になり、その画面に、自分の怯えた目が映る。唇は血が出そうなほど噛み締められており、しかしそれ以外に表情というものはなかった。血が引かなかったのが幸いだ。それだったら確実に平古場にばれていた。
「どうした?」
 何故か現実的な焦燥感が湧かないが、それはどうでもいい。今の知念は怒り狂っている。平古場に会わせるわけにはいかなかった。むしろ自分が会いたくなかっただけかもしれないが、どちらにしても今知念と顔を合わせるわけにはいかない。何故今自分が冷静なのかは分からないが、とにかく追ってくる可能性がある場所からは逃げた方が得策だと一瞬の内に思考した。
「そろそろ行こう(いか)」
 それだけ言って立ち上がり、折り畳んだ携帯電話をリュックの底に押し込んで、代わりに財布を取り出した。
 平古場は時計を探して店内を眺め、「もうかなりいたみたいやさぁ」と呑気な事を言っている。
 今は距離を稼がねばならない事を唐突に理解した。知念は次の船で追ってくるかもしれない。捕まったら連れ戻される。知念は今、虱潰しに走り回っているはずだ。
 リュックを背負い、伝票を忘れずにレジに持っていく。無人だったカウンターにウェイターが慌ててやってきて清算を済ませると、平古場の先を歩いてドアを押し開けた。カウベルが頭上で鳴り響くのも無視して外に出ると、さっきよりも数段火勢を増した太陽光が降り注いでいた。
 ロードマップで現在位置を確認する。この大きな道路はバス通りも兼ねているようで、少し南へ行った所にバス停のマークを見つけた。目でその方向を確認する。同じ車線の歩道、約1ブロックほど先に、那覇交通バスのバス停が見える。あれに乗れば、暫くは距離を稼げるはずだ。甲斐は歩道を左に歩き始めた。甲斐のすぐ横についた平古場がかけた声が微かな戸惑いを含んでいる。
「やぁー、どうしたばぁ?」
 突然に訊かれて不意を突かれた。そして良い答えが見つからなくて、思わず言葉が先行してしまった。しかも、自分でも信じそうなほどさらりと。
「花火でも見に行か?」

  *

「だから平古場は何処やがっ!」
 知念は携帯に向かって吠えた。手の平に爪が食い込む。乳酸が限界まで溜まった足は、焦燥をエネルギーとしてまだまだ動き続けるのが分かる。汗だくだ。怒鳴った拍子に顎の先から雫がぽたぽた落ちる。
 昼になった今までずっと走り回ってきたが、未だ足跡すらも掴めない。もう島の集落はあらかた調べ尽くした。学校の屋上まで調べた。それなのに何処にもいない。船を使って何処かに行ったとも考えられたが、目の前にある船着場の立て札に張られてある真新しいピンクの紙、その上部にでかでかと印字されていた「臨時休暇」の文字の下には今日の日付が入っていた。船を使って何処かに行ったというのは考えにくい。
 平古場は明日の朝には消滅するのだ。最期を看取りたい。いや、幼い頃にそう決意した知念は自分に命じた約束を守らねばならなかった。
 暫くの言い争いの後、電話の奥で田仁志が答える。
『やんどぉー、どうして見つからないんばぁ?』
「それはこっちが知りたいさぁ! あにひゃーは甲斐に付いて行ったんやさ。だけどなぁ、死にかけの身体で甲斐に付き合う必要が何処にある! 一緒に何処かへ行く必要なんてあるのか、こんな日、あんな体調だっていうのに!」
『と、とりあえず怒るなって……』
「キレずにはいられないばぁ!」
 叫びすぎの為か激しく上下する胸を押さえて、知念は息を静める。自分でも何を喋ってどう理屈をつけていいか分からなかったが、平古場が見つからない事に激しい焦りが生まれていた。
 物心ついた時には一緒に遊んでいた平古場の笑顔が思い返される。お互いに何をしたいかがまるで本当の双子のように分かった。だからダブルスを木手に命じられたのかもしれない。それぐらい大切な仲間だった。
 朝からずっと、何も食べずに探し続けて、疲労はピークにきている。足元で弾ける海の泡が波に弾け、「早く見つけろ」とでもせっついている幻想に囚われる。今すぐシャワーでも海の中でも構わないから水を浴びたいが、そんな事をしていたら日が暮れてしまう。
 もう二度と会えないかもしれない。自分の知らない所で消えて死んでいるかもしれない。考えれば考える度に悪循環し、最悪の想像が酷く心の内を支配していく。自分の考えている事が理屈に適っているかも判断できないまま、知念はひたすら探し続ける。
 何度もの「探してくれ」という言葉で田仁志を動かし、探してくれるという約束を取り付けたらすぐに通話を切った。汗に濡れて所々色が変に拡大された画面を放っておき、ポケットにつっこんだ。
 そして知念は再び探し出す。

  *

 無人のはずである校舎内。誰もいない図書室はいつもの司書もいない為、クーラーも止められている。そんな中、木手は一人、閲覧室の机で古文献の山に埋もれて本のページを捲っていた。眼鏡の奥にある鋭い瞳が次々となぞる行を変え、文字を高速で理解し、元々奥深い脳髄にその内容を刻み込む。次々とページを繰る手の動きはまるで読んでいないかのように速い。
 しかしその手の動きが唐突に止まった。そしてその行にじっくりと目を通し、理解を拒む脳髄に無理矢理納得させた。感情面での納得ではなく、木手が幼い頃から自分を規定している理性によってのみ納得される種類の納得であった。
「まさか……君までが……」
 唇を越えるか越えまいかという小さな言葉は、ただ蝉によって掻き消される。



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