知念は再び走り出す。
 幼馴染の影を探して。

  *

 まさか本当にあるとは思わなかった。何回か今日の日付と日付を照らし合わせるが、二色刷りの「うちなあ交通沿線の八月の行事予定表」には、8月15日の項目に「馬布衣村エイサー花火祭り」という文字がある。馬布衣は今揺られているバスの終点から6つほど手前にあるそうで、俗に言う「基地周り」中にあった。「基地周り」というのは、文字通り米軍基地の周りを周回するバス路線の事を言う。正式に呼ぶと長い名前らしいが、とりあえず花火大会が行われる会場に行こうと思った。
 ベーッ、と数字が印刷された紙を引き抜き、後ろの長い席に座った。窓際は、鳥肌が立つほど冷房が効いた車内に於いて最も過ごしやすい。ペンキで塗られた壁はやはり錆が濃い。
 平古場が隣に座って、早速欠伸をした。と、すぐにバスが発車した。那覇行きの船よりは人口密度が高い。運転手の乱雑な運転で右に左に揺られながら、窓外の景色が流れていく。時折ブレーキの甲高い音が聞こえるが、それはまあどうでもいい。
 平古場がシートにもたれかかり、うたた寝を始める。こっくり、こっくりと。やはり体調が原因なのだろうか。連れ出して悪いとは思っているが、その思いよりも、楽しんでやる、という思いの方が断然大きい。次のバス停に移り変わるまでの間に平古場はうたた寝から本格的な眠りに入る。
 根元までしっかりとした金髪はぼさぼさだが、木手同様に女の子キラーな顔立ちを彩るには充分だ。
 ふあ、と欠伸をした。まぶたが重くなってくる。身体活動は徐々に動きを鈍らせて、それはつまり……眠くなってくるという事だ。早起きをしたのが祟ったのだろう。
 甲斐もまた、睡魔に身を委ねる。

  *

 田仁志慧は、ちぇ、と舌打ちして携帯電話を仕舞った。たった今、憤懣やるかたない知念が港から駆け抜けて行ったのを確認したばかりだ。
 港を臨む高い崖、その下に茂った草木の中に、田仁志は身を潜めていた。油蝉はじゃーじゃー五月蝿いし、蒸し暑いし、蚊に食われて痒いし、ついさっきは蛇が足元をすり抜けたばかりで、その時ばかりは渇望していた冷房が必要なくなった。良い事は木陰というだけで、他には何一つない。虫は嫌いってわけじゃないが、何処に潜んでいるか分からないのが厄介だと思う。
 そろそろ戻ろうかと後ろを向いた瞬間、目の前に何かがぶら下がっていた。ゆらゆら揺れるこれは何? 徐々に焦点が合ってくると、むっちりと太った八本脚の毛だらけの虫が、尻を上にしてくるくると回っている。
「う、うわあっ!」
 思わず情けない声を上げて後ろに飛び退いて、その拍子に背中を思いっきり太い幹に打ちつけた。頭上の蝉どもが慌てくさって逃げていく。蜘蛛は相も変わらず脚で脚を擦っている。マイペースでいいなぁ、こっちは木手に命令されてここにいるのに、と意味もなく野生に嫉妬した。厄日だ、全く。
 頭をかきながら田仁志は自分の仕事を脳内で反芻した。一応木手に命じられた作業は終了している。まるっきり嘘の張り紙を立て札に貼り、知念をこの島から出させるな。それが命令の内容だった。どういうわけか木手は最近変な命令ばかりする。平古場と甲斐は遊びに行かせて、知念はこの島から出させないで、自分は図書室で調べ物するから田仁志君はこの張り紙を何処其処に貼ってきて、そうじゃなきゃゴーヤー食わすよ? 望む所だが、とにかく命令に従わなければダイエット命令が出される。毎日島を3周させられるのはまだ良いが、食事制限ダイエットだけはどうしても避けたい。だから今はこうして身を隠している次第だ。しかしこんな所からはさっさとおさらばしたい。田仁志は藪を掻き分けて、太陽の下を目指す。
 木手で思い出した。足を動かしながら携帯を取り出して電話帳検索、木手永四郎にカーソルを合わせて通話ボタンを押す。二回目のコール音の後、木手は「田仁志君、作業は終わりました?」と開口一番に訊ねた。
「ああ、終わったばぁよ」
『それは良かった。それで、知念君は今、どうしています?』
「知念? 知念ならさっき、平古場を探してるって電話してきて、いきなりキレて走って行ったばぁ」
『船には乗っていませんよね?』
「その前に船の時間が空いてるばぁよ」
『そうですか。なら、暫くは大丈夫ですね。それでは田仁志君、引き続き知念君を島から出さないようにお願いします』
「了解だばぁ」
 木手の方から通話が切れて、田仁志は携帯電話を再び折り畳んでポケットに滑り込ませた。
 そして茂みの陰に置いてあった誰かの自転車を拝借して、知念を追いかける。
 あ、そうだ。サドルを上げておかねば。

  *

「まてーっ!」
 きれいな青い蝶を見つけて、走っていた。
 クレパスでかいたようにやわらかな景色が目のまえに広がっている。虫とりあみを振りまわし、走るたびに上がるひざに虫かごが当たって、がこがこと鳴る。背のたかい夏草がむきだしのあしをかすり、たまに浅く切れるけど、そんなのは全然関係ない。すごくきれいなちょうちょを見つけたんだ。ぜったいにつかまえてやる。
 ときどきジャンプして、あみを振る。でもちょうちょは空気みたいにとらえどころがなくて、せっかくつかまえたと思ったのに、すぐにひらひらと逃げちゃう。
 からかわれているみたいで、くやしくなった。さらに追いかける。あみを前にむかって一直線に振りおろす。つかまえた。
 そう思ったとき、突然あしもとが崩れた。がらがらと石や砂がせなかをこする。あわてて近くの草をつかんだけど、からだは落ちていく。ところどころ、たくさんすりむいて痛かった。助けて、ってさけんだけど、だれもいないのが悲しい。からだはどんどん下にずり落ちていって、ついに洞穴の上につま先がつく。そして落っこちた。
 目がさめたとき、だれもいなかった。夕方になった証拠に、オレンジ色の光が海をてらしている。たったひとりだった。歩こうとしたら、ずきずき痛んで、すねのまん中あたりがむらさきっぽい色になるまでどす黒くなっているのがわかった。おでこに手を当てると、血がついた。いっぱい血が出ていた。服が真っ赤になっている。こわくなって泣きさけんでいるあいだにも海がたかくなって、すわっているのに腰までぬらしている。少しずつ夜のとばりが下りる。星が空にまたたきだす。すべてをおしつぶしてしまいそうな大きな夜。
 どこにもいけないんだ、助けてくれる人なんてどこにもいないんだ。そう思うと、こわくなってぐしゃぐしゃになるまで泣いた。
 でもしばらくすると、懐中電灯の光が見えた。海をてらして、がけの上から「裕次郎!」っていう声が聞こえてくる。さいごの気力をふりしぼってさけぶと、やっと気づいてくれたのかもしれない。走ったような音が近づいてきて、すぐにおとなの人に抱きあげられた。あしが痛くてすごく泣いた。でも、助かったんだ、という思いの方が強かった。
 病院くさいベッドの上に横たわっていると、長い金髪の子がかけよってきて、こう言った。
 ごめんね。ごめんね。って。


「おーいー。どうして、じいちゃん動かないばぁ?」
 誰も答えてくれない。ただみんなが布団の前で正座して、涙をふいている。母さんの近くには赤い液体がまんぱいになった洗面器があり、泡が浮いて、揺れている。多分あれは血なんだろうと思った。
 さっきまでいっぱい咳をしていた曾々じいちゃん。さっきまでいっぱい血を吐いていたじいちゃん。どうして動いてくれないの?
 訊ねるけど、じいちゃんも父さんも母さんも答えてくれない。一番教えてくれそうだったお医者さんも答えてくれなかった。皆泣いている。どうして泣くの? じいちゃんはどうなったの? どうして? どうなったの?
 誰も教えてくれない。
 という事は、死んじゃったのかな。でもさ、「死」って何?
 血をいっぱい吐く事?
 血をいっぱい流す事?
 誰か教えてよ。
 人が「死ぬ」って、どういう事?
 血をいっぱい失うと、人は死んじゃうの?
 爺ちゃんが死んじゃったように、人は死んじゃうの?
 いつかは、死んじゃうの?
 ――死んだら、どこに行くの?

「人はね。死んだら後生ぐそーの世界に行くんだよ」
 記憶の中のじいちゃんがやさしい声で言う。サーターアンタギーの甘さが口の中に残っている。
「ねえ、じいちゃん。『グソー』ってなに?」
「『グソー』っていう世界はね。『後の生』って書いてグソーっていうんだよ。後生の世界っていうのはニライカナイっていう海の彼方の世界でもあり、神様の世界なんだ」
「かみさまのせかい?」
「そう、神様。神様はずっと僕達の傍に寄り添って生きているんだ。でも神様は妖怪の延長線上の存在で、人も広義では同じ存在なんだよ。人だって後に残る功績が大きければ神にもなれるし、抱いた想いが醜いなら妖怪にだって変化する。そして僕達、島人しまんちゅは神様の世界――海――に囲まれて生きている。神様はいつでも僕達の事を見守ってくれている」
「みまもってくれてる……」
「そう。そして、生けとし生けるモノのまぶいは、ニライカナイからいづり、ニライカナイに消えるんだ」
「じゃあ、みんな『にらいかない』にいくの?」
「そうだね……行くのかもしれないね」
「じいちゃんもいくの?」
「裕次郎よりは早く行かなければならないね」
「いっちゃうの? じいちゃん」
「大丈夫だよ。裕次郎もいつかは来るんだから。先に行って待っているからね」
「……うん」
「裕次郎は、この世でゆっくり生きてからニライカナイに来ようね」
「うん。わかった。ぜったいだよ! やくそくげんまん!」

  *

 まどろみの闇から瞼を持ち上げる。そしてまず目に入ったのは、少し斜めに降り注ぐ太陽の光だった。薄っすらとしか目を開いていないのにも関わらず、太陽は網膜を痛いほどに刺す。手を翳すと骨の形が赤みがかって見えた。
 妙にぼやけた視界の中で、顔に刻まれた深い皺で運転歴を悟れるような老翁が困ったような表情で平古場の肩を揺り動かしていた。
「お客さん、終点ですよ。お客さん」
「んああ……え? やぁー、たーが?」
 平古場が返事をするが、絶対夢現だろう。証拠に「ああ、永四郎か〜酒くれ〜」と、泡盛で虎になった早乙女のような言葉を口走っている。甲斐は緩慢に腕を動かし、平古場の肩を揺すった。
「凛、起きれ」
「起きてる」
 いや、寝てる。
「ゆくしつけ」
「だーかーらー、起きてるって。今起きる」
 もぞもぞと座り直して、平古場は天井を突くように伸びをした。ぼさぼさ加減が増した髪を掻き毟り、焦点の合わない目を、甲斐と老翁に向けていた。ああ、と言って、窓の外に視線を移して立ち上がる。
 甲斐は制服を着た老翁に、慌てて訊ねた。
「ここは何処やが!?」
 すると老翁は落ち着いた雰囲気に少しだけ困った感じを混ぜながら、「終点の覇美琉はびるです」とだけ告げた。
 時計を確認すると、既に一時を回っている。甲斐は立ち上がると、ポケットに入れていた紙を取り出し、数字と前方にある電光掲示板を確認する。五百円は確実に越えていた。寝過ごしたかもしれない。いや、むしろ寝過ごした。馬布衣村に行くつもりだったのだが、これでは時間と金の無駄遣いというやつだろう。
 悔しがっていても何も始まらないのは重々分かっている。今は降りるしかない。
「凛、」
「わかっとぉーさぁ」
 それだけで甲斐と平古場は出口で丁度の金額を支払うのに財布を開け、渋々金額を支払った。
 降りると熱気がむんと押し寄せて、涼しい車内が急に懐かしくなった。まだまだ陰影が濃い野外、そこには戦後の沖縄と昔ながらの景色の混交があり、鬼瓦があればシーサーが大口を開け、酒屋らしき店の軒先にはおよそ飲み終わったばかりであろうオリオンビールの空き缶が打ち捨てられている。しかもよく見れば煙草の灰に塗れており、とてもリサイクルに持っていける状態にはない。横にあるシケモクは見たこともない外国のメーカーで、基地がすぐ傍にあるのだろうと察するのは容易だ。そこそこに家が建つ場所のようだが人の気配がほとんどない。
 白いバスが排気ガスを撒き散らして走ってゆく。その奥の景色は砂糖黍畑がただ風に靡き、濃い空が地上をあまねく覆っていた。ただ気になったのは、砂糖黍畑の更に奥に、緑色のフェンスが見え、その中から幾つもの建物が景観に穴を開けている事だ。
 何処からかエイサーの囃子が聞こえてきた。同時に戦闘機の爆音が空を割って、ずんずんと近づいてくる。やがて頭上二十メートルぐらいで超低空飛行する戦闘機が砂糖黍畑の奥に消えていった。
「そーがさい」と言い終える前に平古場がまた欠伸をする。すると突然、バス停横に設置された掲示板に顔を突き合わせてこんな事を言った。
「なあ。こっちでも祭りあるみたいだなぁ」
「祭り?」
「ああ。馬布衣エイサーだってさぁ。地元有志によって行われるんだと。いるのかねぇ、有志でやる奴なんざ」
 甲斐も平古場もエイサーの練習をさせられた事がある。幼い記憶を辿るが、少なくとも練習は面倒で仕方なかった事しか憶えていない。屋外でやるもんだから暑いし、法被は早乙女が着た後じゃないかと思うぐらい臭いし、最悪だった。まあ甲斐に当たった法被は前年度使った人が洗うのをすっかり忘れたままエイサーの前日に手渡したのが原因だが、普通に洗濯すると色落ちするからという理由で洗わずに放置された。よく黴が生えなかったものだと思う。それで一日踊ったのだ。褒め称えてもらいたいものだが、結局それは叶わなかった。後に残った物は差し入れの黒砂糖、ずっしりと地面にかかる疲労の塊だった。
「やんねぇだろ。むしろやりたくねぇ」
「だーなー」
 平古場は頭の後ろで手を組んで、歩き出した。甲斐は平古場の歩みに追いつき、横に並ぶ。
 静かなのに音が聞こえてくる。海鳴りと、蝉と、エイサーと、戦闘機の爆音と、風と、囁きかける夏草が。それだけじゃない。海風が鼻腔をくすぐり、太陽は頬や手の甲を焼き、じりじりと熱を放出している。湿気が多くて更に蒸し暑い。まばらに建つ家々の真ん中を一直線に突き抜ける道の先には水と景色が揺らめいて見える。
「で、何処行くんやが?」
「海、」
 当然というようにあっさりと平古場は言う。
「海遊び」
「海遊び?」
「当たり前さ。久しぶりに遊びたい。それだけさぁ」
 確かに海で遊ぶのは久しぶりだ。しかし問題が一つある。
 平古場は今、血が足りなくて体調が悪い。となると、いつ体調を崩すか分かったものじゃない。
「遠くないか?」
「そんなの歩いていけばいいやし。寛みたいな台詞言うなよ」
 さっきまでエンダーが遠いとか言ってた奴の台詞か。
 だが平古場は、今更言うのも何だけど、と前置きして呟いた。
「……歩いて、いきたいんだ。景色、見たいんだ」
 いつもの平古場には見られないぶつぎりの言葉。視線を合わせてくれるわけがなかった。その前に平古場が自ずと目を逸らしたから。そしてその視線は地面を這い、逃げ水を捉え、空まで鳥のように飛び立ったから。
「ゆっくり、行か?」
 甲斐の提案に、「当たり前だろ」と平古場が満面の笑みを湛えて背中を叩き、頷く。その笑顔が最後にならない事だけを、甲斐は今、初めて神様というものに願った。

 俺達の夏はまだ続いてる。



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