まさか、という考えを知念は振り払った。
 いや、そんな筈はない。桟橋の立て札には臨時休業の張り紙がされてあった。そうなると場所が比嘉島に限定される。しかし何処を探しても誰に訊いても平古場の消息は分からないままだ。平古場は朝早くに家を出て、それ以来誰にも見つけられていない。山に逃げたか、海に逃げたか、どちらか一つだ。ボートで島外に出られるかと漁師に訊ねたが、この島の漁師は誰一人島外に出てはいないらしい。甲斐に連絡を取ろうと思ったが、その甲斐が連れて行った可能性が高いと判断できた今、甲斐の消息を追う方が確実だとも思える。
 しかし自分の勘違いで、もしも「羽化」が一日早く始まっていたとしたら? だとしたらもう平古場を見つけられるような場所はない。何かの手違いで羽化が早まっていたとしたら、自分は平古場と最後の挨拶も交わせないまま永久に別れてしまうという事になる。考えれば考えるほど恐ろしくなってくる。平古場は幼い頃からの友達だ。自分はそんな大切な友達の手首を切り裂いて血を絞り出させた。傷を残した。平古場が頼んだ事とは言え、それは罪だ。
 知念は自分の左手首を鬱血するほど強く握り締めた。病的に白い手指が赤黒く変色していく。歯を食いしばって自傷の衝動に耐える。こんな自分が大嫌いだ。今では吹き抜ける風すらも急かしているように気に障る。時間が流れているぞほら早く平古場を見つけろそうじゃなきゃ身投げでもして先にニライカナイにでも後生にでも行けできなきゃ死んで詫びろ幼馴染を見殺しにした罰を受けて。風がそう囁いている。
「分かってる」
 脚をくすぐる夏草を蹴ろうとして踏みとどまり、知念はまた走り出す。
 崖なら何か見られるだろうと思っていた。高い場所まで来たら、自分の視力に任せて集落を一望できる。しかし計算違いに苛立った。生い茂った葉でガジュマルの木が集落の方向を隠していたのだ。風に揺られて緑に光る葉は悪戯好きの子供のように言う事を聞かない。
「畜生!」
 奥歯の更に奥で言葉を押し殺して飲み込む。知念は走り出し、後ろにある舗装道路を駆けた。脚が乳酸に悲鳴を上げるが、それでも動かさねばならなかった。背中にも肩にも張り付いたTシャツを交換したかった。恐らく絞ればテンガロンハットに波打つぐらいの汗は出てきそうだ。空気が揺らめく舗装道路を駆け下りる内に、12時を告げる島内放送が鳴り響く。知念は脚に鞭打って走った。あと半日と六時間。
 瞬間、爪先が何かを掠った。同時に空が転倒する。膝を強かに打ちつけて、条件反射で手を突こうとした拍子に肘を擦り剥いて、知念はアスファルトの真ん中に転がった。半端ではなく暑かった。太陽のオーブンに入れられて、ゆっくりと焼かれているようだった。全身から火が出るように熱い。そしてそれと同じぐらいに、砂混じりに剥けた膝の皮がじわりと熱を帯びる。16ビートのリズムに近い心臓の鼓動に合わせて痛みが波打った。一瞬息が出来なくなる。しかし知念は道路に手を突いて立ち上がり、また走り始めた。風が頬のすぐ横を流れていく。向こう脛に血が線を描き、靴下が染まっていく。
 平古場。
 平古場。
 平古場……
 頭の中は平古場を見つけ出す事でいっぱいだ。しかし同時に走りながら、今まで何度も頭をもたげた問いが脳裏をよぎった。
 どうして俺はこんなになるまで平古場を探さなきゃならないんだろう。どうせ平古場は明日の朝には消えるんだ、死ぬんだ。会って話すぐらいならゆっくり生きてからニライカナイに行ってからでもいいだろう? 何故今こんなにぼろぼろになりながら平古場を探す必要がある。無意味ではないか。そんな無意味の為に、自分は自分の体力を削ってまで走る必要があるのか? 答えられるだろう知念寛。
 いや、今は走らなければならないんだ。一刻も早く平古場を見つけて、それで、
 それでどうするというのだ?
 それで永劫の別れを告げる。でもニライカナイでまた会えるのだろう? それなら今でなくても良いではないのか。今こうやって走る必要なんて何処にもない。
 でも走らなければならなかった。生きている内に、またニライカナイで会おうとか、そんな些細な約束でもいいから言葉を交わしたい。携帯電話というツールなどではなくて、目の前にして話したい。本当に何でもいい。話すだけでもいい。ごめんな、とか、じゃあな、とか、たったそれだけの言葉でもいい。平古場と話をしたかった。
 だから走りたい。この身が灰になったとしても、それだけでいい。だから、平古場、まだ死なないでいてくれればそれだけでいい。まだ消えないでさえいれば。いつか絶対にお前を見つけ出すから。
 知念は走る。走る他、ない。
 集落が近づいてくる。すると突然、自転車に乗った田仁志に出くわした。いやに大きさの合わない自転車だと思う。短い髪の中に一枚ガジュマルの葉が刺さっている。立ち止まって、何故か狼狽の色を見せる田仁志の肩を掴んで思いっきり揺す振った。
「慧君、平古場は……平古場は見つかったか!?」
 田仁志は視線を空に逃がして無言を保っている。どちらかというと、言う事が纏まっていないようにも見える。
「どうやが!」
 一際強い語調で訊ねるが、田仁志は「悪ィ……知らね」とばつが悪そうに答えた。それだけ確認すると、知念はまた走り出した。今こうして田仁志の返答を待つ一分一秒すら惜しい。
 一刻も早く見つけ出さねばならない。平古場がこの世に在る内に。蝉時雨をも振り切って、知念はただひた走る。



  *



「なあ、ニライカナイって知ってるか?」
 記憶の中の平古場が訊ねる。
「知らないが」
「そっか、なら知らない方が良いよな」
 うん、知らない方が良い。知念よりもむしろ自分に言い聞かせるように幼い平古場が何度か呟く。呟きが切れると平古場は頭の後ろで手を組んで空を見上げた。港のへりを臨める崖の上、そこには冬まで生き延びた夏草が靡いている。小学校も終わりに近い冬、平古場は突然知念に対して、「ニライカナイ」について訊ねた。数ヶ月前、甲斐に会う前まで表情を支配していた無感情はもう形すら見られない。
「何だ、教えれよ、凛」
 ほんの軽い気持ちで食い下がると、平古場は崖に背を向けて知念を正面から見据える。
「寛は、自分が何処から来たか分かる?」
「母さんのお腹の中じゃないのか?」
「いや、わんが聞いてるのは身体の方じゃなくて、こっちの方」
 平古場は自分の胸を指差しながら、
まぶいの方」
 と、真剣さが少しだけ入り混じる表情で話した。知念は小さく首を傾げた。その様子を見て平古場が苦笑いを浮かべてフォローする。
「だってさ。身体は人から生まれてくるのに、魂まで人から生まれてくるって、ちょっと考えらんねえじゃん? 何て言えばいいんだろう。幽霊ってよく身体は死んでも心が生きてるからああしてこの世にやってくるわけだし。だからさぁ、ちょっと訊いてみようと思ったわけ。皆はどう考えてんだろうな、ってさぁ」
 いつも寡黙だった所為か咄嗟に言葉が出てこなくて、知念は沈黙する。その間にも平古場は子供なりに言葉を連ねてゆく。
「裕次郎は知らないって言ってた。デブも知らないって言ってた。で、ばあちゃんに訊いてみたんだ。したらさ、魂はニライカナイから来てニライカナイに消えるんだって。で、ニライカナイって何って訊いたら、今度は『神様の国』だって。わったーは神様の国から来て、神様の国に消えるんだって。それでニライカナイは何処って訊いたら、海の彼方にあるんだってさ」
 平古場は一体何を言いたいのかと思う。一年生の時に甲斐と会ってからの平古場とは久しく話していない。それ故に平古場という人物が少しずつ分からなくなっていたのもある。
「寛は行ってみたいと思う? ニライカナイ」
「いや……まだ行きたくはない」
「だっろー!」
 平古場は「すっげー同感!」と手を上下に振った。
「でもいつかは行かなきゃいけないんだよな」
「そうだな」
 会話が終わっていやに空気が寂しくなった。しかし沈黙もまた心地よかった。隣に人がいても孤独になれる、それが沈黙だ。
 時間が過ぎる。平古場が言い出しづらそうな空気に遠慮するようにして、「言いてえんだけどさ」と話題を振って来るのに、優に数分はかかっていた。
「何?」
「わん、さ。もうすぐ死ぬんだって」
「死ぬ? 何で、病気?」
「分かんない。でも、中学の三年生になったら死ぬんだって。ばあちゃんが言ってて、よく母さん泣いてた」
「そうなのか」
「でもわん自身はそんなの全然実感ないんだ。何処も痛いわけじゃないし、何処も苦しいなんて感じない。でも死ぬんだって。それで寛にどうして欲しいってわけじゃないけど、ずっと友達だったろ? だから、教えておこうと思ってさ」
 他人事のような口調で平古場は淡々と言葉を紡いでいく。それには何の感情も入らず、ただ人伝ての事実をニュースのリポーターみたいに伝えているだけだった。感情を抑えているわけではない。本当に実感が湧かないようだった。その口調故に知念もまた信じていた。実感がないのも同じで、ロシアのサンクトペテルブルグで殺人事件が発生したぐらいに軽く受け止めていた。しかし中学生と言えば、小学六年生と言えどもまだ先の出来事でしかない。中学三年生は想像の範囲外の年齢で、知念とは言えそんな未来の事を考えられなかった。「ふーん」と気のない返事をするだけだった。
 平古場はニカっと笑った。
「良かった」
「何でだ」
「重く受け止められたらこっちもどうすりゃいいか悩んでた」
「だろうな」
 多弁な平古場に対して、知念はそんな言葉しか返せない。
 風が吹いた。足元の草よりも鮮やかに平古場の髪が乱れた。髪を押さえながら平古場が顔を隠し、唇を微かに動かす。
「サンキュな」
「……ああ」
 平古場の笑みを確認して、知念は黙って海を眺めた。
 海は物心つく頃からずっと変わらない。たまに荒れる事はあるけれど、かならず凪ぐ時がやってくる。だからこの穏やかな波も日差しも、もちろん今の平和も、ずっと続くと無意識に信じていた。


「うああああっ!」
 その均衡が最初に崩れたのは、夏も本格的になってきた、今年の六月頃だった。部活が終わって、終了時に地区大会のレギュラー決めがなされたばかりだった。最後までコート整備で残っていた知念が、擦れ違いざまに木手に鍵を渡されて部室に行こうとした時だった。
 最初に聞いた時は何か獣の声かと思った。怪我をして仲間を呼ぶ為に必死な、例えるなら狼のような声だった。もうとっくに日が暮れて、西の半天まで星が輝き始めている。電気がついた部室の中に誰かが、あるいは何かがいると思って、ドアノブを回すのも憚られた。いつもよりそっとドアを開いたが、瞬間ドアに飲みかけのペットボトルが投げつけられた。ひしゃげて床に落ちるペットボトル。知念は思わずドアを閉め、そしてまたゆっくりと開けた。
「来るなっ!」
 涙が混じったような叫びと共にまた何かがドアの真横の壁に叩きつけられて、傷と落書きだらけの壁にさらに傷を増やした。ラケットがあちこち跳ねながら転がる。それは平古場のラケットだった。そういえば先刻の叫びも平古場の声だった。
「お、落ち着け、凛!」
「うあああっ!」
 平古場はなおも叫び、やがて部室の真ん中に膝を突いて嗚咽を始めた。知念は部室に入ったものの何をすべきか見当がつかず、ただ入り口に呆然と立っていた。気が違ったのではないかと思う。どうすればいい、脚が動かないのに気づいて横に駆け寄ると、平古場はへたりこんで子供のように泣き始めた。左の手首から指に絡みつくぐらい血が流れてワイシャツやズボンを染めていた。見慣れない血は、知念に15年近く生きてきた海馬から記憶を無造作に引きずり出し、リストカットという事実に行き着いた。痛みに泣いているのだと思った。それ以上にリストカットした事実に驚き、手当てするべきなのに動けなかった。
 平古場が怪我をした、その事に実感を持てないまま、行動を起こすのも忘れていた。慌てて部室の壁を見回して、黄ばんだ救急箱を探した。それを取ってきて平古場の横で蓋を開ける。中には知念もお世話になった救急セットが男子テニス部らしく雑に押し込まれている。その中から消毒液、ガーゼと包帯を引っ張り出した。平古場が何の抵抗もしないのは今までで終わった。平古場の左腕を掴んだ途端、その手が振り解かれた。血が飛び、部室の床に点々と散った。
 大丈夫かなんて気の利いた言葉は思いつかなかった。泣きじゃくる平古場を見て、知念は何はともあれ傷の手当だと思う。再度平古場の腕を、今度は振り払われないように二の腕を掴んだ。勿論平古場は振り解こうとする。しかし今度こそは逃がさないようにしっかりと掴んだ。
「じっとしれ!」
 その一言を怒りに任せて発した途端、平古場は抵抗を増して立ち上がった。バランスを崩して救急箱の上に転び、鋏の持ち手が腹に食い込んだ。しかし知念には頓着せず平古場は部室の奥へ駆けた。しかし部室といえども広さに限りがある。平古場は右手で壁を探り、隅まで行って、誰かが忘れていったテニスボールを踏んで転んだ。それでもなお逃げようと泣きじゃくる。
 知念は躊躇い、そして床を踏みつけて立ち上がった。平古場は逃げようと足掻く。それでも逃げられるような場所はない。だから膝を突いて壁に向かって両手を突き出した。馬手と弓手の間に平古場の体躯がすっぽりと入る。
「動くな!」
 平古場の動きが止まる。言う事を聞いてくれたのかと思う。しかしこれで恐怖心を植えつけた事もまた確実だった。平古場は完全に怯えた目で――脚を食われた羊が捕食者に懇願するような目で――知念を見上げた。涙に濡れた目が、真っ赤に腫れて。目が合う。知念は真摯にその視線と向き合って、息を止める。それと同時に時も止まる。
 強がりの声がやけに涙を含む。
「……何だよ」
「手当て、」
「何も知らないくせして、」
「だから何が、」
「親身になった振りして!」
「りん……」
「わんはそんな奴が大嫌いだっ!」
 目尻に溜まった涙が一気に流れ落ちた。
 凛。そう口が動こうとした瞬間に平古場が突如知念の腕に掴みかかり、胴の横から身体を擦り抜けさせようと動いた。知念は咄嗟に双肩に両腕を回し、暴れる平古場を抱きすくめた。離せ、どけと平古場が叩く。手を突いた床に血糊が五本の指を残す。血液は尚も散り、顔にもかかった。知念は歯を食いしばって耐え、腕に力を込めた。平古場と自分の腕や脚がどのように絡まっているかも分からない。平古場の背中にくっついた耳が、呼吸、体温、声帯、心臓の鼓動を殊更はっきりと伝える。
「誰だよ、わんをレギュラーなんかにしたの! 全国行ける自信はあるのに、全国行けないよ。全国行かせてくれよ!」
 必死に逃げようともがきながら、平古場は血を吐くように叫ぶ。
「死ぬのに……全国行けないのに。いきたいよ。遅すぎるよ全国! ……何の為にテニス部に入ったか分かんねえよ。助けてよ……」
「り、凛、落ち着け!」
「うあああっ! もういやだあぁっ!」
 事実、平古場は心神喪失状態にあった可能性がある。平古場は言葉にならない言葉を喉の奥から吐き出しながら、いきなり血塗れの指で自分の髪を掻き毟った。色素がほとんどない長い髪が絡まりながら床にばらばらと落ちた。狼の寝床のようになった床を見て平古場は更に恐慌状態に陥り、男の喉から出せるのかと疑問に思う程甲高い金切り声を出すと、そのままばったりと倒れてしまった。ぐったりと弛緩した身体が、繊維だらけの床に突っ伏す。それっきり動かなくなった平古場を見て、恐慌状態が移行したのは知念の方だった。
 テーブルは折れた足を宙でぶらぶらと揺らし、連絡板のプリントは爪痕も生々しく破られて、ゴミ箱に数枚が投げ捨てられている。しかしゴミ箱もボール籠と同様に中身を床にばら撒いて底を晒していた。足の踏み場もない。壁には落書きの数以上の傷痕が穿たれている。そして部屋の壁も天井も彩る血痕。テーブルの足元にはガットの広さぐらいはある血溜まりが端の方から変色して固まりかけている。数匹の狼が取っ組み合いをしたような惨状を見て、自分ひとりではどうにも出来ないとカオスになった頭の中で考えた最良の策は、木手を呼ぶ事だった。
 電話口でどう言ったかは覚えていない。しかし受話器越しでも分かる知念の混乱を察知してくれたのか、木手は思うほか早く駆けつけてくれた。うろたえて使い物にならない知念の横で木手は手早く平古場の手当てを済ませると、おもむろに雑巾二枚とバケツを渡し、「掃除をお願いします」とだけ言った。いやに冷静だった。知念はとりあえずテニスボールを籠に詰め、部室の中の私物をロッカーの中に戻した。ゴミ袋が蛙の胃袋のように箱から吐き出され、それを元の状態にしてゴミを再び投げ入れていった。
 そのゴミの中に、ふと目に付いたプリントがあった。それは八月までのスケジュール表だった。余白にはペンの種類を問わず落書きされており、甲斐が書いたのであろう絵の中にはラフテーの皿があり、矢印で田仁志と注釈が入れてある。そのプリントは普通に触るだけで手が血に染まり、親の仇とでもいうように徹底して丸められていた。
「平古場君は悔しかったんでしょうね」
 振り向くと、木手は平古場に夏掛けをかけていた。
「あ、そうだ、知念君。平古場君について、貴方は何か知っていますか?」
 平古場の叫びがつい今の出来事のように思い出される。
 ――誰だよ、わんをレギュラーなんかにしたの! 全国行ける自信はあるのに、全国行けないよ。全国行かせてくれよ!
 ――死ぬのに……全国行けないのに。いきたいよ。遅すぎるよ全国!
 狂乱しながらの叫びは血の叫びであり、平古場の本音だったのだろう。木手にその言葉を話すと「やはり」と腕を組んで視線を落とした。
「どうした?」
「いや……少しね。もしかしたらと思ったんですよ」
「り……平古場は、大丈夫なのか」
 先刻の狂乱の中、追憶に混じって浮かび上がった言葉に抵抗されて、どうしてか『凛』と呼べなかった。
 平古場は長い髪を絡ませているのにも気付かずに寝入っている。
「ええ、大丈夫です。見る限り手首の創傷による出血だけですね。静脈を切ったようだから縫合しておきました。それよりも一つ、気になる、」
「まだるっこしいのはいい! 平古場は……」
「……動脈すれすれでしたよ?」
 木手の絶対零度の声音が空気に緊張を孕ませる。すぐに声色が変わり、その口調は医師がカルテを見ながら言うように、事実だけを伝える淡々たる調子だった。
「恐らく今までのストレスが一気に噴出して、処理しきれなくなったので衝動に任せてカッターに頼った、そんな所じゃないんですか? 傷口は約8ミリ開いていました。あのままじゃ出血多量で失血死していた所です。神経に触れていたかもしれませんね。痛かったでしょうに。その場で誰かが手当てしてくれていればこれほど大量の血液流出は防げたのに」
 知念は、ぎり、と奥歯を噛み締める。木手に対しての怒りではない。何も出来なかった自分への怒りだ。ガソリンの怒りではなく、灯油がちろちろと燃えるような、炙られる怒りだった。言い訳なんてしない。やっても意味がない事はよく知っていた。
 穏やかさの欠片もない木手の言葉は、ただ冷徹なだけよりも深く心を切り刻む。抉られた所は肉が焼けるように痛む。それが事実であれば尚更だ。
「平古場君が自殺未遂を図った以上、知念君には今まで以上に平古場君に気をつけて接してもらわないといけませんね。ダブルスパートナーである知念君には」
 わざわざ言われなくても分かっていると言いたい所だったが、喉の奥で押し止めた。もし何か言ったら、自分でも止められそうになかった。
 平古場は苦しんでいる。何故自分に言ってくれない? 友達じゃなかったのか? 親友じゃなかったのか? 皆の前でおどけているのに影で苦しんで壊れていくのを見たくない。自分がしっかりしないといけない。木手の言う事は尤もだ。
 木手はおもむろに左手首を見ると、「もうこんな時間ですか」と呟いて、立て掛けてあったテニスバッグを担ぎなおした。
「何処行く」
「帰るんですよ。そろそろ勉強しなきゃいけませんからね。調べたい事もありますし」
「平古場は?」
「そんなのは平古場君自身で何とかしないとね」 
 木手はドアを開けると、さよならも言わずに夜闇に紛れた。ぎい、と蝶番が控えめに軋んだ。
 夜はとっくに島を覆い尽くしている。狭くて汗臭い部室にだけ光を送る蛍光灯はすっかり端が黒ずんで、ブゥー……ン、と蝿が飛ぶような音を立てている。東の壁に掛けられた時計が世界を押し流していく。この部屋には、平古場とたった二人きり。ペットボトルはもう温い。
 惨状は片づけが半分で、動こうと動かなろうと片付けねばならない。血痕が固まりかけている部室には誰も入りたくないだろう。知念は床に散らばったゴミをゴミ箱の中へ、感情の入る余地を残さないように次々と放り込んでいった。知念は黙々と作業を続けた。
 かなりの時間が経ったのが分かる。島の明かりが一つずつ少なくなって、星が居場所を取り戻す。粗方片付け終えると、部室はいつも以上に綺麗になっていた。流石に壁の傷までは直せないが、今まで処理されてこなかったゴミまで袋詰めされて部室の外に置いてある。
「平古場、起きてるか?」
 返答なんてないものと思っていた。期待すらしていなかった。寛ぃ、と声がかかって、驚いたのが情けなかった。
 平古場は、聞こえるか聞こえないか案ずる必要があるほどの声で、
「ワリぃ……寛、ごめん……」
 平古場は床に転がったまま夏掛けを握り締めていた。震えているのが傍から見ても分かった。顔をこちらに向けていないからどんな表情なのか見当はつかないが、自己嫌悪と罪悪感と申し訳のなさ、その他様々な感情が煮詰められて凝縮したように、感情のエネルギーが伝わってくる。抑えている事までありありと察する事が出来た。言葉にならない感情が湧き上がって来る。泣く直前の目頭のように、じわりと湧く熱さ。無力に打ちひしがれる罪悪感の昂り。そして……守ってやりたいと思う、明確な理由も規定できない義務感が知念の精神を鎖に繋ぐ。守らねばならないほど弱った同胞をこれ以上傷つけたくない。
 知念は平古場の横にそっと歩み寄った。背中を支えて上体を起こさせる。平古場の顔は長い髪に隠されて殆ど見えない。
「……帰ろう」
 何を言ってるんだ? 俺は。
「そろそろお前の親も心配してるだろ」
「いや……あいつらは平気だと思う。わん、よく門限破るから。夜も出歩くし」
「そうか」
 相談でも雑談でも良い。今は少しでも現実から目を逸らさせる事が出来れば、それで良い。甲斐にある自由奔放な社交性が羨ましいと思う。こんな時にこそ役に立つ人物なのに、今ここにはいない。それならば自分がしっかりせねばならない。受け止める。
「平古場。自分の荷物持てるか?」
「……うん。持てる」
 平古場はいつもの明るさの欠片もない表情で立ち上がった。瞬間その瞳孔が不安定に揺れ、右手で額を押さえた。知念はやっぱり二人分のテニスバッグを担いだ。
「サンキュ、……知念」
 背中に、平古場のか細い声がかけられる。


 その後、知念は様々な人からよく話を聴いた。それは知念も、元ユタである曾祖母からよく聴いて育った話もあった。平古場自身から教えて貰った話もあった。
 それは、平古場凛は、今年の八月に消滅するという事だった。平古場凛の血は何百年も前から受け継いできた導き神の血統に値し、肉体と一緒に成長する神を羽化させる役目だけを与えられた依り代だそうだ。人だから依坐よりましと呼ぶらしい。そして羽化が終わった後の蛹は、持ち主を失ってやがて滅する。
 神の羽化によって死ぬ――それは生贄と同義だった。

  *

「待ってれよ……平古場……っ」
 知念は真夏の集落を駆ける。


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