木手永四郎は山のように積もった古い文献を抱えて、棚に戻し始めた。すっかり変色して虫食いが目立つ紙は持つだけでも細心の注意を払うべき代物で、木手もそれに習って慎重に扱っている。図書室の奥にある書庫の扉を開けると、年季の入ったインキの匂いと黴臭さが鼻につく。一番奥にある閲覧禁止の棚には鎖が掛けられており、それは生徒の中でもほんの少数しか使わない棚である。その棚の下に文献を積んで一番上の一冊を取り、棚に並ぶ背表紙をに人差し指を這わせながら、題名と本の置いてあった場所を確認する。一冊文ぽっかりと空いた空間に本を差し込み、次の本を一段下の棚に戻す。無為な作業が続く。
 全ての文献を元の場所に戻すのにはなかなかの時間がかかったが、木手は全てを終えると、書庫を、図書室を出て扉を閉めた。電気の点けられていない廊下は木製のタイルを無残に晒している。校舎には誰もいない。木手はその事を理性的に知っている。
 階段を降りて、角を曲がり、保健室を見つける。保健室のドアを横に滑らせても、死ぬより動きがない沈黙が薄暗さの中に佇んでいるばかりだ。木手は何の躊躇いもなくゴミ箱を両手で掴んで引き倒し、ばらばらと中を空けた。からになった点滴のパック、針、くしゃくしゃにしたラップ、パンの袋らがまばらに床へ落ちる。木手は更にゴミ箱を振った。そして、プラスティックが金属を内包しているような音を立てた細長いステーショナリーグッズが足元へ落ちて、くるくると回った。それを確認して、ゴミ箱を下ろす。
 木手はその細身の文房具を拾い上げた。青い柄のしっかりとしたカッターナイフ。先端が鉄錆に汚れている刃を目いっぱい出し、刀身が光を弾く。自分の姿がぼやけて映る。
 鋭利な刃を首に当てる。ひやりとした感触。死神の獲物となったようなスリルを味わい、そして首から離す。口元が上がる。
「Kill……」
 誰に言っているのか、それとも自分に言っているのか、木手ですら自分で分からない。





 もう夜だ。でも知念は、待ちに待っていた吉報に向けて走っていた。ポケットに入れた携帯電話が県大会優勝のトロフィーみたいに大事な物と思えてくる。
 平古場がみつかった。
 情報源は、木手永四郎。


 真昼にもやってきた崖は、夜風を受けて夏草を靡かせていた。草原が海に向かって虹の橋渡しを務めようと伸び、途中で崩れたように海へ落ち込んでいる夜の崖。遥か下で岩が波を砕き、闇夜に白波を逆巻かせ、音を立てて満ち引きを繰り返す。落差は十数メートルもあろうか。
 膝まである草の波を受けながら、木手が崖の上に立っている。星が瞬き始めた空に漆黒の影を抜き出して、ポケットに両手を入れたまま微動だにせず立っている。知念はその影に向かって疾駆した。
「来ましたね」
 と、木手は自分に言い聞かせるように呟き、知念を向いた。
「平古場は、平古場は何処だ、何処にいたんだ?」
 知念は逸る気持ちを抑えて訊ねた。
「そんなに焦らないで下さいな、知念君。平古場君は無事ですよ。まだ羽化は始まっちゃいない」
「そうか、よかった……」
 知念は安堵の息をつく。最低でも平古場の安否は確認できたのだ。それさえ分かればいい。急に安心感が溢れてきて、知念は乱れたままだった髪に手櫛を入れた。濡れたように湿気ている。一日中何も飲まなかったのが祟ったのか幸運なのか、汗は粗方引いていた。夜風が体温を冷まさないのが熱いだけだが、今はどうでもいい。平古場さえよければ今はそれでいい。
「それで、平古場は今何処にいる?」
「病院ですよ。どうやらまた無茶をしたようでね、倒れたそうです」
「倒れ……って、一体どうして」
「さあ。大方自分の体調もろくに考えないでテニスでもしたんでしょう」
 何故か、唐突に齟齬を感じた。
 いつもと何ら変わりのない会話だ。しかしそれの何処に齟齬があるのか判別できない。言い訳がましい言葉でもない。明らかな嘘をついている顔でもない。それの何処に日常とずれた感覚を見つけるのか。何処が変なのか分からない。直感は感情と同じで、論理で片付けられる代物でないだけに厄介だ。論理がなければ証明できない。証明できなければ納得もまた出来ないのだ。
 知念は自分の中に湧き出した欺瞞を白い嘘で押し隠し、あくまで平静を装った。
「そうか、平古場ならテニスぐらいやるよな」
 自分らしくなく、自分に言い訳をする。
 沈黙が訪れる。穏やかならぬ沈黙であると全身の感覚が悟った。
 この感覚は何だ? 何故ここまで違和感があるのだ。いつもと何ら変わりのない会話ではないか。ここまで刺々しいのは何処に起因するのだろう。
 木手は半分の月を背負い、強い光の影故に表情を窺えない。月影は強く、崖の足元まで木手の影を伸ばしている。威圧には弱く、いつもよりやつれた感が立ち姿より分かる。
 例えようのない居心地の悪さを感じて、とにかく知念は、平古場が何処の病院に搬送されたかを尋ねようと口を開きかけ、フライングで木手が先に言葉を使い始めた。
「知っていますか? ニライカナイについて」
 話の腰を折られたように感じ、知念は口篭った。ニライカナイの話を振られたのは、平古場に次いで二番目だ。この崖で、月の昇る東の崖で、ニライカナイを聞かれた。構わず木手は語り始める。
「君も知っている通り、ニライカナイとは冥府です。死者の住まう国、という事は知っていますよね」
「あ、ああ。それよりも、」
「死者はお盆の期間にこの世に帰ります。今はお送りウークイの夜。エイサーによって魂をニライカナイに送る日です。平古場君はその魂が迷わぬよう導く使命を帯びたカミを血に宿し、死者の魂シニマブイをニライカナイへ導くカミを羽化させる蛹です」
「だから何処なんだ、平古……」
「そしてカミは、炎に拠って浄化された路を好みます」
 おかしい。
 木手はポケットに手をいれたまま知念の周りを歩き始め、その間にも講義を止める気配を見せない。何を言っても無駄なように、木手はゆっくりと天地に視線を彷徨わせている。何かを必死で抑えているような勿体ぶった言い草にも感じられる。
 徐々に唱える言葉が大学の講義のようにレベルが高まり、本をよく読む方の知念ですらも理解できない言葉が増えた。
 明らかに異常だった。木手は、講義はしてもここまで深い事は喋らない。誰に話す時でも、相手に分かりやすいように言葉を噛み砕いて教える癖があった。必要最小限の事しか喋らないから、木手の脳は未知数な事柄までストックしていると、確信しないまでもぼんやりと分かっていた。でもここまで難しい話をされるのも初めてだった。
 今の木手は、知念に向けて喋っているのではない。自分に向けてだけ、自分を納得させる為だけに、知識と考察を反芻しているだけだ。
 その講義の中で、ふと木手が「篝火神」という聞き慣れぬ神の一柱について語り出した。
「導き神のみならず、カミを呼び出す時はその場を浄化する為に火を焚きます。火は遠く離れた西洋でもサラマンダーという四大精霊が存在する程重要な存在です。炎は破壊と浄化の象徴なんですよ。カミを呼び出す場合、炎は浄化の意味を持ちます。カミはニライカナイへ行く時に海の上を行きますよね。海の上には炎は焚けません。物質的な炎は物質的な水によって打ち消されるのです。ならば物質ではない炎――陰火に浄化を任されば、海が例え時化ていても、カミを安全な路を往かせる事ができます。言わば海上の道標ですかね。そして篝火神の家系に当たる人は、毎年誰かが炎と化し、命を散らせます」
 ゆっくりと円を描いて歩んでいた木手はふと止まると、やおら振り向いて、知念の目を真っ直ぐに見つめた。
「というのは昔の話。本来、篝火神の家系は既に絶えているはずなんです。何故なら太平洋戦争の時、沖縄戦でフル稼働した導き神をサポートする為だけに篝火神の直系は全て燃え尽きたから。それまでは紅型で御三家とも呼ばれた琉球王朝有数の機織職人であったのにも関わらず、篝火神の家系・知念家は一度没落したのです。分家の消息しか知られていません。そんな中、15年前の夏、突然出生の知れない子供が知念家に引き取られました。それが誰だか分かりますか?」
 まさか、と思った。
「知念、寛です」
 何言ってんだよ、冗談よせよ。しかし木手の目は余りに真剣で、触れれば切れそうなほど鋭利な刃の色を宿している。
「篝火神の家系には、身体が大きく、脂肪分が少ない人が多い事が判明しています。油分は前回燃焼した篝火神が燃え尽きてから徐々に燃やされ始め、ウークイの日に全て燃焼が終了します。また、平古場君と同じように髪の色素が抜け落ちているのも特徴です。これらが証拠です。君もまた、ニライカナイに消えるんですよ」
 知念は自分の手を見つめた。この血肉が燃え尽きるだと? 知念は額を掴んで、ふるふると左右に首を振った。
「違う……わんは、わんはそんなんじゃない!」
「そう言われてもそうなんだから仕方がないでしょう。膝、見て見なさいな。転んだんでしょう? でも傷痕はもう火傷の跡に変わっているはずです」
 慌てて身を屈めて膝を見る。真昼まで血の流れていた傷はいつの間にか血が止まり、代わりに火傷の痕が広がっている。手首も確認した。そこには瘡蓋でもなく、一筋の水膨れができていた。
「嘘だ!」
 思い切り掴んだ左腕で、幾つもの水膨れが弾けた。
「君も死ぬんですよ」
「止めれ、」
「ニライカナイへ行かねばならない」
「嫌だ、」
「そろそろ受け止めなさい」
「止めろぉ!」
 知念は夏草を踏みにじり、背後の闇へと駆け出した。
「無駄だよ。焼け死ぬんだ。だから……」
 風を切るような音。同時に首筋へ添えられる、脆弱で鋭利な金属の感触。
 月明かりに照らされた木手の貌、レンズの奥に臨める瞳は、あまりに暗く、あまりに哀しい。


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